下
「ご飯はね、五目ご飯を炊こうと思って。卵焼きは外せないでしょ? 煮物も入れようかしら」
家に帰ると愛さんが料理の本を広げながら、あれこれ考えているようだ。お弁当箱と言っていたものは実は重箱で、割と立派なものだった。
「ここがちゃんと民宿として使われていたときにね、家族連れのお客さんにお弁当を作ってあげていたんだって。その時に使っていたものだそうよ」
愛さんは楽しそうに鼻歌を歌いながら、材料の買い出しリストを作っている。かなりの量なので、手分けして買いものに行くことにした。僕の担当は八百屋だった。そういえば遠和に来てから自分で買い物をしたことがない。毎日のように買いものに来るが、それは愛さんの荷物持ちとしてだった。僕はお使いメモを確認しながら、坂を下りる。
「お? 今日は坊主一人か」
「はい。お使いなんです」
八百屋のおじさんは、えらいなあと言って柿を四つくれた。柿はつやつやと夕焼け色に光っていて、大きさの割にずっしり重かった。僕はもらった柿が潰れないように袋に入れて家に戻ることにした。
お弁当が出来上がるころに、整さんと健吾さんが帰ってきた。予想通り初野は花火を見に来た人で渋滞が出来ているそうだ。僕はもらってきた柿を剥いているところで、そのうち一つは健吾さんにつまみ食いされてしまった。健吾さんが美味しいと子供みたいな笑顔でもう一つ食べようとするので、慌てて整さんが止めた。
「少し寒いから上着を持って来いよ」
お弁当も完成し、整さんが魔法瓶にコーヒーを注ぐ。準備が整って高台に向かおうとした時に、健吾さんがそう教えてくれた。僕はパーカーを羽織ると、重箱を持つ。重箱はほんのり温かく、ずっしり重かった。整さんが飲み物のセットを持ち、健吾さんが食器と細々したものを持つ。愛さんは敷物を抱え、高台へと続く一本道を一列になって歩いた。
「よく晴れていて、絶好の花火日和だよ」
整さんが愛さんと敷物を広げながら言った。見上げた空は星が瞬いていたが、辺りには人工的な光源が何もなかったのでひたすら真っ暗だった。健吾さんが、シュッとマッチを擦る。マッチの先にぼうっと火が灯り、風にゆらゆら揺れる。
健吾さんは慣れた手つきで持ってきたキャンプ用のランプに火を移した。ランプの光は存外明るかった。敷物の上に座ると、地面はごつごつしてひんやりしていた。
健吾さんが待ちきれないと言って重箱を開くと、花形の人参やいんげんが綺麗に並んだ丁寧なお弁当が現れた。卵焼きは満月のようにふっくらと黄色く、煮物に入った高野豆腐はたっぷり汁を含んでいた。
初野の会場内でのアナウンスが、小さく聞こえた。初野湾岸と遠和はさして距離があるわけではないという。愛さんが重箱下段のおにぎりを渡しながら、そろそろかしらねと呟く。僕は渡されたおにぎりにかじりつきながら空を見つめた。
ひゅるひゅると、暗い空を光が駆け上がった。徐々に速度を落とし、光が炸裂する。一瞬間を置いて、ドーンと音が追ってきた。その音を聞いたのは主に僕の右耳だけだったが、腹の底に響く音に震えたのは全身だった。
「来た来た!」
健吾さんがコーヒーを飲みながら叫ぶ。こう言う時はビールを飲むんじゃないかと僕は思ったが、みんなコーヒーや紅茶を飲んでいた。明日も仕事だったり朝早く起きたりするからだろう。空は一気に明るくなり、黒一色だったのに煙が漂い始めた。時々花火が煙に隠れてしまう。今日は風がないから煙が散りにくいのだろうと健吾さんは言った。
「この煮物、美味しいよ」
整さんは花火を眺めながら、愛さんとぽつぽつ料理の感想を話していた。愛さんは頷いたり首を傾げたりしながら楽しそうに花火を眺めている。
「海に反射しているんですね」
僕はそう言って海を指す。打ち上がった花火が海に反射して綺麗だった。空にも海にも花火があり、辺りは夢のようだ。僕は花火を眺めながら、色々な人を想った。鮫島さんの家族は、どんな思いでこの花火を眺めているのだろう。
鮫島さんと翔君は気まずい思いをしていないだろうか。それとも別々に花火を見ているのだろうか。翔君や鮫島さんには地元の友達もいるだろう。
光ちゃんはこの花火が見れたのだろうか。病院から見えるかどうかは分からないが、音だけなら聞こえるだろう。音だけの花火は、かえって淋しい気がする。両親は側にいるのだろうか。
そして母は今、どうしているのだろう。しばらく会っていないし、電話もしていない。父は異国の地で僕を心配しているのだろうか。折原は今も練習に余念がないのだろうか。そんな僕の物思いを揺さぶるように、特大の花火が炸裂した。柿を食べながら時計を見た健吾さんは、そろそろフィナーレだなと呟いている。
「スターマインが、一番好きだな」
整さんが呟く。軌跡をスッと残して余韻たっぷりに消えていく柳の様な花火が、いくつも打ち上がる。愛さんが、わあっと歓声を上げた。
「すごかったな」
帰り道、また四人で一列になって帰った。目を閉じると花火の残像がチカチカ瞬き、身体の奥がまだ震えているような錯覚を覚えた。身体全体で花火を楽しんだ感じで、その日の僕はいつもより寝付きが遅かった。
メグとの出会いは、ある小説の取材の場だった。その小説は私の二作目に当たるもので、私の今後の人生を左右するかもしれない作品だった。その作品の出来がよければ私の今後にある程度の安定が見込めるが、出来が悪ければ星の数ほどいる一発屋の一人になってしまう。私は気合を入れて取材に臨んだ。小説にリアリティーを与えるために、あらゆることをその取材で吸収しようと意気込んでいたのだ。
取材相手は期待の新人のモデル。私の二作目の表紙を飾る予定の女性でもある。
メグは私より若干背が低いが、それでも女性にしては長身だ。典型的なモデル体形で、肌には染み一つなく愛嬌のある顔立ちだった。私とは違い、都会生まれで都会育ちの彼女は、私の質問に綺麗な標準語で淀みなく答えてくれる。
話の中で、メグは料理が出来ないと口にした。私は昔、家の手伝いで定食なんかも作っていたので、彼女とは料理の技術に大分差があったが、不思議とその雑談が弾んだ。彼女は最近植物に興味を持っていて、サボテンを育てていると楽しそうに話してくれた。
メグは最後にスタジオでの撮影風景を見せてくれた。その時のスタジオには著名なカメラマンが入っていて、空気がぴんと張り詰めていた。メグは決して和やかではないその空気の中でも私に気を使ったのか、勤めて明るく振る舞っていた。
カメラマンは壮年の男で、顔のしわの一筋にも並大抵のものではない気力が通っているような人だった。こういう時はカメラマンがモデルを和ませにかかるのではないかと思ったが、メグは、カメラマンによりますよと教えてくれた。
そしてメグの出番となる。その時のメグは黒一色のシンプルで薄いワンピースを身にまとい、髪に花を一輪挿していた。メグの黒い髪に飾られているのは朱色のアネモネの花で、たったそれだけの格好だというのに、なんだか目が離せなくなった。明るいライトの下に立ち、メグはふいと横を向く。時々髪をかき上げたり、足の位置をずらしたりしたが、けしてカメラの方向は向かなかった。
モデルなのにそれでいいのかと思ったが、カメラマンは次々とシャッターを切る。挑発的なポーズをしているわけでも露出が多いわけでもないのに、私の目にはメグがとても官能的に見えた。白い肌と黒のコントラストがそう思わせるのか、それともアクセントのアネモネが。私は思わず身震いをした。彼女は新人だというのに、まぎれもないプロの匂いがした。
撮影が終わると、メグはふっと元に戻ってしまった。綺麗だが官能的ではない、楽しいメグに。私はそんなメグといろいろな話をして、最後に連絡先を交換した。書いている小説の話を時々でいいからして欲しいと言われた。ある夏の日だった。
その日の朝の目覚めは、何やら様子が違った。朝起きた瞬間、何かが違うと僕にはすぐに分かった。深呼吸をすると不思議な香りがするのだ。ひどく甘くて、いいにおいがする。一階に降りると、それは全身に染みてしまいそうなぐらい濃厚な匂いに変わった。
「おはよう、温君」
愛さんがそう言って、野菜を刻んでいる。僕はご飯を研ぎながら、これは一体何の匂いかと聞いてみた。愛さんは胸いっぱいに息を吸い込んで、ゆっくり吐き出すとにっこり笑った。
「後で探してごらん」
すぐに分かるわと言われたので、僕は引き下がることにして、鼻をひくひくさせた。朝ご飯を食べている時もふとした拍子にその香りが漂う。整さんや健吾さんに聞いてみたが、愛さんが口止めしてしまったので二人は教えてくれなかった。
「おっ、宝探しみたいじゃないか」
「それもなかなか風情がある」
二人はそう言いながらご飯を食べる。配達で町中回れば見つかるだろうと思って、それ程気にしなかった。どうしようもなかったら、鮫島さんに聞いてしまうのも手だ。
今日も坂を自転車で上ろうとチャレンジし、愛さんと整さんがそれを見ている。そういえば今日からしばらく愛さんが入院してしまうのだから、こうして二人並んでいるのを見ることもなくなってしまう。僕にとって門の前に立つ二人の姿は毎日の風景の一つになっていた。
家を出ると、不思議な香りは薄れてしまった。しかし坂を下る途中、風が吹くとほのかに不思議な香りが鼻先をかすめる。この香りはどこから吹いているのだろう。
坂を下るにつれ匂いは薄れていき、海辺に着くころには潮の香りばかりになってしまった。鮫島さんに聞いてみても、鮫島さんは全く知らないという。
「昨日の花火、すごかったですね」
鮫島さんはそうだなと頷く。鮫島さんは両親と見ていたと言って、エラコを剥いていく。翔君はどうしたのかと聞くと、友達か駅伝のチームで見に行ったのではないかと返事が帰って来た。翔君は気を使ったのかもしれない、と僕は思った。しばらく沈黙が続くが、魚が釣れそうな気配はなかった。
「なあ、知ってるか」
「はい」
「ジャングルって、真っ暗なんだ」
僕のイメージだと、南国のジャングルは光でいっぱいの開放的な感じだった。それがどうして暗いのだろう。
「ジャングルにはたくさんの木が生い茂る。高い木、中くらいの木、低い木。それぞれみんな光を求めて、隙間なく光の当たる場所に生えるから、地上には光が届かなくて暗いんだって」
南国はただ温かくて眩いというわけではないのだなと思った。鮫島さんは、自分のイメージ通りの場所って、結構少ないのかもしれないと笑った。そう言えば十月に入ったが、鮫島さんは学校に戻らないのだろうか。思い切ってそう聞くと、八月から休学届を出しているという。
「学費が払えなくてな、ほら、もうずっと漁の調子も悪くてさ。火の車ってやつなんだ」
悪いことを聞いてしまったと反省すると、鮫島さんはそんな顔するなよと、ポンと僕の肩を叩く。息を吸うと、濃厚な潮の香りがした。
そして今日も釣果がないまま家に戻る。不思議な匂いはやはり坂を上るにつれ、門をくぐると余計に強まった。家に帰ると珍しく愛さんはいなかった。部屋で入院のための荷物をまとめているらしい。居間で整さんがコーヒーを飲んでいて、しかしコーヒーの香りでさえもあの不思議な香りの影に隠れているようだった。
僕はしばらく部屋の中を犬のように嗅ぎまわる。整さんが可笑しそうに笑ったが、気にしないことにする。部屋の中ではなさそうなので、庭を探すことにする。花の香りがこんなに強いとは思えなかったが、庭に出るとこれ以上ないぐらいに香りは強くなった。白、橙、桃色、薄紫。たくさんの花を調べていく。そんな僕の様子を見て整さんは、ずいぶん大きな蜂じゃないかとからかった。
「あ……」
目当ての香りにたどり着いた時、僕は思わず声を漏らしてしまった。それはつやつやした緑の葉を持つ木で、小さく星のような橙色の花をいくつもつけていた。花に顔を近づけて深呼吸をする。陶然とする香りが、胸一杯に広がった。こんなに小さな花からこんなに強い香りがすることに、僕は少し感動を覚えた。
整さんがコーヒー片手に僕の隣までやって来た。
「おめでとう。金木犀だよ」
キンモクセイ。僕は小さく呟いてみる。風が吹く度、香りが立ち昇る。この花は昔からこの庭にある花の一つだという。整さんにとっては慣れ親しんだ香りなのだろう。金木犀を背景にして立つ整さんは映画のワンシーンのようだった。そこに愛さんと健吾さんが二階から降りて来る。
「じゃあ行くか」
健吾さんが車で僕と愛さんを病院まで乗せてくれるそうだ。僕は検査で、愛さんは入院だ。
「整、来ないのか?」
「俺は、いいよ」
病院はあんまり好きじゃないんだと整さんは言って、元気でやれよと愛さんに手を振った。愛さんはさほど気にする様子もなく、すぐに帰って来るわと車に乗り込んだ。健吾さんが慎重に車を運転する。前みたいに側溝に落ちないように気を付けているのだろう。
車はバスよりもずっとスムーズに初野の繁華街を抜け、病院に着いた。少し風が強くて、愛さんの長い髪の毛がふわりと散る。愛さんの髪から、優しく金木犀の移り香がした。
愛さんと付き添いの健吾さんが入院の説明を受けている間、僕は検診を受けた。医者も僕の顔を覚え始めていて、問診と簡単なチェックの後、異状なしと告げた。異常がないわけではないのに。
「変わりはないようだが、聴覚というのも感覚でね、感覚とは揺らぎやすいものなんだ。まれに聞こえている右耳も鈍くなって、聞こえ辛くなる。日常生活でも常に気を抜かないように」
医者はそう言って、僕に難聴特有の事故をいくつか教えてくれた。交通事故や、災害に巻き込まれた時の逃げ遅れ、僕は遠和に来てすぐの朝、整さんに手を引かれたのを思い出した。今日の検診は医者の注意で終わった。時計を見ると、まだ一時間も経っていない。愛さん達の説明は終わっていないだろう。光ちゃんは元気だろうかと、光ちゃんの病室に行くことにした。
光ちゃんの病室に入ると、光ちゃんは何か白くて大きなものを一生懸命食べていた。近づくとどうやらそれは綿あめのようで、ベッドの上に戦隊ヒーローの絵がついた袋が置いてあった。
「昨日、翔が来たの。一人で」
光ちゃんは綿あめでべとべとになった手を濡れたタオルで拭きながら言った。それからべとべとになった口も拭く。翔君は昨日家族と一緒にいなかったという。友達と一緒というわけでもなかったようだ。翔君は綿あめだけではなく、フランクフルトやクレープや、チョコバナナも置いて行ったという。
「楽しいのを自慢しに来たなら、追い返してやろうかと思った。けど」
光ちゃんは言葉を切って黙り込む。そして綿あめの袋をくしゃくしゃに丸めて、翔君に何かあったのかと聞いて来た。翔君は何も言わなかったというが、小さいころから一緒だったから異常が分かるという。しかも翔君は出会ったばかりの僕でも考えが分かるほど顔に出やすい。僕は教えて大丈夫だろうかと少し考えたが、あれだけの騒ぎなら、光ちゃんがいずれ遠和に帰れば分かることだろう。
「お兄さんが家出したんだ」
