1.はじめに:INTROITUS
まず、レクイエムという名前ですが、冒頭の:
Requiem aeternam dona eis, Domine:
et lux perpetua luceat eis.
主よ、永遠の安息を彼らに与え、
絶えざる光により彼らを照らしてください
から採られています。唄い出しやサビで呼ぶことは現在でもよくありますが、レクイエムは正にそうで、“Missa pro defunctis”(死者のためのミサ曲)という別の呼び名の方が内容を表わしています。INTOITUSは入祭唱と訳されているようですが、イントロでいいじゃないですか。宗教だって、クラシック音楽だってもっとわかりやすいものです。
そんなこと言いながら、めんどくさいことを言います。レクイエムは「カトリック教会において、ラテン語典礼文によって行われる死者のためのミサの際に演奏される音楽」とでも定義されるものです。したがって、「カトリック教会」における演奏を想定せず、「ラテン語典礼文」を用いない:
ルター派的な独自のドイツ語テクストに基づくブラームスの「ドイツ・レクイエム」や
ラテン語典礼文にウィルフレッド・オーウェンの詩を混ぜ込んだブリテンの「戦争レクイエム」は、
元来のレクイエムにインスパイアされた別個の音楽作品とでも言うべきものです(もちろんそのことはこれらの作品の価値とは無関係です)。
ましてや武満徹の「弦楽のためのレクイエム」やヒンデミットの「前庭に最後のライラックが咲いたとき~愛する人々へのレクイエム」などは、本当に死者を悼む曲なのか疑問ですし、少なくとも上の定義とは無関係なレクイエムという言葉だけ借りたものです。
ついでに言うと、しばしば鎮魂歌という訳が当てられますが、これは日本語として完全な誤りで、「鎮魂:たましづめ」とは「霊魂が肉体から遊離しないようにする祭」であって、源氏物語の六条御息所のように、生霊となって憎い仇のところなんかにふわふわ行ってしまわないようすることです。陰陽師の世界なんですね。
まあ、こういった事態は千年を超える歴史と数多の名曲があって、死の問題を扱っていることから他のミサ曲と別個のジャンルを形成してきた証左であろうと思います。
さて、話を元に戻して少しラテン語の話を。requiemはrequies(安らぎ)の対格形で、dona(donoの命令法で「与えよ」)の英語における直接目的語(間接目的語=与格はeis「彼らに」)なわけですが、その響きのよさもいろんなところで使われる理由の一つでしょう。
先に掲げた冒頭の句については、あとは “aeternam”と”perpetua”が対句になっていることを指摘しておけばいいでしょう。英語だとeternalとperpetualですね。
Introitusの残りの4行のテクストと和訳です。
Te decet hymnus Deus in Sion,
et tibi reddetur votum in Jerusarem:
exaudi orationem meam
ad te omnis caro veniet.
神への賛歌はシオンでこそふさわしく歌われ、
主への誓いはエルサレムで果たされるでしょう。
主よ、わたしの祈りを聞き入れてください、
死すべきものすべては、主に帰っていきます。
この部分は「シオン」(=エルサレムの丘、ここへ回帰しようというのがシオニズム運動)や「エルサレム」といった旧約聖書的な言葉が並びます。事実、ここは詩篇psalmaに基づくもののようで、部外者として言ってしまうと、ユダヤ民族としての強烈な自覚の下に神への賛歌を唄っているのかなと思います。
はい。わたしはクリスチャンでもなんでもないんですね。でも、神を信じない人間でも、“ad te omnis caro veniet”(肉体はすべて主に帰すだろう)という言葉には感動してしまうのはなぜでしょうね。