表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レクイエムって興味ありません?  作者: 夢のもつれ
5/10

5.続唱/怒りの日:SEQUENTIA/DIES IRAE

 セクエンツィア(続唱)は、9世紀頃にミサ曲の中に採り入れられたものだそうで、聖書を基に創作的詩句を加えて数多く作られたのですが、トリエント公会議(1545-63)などで大幅に整理され、レクイエムにおいてはこれが13世紀にチェラーノのトマスが書いた“Dies Irae(怒りの日)”となって長く定着しました。


 分量的に他を圧して長いので、例えばモーツァルトのレクイエムで有名な“Lacrimosa(涙の日)”のように一まとまりの詩句をもって独立したセクションのように扱われる場合が少なくありません。整理すると、セクエンツィア≒ディエスイラエ>ラクリモーザetc.というわけです。『ジャパンレクイエム』ではこの考えに立ってディエスイラエを章名にしています。


 ただ、各セクションの冒頭の語句をもって名前として扱い、冒頭の2節 1)、2)だけをディエスイラエと呼んでいる場合もあります。セクエンツィア>ディエスイラエ、ラクリモーザetc.というわけです。要は呼称は多分に便宜的で、テクストそのものを見ればいいわけです。以下、セクションに分けて見ていきます。


 1)Dies irae, dies illa,

  Solvet saeclum in favilla:

  Teste David cum Sibylla.

 2)Quantus tremor est futurus,

  Quando judex est venturus,

  Cuncta stricte discussurus!


 ①怒りの日、その日こそ、

  この世は灰燼に帰すだろう、

  ダヴィッドとシビッラが証したように。

 ②人びとの恐怖はどれほどのものか、

  裁き主が来られ、

  すべてを厳しく糾されたもうのだから。


 これは「旧約聖書」の最後の方の預言の書の一つ「ゼパニア書」の第1章に基づくものですが、終末論的な、言わば黙示録的なイメージが濃厚なもので、神が最後の審判を下す日の様子が描写されています。


 ユダヤ民族が亡国の民となった旧約時代の終わりごろから、初期キリスト教時代にかけてそうした“歴史の終わり”のような思想が流行し、聖書に大量に取り入れられました。日本のカトリック教会は、謙虚に暮らしましょうとか、人と仲良くしましょうとか、熱くも冷たくもない、ただ生ぬるいだけの道徳訓話みたいなことだけを言って、聖書のそんなところは知らんぷりしているような気がしますがどうなんでしょう。「ゼパニア書」にも記されているように、最後の審判はまもなく(せいぜい100年以内に)下されると当時は考えられていて、公約違反もいいところです。


 その後も危機の時代にヨーロッパ社会では“ノストラダムスの大予言”のような形で繰り返し現れたのですが、そういう経緯から言っても、ユダヤ人でもキリスト教徒でもない私にとっては、あまりお付き合いしたくない迷信にすぎません。


 しかしながら、そうした良識からは排斥されるような迷信こそが宗教の大事な要素、芸術の源泉であることも事実で、このディエスイラエ=神の怒りの激しい詩句は、モーツァルト、ヴェルディを始めとして、多くの作曲家のインスピレーションを刺激して、音楽史に欠くことのできない合唱の名曲の数々が作られました。


 次のセクションは最も音楽との結びつきが強い個所です。と言うだけで、わかる人はわかると思いますが、まず詩句を掲げましょう。


 3)Tuba mirum spargens sonum

  Per sepulcra regionum,

  Coget omnes ante thronum.

 4)Mors stupebit et natura,

  Cum resurget creatura,

  Judicanti responsura.

 5)Liber scriptus proferetur,

  In quo totum continetur,

  Unde mundus judicetur.

 6)Judex ergo cum sedebit,

  Quidquid latet, apparebit:

  Nil inultum remanebit.

 7)Quid sum miser tunc dicturus?

  Quem patronum rogaturus?

  Cum vix Justus sitsecurus.