光ちゃんは、またやったのかと呟く。今回は未遂に終わったこと、その後の僕と翔君の会話を簡潔に光ちゃんに教えた。光ちゃんは黙って綿あめの袋を握り続ける。中身の綿あめは圧縮されて堅くなっているだろう。
「それで、翔は、ランナーになるのを諦めるの?」
「それは翔君次第だと思ってる」
光ちゃんは唇を噛んで、顔を歪ませた。
「朝早く、練習しようと思って校庭に行くと、翔がもう汗びっしょりになってるの。小学校からずっとそう」
そうやって誰よりも努力してた。なのにどうして。光ちゃんはそう言って困ったように目を伏せた。そこで手元の握りつぶした綿あめに気がついた。触って大きさを確かめると、手のひら大にまでがちがちに圧縮されてしまったようだ。これではもう美味しくないだろう。僕は待合室からコーヒーをもらって来ると、縮んだ綿あめをその中に入れた。
「僕、夏祭りでよく綿あめを買うんだけど、大抵食べきれなくて残してしまうんだ。すると次の日の朝、母さんがこうやって綿あめをコーヒーに入れて飲むんだ」
僕は綿あめ入りのコーヒーを飲む。コーヒーは飛び上るほど甘くて、味見をした光ちゃんと一緒に笑ってしまった。
そろそろ愛さん達も終わっただろうとロビーに戻ると、健吾さんが僕を待っていた。愛さんの病室は七階で、僕達はエレベーターで上がった。七階も光ちゃんのいる四階と作りは同じだったが、四階よりもずっと静かで、いかにも病院という感じだった。
愛さんの部屋は個室で、窓からは海と立ち並ぶ工場が見えた。愛さんは既に入院服に着替えていて、普段着よりただれた肌の具合が見えてしまって痛々しかった。愛さんはベッドに腰掛けて、部屋の入口に立っている僕に笑いかけた。愛さんの背後に、夕日できらめく海が見える。太平洋だ。
「今日からご飯の準備、よろしくね」
僕が頷くと、愛さんはよしよしと僕の頭を撫でた。愛さんの手首はひどく細く、折れてしまいそうだ。
その日の夜はおでんにしてみた。材料を買って全部煮てしまえばいいので、楽といえば楽だ。大根が好きだと整さんが言ったので大根を一本丸ごと入れたら、鍋が大根ばかりになってしまった。大根は味が良く染みていて美味しかった。
次の日、アラームを止めて僕は起床する。いつもより早めに起きて朝食の準備をするためだ。最近朝起きると少し肌寒いことがある。海辺の街は朝の冷え込みが厳しい。米を研ぐときに水が冷たくて一気に目が覚めた。
目玉焼きを作りソーセージを焼き、納豆を用意し、トマトのサラダを作る。簡単な食事だったが大丈夫だろうか。もう一品用意すべきかと僕が悩んでいると、整さんが起きだしてくる。整さんは僕に気にしすぎだよと言って、ご飯を食べ始めた。
新聞を配り鮫島さんと釣りをする。昼ご飯はいつも僕しか食べないので、昼の準備は気楽だった。膝と腰を使って、遠くに飛ばすイメージでキャスティングをする。ひゅっと耳元をかすめてエラコは遠くまで飛んだ。
「家事って大変なんだな」
いつもより疲れた顔をしていると、鮫島さんに指摘される。愛さんが入院してまだ一日も経っていないのに。僕は苦笑いして、慣れていないからと説明した。
「男三人分作るんだろ? 大した量だべ」
鮫島さんはそう言って竿を上下に振る。そうだ、と鮫島さんは何かを思い出したように頷いた。
「俺、これから県外で就活しようと思うんだ。あ、翔とか親父には言うなよ」
手当たり次第条件のいい会社を当たっていくという。しかし学歴の話をすると、鮫島さんは高卒扱いになるという。いい条件の所はなかなか見つからないだろう。鮫島さんは、それでもいいと言った。
夕ご飯の買い物をしながら家に帰ると、すでに正午を回っていた。僕は買ったコロッケをかじりながら縁側でぼんやり考える。これから僕はどうすればいいのだろう。学校をやめて中卒として働く度胸はないし、音楽から離れるのも嫌だった。
「よう少年、何をたそがれてるんだ?」
ばしっと背中を叩かれ、僕は食べていたコロッケを喉に詰まらせそうになった。振り返ると健吾さんが不思議そうな顔で僕を見ていた。僕はそんなにしょんぼりしているように見えたのだろうか。僕は今考えていることをぽつぽつと話した。すると健吾さんは台所に移動する。
「将来か。大いに悩めよ、と言いたいところだけどな」
健吾さんはチャイを二人分入れると、僕を自室へと案内した。健吾さんの自室はいろいろものがごちゃごちゃ置いてあった。机の上には蝶の標本があり、床には服や小物が散乱している。はっきり言って汚い。
健吾さんは部屋の真ん中に座布団を置き、一つに座る。もう一つは僕のものらしい。僕は小物を踏まないように部屋の中央まで移動して、座布団の下に小物が落ちてないかを確かめながら座った。僕が座ったのを確かめて、健吾さんがチャイを手渡してくる。
「迷える子羊に、俺がありがたい話をしてやるよ」
健吾さんはそう前置きをすると咳払いを一つした。
「夢はな、いくつになっても見つかるんだ。例えばな、俺なんかだとお前ぐらいの時はそうだな……ニートになりたかった。働いたら負けな気がしてたんだ」
社会で使い捨てられる換えの利く存在なんて、まっぴらごめんだ。そう思っていたと健吾さんは笑う。それにしてもニートなんて。健吾さんから想像できない単語が出て来て、僕は少し笑ってしまった。
「でもな、この町じゃさすがにそんな生き方は出来ない。狭い町だからな。だから整が行く大学について行くことにしたんだ」
健吾さんは肩をすくめて笑う。ここから健吾さんの口調は熱を帯びてくる。僕は注意深く健吾さんの話に耳を傾けることにした。
「で、俺の夢が見つかったのは大学三年。この前の家出少年と同じぐらいだな。トレジャーハンターになりたいと思ったんだ」
「すごい夢ですね」
世界を自分の目で見て、新しいことを発見したい。そう思ったのだと健吾さんは言った。きっかけは、大学の授業で見たビデオだったそうだ。未開の地に足を踏み入れ、あらゆるサンプルを入手して科学の発展に寄与した存在。そう紹介されたトレジャーハンターは、当時の健吾さんの目に、輝いて見えたらしい。そして幸運なことに健吾さんの学部で、研究員の推薦が受けられたそうだ。
「今はハンターじゃなくて、調査員っていうけどな、やってることは変わらないと思ってる」
健吾さんはそう言ってチャイを飲む。チャイは冷めていたが、健吾さんは構わずに一気に飲んだ。
「夢っていうのはいつでも見つかるが、見つけるにも実現するにも、自分の世界に閉じこもってちゃ始まらない。今夢が見つからないのなら、進学して夢を見つけるって選択もあるんだ」
何かがしたくて学ぶんじゃなくて、したいことを探すために学ぶ。僕には考え付かない、全く逆の発想だ。
「整なんかは、小説が好きだから文学部に入ったんだっけな。で、作家になっちまった」
「作家ですか!?」
なんだ知らなかったのかと健吾さんが言って、本棚を指す。健吾さんは読書が嫌いで、とりわけ整さんの小説は読んでも訳がわからないらしい。だから解説は出来ないと言ったが、本だけはいつも欠かさず買っているらしい。僕はその中の一冊を貸してもらった。整さんのデビュー作らしい。少しずつ読んでみることにした。
「そうだ、俺の武勇伝を聞かせてやるよ」
唐突に健吾さんはそう言って、机の上からアルバムを出してきた。開いて一枚ずつどんな場所で取ったのかを教えてくれる。
「これはアンデスの高原だな。ジャガイモの産地で有名な所。これはカナダの岩塩の湖。真っ白だろ。苦しょっぱいんだ」
何枚かめくると、夜に取ったのか、暗い森の中の写真が出てきた。健吾さんと恋人が二人で並んでいる
「これはな、昼間のジャングルだ」
朝に鮫島さんが言っていたことは本当らしい。僕が鮫島さんの話を健吾さんにすると、健吾さんはこれのことだなと言って数枚の写真を取り出した。写真には白いキノコや紫の細身の草が写っていて、その植物について健吾さんが解説してくれた。白いキノコは腐葉土などから栄養を取り、紫の草は太陽光の中でも、ジャングルの地面まで届く赤外線などを使って成長するらしい。
「植物の知恵は偉大だろう? 光の届かない場所でも生きていくことが出来るんだ」
僕が感心していると、お前らだってそうなんだよと健吾さんが僕の額をつついた。
「お前らなんてな、俺から見ればまだまだこれからなんだよ。わかるか? どこでどうやって生きてくか、これから決められるんだからな」
健吾さんはチャイを飲み干すと、ニッと笑った。僕はその日の夜に本を読んでみようと思ったが慣れない家事に想像以上に疲れていたらしく、本を開く前に眠ってしまった。
釣りの帰りに翔君に会った。翔君はお使いの途中らしく、野菜の詰まったリュックサックを背負っていた。長ネギが隙間から飛び出ている。翔君は、今日は鍋なのだと喜んでいた。そう言えば駅伝の日は迫っていて、町のあちこちに応援の幕が張ってある。僕と翔君は他愛もない話をしながら、肉屋と魚屋で買い物をする。
肉屋のおじさんは翔君に、力を付けろよと言ってコロッケをおまけしてあげた。一緒に居た僕は肉は買わなかったが、おじさんは僕にもコロッケをくれた。二人でコロッケを食べながら、話を続ける。コロッケには大粒のコーンが入っていて、甘くて美味しかった。
「そういえば光ちゃんのところに行ったらしいね」
すると翔君は照れたように笑ってコロッケを食べた。翔君の白い歯ときつね色のコロッケは、CMか何かのようで、翔君の食べっぷりも見ていて気持ちがよかった。揚げたてのコロッケは歯にじんわり染みる程熱かったが、サクサクしていて美味しい。
「やっぱり、駅伝の前に一度会っておきたくて」
甘いものとか好きだから、甘いものたくさん持って行ったんですけど。翔君のその言葉に、僕は一生懸命綿あめを食べていた光ちゃんを思い出して少し笑った。
「光、俺のこと嫌いになったかなって」
そんなことはないと僕は思う。口ではいくら厳しいことを言っても、光ちゃんは結局翔君が大切だ。僕は翔君の言葉に首を振った。
「夢ばかり追いかけているって思われているかもしれないけれど、僕にだって周りの反応ぐらいわかっているんです。応援してくれている人も、そうじゃない人もいるって」
翔君は、少し冷めたコロッケをかじる。冷めてもコロッケはまだサクサクしていて、美味しかった。夢なんて、そんなものだと思う。僕だって、いつもバスーンを吹いていれば、それだけで楽しかったというわけではない。
「とにかく、光ちゃんは君のこと心配していたよ」
僕がそう言うと、翔君は少し淋しそうな顔をした。そして僕達は坂の途中で別れた。坂を上って家に戻る。金木犀の香りは少し薄くなり、物悲しさを孕んでいた。
「おかえり。花に水をやっておいたよ」
もともと庭仕事は僕の仕事だったのだけど。整さんはそう言って庭から僕を呼んだ。僕は門から庭のほうに行く。整さんの足元には竜胆が咲いている。整さんは、秋だなあと言って、屈んでその竜胆を撫でた。その仕草は愛さんそっくりだったが、もしかしたら整さんの仕草が愛さんに移ったのかもしれない。
「お願いがあるんだ」
整さんのお願いなんて珍しいと思う。整さんは竜胆を撫で続けながら、呟くように言った。整さんの声は吐息のようで、僕は聞き取るのに少し難しく感じてしまう。
「愛に、花を持って行ってくれないか?」
夕ご飯は俺が作っておくから、と整さんが言う。仕事が忙しくて自分で行けないのかもしれない。僕は頷く。しかし遠和の花屋は潰れている。病院の近くで買っていこうかなと考えていると、整さんは部屋から鉄のはさみを持ってきて、さっきまで撫でていた竜胆を、シャキンと一息で切ってしまった。僕が驚いて立ちつくしていると、整さんは切り口を濡らしたティッシュで包み、その上からゴムで括って、手早く新聞紙を巻いた。
「夕食は何を作るつもりだった?」
「あ、えっと、魚の煮つけに、あんかけチャーハンとほうれん草の胡麻和えです」
美味しそうだねと整さんが言う。僕はとりあえず初野に行く準備をして、花を抱えてバスに乗ることにした。
初野外れの田園地帯はいつの間にか金色の絨毯になっていた。僕が来たばかりの頃は、青々としていたのに。そんなことを考えていると、バスは田園地帯を抜けて市街地に入る。この前までは花火大会で盛り上がっていたのに、街のあちこちに今度は県の駅伝大会を応援する段幕が張られていた。そういえば今年の駅伝のコースは初野らしく、翔君が早朝に誰もいない街を走っていると言っていた。
もやのかかった涼しい街の中を走って行くのは最高に気持ちがいいし、いつもと違う街の表情になんだかどきどきするという。僕にはきっと分からない感情だなと思ったが、その時の翔君の顔は演奏について語る折原の表情によく似ていたので、案外僕も似たような気持ちをどこかで味わっているのかもしれない。
「いらっしゃい。よく来てくれたわね」
連絡もなく来た僕を、愛さんは温かく迎えてくれた。僕が庭の竜胆を差し出すと、愛さんはすぐにどこの竜胆を摘んできたのか分かったらしかった。僕は念のため花瓶を買って来ていたので、生ける場所の心配はいらない。愛さんは整さんと同じように竜胆を撫でながら、花瓶に竜胆を生けた。
「自分で育てたものですもの。わかるわよ」
愛さんは得意そうに言ってベッドに戻る。愛さんは寝ながら本を読んでいたらしく、枕元に本が置いてあった。それは整さんの本で、僕は今日こそ本を読もうと決意する。
「整ね、病院に来れないのよ」
それは病院嫌いというものだろうか。注射や薬が嫌いという理由なら、整さんらしくなくて意外だ。
「そうだ、お土産にデパートでケーキでも買って行ったら? 今ね、デパートで東京展やってるらしいの」
きっと東京の美味しいお菓子屋さんも出店しているだろう。整さんは甘党だからちょうどいい。
そして家に帰るとすでにご飯が出来ていて、整さんは居間で仕事をしていた。この謎の仕事風景は執筆作業だったのかと、僕は納得した。
「お土産ありますよ。ケーキ買ってきました」
整さんに箱を見せると、整さんは箱だけでどこのお店か分かったらしい。ぱっと嬉しそうな顔をした。僕はケーキを冷蔵庫に入れると、健吾さんが帰って来るまで本を読もうと思い、部屋に入った。すると携帯電話が鳴る。折原だ。そういえば折原から連絡が来るのは久しぶりだと思いながら、通話ボタンを押す。折原の声は元気そうで、とりあえず問題がなさそうなことに安心した。
「元気そうで安心したよ」
「元気は元気だが、毎日大変なんだぜ。こっちのレベルだと俺は底辺扱いだからな」
折原で底辺なら、世界のレベルは相当に高いらしい。しかし折原の声は隠しきれない楽しさが滲んでいる。演奏家にとってはこれ以上ないチャンスを掴んでいる喜びに溢れていた。
「そういえば、お前みたいな人と友達になったんだ」
その人は僕と同様に聴覚の機能が低下して、演奏家の道を断念した人らしい。しかし国立の音楽大学に在籍しているそうだ。
