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喪失  作者: 田島 学
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四章

「恵美、もう少しで終わるよ」


室内が静寂に包まれている。拘束された他の2人もただ男を見つめている。

男は名前をつぶやき、そのまま、気を失った様に椅子に座ったまま動かない。

この隙を利用して、手を縛っている縄を解こうとするが、びくともしない。

男に殺されてしまう可能性は捨てきれない。

何とかして逃げ出さなければいけない。

ただ他の2人を見ると、焦っている様子が無かった。

この状況に身を委ねているみたいだ。

自分がなぜこの場所にいるのかを忘れていた事に気づく。

死ぬために、ここに来たのだ。

どうせ死ぬつもりなのだから、殺されようが問題ないと彼らは思っている。

だから、こんな状況になっても落ち着いていられるのだ。

自分の滑稽さに呆れる。光の無い未来を生き続けてどうなるというのか?

この世に何の価値も産み出せない自分が生きて何になるのか?


男が唸りながら目を開ける。どうやら眠っていたみたいだ。

体調でも悪いのか、意識がはっきりしていない様に見える。

睡魔に襲われたみたいに、現実と夢の世界を行き来しているようだ。

先ほどつぶやいた恵美という名前。きっと男の娘だろう。

死の世界で、男を待っているのだろう。

犯人と共に、男はそちらの世界へ行こうとしている。

一体、犯人は誰なのだろうか?

先ほどの話から、左の男か自分だという事になる。

自分が犯人じゃないとは言い切れない。

男の娘が殺された去年辺りからの記憶が、自分には無いからだ。

自分はその間に何をやっていたのか?

殺人を犯していない保障なんてどこにも無い。

どの様な性格だったのか?

何に悲しみ、怒り、喜ぶのか。全く分からない。

記憶が無くなる前と後で変化は無いのか?

記憶を無くすことで、こんなにも不安になるのだと思った。人は失う事を嫌う。

命や財産など、手に入れた物は手放したくは無いと思う。

では、初めから望まなければ良いではないか。

何も求めずに澄み切った心で生き続けられれば、どんなに楽だろう。

人間は醜い存在でしか無いのかもしれない。


男が意識を取り戻し、室内を見渡す。男がどんな行動に出るか分からない。

どうやって、犯人を殺そうというのだろう。

「犯人の顔を、一瞬たりとも忘れる事はありませんでした」

テーブルの上に置いた手には、力がこもっている。

「早くこの手で葬りたい。その為には居場所を突き止めなければいけない。

何か情報は無いかと思い、記憶をたどりました。

当日は、現場へ向かう車中に盗聴器を仕掛けていました。

その中で、埼玉駅周辺のコンビニで働いていると言っていた。

犯人が本当の事を言っている保障はどこにもありません。

むしろ、嘘の確率の方が高いでしょう。

でも、調べられずにはいられませんでした。

私は全てのコンビニをしらみつぶしに回りました。

自分でもどうかしていると思いました。

ただ、何かをしている事で気が紛れました。

一人でいると、過去の記憶が蘇ってきて、どうしようも無くなります。

娘や妻の笑顔に囲まれ、幸せだった日々がもう戻ってこないのだと。

その絶望感に打ちのめされ、死に向かおうとする自分がいます。

でも、私は死ねない。

犯人をこの手で始末するまでは、何としてでも生きねばならない。

それが今、私が生きる意味です」


男が力のこもった調子で言う。話の途中から、混乱が始まっていた。

犯人がコンビニで働いているということが信じられなかった。

何かの間違いでは無いか?

左の男もコンビニで働いているのだろか?そんな事がありえるのか。

記憶の無い中、自分が何をやっていたのか?不安が一層増してくる。

「駅周辺のコンビニを回り、犯人を見つけた時、私は笑っていました。

もし神という存在がいるのなら、私は弄ばれているのだろう。

幸せはこの手からこぼれ落ちていくのに、復讐を望めばそれが引き寄せられてくる。抗おうにも、きっとこの流れには逆らえない。

だとすれば、このまま闇に落ちていく事を楽しもうと思いました。

目の前に復讐すべき者がいる。店内には数名の客がいました。

今の状況で手を下そうとすれば、邪魔される可能性がある。

私は必死に衝動を抑え、その日は帰宅しました。

数日おきにコンビニまで通い、尾行して犯人の住居や生活習慣を調べました。

殺すタイミングを伺うためです。

驚かされたのは、犯人の無防備さでした。

殺人犯のイメージとは全く違っていました。異常者にはとても見えなかった。

男の生活はコンビニと家の往復でした。ただ毎日を浪費している様に見えました。

どこにでもいる、ごく普通の男です。

その生活の平凡さから鬱屈した物が堆積し、ある日爆発してしまうのでは無いか?

人間は色々な人格を使い分けて、生活をしている。

今見ている男の姿は本質的では無いのかも知れない。そんな事を考えました。

尾行する日々が続き、男に手を下す機会も何度かありました。

でもそれが出来なかったのは、男の平凡さにありました。

男の持つ残虐性を少しでも伺う事が出来れば、違ったのかも知れません。

いや、違いますね。私が臆病なだけです。

あれ程に復讐を決意したにも関わらず、私はまだ覚悟が出来ていなかったのです。

既に関係の無い者まで巻き込み、死なせてしまっているのに。

いざ、自分が手を汚すとなると気が引けてしまう。

でも、復讐を断念するなんて出来ない。

だから、強制的に復讐しなければならない状況を作れば良いと思いました。

もし、手を下せなければ自分が死んでしまうという状況にしてしまえば良いと。

犯人と直接対峙し、復讐の意図を伝えれば良いと思いました。

だからこの様な形で皆さんといるのです。

分かって頂けましたか?

自分勝手なのは分かっています。でも、皆さんも死ぬつもりだったのですから。

別に誰に殺されようが、問題にはなりませんよね?」


男が口を歪めて笑う。今この瞬間に、復讐への決意が固まった様に見えた。

今の言葉から、全員を殺すつもりのようだ。男が上着からナイフを取り出す。

刃先がランプの光を反射する。右隣の女が逃げようと体をのけぞらせる。

左の男も先ほどまでの落ち着きが嘘の様に、視線が乱れ焦っている。

ここまで来て、死への恐怖が襲う。

全員がなす術もなく、ただじっと座り死を待つしかない。

復讐に駆られた男の視線が、真っすぐに自分に向いている。

ナイフを握りしめ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

やはり自分が犯人だったのだ。着実に近づいてくる死。

この人生に悔いなど無いが、消えてなくなるのだという事が実感を伴って現れる。

果たしてこの意識はどこへ行くのか?

リセットし、ゼロから生まれ変われる事が出来るのか?

望んでいた死に対して、何も考えていなかったのを今になって実感する。

痛みはいつまで続くのか。

苦しまずに男は殺してくれるのだろうか。期待は出来ないだろう。

男の瞳には涙が浮かんでいる。やっと復讐を果たせる事で歓喜しているのか。

娘との過去の思い出を頭に浮かべているのか。

それとも、殺人者への道へ踏み外そうとしている事を嘆いているのか。

どうでも良い事が次々と頭に浮かんでは消えていく。

死の淵でも、良い思い出が何一つ出てこない。

やはり自分は幸せでは無かったのだと、改めて思った。

最期に男の願いを叶えられるのなら、それで良いだろう。

自分の死が人のためになるのだ。そう自分に言い聞かせる。

男がナイフを両手に持ち、振り上げる。

その切っ先はどこへ向かうのか?

死を受け入れて目を閉じる。

これで終わりだ・・・。

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