 ③妙なる響きのラッパが

  この世の墓の上に鳴り渡り、

  すべてのものを玉座の前に集めるだろう。

 ④死も自然も驚くだろう、

  すべてのものがよみがえり、

  裁き主に答えるのだから。

 ⑤書き物が持ち出されるだろう、

  すべてのことを書き記したものが、

  この世を裁くため。

 ⑥裁き主が裁きの座に着く時、

  隠されたものはことごとく暴かれ、

  報われないことは何一つとしてないだろう。

 ⑦哀れなわたしは何を言えるだろう?

  どんな保護者に願えばいいのか?

  正しい人さえも心穏やかではいられないのに。


 この第3節の冒頭の詩句“Tuba mirum”(不思議なラッパ)もセクションのタイトルと言うか、見出しのように扱われることがしばしばですが、もちろんここではトランペットなどが用いた音楽が付けられるのが通常です。


 詩句はパウロによる「コリント人への第1の手紙」の終わりの方、第15章の52節から採られています。第15章では、キリストの死からの復活と世の終わり、神の国の実現、死者たちの復活が述べられています。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」


 第5節は、「ヨハネの黙示録」第20章12節「また、私は死んだ人々が大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた……いのちの書に名の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」によります。


 まあ、これでも奇怪な幻想に満ち満ちた黙示録の中ではおとなしい方ですが、その第8章から第11章にも、この世の終わりと神の国の成就を知らせる7つのラッパが登場します。例えば第4のラッパが吹き鳴らされると、太陽と月と星の3分の1が打たれて、昼も夜も3分の1が暗くなるといった具合です。ミケランジェロの「最後の審判」でもキリストの下で罪びとたちをラッパで追い落としているのが描かれています。


 第7節は、「ペテロの第1の手紙」の第4章18節からです。この章の終わりの19節まで引用すると、「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪びとたちは、いったいどうなるのでしょう。ですから、神の御心に従ってなお苦しみにあっている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」となっていて、ペテロの手紙自体は必ずしも終末論的に読まなくても意味は理解できるものですが、それがセクエンツィアでは最後の審判といった文脈に合うような形に嵌め込まれています。


 ちょっと今回は分量が多いんですが、ともかくテクストを見ていきましょう。


 8)Rex tremendae majestatis,

  Qui salvandos salvas gratis,

  Salva me,fons pietatis.

 9)Recordare Jesu pie,

  Quod sum causa tuae viae:

  Ne me perdas illa die.

 10)Quaerens me, sedisti lassus,

  Redemisti, crucem passus;

  Tantus labor non sit cassus.

 11)Juste judex ultionis,

  Donum fac remissionis

  Ante diem rationis.

 12)Ingemisco tamquam reus:

  Culpa rubet vultus meus:

  Supplicanti parce, Deus.

 13)Qui Mariam absolvisti

  Et latronem exaudisti,

  Mihi quoque spem dedisti.


 ⑧畏れ多い偉大なる王よ、

  救われるべき者を恵み深く救われる方よ、

  わたしを救いたまえ、憐れみの泉よ。

 ⑨慈悲深きイエスよ、思い出してください、

  地上にあなたが降りられたのは、何のためなのか、

  その日、わたしを滅ぼされんように。

 ⑩わたしを尋ね疲れ、

  わたしをあがなおうと十字架の刑を受けられた方よ、

  その辛苦を空しくしないでください。

 ⑪正義により罰をくだす裁き主よ、

  わたしに赦しの恩寵をくだされますように、

  応報の日より先に。

 ⑫罪を負うわたしは嘆き、

  罪を恥じて顔を赤らめています。

  神よ、乞い願うわたしをゆるしてください。

 ⑬マグダラのマリアを赦し、

  盗人の願いをも聴き届けられた方よ、

  わたしにも希望を与えてください。


 第8節の冒頭の“Rex tremendae”(畏れ多い王)も時折見出しになります。Rex はT-Rexとかでご存知でしょうし、tremendae<tremendusはトレモロなどと同じ語源で、「震える(ほど恐ろしい)」というのが原義です。次の第9節までは、前回までに紹介した最後の審判のような終末論的なイメージですが、第10節からはイエスの受難のイメージが現われてきます。