「そいつがな、言うんだよ。耳の聞こえない人にも聞こえる音楽があるんだって」
何を言っているんだろう。聞こえないのに聞こえるなんて、なぞなぞみたいだ。しかし僕は興味が出て来たので、折原に詳しい説明を頼む。
「えーと、何だっけな、色で音楽を表現するとか、あと聴覚以外の感覚も音楽に関わるって」
折原の説明はいまいち要領を得ないが、分からないわけではない。そういえば折原はドイツ語の授業があまり得意ではなかった。それも説明が要領を得ない理由だろう。彼は感覚の人なのだ。僕は後で調べてみることにした。
折原との電話を終える頃に健吾さんが帰って来る。整さんの作ってくれたご飯を食べるのは初めてだが、相当な腕前だった。魚の煮物は味がよく染みていて柔らかく、何か香辛料でも使ったのか、チャーハンに合うようなエスニックな風味が効いていた。
チャーハンのあんも、僕は市販のものを使おうと思っていたのだが、整さんは自分で作ってしまったようだ。とろみもちょうどよく、しっかり味がついているのにあっさりしていて、下味がついたご飯にぴったりだった。ほうれん草の胡麻和えには菊が散らされていた。この辺りは食用菊の産地で、田園地帯でも菊のビニールハウスを見かける。愛さんが整さんを料理の師匠とするのもよく分かる。
「ここが民宿だった時、俺が食事作る日もあったからね」
そして食後にはケーキを食べた。整さんが美味しそうにケーキを食べている間、僕は整さんのパソコンを借りて折原の話を調べた。折原の言葉を頼りに検索してみると、おそらくこれだろうというものにたどり着いた。
色聴。ある音を聞くとその色を連想するという能力のことだ。ドの音を聞けば白や黒、レの音を聞くと黄色という具合にだ。脳の中の聴覚の部分が働くのに連動して、視覚の部分が働くからというのが理由らしい。色聴は色々な分野で使われようとしているが、何せ感覚の話なので、まだまだ模索中との記述があった。視覚だけでなく、触角や嗅覚が連動して働くという。面白いと思って、僕はまた今度整さんにパソコンを貸してもらう約束をした。
布団に入っても、妙に色聴のことが気になった。音楽を聴いて色々な感覚が働くなら、色んなものを見聞きして音楽を想うこともあるのだろうか、聞こえなくても聞こえる音楽とは、そういうことなのだろうか。今日は読書の気分ではなかった。妙に気分が高揚していた。
私の母の話をしよう。私の母は大概、不幸な女だった。母の生家は良家で、成り上がり財閥の三代目である父との縁談の結果で私と兄が生まれた。父は地元でも名のある男であったが、私が中学生の時に仕事が軌道に乗らなくなった。
そして母は、父に執拗な暴力を受けるようになった。
私は、父の目標にされないように懸命に息を潜めるように生活した。高校生の兄は、我関せずの態度を貫いた。母は身体が弱く、私は心が弱かった。母はどこから不幸だったのだろう。あの家に生まれた時からか、それとも父と出会った時からか。あるいは無関心な兄を生んだ時か、意気地のない私を生んだ時か。
そうして母と父は離縁した。兄は父に、私は母に引きとられる。母の生家は、政略結婚に失敗して出戻った娘をあからさまに疎んじて、本家ではなく、ある町の外れの空き家に押しやった。空き家と言っても私と母が暮らすには十分な広さだった。
そこは北の港町で、秋から冬にかけては極寒の風が家まで吹き渡る。身体の弱い母には酷な仕打ちだったが、それでも私はその家を喜んだ。もう母が、いつ父になぶり殺されるかを心配しなくて済むからだ。私は母を守るため、一生懸命働き、勉強した。母の命を繋ぐためには薬が必要で、薬のためにお金が必要だった。母は家で仕事をしていたが、稼ぎはやっと私達が食べていける程度しかなかった。
「母さんは大人しくしてろよ。病気なんだから」
「でも貴方、進学したいんでしょう?」
「母さんを殺してまで進学したくない。なんとかするから心配しないで」
病の話をする度に、母は傷むように目を伏せる。私は母を守るために、死ぬ気で働き進学した。そして好きな勉強をし、生まれて初めて好きに生き、就職した。仕送りをしながらも、いつしか私は母を守るために生きていた自分を、忘れていったのだ。
私がその家に戻って来たのは、二十四歳の時だった。その時私は今の仕事に成功の兆しが見えていて、正直帰りたくなかった。しかし母から、そろそろ面倒を見て欲しいと電話が来たのだ。その年の冬に母は倒れ、家での仕事も満足にこなせなくなったのだ。
私は母の仕事をこなしながら、自分の仕事をする。しかし東京にいる頃よりも仕事はずっと不自由で、はかどらなかった。東京にいるライバルにも差をつけられてしまうことに、私は激しい劣等感と焦燥感を覚えた。
そんな日々の中、母はよく庭の花を世話していた。花の世話をする母の背中は細く、強い北風なんかで折れてしまいそうな弱さだった。母は椿の花が好きで、私は母に似合わないと思っていた。あんなに豪奢で華麗な花は、薄幸な母にはそぐわない。あの女にはもっと薄くて白い花が似合う。香りのない、名も分からない花がいい。
しばらくして母の具合が悪くなった。私はとうとう仕事さえままならなくなって、看病に没頭することになる。実家に帰ってもう三年になるところで、私も色々、憔悴し始めていた。早い話が、耐えられなかったのだ。
「あら、ねえ、貴方、桜が咲いているのよ、ほら」
あの日の夕食後、母はそんなことを言った。私は縁側のほうを見ることもなかった。母はどうせ惚けたことを言っているのだろうと思った。母も歳だ。そして私は疲れ切っていた。
「母さん、俺、疲れているんだ」
あらゆる意味を込めて、私はそう呟いた。どうせ母には分かりやしない。しかし母は繊細で、そして憐れな程敏い女だった。
「……ごめんなさい、ね」
その時の、母の顔が忘れられない。母の背後で雪の積もった庭が、薄明を放っている。
次の日居間に降りると、母は虫の息だった。縁側に倒れていて、すぐに私は母が薬を飲んでいないことを悟った。私はそうっと母の側に座る。母は冷たく、何故か開け放たれていた縁側から、雪がひらりひらりと入って来た。
母には、雪がよく似合う。あんなおぞましい血の色なんて似合わない。母は私が守っていくのだ。しかしこの女は私の障害だ。ああ、こんなにも小さく白くなって。きっとこうして眺めていれば、その内息もしなくなるに違いない、不幸な母。私のような人でなしの息子を持った、不幸な女。母がいなければ、私は自由だ。私の思考はくるくる回った。そして途切れた。
気がつくと私は霊安室にいて、母は死んでいた。霊安室は明るく温かで、私は泣いていなかった。病院に電話をして、救急車の中で母は息を引き取ったらしかった。悲しい田舎町。隣町にしかない病院までの道のりは、あまりにも長かった。
私は兄に電話をした。親族の中では、兄の電話番号しか知らない。兄は電話に出た。何を話したのかは覚えていない。私は顔を合わせることが出来なくて、全財産を持って、そこから逃げ出した。私は、守るべき母を殺した。
逃げ出した先は東京だが、友を頼る気にはなれなかった。彼は真っすぐな人だ。私の悲哀を理解出来ないだろう。私の知り合いはそう多くない。駄目元で連絡を取ったのは、メグだった。
「今日は撫子なのね。撫子は好きよ。野の花のようでしょう?」
あれから庭の花を届けるのが日課になってしまった。整さんは相変わらず庭の花を摘み、僕が運ぶ。整さんは色々理由を付けて病院に行こうとしないので、最近では行かないのかといちいち聞くこともしなくなってしまった。
しかし整さんは行かないのに、僕には愛さんの様子を事細かに聞いてくる。いっそ愛さんが危篤で死にそうだと言えば整さんも行くのかもしれない。健吾さんがそう言って笑ったことがある。実際には愛さんは元気だ。元気じゃないのは整さんのほうで、日に日に弱っていくようだった。
「毎年ね、そうなのよ。この頃になって寒くなってくるとね……沈んでいくわ」
愛さんはそう言って撫子を花瓶に生けた。ありったけの撫子は、整さんが全部丁寧に摘んだものだ。撫子は量があり、愛さんの細い腕に抱かれると愛さんの顔が埋まってしまうほどだ。正直花瓶に入るかも怪しいと僕は思ったが、愛さんはうまいこと花瓶に花を生けた。
「大切な人を亡くしたの」
愛さんはそれ以上何も言わなかった。もしかしたら病院に来ないこともそれに関係あるのかもしれない。それでは整さんは一回も愛さんに会いに来ないのだろうか。もしかしたらかなり長い間、愛さんは病院から出てこれないのかもしれないのに。
そして庭の花は摘まれる一方で、どんどん庭は淋しくなっていく。だけれども整さんは惜しげもなく花を摘む。こうやって花を摘んで庭が空っぽになったら、果たして整さんはどうするのだろう。
その日の夕食は天ぷらうどんにした。天ぷらは料理本を片手に自分で揚げ、健吾さんが絶賛してくれた。しかし揚げている間に少し気分が悪くなってしまったので、食後に少し夜風に当たろうと縁側に出た。縁側から庭を眺めると、大分花が減った気がした。秋の花はそう多くない。撫子も桔梗も消えてしまった庭は、夏にあんなに賑やかだった庭だとは思えなかった。
そんな庭に、白い花が咲いている。その花が妙に目についた。整さんはあの花も摘んでしまうのだろうか。
「気分はどうだい」
整さんがコーヒーを片手に僕の隣に座る。そしてコーヒーを少し飲んだ後、僕と同じように庭を眺めた。
「あの花も摘んでしまうんですか?」
僕は白い花を指して整さんに聞いてみる。整さんは駄目かなと僕に逆に聞いてきた。聞き返されると思わなかったので、僕は言葉に詰まってしまう。整さんはそんな僕の様子に少し笑うと、またコーヒーを飲む。コーヒーの香りがふわりと僕の鼻先をかすめた。
「君があの花を気にかけているのはね、夜だからだ」
整さんはそう言ってマグカップを置く。マグカップからは白い湯気がゆらりと立ち昇っている。今日は少し風が冷たかった。明日からパーカーを着て配達をしようと僕は考えた。
「周りが暗いから、花の白さが輝いて見えるだけだ」
それだけだ。整さんはそう言ってコーヒーを飲み干して、台所にカップを洗いに行った。僕はふと、花をモチーフにした曲について考えていた。エーデルワイスとかが白い花だったな、と思いつく。あの花はどんな名前で、どんな曲になるのだろう。
その夜、僕は初めて整さんの小説を読んだ。整さんの小説は、何というか淀んだ川のようで、声のない悲鳴が聞こえた。自分も他人も全てが敵で、流れていく景色ばかりが、やたらに美しかった。読む人を選ぶだろうなと僕は思った。僕は、最後まで読み進めることが出来なかった。
知らない人の書いたものなら、何も考えずに読んでしまえるだろう。しかし僕は整さんを知ってしまった。あの優しくて淋しい人が、こんな小説を書いていると考えるのは、堪らなく辛いことだった。
その日は朝から雨が降っていたので、温かいスープとオムレツを焼いた。整さんが熱いコーヒーを淹れてくれたので、三人でそれを飲んで、それぞれ仕事に向かう。整さんは最近部屋に閉じこもっていることが多い。落ちこんでいるのか、それともただ単に仕事が忙しいだけなのか。
雨なので今日は釣りが出来ない。鮫島さんは着々と就職の準備を整えているらしく、今日もその準備があるのだと言っていた。僕のほうは今日は検診なので、初野の病院へ行く。整さんは雨の中また花を摘んだ。あの白い花だった。雨の庭はがらんとしていて少し淋しい。
「最後の花だね」
整さんはそう言って、自分が摘んだというのに少し淋しそうに微笑んだ。気がつくともう庭には何本か木が残っているだけで、何も残っていなかった。僕は白い花を抱えて、雨の中初野に向かう。花は何の匂いもなく、もう、ありふれた花の一つでしかなかった。
「ありがとう」
愛さんはそっと花を抱きしめる。その花はもしかしたら愛さんにとって特別な花だったのかもしれない。そして愛さんはその花が庭に咲く最後の花だったと、ぴたりと言い当てた。その日の愛さんは少し具合が悪そうで、半透明の点滴の管が腕の内側から伸びていた。
僕はすぐに帰ろうと思ったが、愛さんに引き留められる。今日は少し心細いのと、目を伏せて言われればここにいるしかなくなってしまう。僕が椅子に座ると、愛さんはほっとしたように目尻を緩めた。
「時々ね、考えてしまうのよ。東京で仕事をし続けていたほうが、幸せだったのかもしれない」
もちろん連れ出してくれた整には感謝している、と愛さんは慌てて付け加える。だけど、と愛さんは横になったまま、目を閉じた。
「世界は、私以外の誰かのもので、だから私はどうやってもうまくいかないのかもしれないわ」
愛さんはそう言って、頬のただれを手のひらで押さえた。僕の左耳と同じように、頬のただれが愛さんにとってのうまくいかない象徴なのかもしれない。なんだかいつもの愛さんとは別人のようだった。それともこれが愛さんの本当だというのか。何にしても愛さんは今よっぽど具合が悪いのかもしれない。
僕はしばらく無言で愛さんの側にいたが、愛さんは寝てしまった。僕は起こさないようにゆっくり病室を出ていき、ふと思い出して光ちゃんの病室に行くことにした。
光ちゃんの病室には翔君がいた。ジャージ姿なので部活か駅伝の練習をしていたのかもしれない。翔君の側に寄ると、ミント様の制汗剤の匂いがした。
「なんだか良くないことでもあった?」
「顔色がよくないですよ」
光ちゃんと翔君が同時に心配してくる。僕はなんでもないと首を振り、そういえば駅伝が三日後まで迫っていたなと、翔君に駅伝の話を振った。
「もう猛特訓の時期は終わりました。あとは身体休めて体調を万全にしておくことぐらいしか出来ません。だから部活ば早めに終わって」
「だからって授業中まで寝ることないと思う」
光ちゃんは翔君から今日の授業プリントを受け取って、翔君に授業の内容を聞いていたが、翔君はさっぱり答えられなかったという。机の上には数学らしいプリントが何枚か散らばっていた。消しゴムで消した跡が見えたので、苦戦しているようだ。
「これぐらいなら分かるよ」
僕は光ちゃんから鉛筆を借りてプリントに書き込みをする。答えを書くわけにもいかないので、使う公式と簡単な解法を書いた。へえ、と二人に感心されてしまうが、僕だって一応高校生だ。
「いや、すみません。何か、音楽の人は音楽しかやんないんだべなって勝手に思ってて」
「そんなことはないよ。昔の作曲者は科学者や数学者でもあったからね。同じことを勉強するんだよ」
ますますへえ、と驚かれてしまう。僕にとっては普通のことだが、陸上一筋だった二人にとっては違う世界の話だろう。
「進学は大変だな、光。でも都会っていいところらしいぜ。兄ちゃんがいつも言ってる」
「そう? でも私はいつか遠和に戻って来るつもり」
光ちゃんはそう言って首を傾げる。
「広くて便利な場所だけが私の世界じゃないもの。私の生まれた場所は遠和だから、私は遠和に戻る」
光ちゃんはきっぱりそう言う。身体の不自由な光ちゃんにとって、遠和は厳しい場所かもしれない。しかし光ちゃんにはそんなことは関係ないのだろう。翔君は少し複雑そうな顔をした。
「まあ、俺はとりあえず駅伝を走り切ってからだな。温さんも応援よろしくお願いします!」
翔君は色々な不安を振りはらうように、力強い笑顔でそう言った。
家に帰ると、父さんから二度目の手紙が届いていた。今回は手紙のみで、この手紙が届く頃には日本に帰って来ているという内容だった。読んでいくと、今度父さんがここに遊びに来るらしい。遊びに、というのが良く分からなかったが、僕を連れ戻すとかそういうことではないようなので、僕の居候生活はあと少し続く。
「温君のお父さんもファゴットを吹く人だったってね」
夕食の時に、整さんがそう聞いて来た。今日の夕食は栗ご飯にコロッケとめかぶの味噌汁を出した。栗ご飯は出来が良く、栗はほっこりと甘く、ご飯はもちもちして美味しかった。めかぶの味噌汁はめかぶの量が多すぎて整さんに笑われてしまう。今日は連絡がなかったが、健吾さんがまだ帰ってきていない。
「温君はもう吹かないの?」
ここに来た時、ファゴット持って来てたろ。音楽家が来たなと思って、少しわくわくしたんだよと、整さんが言う。僕はバスーンについて考える。押し入れの中の相棒。一度も出してやってないから、きっと埃をかぶっているだろう。僕は相棒に埃なんて被らせたことなんて、今までなかった。一緒に学んだ木管クラスの誰だってそうに違いないし、折原は触らない日がないぐらいだろう。
だけど僕はもうあの人達とは違う。
「吹いたって、悲しくなるだけです」
「でも好きなんだろう?」
整さんは不思議そうに言う。僕はどうしていいか分からずに、味噌汁を飲む。めかぶばかりがずるりと口に入って来た。僕は話題を変えることにする。
「そういえば、今日愛さんが具合悪そうにしていました」
すると整さんが心配そうな顔をして、どうだったかと事細かに聞いて来た。心配なら言ってみればいいのにと僕は言ってみる。整さんは首を振った。
「病院は怖いんだ」
「でも心配なんでしょう?」
整さんは苦笑いして食器を片づける。僕はただやり返したかっただけかもしれない。整さんはなにも間違ったことを言っていなかったというのに。
その夜、僕は整さんとコーヒーを飲みながら健吾さんを待っていた。整さんは寝てもいいよと言ったけれど、健吾さんが連絡もなしに遅くなることはなかったので心配だったのだ。整さんも心配だとは口にしなかったが、少しそわそわしていた気がする。
健吾さんが帰って来たのは日付の変わった二時頃だった。僕も整さんも起きていて、僕は健吾さんにご飯を盛る。整さんは何も言わない。健吾さんは憔悴し切っているのが傍目にも分かって、僕は何と声をかければいいのか分からなかった。何か大変なことが起こったということだけが分かった。健吾さんは青ざめ切っていて、僕がご飯を盛ってもしばらく手を付けずに茫然と見つめていた。整さんが促して、なんとか食べ始める程だ。
健吾さんは黙々とご飯を食べて、黙って二階の自室に閉じこもってしまった。
その日は寝ずに、そのまま新聞配達に行った。少し身体はだるかったが、昼寝でもすればいいやと自転車を漕ぎだした。坂をどんどん上る。上るにつれペダルは重くなるが、構わず僕は踏み込んだ。ペダルはぎしぎし軋んだが、しっかりと僕の足を支える。そしてぐっとペダルは重くなった後、ふっと軽くなる。坂の上の整さんの家に着き、整さんは門の前でそれを見ていてくれた。
「やったね」
「はい!」
整さんが自分のことのようににこっと笑う。僕と同様の少し白くてくまのある顔だが、喜んでくれているのが分かって、嬉しくなる。僕は整さんに新聞を手渡すと、坂を降りた。なんとなく自分の中で目標となっていたことを達成出来たことが嬉しかった。
その日はよく晴れていたので鮫島さんと釣りをした。海風が寒かったので、鮫島さんがコートを貸してくれる。僕もパーカーを着てきたが、予想以上に海は寒かった。
「そういえば、僕の父さんが今度来るんです」
「へえ、帰って来たのか?」
「一時的にですが。遊びに来るそうです」
なら遠和の魚でも食わせてやれと鮫島さんが言う。遠和の魚は美味しいので、僕もぜひ食べてもらいたかった。
「なあ、知ってるか」
「はい」
「青魚の背が青いのは、空から鳥に襲われないためなんだ。で、腹が白いのは海の魚に襲われないためなんだってさ」
青魚の色は保護色らしい。僕は父に出す魚料理を青魚にしようと決めた。そうと決まったら、レシピを探してみよう。せっかくなので美味しい料理を食べてもらいたい。
「親が来るってことは、やっぱり進路の相談だろ? 決まってるのか?」
僕は少し考えた後、鮫島さんになら話してもいいかもしれないと思った。僕はあれからずっと自分の進路について考えていた。
「大学に進学して……音楽の勉強をしたいと思っているんです」
鮫島さんはさして驚く様子もなく、そうかとだけ言った。僕は不安だった。もし希望が叶って大学に進学できても、周りは耳が聞こえて演奏が上手い人ばかりかもしれない。そうなったら僕は劣等感に耐えられるのだろうか。そんな僕を鮫島さんは笑った。
「考え過ぎだべな。まだ高校卒業にも一年あるんだ」
大まかな進路の希望が持てただけでも大進歩だと、鮫島さんは僕の頭を撫でてくれる。そういえば僕はもう音楽の話をしても落ちこむことが少なくなった。まだバスーンをしまいこんでいることは後ろめたく思っているが、夏休み中の僕から考えると確かにすごい進歩だと思えた。
「僕がここまで考えられるようになったのは、鮫島さんのお陰です」
「ははっ、おだてたって何も出ないんだからな」
鮫島さんは笑ってリールを巻く。魚が来ていたらしく、餌は取られてしまっていた。そして汽笛が鳴り、船が帰って来る。鮫島さんは立ち上がる。僕も買いものをしながら家に戻ることにした。
家に帰ると、健吾さんがいた。健吾さんは今日仕事に行っていないらしい。まさかクビになったのではないかと思いながら、僕は昼ご飯を作る。整さんは自室にいるらしく、ご飯が出来たと呼ぶと居間に降りてきた。ご飯はカレーを作ってみた。煮込み時間は少し短めだが、たくさん作ったので明日の昼には美味しいカレーになっているだろう。
健吾さんはカレーを無言で食べ、部屋に閉じこもった。整さんはそんな健吾さんの後ろ姿を見ながら、ぽつりと言った。
「今日の夕食、俺が作ってもいいかな」
断る理由はないので了承する。僕は空いた時間で昼寝をすることにした。部屋に戻ると一気に身体が重くなったが、メールが来ていることに気が付き携帯電話を開く。メールは父からで、遊びに来る詳しい日程が書いてあった。僕は父に返事をすると、布団に潜り込む。目を閉じるとあっという間に睡魔に襲われた。
起きると部屋の中がオレンジ色で、僕はそこで夕方まで寝てしまったことに気付いた。夜眠れるか不安に思いながら、顔を洗いに下に降りることにする。顔を洗ってさっぱりすると、居間のほうからいい匂いがしていることに気が付いた。そういえば今日の夕食は整さんが作ってくれるという。
整さんは味見の最中のようで、小皿に唇を寄せて頷いていた。僕がそんな整さんを眺めていると、健吾さんがふらりと居間に入って来た。
「……久しぶりだな、整がそれ作るの」
一日ぶりに聞いた健吾さんの声はかすれ切っていて、僕はただならぬものを感じた。しかし整さんは何も気にしない様子で、つまみ食いするなよとだけ言って、再び作業に戻る。何かを刻んでいるらしくて、リズミカルな包丁の音がした。時折はっきりは聞き取れないが、整さんが小さく鼻歌を歌うので、包丁の音が本当にリズムを刻んでいるように聞こえる。
整さんが作ったのは白身魚の南蛮漬けと鳥の唐揚げ、それとしめじの炊き込みご飯だった。かなり手が込んでいる上にボリュームもある。手を合わせてから僕はそれを食べてみる。南蛮漬けは辛みが強い味付けだったがご飯によく合い、鳥の唐揚げはパプリカで風味と下味がついていた。レシピを聞くと、下味を付けるのにかなり手が込んでいる。
炊き込みご飯はしめじとだしの旨みがよく染みていて、おかずなんか要らないぐらいだった。それにしても今日の整さんのご飯はいつもより味が濃いと思う。これはこれで美味しいが。なんとなくだが、これは健吾さん好みの味付けではないだろうかと思った。健吾さんは多めのご飯も全て食べきり、美味かったと初めて少しだけ笑う。
「美穂子が行方不明なんだ。消息不明のほうが正しいかもしれない」
食後、チャイを飲みながら健吾さんがそう言った。その連絡が昨日の夕方に来たという。美穂子さんはイタリアの海底洞窟に潜っていて、その時に姿が見えなくなったという。現在は現地の調査隊が探しに行っているらしい。健吾さんの声は震えている。美穂子さんは健吾さんにとって大切な人だといっていたから、ショックも大きいらしい。
僕はどんな言葉もかけられなかった。健吾さん達の仕事は命に関わる危険が伴う。何かトラブルがあればそれが死に直結するというのだ。健吾さんも最悪の事態を想像しているのだろう。
「お前、行くのか?」
整さんは静かにそう聞いた。健吾さんは一度整さんを見るが、黙り込んでしまう。整さんはそれ以上何も言わず、二階に上がってしまった。健吾さんはしばらく俯いてチャイを飲む。彫りの深い健吾さんの顔には影が深く刻まれていて、健吾さんの疲労の色をさらに濃く見せていた。僕は健吾さんが心配だったが、何も出来そうなことがなかったので、おやすみを言って自分の部屋に上がることにした。
昼寝のせいか上手く眠ることが出来ずに、僕は布団の中で寝返りばかり打っていた。すると玄関の扉が開く、ガラガラという音が聞こえる。僕は跳ね起きた。現在の時間は午前三時。誰かが外出する時間でもないし、客が訪ねて来るような時間でもない。僕は何か武器になるものがないかと部屋を探す。鞄ぐらいしかなかったので、鞄を片手に部屋を出て玄関に向かった。ただの鞄だが素手で行くよりはましだろう。
意外なことに玄関にいたのは健吾さんだった。健吾さんも鞄を持っていたが、僕とは違う理由なのは明らかだ。玄関の音も健吾さんが出ていく音だったのだろう。健吾さんは車に乗り込むところだったようだ。
「どうしたんだ。こんな夜中に鞄なんて持って」
「あ、いえ、武器と言うか。健吾さんこそどこかに?」
健吾さんは起こしてごめんなと僕の頭をくしゃりと撫でる。それから少し考えた後、鞄を車のトランクに入れた。鞄はしっかりした旅行鞄で、僕は健吾さんがどこに行くのかを悟った。
「イタリアですか」
健吾さんは黙って頷く。それから家の二階を見る。あの位置はちょうど整さんの部屋だろうか。カーテンが閉まっている。
「整が大変な時に整を置いていく俺は、酷い人間だろうな。俺は長く付き合ってきた友人より、恋人を取るんだ」
僕は黙って首を振る。健吾さんの青ざめた顔を見たら、そんなこと誰だって言えないだろう。健吾さんは悲しそうに笑った。朝の風は冷たくて、遠くの空は白くなっている。あと少ししたら夜も明けるだろう。
「整のこと、よろしく頼む。あいつ本当、駄目なやつだから」
今はもうこの家にお前しかいないと言われて、僕は頷く。何が出来るか分からないが、頷くしかなかった。健吾さんは安心したように笑うと、車に乗った。車は門を出ていき、後には間抜けに鞄を持った僕だけが庭に取り残されていた。
僕は朝ご飯を出し、整さんは何も言わずに食べた。健吾さんの分を食卓に並べなかったことにも、整さんは何も言わなかった。整さんは話を聞いた時からもしかしたら分かっていたのかもしれないし、夜に僕達が話しているのを見ていたのかもしれない。とにかく整さんは何も言わずに食べ、そして静かに縁側で空っぽの庭を眺めていた。
僕は愛さんの所にこのことを伝えに行くことにした。しかしいつも花を持って行っていたので、手ぶらだとなんだか申し訳ないような気もする。釣りをしながら鮫島さんに相談すると、河原とかなら何か咲いているかもしれないと言われた。
昼食の準備をしたが、整さんが降りてこなかったので、ラップをして冷蔵庫に入れておく。部屋にいることは確かなのだが、部屋の前で声をかけても反応がないので心配になる。僕は手早く昼食のカレーを食べ、河原に向かう。河原へと続く道はススキが生えていて、風が吹く度にさらさら揺れた。
河原に出ると、赤い花とコスモスが咲いていた。赤い花は直接見たことはなかったが、テレビなどで見た彼岸花のようだった。線香花火のようで綺麗だが、名前も名前だしこの花は止めることにする。
僕はコスモスを摘んだ。コスモスは散っているのもあったので綺麗なものだけを選んで摘む。コスモスの花弁は縦に薄い筋が入っていて、すべすべとしていた。ピンクや白のコスモスを摘んで、持ってきたティッシュと輪ゴムでコスモスを括り、川の水でティッシュを濡らす。それを新聞紙で包んで、そのまま初野行きのバスに乗った。
「温君、いらっしゃい。この前はごめんなさいね」
愛さんがそういって詫びてくるので首を振る。そして摘んだばかりのコスモスを差し出した。愛さんは驚いた様子だったが、喜んでくれた。
「河原で積んでくれたのね。ありがとう」
そう言って愛さんは僕の髪に手を伸ばす。愛さんの手のひらにはふわふわしたものが乗っている。それはすすきの種で、どうやらずっと僕の頭に乗っていたらしい。愛さんは笑いながら窓を開けて、種を飛ばした。種はふわっと舞い上がってすぐに見えなくなる。愛さんがベッドに戻ると、僕は健吾さんと整さんの様子を伝えた。
「そう……」
愛さんはそう言ってコスモスを一輪、花瓶から抜き取って指で回した。愛さんはしばらくそうしていたが、ぽつぽつと話し始めた。
「私があの家に来た頃はね、あの庭には桜と椿と金木犀の木しかなかったの」
ということはあの庭の花はほとんど愛さんが植えたのだろうか。そう聞くと、愛さんは少し恥ずかしそうに頷いた。
「整がね、散り始めた桜を見ながら言うのよ」
散るぐらいなら、咲かなければいいのにって。整さんらしい言葉だと僕は思った。愛さんは淋しそうに笑いながら、コスモスを見た。
「あの人、本当はすごく淋しがりなのよ。だから」
花を植えたのだという。春も夏も秋も冬も、途切れることなく花が咲くように。愛さんはそんな自分のことを意地になっていたと言うが、僕には確かで雄弁な言葉のように思えた。
「ねえ、これ、整に渡してもらえないかしら」
そう言って愛さんは指で回していた白いコスモスを僕に渡した。僕はそれを受け取って、病室を後にした。
しかし整さんは部屋から出なかった。用意した昼食も食べていないらしく、夜まで待っても出てこなかった。僕は夕食を一人で食べながら、淋しくなってしまった。こんな時はバスーンを吹けばいいのだが、バスーンを吹く気分にもなれなかった。日付が変わる頃まで待っていても整さんは現れず、コスモスはとうとう萎れてしまう。