 その中で注目されるのが「わたし」という一人称単数が使われていることです。神とイエスに対して、自分の救済を乞い願うというのがセクエンツィアの基本的な構造です。これはずいぶん利己的だなと考える向きもあるでしょうが、一人一人が自らの生前の行いを神の前で申し立て、その裁きを待つという聖書の基本的な考え方から当然ですし、ひいては自らの行いの責任は自分で取るという道徳が生まれるもとになったとすれば、忖度したり、忖度を期待したり、何でもかんでも連帯責任を問うような社会よりよほど健全だと思います。


 しかし、原文で「わたし」という言葉を探してもそれらしい“me”という単語(とりあえず英語の“me”と同じ意味で理解していいでしょう)は、和訳ほどはでてきません。これはラテン語は動詞の変化で主語がわかるので、表示されないからです。つまり例えば“sum”とあればこれは一人称単数が主語だと決まるのです(意味は英語のbe動詞と同じです)。


 デカルトの有名な“cogito,ergo sum.”(我思う、ゆえに我あり)は、「思う」と「ある」という二つの動詞を“ergo”(ゆえに)という接続詞でつないでいるだけです。ですから、逆に欧米のちゃんとした哲学者が“cogito”と言うときには一般的な考えること、思考自体“pensee”よりも狭く、必ず「我」という主体が考えるという意味で使われています。


 話が脱線してしまいました。今回の詩句は直接の典拠を聖書に見出すことがほとんどできませんが(心当たりのある方は教えてください)、広く聖書からインスピレーションを得たのだと思います。例えば最後の第13節はルカ福音書の第7章に見られる、「罪深い女」であったマグダラのマリアがイエスの足を涙でぬらし、髪の毛で拭い、足に口づけして香油を塗ったのに対し、イエスが罪を赦したことと、同じくルカ福音書の第23章第39節から、イエスとともに十字架に架けられた犯罪人の一人が悪し様に言ったのに対し、もう一人がたしなめて「我々は自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言い、イエスから天国に行くのを約束されたことに由来します。


 この2つの記事は他の3つの福音書では、イエスの足に香油を塗った女は「罪深い女」と結びつけられていませんし(したがって女の行いの説明、動機は浅くならざるを得ません)、後者は2人とも悪口を言ったことになっています。4福音書の全体的な評価などはできるわけもありませんが、こうしたエピソードの扱いにおいて、ルカ福音書の編者のやさしさのようなものを私は感じています。


 これが物語の登場人物の名前に借用した理由の一つです。シュッツの「イエス・キリストの十字架上の7つの言葉」のテクストも犯罪人の一人は悔悟していて、この部分についてはルカ福音書によっています。


 なお、マグダラのマリアは、宗教画では聖母マリアに次いで絵画にもよく取り上げられる女性ですが、ヨハネ福音書の第8章の石を投げられようとしていた、姦淫の場で捕らえられた女とは別人であるようです。しかし、どちらのエピソードも、律法の字句解釈にうるさい知識人であるパリサイ人との対決の場面において、罪を犯した者の側にイエスが立ったという点では共通であり、これこそがキリスト教が独自性をもちうる所以であろうと思われます。


 次に掲げる詩句で、セクエンティアは終わりです。まず原文と和訳を見ていただきましょう。ラテン語の原文なんか関係ないよって思われる方も多いでしょうが、例えば最終節を除いて各節がすべて脚韻が踏まれていることはすぐにわかるでしょう。16節はtisで、17節はnisで終わっているといったことですが、ディエスイラエすべてがそうなっています。


 5-7-5程度の定型性しかない日本の文語詩とはわけが違いますし、そういう型があるからこそ、延々と叙事を重ねても様になるという気がします。この点は、近代のヨーロッパ諸語でも同じでしょう。前置きが長くなってしまいました。


 14)Preces meae non sunt dignae:

  Sed tu bonus fac benigne,

  Ne perenni cremer igne.

 15)Inter oves locum praesta,

  Et ab haedis me sequestra,

  Statuens in parte dextra.

 16)Conftatis maledictis,

  Flammis acribus addictis,

  Voca me cum benedictis.

 17)Oro supplex et acclinis,

  Cor contrium quasi cinis:

  Gere curam mei finis.