次の日はとうとう朝食になっても現れず、僕が配達から帰って来ても朝食に手を付けた形跡がなかった。ノックをするが整さんは部屋から出てこない。しかし物音がするので部屋にいることは確かだった。僕は怒られることを覚悟で整さんを部屋から引きずり出すことにする。いくらなんでも食事をしないと体調を崩してしまう。
「整さん、開けますよ」
部屋には鍵がかかっていない。ふすまは抵抗なく開き、室内には整さんがいた。整さんは無精ひげが生えていて、お洒落な整さんと同一人物だとは思えない。整さんはゆっくりこちらを見て、そしてゆっくり視線を窓の外に向けた。整さんの動きはひどく鈍かった。
「整さん、しっかりして下さい」
「君まで俺を責めるのかい」
どうも整さんの意識は曖昧で、会話がかみ合わない。とりあえず居間に来てもらおう。この部屋は薄暗く、今の整さんには悪い気がした。整さんに立つように促すと、整さんはのろのろ立ち上がる。そして階段を降りるように促すと、整さんはゆっくり階段を降りる。途中で立ち眩みがしたのか、ゆらりと整さんの身体が揺れる。僕はひやりとしたが、整さんはなんとか階段を降り切った。
僕は熱いコーヒーを淹れる。しかし整さんは何も食べていないからと、牛乳を足してカフェオレにした。整さんはゆっくりカフェオレを飲む。ごくごくと、ごく遅いスピードで、しかし一気に飲みきる。カフェオレを飲み干した整さんの目には、少し光が戻った気がした。僕は昼食を温め直して整さんの前に出す。
「食べて下さい」
整さんはしばらくじっとしていたが、やがて一口ずつ食べ出す。ここ数日何も食べていない整さんにカレーは酷だったかもしれないが、整さんは休みながらも少し辛そうな顔をして食べてくれた。
「ありがとう」
整さんはようやく顔を上げて僕を見てくれた。僕には健吾さんや愛さんのように整さんを元気づけることは出来ない。せいぜいこうしてむりやりご飯を食べさせる程度だ。僕は首を振って、他に何か出来ることがないかと考えて、そして白いコスモスのことを思い出した。
萎れてしまってはいるが、愛さんから預かった大切なコスモスだ。僕は整さんにそれを差し出す。整さんは戸惑いながらもそれを受け取ってくれた。
「愛さんから、整さんにだそうです」
瞬間、整さんの顔が悲しそうに歪む。なぜそんな表情になったのかは分からないが、整さんは呟いた。
「愛に会いたい」
会いに行けばいいのにと僕は言うが、整さんは頑なに首を振る。
「病院は、怖いんだ。亡くした人がいて……」
「愛さんは死にませんよ」
むしろ整さんのほうが死んでしまいそうな気がする。もう一度首を振りながらも、しかし整さんは会いたいともう一度呟いた。僕には分からなかった。会いたいのなら会いに行けばいいのに。分からないけれど、整さんが憔悴し切っているのを見るのはもう耐えられなかった。
僕は整さんを引きずって玄関に来る。半ばむりやり整さんに靴を履かせ、バス停まで連れていく。しかしバスはあと二時間は来なかった。整さんはホッとしたような、しかし寂しそうな表情を浮かべて家に戻ろうとする。せっかくここまで来たのに。しかしバスを待っていたら病院の閉館時間になってしまう。
僕は整さんに待っているように言って、坂を駆け下りた。風がびゅうと耳元を切り、僕は足がもつれて転びそうになる。それでも走って、僕は新聞社まで来た。
「すみません! 自転車を貸して下さい!」
中で作業をしていた沼澤さんが、僕の大声に驚く。客らしき女の人も一緒に驚いていて、恥ずかしさと申し訳なさがこみ上げてきたが、僕はなりふり構っていられなかった。もう一度、自転車を貸してくれるように頼むと、沼澤さんは快諾してくれた。
「でもそんなに急いでるなら、ここの自転車じゃなくて、鮫島君の自転車のほうがいいんじゃないかな」
僕は沼澤さんにお礼を言ってから、鮫島さんに電話をかけてみる。鮫島さんはワンコールですぐに出てくれた。
「えっと、僕です、雨宮です。すみません自転車借りていいですか?」
「ああ、いいよ。でもまずは落ち着け。そんなに慌ててると、事故に遭うべな」
確かにその通りだ。僕は深呼吸をして、呼吸だけでも落ち着けることにする。すると鮫島さんは鍵の番号を教えてくれた。僕は電話しながら急いで外しにかかる。
「外れたみたいだな。実は俺、今魚屋からお前が見えてる」
魚屋の方向を向くと、袋を片手に持った鮫島さんが電話をしているのが見えた。鮫島さんは僕が見たのを確認すると、ひらひらと手を振った。
「何があったかはともかく、男にはやらなきゃいけない時があるって言うからな。けっぱって来い」
「はい!」
僕は返事をして電話を切る。そして鮫島さんの自転車にまたがると、坂を上ってバス停を目指した。新聞社の古い自転車に比べると、段違いに身体が楽だった。坂を上る。整さんはきちんと僕を待っていた。僕は自転車にまたがったまま、整さんに後ろに乗るように促した。整さんは無茶だよと僕に言うが、僕は意地になって首を振った。
整さんは根負けしたのか、おずおずと僕の後ろに乗り、肩に手をかけた。僕はぐっとペダルに力を入れる。ギアを軽くしてペダルを踏むと、自転車はゆっくりと坂を上り始めた。
「俺、降りるよ。辛いだろ」
「整さんはっ、黙ってて下さい!」
僕はペダルをぎしぎし言わせながら、整さんに言った、整さんは懸命な僕の様子を、耳元でくすくす笑う。
「そうか、君、もう俺を乗せて坂も上れるようになったんだね」
整さんはしみじみとそういう。思えば初めての朝、怯える僕の手を引いてくれたのは、整さんだった。その整さんが今は、僕の漕ぐ自転車に乗っている。肩にかかっている整さんの指は細い。整さんは少し痩せたのかもしれない。
自転車は坂を上り切り、トンネルに入る。トンネルの中から田園地帯を抜けるまでは、ごく緩い下り坂なので、楽に進むことが出来た。田園地帯は、濃い金の絨毯で、整さんがすごいなあと後ろでため息を吐いた。駅伝ムードで沸き立つ初野の街を抜け、病院に着く。自転車を止め、入り口で戸惑っている整さんの手を引いた。
「ここまで来たんですから、諦めて下さい」
「うん……」
整さんは怯えたような表情で、ゆっくり病院に入る。整さんが手を離さなかったので、僕は手を繋いだままにしておいた。ホールを抜けてエレベーターで愛さんの部屋まで行く。今は夕食時らしく、廊下のあちこちに配膳車が止まっていた。愛さんの病室のドアをノックをする。愛さんは部屋の中にいるらしく、どうぞと声が返って来た。僕は整さんの手を引いて、部屋の中に入る。
「あら温君、いらっしゃい……」
愛さんは僕に声をかけ、しかし僕に続いて入って来た整さんに驚いて、声を失っていた。整さんは決まりが悪そうに入り口に立っていたが、我に返った愛さんが整さんを部屋の中に招き入れた。
「……よく、病院に入れたわね」
「温君に連れて来てもらった」
愛さんは嬉しそうに僕を見る。僕は正直疲れ切っていたが、愛さんのその顔を見られただけで、こうして来たかいがあったと思える。
「これからは、来てくれるの?」
愛さんの問いかけに、整さんはゆっくり頷く。そして整さんは愛さんの小さく細い手を握り、もう一度しっかり頷いた。整さんは顔色は悪いものの、ここ最近で一番嬉しそうな顔をしている。僕は本当に良かったと思った。
「ありがとうな、温君」
そして僕達は病院を後にする。閉館時間が来てしまったのだ。来る時に比べて、帰りはひどくあっさりしたものだったが、これからいくらでも来られるのだからと、整さんはあっさり愛さんの病室を出てきた。疲れている僕を、今度は整さんが乗せていってくれると言った。整さんは顔色が悪いので僕は断ろうとしたが、整さんはいいからと強引に僕を乗せた。
「整さんって強引ですよね」
「君ほどではないと思うんだけど」
整さんは笑いながら言う。夜の風は少し強くて、自転車は時折ふらついた。僕は整さんの肩にしっかり手を回す。整さんの肩は細かったが、広くて頑丈そうだった。夕食の用意をしていなかったので、二人でコンビニでカップラーメンを買って食べた。カップラーメンの味は、いつもの食事には到底かなわなかったが、疲れて空腹の僕達にはこの上ないごちそうだった。ラーメンをすすりながら、整さんは僕に話をしてくれた。
「昔ね、とても淋しいことがあって、死のうとしたことがあるんだ。君、樹海に入ったことがあるかい」
僕は首を振る。いきなりショッキングな告白だったが、寂しがり屋の整さんらしいとも思えてしまう。整さんはずるずるとラーメンをすすって、スープも飲む。
「でもね、死ねなかった。死ぬのはとても恐ろしいことだって分かったんだ。俺は泣きながら家に帰った。愛と健吾が待っててくれた」
健吾には殴られて、愛には泣かれた。整さんはそう言って、健吾さんに殴られたという右頬を指差した。自分にはこの二人がいるんだと、整さんは安心したという。
「でも今、二人は側にいないだろう。それがとても悲しくてね。淋しくて、消えてしまいたく思ったよ」
でも、君が部屋の扉を開けてくれた。俺は部屋を出ることが出来た。少し遠かったけれど、愛に会えた。だから健吾も頑張れば会いに行ける。整さんはそんな簡単なことにやっと気が付けたという。
「すごく年下の君に、そんなことを教わるなんてさ。ここに来た時の君は、とても弱々しかったのに」
整さんの弱々しいという表現に、僕は少し笑ってしまう。でも、遠和での生活で少なからず自信がついたのは確かだ。整さんは僕を見て、目を細めて笑った。
「生きていこうと思うよ。俺は俺の分だけ生きていく。淋しくても会いに行けるって、温君が教えてくれたから」
そう言った整さんの笑顔は、なぜか少し悲しそうだったが、とても温かな瞳をしていた。
私は病院から逃げ出し、駄目元でメグに連絡をする。メグは意外にも私と生活を共にすることを快諾してくれた。メグの部屋は都内の、マンションで、よく整頓された綺麗な部屋だった。僕が母の世話をしている間、メグは経験を積んでいた。世話になってしばらくして私が調べてみたところ、メグはファッション誌での人気に留まらず、有名な歌手のCDジャケットを飾ったこともある。
しかしメグには今仕事がない。私はメグに会った瞬間、すぐに理由がわかった。メグの頬はただれて赤くなっていた。生活の中で観察すると、メグの体のあちこちに、いくつもただれが見つかった。そういえば私の小説の表紙を担当してもらう予定だったのに、モデルが変わったと連絡があった。なぜかその後もなんとなくメグとの交流が続いていたので、すっかりそのことを失念していた。
「ふふ、いろいろお料理のことお話したのに、私、全然上達してなくて」
メグは毎日野菜炒めとパンを食べ、水だけを飲んでいた。私も初めはメグと同じものを食べていた。そのうち、お世話になるだけなのもどうかと思って、私が食事を作るようになった。メグは喜んで食べてくれた。
そんな朗らかなメグだったが、時折こっそり泣いていたのを私は知っていた。私は居間のソファを借りて寝ていたが、真夜中にメグの部屋から泣き声が聞こえてくる日があった。そんな時私は、じっと目を閉じてメグの泣き声を聞く。枕に顔を押し付けているような、くぐもった声だ。メグの泣き顔はきっと綺麗に違いない。私はそっとその様を想う。
しばらくするとメグは部屋を出て、居間にやって来て水を飲む。青いガラス瓶に入ってよく冷えた水を、電気も点けずにごくごく飲む。外からの光でメグの白い身体が、暗がりの中に浮かんだ。私は薄眼を開けてそれを見る。メグは霞んだ月のようだった。静かな部屋の中、メグが水を嚥下するゴク、という音がして、メグの喉ばかりがヒクヒクと動いている。そして水が滴る唇で、メグは私の名前を呼ぶ。細い声が微かに震えて、私の名前を呼ぶ。泣いた夜は、いつもそうだ。私は頭がしびれるような愉悦を感じて、上手く息が出来なくなる。
ある日一度だけ、私は戯れにメグの呼びかけに返事をしてみた。メグはさして驚くこともせず、私の横たわるソファーに片足を上げて乗り上げた。メグは膝上丈のスリップだけを着ていて、乗り上げた太ももが露わになっている。メグは涙で濡れた目を三日月の形に歪め、私に近づいた。涙の絡んだまつ毛が、微かな光を受けて光る。
メグの太ももは泣いた後だったためか、ひどく熱い。その熱は見た目の白さとひどくアンバランスで、夢か何かのようだった。メグが泣いているのも私がここにいるのも、全て夢だったらよかったのに。しかしそんな私を笑うみたいに、ソファーが軋んだ。
私は腕を伸ばしてメグの髪に触れる。メグの毛は猫っ毛で、さらさらというより、ふわふわと白く細い肩を流れた。メグの指先が私の頬に触れる。指先に乗るメグの爪は貝のようにつやつやしていて、そして病的に冷たかった。私はメグを引き寄せる。掴んだ腕は柔らかいのに骨が当たり、メグは引かれるがままに私の胸に頬を寄せた。しばらくそうしていると、私のシャツが微かに濡れる。雨のようだと思った。
それからしばらくして、メグが入院した。点滴を打つだけの短期の入院だが、メグの食生活なら仕方がないと思った。メグが入院している間、兄から連絡が来た。葬式は済ませてやったから、家は処分するなり住むなりすればいい。今後二度と俺に関わるな。兄はそう言うと、私が何かを言う前に電話を切った。もう、赤の他人ということらしい。
退院したメグに私は戯れに、自分の家に来ないかと言った。その頃私は母を養っている頃にこなした仕事の出来がよく、収入も仕事も困っていなかった。皮肉なことに作品に込められた、掻き毟るような苦悩が評価されたらしい。戯れと言っても、メグが頷くなら連れて行ってもいいかと思っていた。単純にメグの体調が心配だった。
「私、収入ないから、家賃も入れられないんですよ」
「いいよ。料理とか覚えてもらえば。まあ、家政婦?」
するとメグは首を振った。
「私、美味しい料理なんて作れないです」
今までメグが生きてきた世界は、料理が出来ないことより、料理をして指がかさついたり怪我をしたりするほうが問題だという世界だったのだ。
「いいよ。教えるから」
最後の判断はメグに任せたが、メグは私についてきた。家は、出てきた時と何も変わっていなくて、月日だけが経ったという印象だった。私はメグに空いた部屋を使わせ、料理を教えた。そうして過ごしていると母を捨てた罪悪感も、幾分は薄れる気がする。
メグがいくつかの料理を覚えた頃、私は夕食の片付けを終えたメグに、コーヒーを淹れた。自分の分はブラックで、メグの分はミルク多めの角砂糖一つ。メグに労いのコーヒーを渡して、私は縁側に座る。春。庭の桜が風に吹かれて消えていく。そのうち花は全て散り、はじめからなかったみたいに葉を茂らせるのだろう。
「散るなら、咲かなきゃいいのにな」
メグが隣に座り、私と同じように庭を眺める。桜と椿と金木犀。たった三つの木が、広い庭に間を開けて植わっている。メグにはどんな花が似合うだろう。アネモネ。しかしあの花はこの庭には似合わない。いいや、花なんてどうせ散り、枯れてしまう。桜が惜しむように散っていくから、私はいっそ枝ごと折りとってしまいたい。そんな私にメグはこんなことを聞いてくる。
「花を植えていいですか?」
「いいけれど、土仕事なんてしたことないだろう」
それでもいいからとメグは言う。どうしてメグがそんなことを言い出したのかは分からなかったが、メグに花はよく似合うと思った。
しばらくすると庭の隅に、小さく白い花が咲いた。星のような形をした花は、夜になるとその一角だけがぼうっと輝いて見えた。
メグに花の名前を聞こうと思った頃、その花は枯れていた。私はやっぱり花なんて育てるだけ無駄だと、枯れた花を処分しているメグの背を見て思った。しかし次の日、庭の別の場所に芽が出た。雑草かと思っていたら、数日でするすると蔓が伸びて、蕾をつけた。どうなるのだろうと思って眺めていると紅の可愛い花が咲いた。数日経って、どうせまたこの花も枯れてしまうのだろうと思って眺めていると、別の花が風に揺れていた。
そうして一年が経って、再びあの白い花が咲いた。また植えたのかとメグに聞くと、メグは嬉しそうに頷いた。
「最初に植えた花から種を取っていたの。覚えてる?」
一年の月日が経ち、いつの間にか私もメグも互いへの口調は、微妙に変化していた。がらんとうの庭にはたくさんの花が咲き、絶え間なく花が散る代わりに、絶え間なく花が咲いている。
「咲くことが出来たから、散るんですよ」
メグはそう言って、嬉しそうに笑った。
僕の父がやって来たのは昼で、昼食は済ませて来たというので、僕は夕食を頑張って準備することにした。父を見るのは久しぶりだった。もう何年もじかに会ったことはなかった。
「大きくなったけど、まあ父さんの子供だからな、そんなに大きくはならないか」
父は開口一番そう言って、それから整さんに挨拶をした。手土産は僕の家の近くにある洋菓子店の、美味しいシュークリームだった。整さんはコーヒーを淹れる。父は美味しいコーヒーだと言って、嬉しそうにコーヒーを飲んだ。ちなみに僕の父の身長は低めだ。整さんと並ぶと、整さんの顎先に頭が引っかかる程度しかない。
「温がお世話になっています。世間知らずな息子ですから、何かと手がかかっているでしょう」
「とんでもないですよ。出来た息子さんで」
父はそう言って頭を下げる。自分が国内にいればなんとかして一緒に暮らすことも出来るが、と悔しそうな表情を浮かべる。
「僕は大丈夫だよ。ええとその、進路とかも考えてる」
すると父はその言葉を待っていた、というように身を乗り出す。父の所作は、母とは違うベクトルでとても分かりやすい。もしかしたら父には反対されるかもしれない。僕の選択はつまりは、演奏家の道を捨てることだ。あんなに僕が演奏家になりたがることを喜んでいた父だ。反対されてもおかしくはない。
「ほら、話してみなさい」
上手く言葉が出てこなくなる。整さんが優しく、話すだけ話してみなよと促してくれる。父はそんな僕の表情を見て、僕より心配そうな顔をした。
「そんなに突拍子もないことを言い出すんですか?」
「そんなことはないと思いますが……」
父の心配に、整さんは苦笑いする。
「音大に進学したいんだ。演奏じゃなくて、音楽の勉強をしたいんだ」
すると、父の顔がすっと真顔になる。久しぶりに見た、父の真剣な顔だった。
「演奏が駄目だから研究に逃げるという考えなら、許すことは出来ないな。何か明確な目標はあるのか?」
僕は一瞬言葉に詰まる。明確な目標と言っても、色聴を始めとする、音楽の未開拓の分野に関わってみたいというぐらいだ。ぱっと聞かれても上手く言葉に出来ない。
「ほら、けっぱれ」
整さんが僕の隣でぽんと肩を叩く。僕は真面目な父に気圧されないように、精一杯息を吸ってから話し始めた。
「聞こえているものだけが音楽じゃないんだ」
僕の話はたどたどしく、何度も何度もつっかえた。しかし父は僕の話を、時に質問を交えながらも辛抱強く聞いてくれ、整さんは隣で静かに僕を見守っていてくれた。
「僕は聞こえないけど、だから分かる音楽もあると思う」
だから音大に行かせてほしい。そこまで言うと、父は眉根を寄せて僕を見た。穴だらけの説明だ。父を説得出来たとは思えない。
「辛い道だというのは、分かっているな」
「うん。でも僕は、音楽から離れたくないんだ」
そこでやっと父は、ふっと微笑む。そして言った。
「それでこそ父さんの息子だ。応援するさ。もともとやりたいことを好きにやって欲しかったんだから」
母も言葉は厳しいが、大体同じ考えだと父は言う。
「十一月から学校に戻れるようにしよう。音楽科ではなく、普通科の生徒としてだ。きっと辛いこともある。でもそれはお前が決めた道なんだからな」
僕は頷く。これから進学しようとする僕に必要なのは、演奏の技術ではなく、学力だ。同じ場所には戻れないが、僕は新しい道が開けたことに、喜びを感じた。遠和にいられるのもあと少ししかないと思うと、淋しい気もするが。
それから僕と父は一緒に夕食の買いものに行った。父は海を見て綺麗だと言い、魚屋の新鮮な秋刀魚を見て感動していた。せっかくなので今日の夕食は秋刀魚を焼こうと思う。手早く夕食の買いものを済ませる僕を見て、父は、成長したなと感動していた。
「こんなに小さかったのになあ」
父が親指と人差し指で、僕の大きさを表すが、どう見てもそれは一寸法師サイズだった。父はゆっくり坂を上り、僕はそれに続く。
「昔は父さんも演奏者志望だったんだ。でも才能がなくてなあ。温がバスーンを見つけた日は、息子が自分の夢を叶えてくれると、喜んだもんだ」
僕の胸は少し痛む。そんな父の期待も、泡となってしまった。しかし父は笑った。
「でもな、お前の人生は結局お前のものなんだからな。好きに生きるといい」
父さんとしては温が元気でいてくれるだけでもう十分なんだから。父はそう言って、僕の頭をゆっくり撫でる。父の手のひらは温かく大きかった。僕は無条件で僕の存在を肯定してくれる父の愛が、泣きだしたいくらい嬉しかった。
父さんは次の日の朝に、帰って行った。もう休暇が終わってしまい、またドイツで仕事をするらしい。
「お世話になりました。あと少し、息子をよろしくお願いします」
父はそう言って、門の前で整さんに頭を下げる。整さんはかしこまった父の姿に慌てながらも、お任せ下さいと言った。父は僕に向き直り、僕の目を見て言った。
「しっかりやりなさい。お前は父さんの自慢の息子なんだ」
父はそう言って車で遠和を出ていく。整さんに、いいお父さんだねと言われ、僕は力いっぱい頷いた。僕が自慢の息子なら、父は僕の誇りだ。
その日は早朝から遠和の街が賑わっていた。僕は新聞を配りながら、翔君のことを考えていた。今日は駅伝大会の日だ。翔君の将来がこの日にかかっていると言っても過言ではない。鮫島さんは一見すると至って普段通りだったが、新聞を一軒分配り忘れたり、釣り糸を絡ませたりと、普段ならあり得ないミスを連発した。
「やっぱり気になりますか? 翔君のこと」
「あー、うん。まあ、そうだな」
俺が緊張したって仕方がないのになと、鮫島さんが少し赤くなって笑う。今日は波も穏やかで涼しく、走るにはちょうどいい天気だと思う。
「鮫島さんは初野に応援に行くんですか?」
「いや、親父たちは行くみたいだけどな。俺は用事があるんだ」
テレビ中継が入るから、それで応援はするよと言う。駅伝は県を挙げての一大行事で、たくさんの人が来るという。僕は病院の検診がある。今日はいつもより相当早めに遠和を出るつもりだ。
「なあ知ってるか」
「はい」
「マラソンは、戦争の勝利を伝えるために走った故事が元になってるんだ。戦場から村までの距離が、約四十キロだったらしい」
そんな故事があったなんて知らなかった。しかしマラソンと駅伝は違うと思う。やっていることは確かに一緒なのだが。
「で、その距離を走った伝令役は、軍の勝利を伝えると息を引き取ったらしい」
すごいよなあ、マラソンはそういう昔の人の強い意志と、その人を忘れまいとする思いで出来上がったんだ。鮫島さんはそんなことを言いながら、竿を持ち直す。すると鮫島さんの身体が、不自然にがくりと揺れた。
「っ来た!」
鮫島さんは慌てて体勢を立て直すと、立ち上がって竿を引く。強弱を付け、引いては緩め、緩めては引くを繰り返す。今日は涼しいというのに、鮫島さんは緊張状態にあるのか、額にうっすら汗がにじんでいた。
そんな格闘をしばらく繰り返していたが、やがて魚が水面から引き上げられ、コンクリートの上でびちびちっと跳ねた。魚は全体的にぬめっとした黒い魚で、見たことがない種類だった。食べられるのだろうか。
「ドンコだな」
鮫島さんは嬉しそうに呟く。聞いたことのない名前だ。鮫島さんは針を丁寧に抜き、バケツの中に入れる。バケツの水に、すうっと赤が滲んだ。ドンコは食べられる魚で、天ぷらから煮つけ、新鮮なら刺身でも美味しく食べられるらしい。
「幸先いいな。刺身にでもするか」
鮫島さんはそう言って立ち上がる。ちょうど船も帰ってきた所だったので、僕達は解散することにした。家に戻ると、整さんは出かけるらしい。愛さんの所に行くらしいので、僕も一緒に出ることにした。今度は僕達はバスで初野に行く。
駅伝のために初野の道の一部は通行止めになっている。今日は迂回ルートが使われるらしく、バスは工場地帯を通った。初野に建つ工場は皆一様に白く平べったかった。精密機器の部品や、人口水晶を作っているのだと整さんが教えてくれる。
病院で僕達は降りる。病院に着く頃にちょうど駅伝が始まり、第一走者がスタートした。病院のホールの大型テレビの前には、何人もの人がいた。この駅伝は男女混合で、奇数が女子、偶数が男子だそうだ。ホールのテレビにはポニーテールの女子走者が、アップで映されていた。
整さんは愛さんの病室に向かい、僕は診察を待つ。しばらくテレビを眺めていると、初野のユニフォームはオレンジで、遠和のユニフォームは青だと分かる。今大会の注目選手が発表されたが、初野には有望な選手がいるらしい。年齢は翔君と同じだった。大会の優勝はいつも初野と、広沢という二つの都市が争っているらしい。遠和は三番手から五番手の辺りに毎年食い込んできているが、いつも決定打に欠けると紹介されていた。
診察を終えてホールに戻ると、二番手の先週にたすきが渡される場面だった。一位の初野と三位の遠和はほぼ同時にたすきを渡す。僕は光ちゃんも病室で見てるのだろうと思い、光ちゃんに会いに行くことにした。
「翔は第六走者だから、まだまだみたい」
光ちゃんはテレビを見ていた。僕も光ちゃんと一緒にテレビを見ることにした。そういえば、と光ちゃんが話しだす。
「今度の月曜日に、横浜に出発する。お母さんが納得したから。足も安定してきたし」
「そっか。上手くいくといいね」
光ちゃんが頷いて足をぶらぶら動かす。そして思いついたと言うように、僕にピアノを弾いて欲しいとせがんだ。
「いいの? 駅伝は途中だけど」
「一曲だけでいいから。もう当分、ピアノ聞けないし」
翔の出番もまだだから、と光ちゃんは言う。光ちゃんがいいならと僕も了承し、僕達は休憩室に向かった。みんなテレビを見ているのか、休憩室には人がいない。僕はキーボードのスイッチを入れて音量の調整をした。また音色がマリンバになっていたので、ピアノに戻す。
「何がいい?」
「幸先が良さそうな曲がいい」
どんな曲だと僕は考える。前向きなエールとか、そういう感じの曲は、確かに今の光ちゃんに似合うと思う。そうだ、駅伝のテーマソングなんかはどうだろうか。ここ最近テレビでよく聞いたので、覚えている。それでいいかと聞くと、光ちゃんはその歌は好きだと嬉しそうに頷いてくれた。光ちゃんは嬉しそうに僕のピアノを聞いてくれる。初めて会った時のように、悲しい顔をしていないことが嬉しかった。
順位の変動はなく、第三走者がたすきを渡す直前で、光ちゃんが今度は飲み物を買いに行かないかと提案してきた。
一階の売店で僕はサイダーを買い、光ちゃんは水を買った。ただの水かと思ったら、透明なのに蜜柑エキスが入っているらしい。気になったので、今度僕も買ってみようと思う。ついでにお菓子をいくつか買った。光ちゃんは堅焼きせんべいを買い、僕はマシュマロを買う。
「マシュマロ好きなの?」
「うん。ふわふわしてて好きなんだ」
光ちゃんは、なんだか男の人がマシュマロを食べるって面白いと言って、レジに並ぶ。それを言うなら光ちゃんこそ堅焼きせんべいだなんて渋いチョイスだと思う。
病室に戻ると、第四走者が半分の地点を超えた所だった。走者の差は広がっていて、僕には埋まりそうがなく見えた。僕達はお菓子を食べながら観戦を続ける。時々第五走者のアップの様子が映し出される。高校生らしき女の子は念入りに準備体操をして、中学生の女の子や社会人の女の人は、音楽を聞いていたり笑いながら話をしていた。
僕達はお菓子を食べながらそれを見ていた。僕は光ちゃんに堅焼きせんべいをもらい、光ちゃんは僕のマシュマロをつまむ。
「マシュマロ食べておせんべい食べると、おせんべいがすごく堅く感じる」
それは逆のことも言えて、せんべいを食べてからマシュマロを食べると、マシュマロが一層柔らかく感じる。光ちゃんは口の中が甘しょっぱいと笑った。走者は初野の市街地を抜け、田園地帯を通る。走者はひたむきに前を向いていて、その背景の田畑に風が流れた。
たすきは先程アップしていた女子たちに渡され、皆スタートしていく。先程念入りに準備をしていたのは初野のランナーで、長い手足を存分に使って、ぐいぐいと前に進んでいた。そういえば整さんは家に帰ったのだろうか。何の連絡も来ていないから、おそらく愛さんと観戦しているのだろう。
鮫島さんはどこかで、レースの様子を見ているだろうか。遠和のランナーは細く小柄な社会人だったが、その身体に似合わず、少しずつだが二番手の広沢との距離を詰めていた。
「あ、翔だ」
光ちゃんがせんべいをかじりながらそう言う。待機中の第六走者の様子が映し出されていて、翔君はじっと待っていた。思いつめているような緊張感が、画面越しでも伝わって来る。気迫というのだろうか、見ている僕の背中までも伸びてしまう。光ちゃんは無口になって、かりかりとせんべいをかじる。走者は風を切って走り、翔君の番が近づいてくる。
司会が盛り上がる。広沢の選手との差が縮まって、遠和のユニフォームが見えてくる。ちらちらと広沢の選手の後ろに見え隠れする青。光ちゃんはせんべいをくわえたままじっとテレビを見ている。
広沢の選手に遅れて、翔君がたすきを受け取る。テレビでは簡単な翔君のプロフィールが紹介されていた。