 18)Lacrimosa dies illa,

  Qua resurget ex favilla.

 19)Judicandus homo reus:

  Huic ergo parce, Deus.

 20)Pie Jesu Domine,

  Dona eis requiem.

  Amen.


 ⑭わたしの祈りなど聴き入れるのに値しないものですが、

  慈悲深い方よ、憐れみをもって、

  わたしを永遠の火に追いやらないでください。

 ⑮羊の群れにわたしを置き、

  山羊の群れから引き離して、

  あなたの右に立たせてください。

 ⑯呪われた者どもを罰し、

  激しい炎の中に落とされる時、

  祝福された者と共に、わたしを呼んでください。

 ⑰ひれ伏してお願いします、

  灰のように砕かれた心をもって、

  わたしの終わりの時を取り計らってください。

 ⑱涙の日、その日は、

  灰から蘇る時。

 ⑲罪ある者が裁かれるべきとしても、

  神よ、お願いです、憐れみを。

 ⑳慈悲深いイエスよ、主よ、

  彼らに安息をお与えください。

  アーメン。


 14節の「永遠の火」という詩句が再び最後の審判のイメージを導き出していきます。15節の羊と山羊の群れは、マタイ福音書第25章第31節から第46節に基づくもので、イエス自身が語るものです。最後の審判においてイエスの前にすべての国の民が集められ、羊飼いがより分けるように、イエスに食べ物や飲み物や着る物を与えてくれた人たちを羊だとして右に、そうした物をくれなかった人たちを山羊だとして左に置きます。右側に置かれた人たちは神の国を継ぎ、永遠の命が与えられ、左側に置かれた人たちは悪魔とその使いのための永遠の火に入り、永遠の刑罰が与えられるという内容です。


 まあ、キリスト教徒でもない私からすると、永遠の刑罰で脅すなんて粗野というか幼稚というか、わかりやすいと言えばわかりやすい話で、福音書が実際のイエスの言行とは無縁な内容を多く含むという説を信じたくもなります。こうした部分とよく引用される同じマタイ福音書の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(第5章第3節)といった部分とを矛盾なく説明してもらいたいものです。


 いずれにしても最後の審判といった子ども騙しのお話による恐怖も利用して信者を増やし、縛ったのは、別に中世になってからのことでもなく、初期キリスト教から始まっていたことは疑いないところで、ニーチェがパウロを弾劾し、キリスト教徒はイエス一人しかいなかったと断じたことに共感するものです。


 さて、18節が初めに触れた有名な“Lacrimosa dies”(涙の日)です。これが冒頭の“Dies irae”(怒りの日)と対照をなしているのは明らかで(ラテン語においては語順はほとんど自由です)、「罪を裁く神における怒りの日=罪を裁かれる私にとっての涙の日」という構図なのでしょう。しかし、この詩句がモーツァルトを始めとして、多くの作曲家のインスピレーションを刺激したわけです。

 

 そして、19節から20節“Pie Jesu”にかけて再度、神、イエスに憐れみを乞い、締めくくられます。ただずっと「わたし」を前面に出してきたのが最後になって「彼ら」“eis”が出てくるのは唐突の感は免れません。奔放とも言えるような詩想を展開してきたものの、最後にレクイエムの他の部分と調和させるためにやや無理に挿入したのだろうと思われます。


 以上見てきたように、“Dies irae”は黙示録的な迷信としか言いようのない要素が多いものの、他の部分と比べて主観的な詩句(怒り、恐怖、驚き、恥など)や具体的なもの(灰燼、ラッパ、墓、書き物、涙など)が多く登場することから、作曲するときに非常に魅力的であったことは間違いないところでしょう。


 近代のレクイエムは“Dies irae”抜きにはほとんど考えられず、聴いた曲すべてを改めてチェックしたわけではありませんが、これを作曲しなかったのは、優美なレクイエムを書いたフォーレとその追随者のデュリュフレくらいしか思い出せません。ここまで書いてきたことと矛盾するように感じられるでしょうが、日本人にとても人気のあるフォーレの作品は、私には死への恐怖や非合理性が描かれていないようで食い足りなく感じています。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