「こんな気持ちで駅伝を見れるとは思ってなかった」
光ちゃんは、風を受けて走る翔君の映像を見つめながら、そう言った。もっとどろどろした嫉妬を抱えてか、あるいはテレビを見なかったかもしれない。光ちゃんは少しだけ笑顔を浮かべる。
「翔って、気持ち良さそうに走るの。それが好きで」
テレビはもう初野の走者を映していたが、翔君は今も走っている。きっと光ちゃんが言うように、気持ち良さそうに走っているのだろう。
「最初は駅伝で私を励ますっていうのを聞いて、腹が立った。無自覚な嫌味かと思ったの」
でも翔もいろいろあって、それでも走ってるんだなと思うと、私も頑張らなきゃと思えた。光ちゃんはそう言って、再びせんべいをかじり始めた。
「翔には負けたくないなって」
画面は再び翔君を映す。どうやら翔君は結構早いペースで走っているらしく、もしかしたら今大会は大逆転劇が見られるかもしれないと、司会が盛り上げた。体力切れでペースダウンしなければいいけれどと、光ちゃんは言った。僕はもしかしたら翔君は焦っているのかもしれないと思った。この大会の走り次第で彼の進路が決定してしまうといっても過言ではないのだ。
翔君は初野の市街地を走っていた。沿道では旗を振ったりして観衆が声援を送っている。テレビからでも現地の熱気が伝わって来る。選手が前を通る度に拍手が鳴る。翔君のユニフォームの青が鮮やかに画面を横切った。しかしそこから前との差がじりじりと広がっていく。前の二人は体力を温存していたようで、たすきを渡す前に最後のスパートをかけ始めた。
翔君の顔が画面の向こうで険しく歪み、光ちゃんはぎゅうっとシーツを握りしめた。
「翔、けっぱれ」
光ちゃんがそう呟く。それが翔君に届けば、きっと翔君は嬉しく思うに違いない。そういえば僕はこの言葉の意味をちゃんとは知らない。しかし僕が考えている意味で大体正しいはずだ。この言葉は遠和の、温かくて優しい言葉だ。
翔君も最後のスパートに入ったらしく、ぐんとスピードが上がった。体力が切れないようにきちんと計算して走っていると光ちゃんが説明してくれる。翔君は冷静に走り切って、第七走者にたすきを渡す。翔君はたすきを渡して道の脇に避け、そしてがくっと膝をつく。映像は切り替わり、走り続ける初野と広沢の選手を映した。
二人はつかず離れずという様子で、常に一定の距離を置いてはいたが、広沢の選手が大きく引き離されることはなかった。翔君ももしかしたら、このレベルの差を悟ったのかもしれない。トップの世界は音楽でも陸上でも、実力のない者に常に非情だ。
「翔に、お疲れ様って言っておいて」
僕は光ちゃんに頼まれたが、翔君は光ちゃんの所に来そうな気がしたので、自分で言ったほうが早いよと言って、帰ることにした。駅伝が終われば帰る観客で道路は混んで、帰りが遅くなってしまうだろう。今のうちに帰っておかないと夕食の準備に間に合わない。
病院を出ると、整さんからメールが来ていることに気がついた。整さんは今バスの中にいるらしい。僕も早く帰ることにした。
家に帰る頃、ちょうど駅伝の結果が出た。優勝は初野、二位は広沢で、四位にはノーマークだった市が入っていた。遠和は最後に抜かれてしまったらしい。翔君の推薦はどうなってしまうのだろう。しかし区間賞の表彰では翔君の名前が呼ばれ、少しほっとした。これなら希望が持てるかもしれない。
今頃翔君の家はお祝いの準備でもしているのかもしれない。いや、まだ両親は翔君の側にいるのだろうか。鮫島さんは表彰式を見ているだろうか。
「おお、弟君やったな。頑張ってたもんな」
よくやったよと、整さんは言いながらどんぶりを持ち上げた。今日は親子丼を作ってみた。卵をとじるのが上手くいかずに形が崩れてしまったが、卵はふわふわに仕上がって、味付けも上手くいった。鮫島さんはちゃんと翔君を褒めることが出来るのだろうか。
しかし翔君は鮫島さんの気持ちを知っている。まさか喧嘩になることはないとは思うが、これから二人はどうするのだろうと、ほんの少し心配になった。
「そうだ。愛が仮退院出来ることになったんだ」
ちゃんとした退院ではなく、何日間かだけ家に戻れることになったらしい。ということは愛さんの入院生活はもう少し続くのだろう。僕が帰るのは十一月の初めのほうで、愛さんが帰って来るのは十月の終わり頃だそうだ。おそらく僕が帰っても、愛さんの入院生活は続くのだろう。整さんは、先は長そうだと呟いた。
「多分、無理かもしれないな」
次の日、鮫島さんはエラコを針に付けながら言った。昨日の駅伝で翔君は区間賞こそ取ったものの、もっと実力のある同年代の選手がたくさんいたという。選手の実力が分かるのかと聞くと、鮫島さんも高校までは陸上をしていたらしい。翔君のように陸上で食べる気は全くなかったが、それなりに全力だったそうだ。
「それに推薦が来るんだば、もう来てる頃だべ」
だから無理だったんだろうなあ、と鮫島さんはあっさり言ってキャスティングをする。餌はひゅーっと遠くまで飛ぶ。今日も釣れるだろうか。僕も真似して投げてみる。僕は身体をひねって思いっきり飛ばしてみる。最初よりは大分マシになって、もうテトラポットに落ちることはないが、それでも鮫島さんには遠く及ばない。
「俺は昔からやってるからな」
年季が違うのだと鮫島さんは笑った。
「翔は頑張ったと思う。素直に。でも実力が足りなかった。翔の行きたがっているのはそういう世界だし、お前もそういう世界から来たんべ?」
僕は頷く。どこだって結局はそういう世界なのだ。
健吾さんが帰って来たのは、僕達が仮退院する愛さんを迎えに行く少し前だった。連絡もなくふらりと帰って来たが、整さんはおかえりと言ったきり、特に何も言わなかった。健吾さんは僕達を病院に乗せて行ってくれた。健吾さんは少し驚いて、整も行くのかと聞いてくる。僕と整さんは思わず顔を見合わせて、少し笑う。
「温君に引きずってかれたんだ」
健吾さんはミラー越しに僕を見ると、ウインクをしてきた。弱々しいウインクではあったが、ここを出た時よりも元気そうには見えた。美穂子さんはどうなったのだろう。僕と整さんがそのことを聞くことが出来ないまま、車は病院に入っていく。
病室に入ると、愛さんは既に準備を済ませていた。仮退院なので荷物は少なめで、鞄一つに収まってしまうほどだった。愛さんはゆっくり歩き、僕は愛さんの荷物を持って、後ろをついて行く。
そういえば僕は愛さんから病名を聞いていない。しかし愛さんかゆっくり衰弱しているのは分かった。整さんもそう思ったのか、愛さんが歩くのに手を貸した。健吾さんは僕の横で、そんな二人を眺めている。今日はよく晴れていて、気持ちのいい風が吹いていた。
愛さんが食事を作りたいと車の中で言う。僕も健吾さんも反対したが、愛さんは二人が手伝ってくれれば大丈夫だからと言うので、しぶしぶ頷く。遠和に着いて車を降り、少し休憩してから商店街に買いものに来た。坂を下りる途中、どこかで焚き火をしているのか、ふわっと香ばしい落ち葉の燃える匂いがした。整さんは秋らしい匂いだと胸一杯に息を吸う。
商店街の人は皆、久しぶりの愛さんを温かく迎えた。そして愛さんの荷物持ちをしていた僕達に、身体にいいからとたくさんのおまけを持たせた。僕と健吾さんは荷物を抱え、ゆっくり坂を下りて行く愛さんについて行った。愛さんは久しぶりの屋外を心から楽しんでいるらしく、小さく鼻歌を歌っていた。愛さんは白のシフォンワンピースを着ていて、風が吹く度にふわふわスカートが揺れた。
「ねえ、少し海が見たいの」
買い物を終えた頃、愛さんがそう言った。今日みたいに晴れた日は、きっと海から見える夕日は綺麗だと。海に行くには愛さんの格好は寒いのではないかと整さんが言うと、健吾さんが過保護過ぎだろと笑った。荷物を持ったまま海に行くと、ちょうど夕日が海に沈む時で、辺りは濃いオレンジに染まっている。整さんのシャツも愛さんのワンピースも、オレンジ色に染まる。僕はこの色にひどく見覚えがあった。
夕日は直視できない程眩しくて、燃えているようだった。夕方の海は想像以上に寒く、僕は身震いしてしまう。
「確かに綺麗だけど寒いだろ。ちょっと待ってろ」
健吾さんはそう言うと、家に戻ってコートとカメラを取って来た。そしてコートを愛さんに放った。健吾さんのコートは厚手で重く、愛さんは一度とり落としてしまう。コートを拾って叩いてから、お礼を言って愛さんはコートを羽織った。健吾さんは僕と整さんの分まで持って来てくれたらしく、僕達はお礼を言ってコートを着る。
健吾さんのコートは僕には大きすぎて、袖から腕が出ない。僕が腕を振ってコートの大きさをアピールすると、整さんと健吾さんが、小さいなと声を揃えて笑った。
健吾さんは夕日と、寒さで震えている僕達をカメラで撮った。健吾さんのカメラは黒くてごつごつした本格的なカメラで、仕事で使う十数万円のものだと説明してくれた。健吾さんは愛さんにもカメラを向ける。すると愛さんが首を振って言った。
「こんなに震えているところなんか撮らないで、もっと綺麗なところを撮って欲しいわ」
愛さんはそう言って海に向かって立つ。そして重いコートを脱いだ。先程まで僕達と一緒に震えていたのに、愛さんの震えはぴたりと止んでいた。
「俺は人物を撮るのは苦手なんだけどよ」
あと寒いからコートを着ろと健吾さんは言う。しかし整さんは寒さで震えながら、健吾さんに頼む。
「頼む。撮ってやってくれないか」
愛さんはまるでここは春の陽だまりの中だとでも言うように軽やかにターンして、健吾さんに向き直った。愛さんは寒くないのだろうか。コートを着ている僕でさえ、晩秋の海風は震える程寒い。愛さんは微笑んでこう言った。
「まだ綺麗な私がいる内に、撮って欲しいの」
健吾さんはすっと片膝をついて、静かにカメラを構えた。海風はごうごうと唸り、誰も何も話さない。白く浮かんだそれぞれの吐息も風に散らされ、僕らは微かに動く銅像のようだった。
愛さんは健吾さんに背を向ける。ワンピースの裾がはためいて、愛さんの白い足が見えた。足のあちこちもただれている。愛さんの中身はこんなにも綺麗だというのに、愛さんはどんどん傷んでいくのだなと僕はぼんやり思った。整さんは祈るように目を閉じ、健吾さんはじっとシャッターを押すタイミングを待っていた。しばらくして健吾さんのカメラから、シャッター音が聞こえ始める。
愛さんは強い風の中、しゃんと真っすぐ立って、花のように風に吹かれていた。健吾さんは撮影が終わった後もしばらく黙ってカメラを構えていた。カメラを構えながら、健吾さんが泣いているのが僕からは見えた。
「綺麗だ……景色のようだよ」
健吾さんが呟くと、愛さんが振り返って微笑む。それから小さく一回くしゃみをして、震えだした。
その日は久しぶりに愛さんの手料理が振る舞われた。野菜たっぷりのスープに、熱いグラタンは手が込んでいる。寒い日だったので、とろりと熱いホワイトソースは感動的なぐらいに美味しかった。
夕食後、愛さんは早めに休むと言って部屋に戻り、僕達三人はのんびり片付けをしてからチャイを飲んだ。そういえばチャイを飲むのは久しぶりで、優しく温かく香り豊かなミルクティーは、じんわり身体に染みて行くようだった。僕達は縁側に腰かけ庭を眺める。庭は相変わらず空っぽだったが、整さんも僕も淋しい気持ちにはならなかった。
「イタリアに行って来たんだ」
健吾さんはチャイを飲みながら、イタリアでの顛末を語ってくれた。健吾さんの話は途中でつっかえたり黙り込んでしまいながらも、少しずつ進んだ。イタリアに着いてすぐに調査隊に加えてもらえたこと。美穂子さんは健吾さんが着いた二日後に見つかったこと。
「万が一の事故を考えて、二人一組で潜ったんだ。俺とは別のグループが見つけて、俺達もそこに行った」
美穂子さんは重りで海底に沈んでいた。美穂子さんのボンベに不備があり、美穂子さんは海底で溺死した。健吾さんはそう淡々と語った。人魚のようにゆらゆらと海底を漂っていたと、健吾さんはなぜか困ったように笑っていた。
火葬は美穂子さんの親戚の許可でイタリアで行われ、灰は健吾さんが日本に持ち帰って美穂子さんの親戚に渡して来たらしい。美穂子さんは親がいなくて、遺体は腐敗が進んで、日本で火葬を行うまで保存できそうになかったそうだ。
「俺と日本からの調査チームしか立ち会えなくてな。あいつ、友達がたくさんいたのに」
健吾さんはそう言いながら、いつか見せてくれた指輪のケースを取り出した。
「淋しくないようにと思って、指輪を棺に入れてきたんだ」
そう言って健吾さんはケースを開く。しかしケースの中には少し褪せた色をした指輪が入っていた。
「ヒスイって、酸化はするけど燃え尽きないんだよな。空に連れてってもらえなくてさ、こいつ。俺もこいつも置いてけぼりだよ」
健吾さんは指輪をしまってチャイを飲む。その指輪はヒスイで出来た美穂子さんへの婚約指輪で、ヒスイは壊れにくいのだと健吾さんは言っていた。ずっと一緒だという証の指輪が、永遠に結ばれないことの象徴になってしまったのは、残酷な皮肉だった。健吾さんは言う。
「あいつも俺もそういう仕事をしているんだ。だから仕方がない。見つかって、しかも葬式にまで立ち会えた俺は幸せだ」
だけど、と言って健吾さんは顔を歪ませる。僕達は健吾さんの言葉を待ったが、健吾さんは言葉に詰まったらしく、それ以上何も言わなかった。健吾さんが自室に戻った後、僕と整さんはぼんやりと残りのチャイを飲んでいた。僕が、人を好きになるのは苦しいのかという感想を呟くと、整さんは、そうらしいねとため息をつきながら言った。
健吾さんが立ち直るのはいつのことだろう。きっと健吾さんはしばらくすればいつも通りに明るく振る舞い始めるに違いない。しかしそれと立ち直るということは少し違う気がする。健吾さん自身に救いがない。きっと、途方もない時間が必要なのだと僕は思った。
「いつかまた、健吾に愛する人が見つかればいいと思う。俺はそうなって健吾が幸せになればとても嬉しい」
整さんはじっと目を閉じてそう言った。空は満天の星だ。これだけあるのだ。どれか一つぐらい、傷ついた人のための願いを聞く星であって欲しい。
愛さんが病院に戻ったのは、二日後の朝だった。それからしばらく検査が立て込んで会えなくなるというので、今日が僕と愛さんの別れの日でもあった。その日はスカッとした秋晴れで、穏やかで温かい天気だった。愛さんは柔らかそうなセーターを着ていて、陽が当たると、セーターは気持ち良さそうな光をまとった。
「この何カ月か、あっと言う間だったね。弟が出来たみたいで楽しかったわ」
僕は愛さんにたくさんのことを教えてもらった。僕は感謝の気持ちをこめて愛さんの手を握る。愛さんの肌はまだ若いというのにかさかさに乾いて、痩せて骨ばっている。しかし美味しい料理と綺麗な花を育てることが出来る優しい手だということを、僕は知っていた。愛さんはがらんとうの庭を眺めて笑う。
「落ち着いたら、また遊びに来てね。その頃にはきっと私も元気になって、庭もまた花でいっぱいになっているから」
僕は頷く。愛さんの後ろで、整さんが目を細めて微笑んでいた。
新聞社に行くと沼澤さんに、配達が終わったら残って欲しいと言われた。沼澤さんは明日から横浜に戻る。そのことは光ちゃんからも沼澤さんからも前から聞いていた。今日は沼澤さんの後任者が来るそうだ。配達が終わって新聞社に戻る途中で鮫島さんが、俺もお前もすぐにここを出るのになと言う。
後任者は若くて感じのいい男の人で、初野の人らしかった。僕達が初野を出る頃には新しい配達の人が来るそうだ。鮫島さんは仕事に穴を開けるわけにはいかないと、沼澤さんには遠和を出て行くことを伝えたらしい。顔合わせが終わると、沼澤さんは僕を呼んだ。これからここに光ちゃんが寄ると言うので、僕に会って欲しいそうだ。
「光から、たまに君の話を聞いていた。君もいろいろ大変だったみたいだね」
沼澤さんがそう言って、大きな机の一角に座る。そういえばゆっくりしている沼澤さんを見るのは初めてだ。いつもは事務所の奥で忙しそうにしていた。
「いつも少ししか顔が見れなかったけれど、君も成長を重ねているんだなと、思っていたんだよ」
沼澤さんは、光にもいい経験をたくさん積んで欲しいと言った。光ちゃんは沼澤さんに本当に愛されているのだと思う。そうして話していると光ちゃんがやって来た。坂が多い遠和では車椅子が使えないため、松葉杖をついている。
光ちゃんはパーカーにジーンズというシンプルな服装だった。初めて見る光ちゃんの私服だったが、ショートカットの光ちゃんにはシンプルな服が良く似合う。光ちゃんは僕の前まで来ると、照れたように笑った。
「温さん、ありがとう。明日から横浜で頑張って来る」
そして光ちゃんは少し不安そうな顔になる。
「都会は、怖いところ?」
これから光ちゃんは初めての場所に行く。初めての場所は、誰だって不安になるだろう。
「怖くはないよ。でも遠和よりも初野よりも広い場所だ」
光ちゃんはそうなんだと言って黙り込む。
「バーカ、考え過ぎ。光なら大丈夫だっつの」
すると新聞社に翔君が入って来た。翔君はもう朝練がないため制服姿だ。翔君は光ちゃんの傍まで来ると、ニッと笑った。
「いいじゃん、都会。楽しんでくればいいべ。戻ってくんだべ?」
光ちゃんが、翔は楽天的だよと笑う。それから、戻って来ると言った。
「じゃあ、待ってる。光が戻って来る頃には、多分俺はもう立派な漁師だ」
翔君は明るく、しかし淋しそうに笑った。光ちゃんが帰った後、僕は翔君がバスを待っている間、少し話をした。
「俺だって、なんとなくはわかってますよ。俺はもう、光に会えないんだって」
翔君はそう言って、初野に続くトンネルを見つめた。遠和から唯一外界に続く道。これから光ちゃんや鮫島さん、そして僕が通る道だ。トンネルは暗く、短いというのに先が見えない。翔君は出会った夏の日より、ずいぶんと大人びた表情をするようになっていた。それは成長なのかもしれないが、もうはじけるように笑う翔君には会えないと思うと、惜しい気もした。
「都会は広くて、たくさんのものがある。光はそこで、遠和よりもっと魅力を感じるものに出会う」
「それでも、それよりも遠和を選ぶかもしれないよ」
翔君は僕の発言に、肩をすくめて笑った。
「光が戻って来れる頃には、ここは今よりも光が生きにくい場所になっているでしょう」
この町は朽ちていく町だ。翔君はそう言い、僕はその言葉を覆すような奇跡を願った。僕にたくさんのものをくれた町。水は光り風は爽やかで、花も空も美しい町。星が降るような大きなチャンスで、この町が再生しないだろうか。
「俺はこの町に残ります。兄ちゃんや光がもしかしたら帰って来るかもしれないから、帰って来れるように居場所を守ります」
鮫島さんがここを出て行くつもりだということを知っていたらしい。僕が驚くと、翔君は淋しそうに笑った。
「兄ちゃん、隠しごと苦手だから」
健吾さんが東京に戻ると言ったのは、その日の夕食後だった。出発は明後日にすると言い、僕はずいぶん急だなと思った。健吾さんは話があると言い、僕と整さんにチャイを淹れてこの話を切り出した。最近夜もずいぶん冷えてきたので、温かいチャイは嬉しかった。
「しばらく東京で仕事をして、そこからまた海外派遣に志願するつもりだ。異動願いが受理されたんだ」
忙しいほうが気が紛れていいのかもしれない。健吾さんはそう言ってチャイを飲む。整さんは、そうかと呟いて、少し微笑んで見せた。呟きに合わせて、整さんのマグカップから立ち昇る湯気が、ほわんと揺れた。
「そうだな。この町は少し静かすぎるから、それがいいのかもしれない」
「お前、淋しくないのか?」
驚いた顔をする健吾さんに、整さんが穏やかに笑ってチャイを飲む。
「俺はもう、大丈夫だよ。大丈夫。まあ、淋しくなったら、会いに行くよ」
「方向音痴のくせによく言うよ」
健吾さんはそう言って笑った。
二日後の朝、健吾さんは旅立つために荷物を車に乗せていた。引越しの業者が来たため、健吾さんの部屋は空っぽになっている。整さんが、側溝にはまるなよと健吾さんをからかい、健吾さんがうるさいと答える。きっとこの二人はこんなやり取りを何年も続けているのだろう。
健吾さんが、世話になったなと整さんに言うと、整さんは首を振る。
「何かあったらいつでも帰って来い。飯ぐらいは出してやるからな」
「助かるよ」
「俺は、遠和に残る。ずっとここにいる。心配するな。俺の居場所も健吾の居場所もここにあるんだからな」
健吾さんは、眩しそうに整さんを見る。そして手を振って車に乗った。
「なあ! 整」
健吾さんが声を上げて整さんに呼び掛ける。うっかり言い忘れるところだったという感じだったが、整さんが忘れものかと聞くと首を振った。
「こんなに辛いけれど、やっぱり大切な人がいるのは、幸せなことなんだ。お前だってそうだろ?」
整さんはそうだな、と微笑む。健吾さんは満足そうに手を振った。
「じゃあけっぱれよ、しっかりな!」
整さんはそれに答えて手を上げる。健吾さんの車は、門を出てトンネルに吸い込まれていった。
僕と鮫島さんの最後の配達は、曇りの日だった。雨が降らないのは天気予報で確認していたので、傘は持たず、配達の前に釣りの約束もする。今日は最後の釣りの日だ。配達の最初、坂の上で整さんが待っている。僕はぐんとペダルを漕いで坂を上り切って整さんに新聞を手渡して、坂を下る。
風が僕の頬を強く撫でて、少し寒いぐらいだ。坂を下り商店街に新聞を配り、遠和の小さな住宅街に入る。時折、道の向こう側なんかで鮫島さんの金髪がきらきら光っている。海辺の道で漁協のおばさんや釣具店のおじさんが挨拶をしてくれる。
新聞社に自転車を返す。ずっとお世話になった自転車を磨いてから、新聞社の前で小さく一礼をした。早起きは時々辛い日もあったが、それ以上に得るものは大きかった。
いつもの場所で鮫島さんが待っていた。鮫島さんの足元にはいつもあるバケツや釣り具の入った箱以外に、ボストンバッグがあった。鮫島さんは今日決行するつもりのようだ。鮫島さんはいつも通りにエラコを剥いて針に付けると、ひゅっとキャスティングした。僕も鮫島さんと同じタイミングで振りかぶる。
「そういえばさ、翔に餞別もらったんだ」
そう言って鮫島さんはボストンバッグを指した。そういえばそのバッグは、以前鮫島さんが家出未遂をした時とは違うものだった。鮫島さんは翔君に知られていたことに別に驚かなかったようだ。もともと翔君には隠せると思っていなかったらしい。
「俺、翔に恨まれるのかと思った」
そんなことあるわけないだろうに、鮫島さんはそう言って肩を落とす。翔は夢を諦めて遠和に残ると言うのに、自分は全てを翔に押しつけて、今からここを逃げる。恨まれないわけがないと鮫島さんは言った。
「翔君、鮫島さんが帰って来てもいいようにこの町を守るらしいですよ」
瞬間、鮫島さんの顔が歪む。鮫島さんは顔を歪ませたまま、水面に視線を落として呟いた。
「あいつは、俺よりずっと大人だな」
でも俺だって、今更夢を捨てられない。鮫島さんはそう言って首を振った。それからしばらく無言の時間が続く。魚は来ない。そういえば鮫島さんはこれから魚が来たらどうするのだろう。その家出バッグを持って、家に帰って魚を食べるのだろうか。しかし鮫島さんにもきっと魚はかからないだろう。だからきっとこれから鮫島さんは、何食わぬ顔をして竿を返したら、あのトンネルを抜けて旅立つ。
「なあ、知ってるか?」
「はい」
「あるところに、足の不自由な王様がいたんだ。戦争のたくさんあった時代で、そんな王様に勝ち目なんてないと思うだろ? でもその王様は自分で戦車馬車を発明して、それを使って大きな功績をあげた」
不屈の闘志、不自由を克服して道を見つける王。俺はその王様は偉大だと思う。鮫島さんはそう言って、竿を引き上げる。まだ船の汽笛は聞こえないが、鮫島さんはもう行くよと言った。こうして出て行く自分は、家族の顔なんて見る資格はないと鮫島さんは言い切る。鮫島さんは携帯電話を取り出した。
「ツメが甘いとまた整さんにつかまっちまうべ? こうするのが一番だ」
鮫島さんは少し躊躇うように携帯電話を見つめた後、ひゅっと勢いをつけてそれを海に投げた。電話は遠くまで飛んで、遥か彼方で小さい飛沫を上げた。
「砲丸投げの選手だったんだ」
鮫島さんはそう言ってニッと笑う。笑うと鮫島さんは翔君にひどくよく似ていた。
「じゃあな、俺は行くよ。お前もけっぱれよ」
鮫島さんは、なんの未練もないという風に歩き出す。鮫島さんの髪は雲間からの光を受けて、サラサラ流れながら輝いた。孤独な旅立ちを、天使の梯子が照らしている。
遠和での最後の夕食は、僕と整さんが二人で作った。僕はご飯を炊き、魚を煮つけながら野菜を炒める。整さんは前に健吾さんに作ってあげた唐揚げを作っていた。下味の付け方は整さんのオリジナルだと整さんは胸を張る。ご飯は美味しく炊け、つやつや光っていい出来だった。魚は甘過ぎずしょっぱ過ぎずで塩梅がいい。整さんの料理はもちろん言うまでもなく、僕は整さんとの最後の夕食を心から楽しんだ。
食後に整さんはコーヒーを淹れてくれ、僕が部屋で荷づくりなどをしている間に仕込んだというゼリーのデザートを出してくれた。ゼリーは、オレンジと林檎のジュースで作ったらしく、粗めにクラッシュされて硝子の器に盛られていた。ゼリーは少し固めだがそれがかえって美味しい。光りが当たるときらきら光り、見た目にも綺麗だ。僕は美味しくて、つい黙々と食べてしまう。
「ゼリー好きなんだろ? 作ってみたんだ。あと、好物は玉ねぎと、煮魚だっけ」
「あれ? 言いましたっけ」
「美佐子さんが初日に教えてくれたんだ。確か君、車に荷物取りにいってる時だったかな。いいお母さんだよ」
全く知らなかった。僕はそんな些細な所まで母に気遣われていたという。僕は何て言ったらいいか分からず、しかし黙り込んでしまうのも気まずかったので、今日の鮫島さんとの出来事を話した。
「そうか。携帯を投げられたんじゃしかたないな」
話してから思わず、また整さんは鮫島さんを探すのではないかと思ったが、意外にも整さんはそう言ってあっさり諦めた。
「はは、俺も家出の経験あるからね。誰も探しに来てくれないのは淋しかろうと思って迎えに行っただけだよ」
整さんが家出というのは意外な過去だ。整さんはそういえばと立ち上がった。
「足の不自由な王様を見せてあげるよ」
整さんが付いてきてと言うので、僕は整さんを追う。整さんはコートを来て、マフラーを巻いて玄関に出た。僕も整さんに習って厚着をすると、整さんは門を超えて坂を下り始めた。時刻は午後十一時。夜中の遠和は暗く人気がない。音といえば僕達が歩く音と、坂を風が吹き抜ける音ぐらいだった。
「手でも繋ぐかい?」
僕が笑うと、整さんも笑う。初めてこの坂を降りた時の臆病な僕は、もういない。相変わらず僕の世界は妙に左側がぼやけているが、もう悲しくも怖くもなかった。聞こえる僕も聞こえない僕も、ありのままの自分だった。
「整さんこそ、大丈夫です?」
僕が聞くと、整さんが笑って頷く。整さんはこれからしばらくあの家に一人だが、もう淋しくはないという。
「それにしばらくは本業のほうに専念するからね。書きたいことが山ほどあるんだ」
整さんは嬉しそうにそう言う。出来たら読んでくれるかいと聞かれたので、僕は少し考えてから頷いた。
整さんは海で止まった。夜の海はとても寒く、頬にあたる風は痛い程だ。暗い海はひどく波が荒く見えて、鮫島さんの携帯はどうなっているだろうと僕は考えた。整さんは頭上を見上げて息を吐く。薄く白い呼気が、ふわっと宙空に浮かび、さっと消えた。整さんはしばらくそうしていたが、やがて細い人差し指を一本立てて、空を指差した。
「あれが不屈の王様だ」
満天の星の中、整さんはその中の一つを指差す。いつの間にか空は晴れていて、星が降りそうなぐらいよく見えた。僕は整さんの指先の星を探す。オリオン座の遥か上、黄色く明るい星を整さんは指していた。
「あの星から五角形を繋ぐと、それがぎょしゃ座。王様の星だよ。一番明るいあの星は、地球から観測できる星の中で六番目に明るい星なんだ」
僕はじっとその星を見つめる。脳裏に焼きつくように、ビルの立ち並ぶ僕の故郷でもあの星が見つかるように。鮫島さんが僕のようだと称した星のように、僕が輝くための指標にするのだ。
次の朝、もう僕は新聞配達をする必要もないのに、朝早くに目が覚めてしまった。しょうがないので整さんの分のご飯を作っていると、もう僕の新聞を受け取る必要もないのに、整さんも起きだして来た。僕達は身に付いてしまっている習慣に苦笑いし、朝食を作る。
整さんは、僕の母が迎えに来る昼過ぎまで、もう少し寝ようかなと自室に戻っていった。僕も食器を片付けて二度寝をしようと思ったが、全く寝付けない。仕方がないので、町に散歩に出ることにした。
遠和の町には冬が近づいていた。あとしばらくすれば、水たまりも凍り始め、地面には霜柱が出来るそうだ。商店街は開店の準備を始めている。通り過ぎるトラックに気を付けながら、海のほうまで降りてみる。ちょうど漁に出ていた船が帰って来たらしく、みんな忙しそうだ。この中に会ったことはないが、鮫島さんと翔君のお父さんもいるのだろう。僕を強くしてくれた町の、朝の風景のどこかに。
部屋に戻って、僕は荷物の整理をする。忘れものもない。そして僕は息を整えてから、押し入れを開ける。目当てのものは埃をかぶっていて、僕は押し入れからそれを引きずり出すと、まずは丁寧に埃を拭いた。
「ごめん」
僕は目の前のケースに頭を下げて、ゆっくりケースを開ける。久しぶりの対面は、初めての出会いの時のように胸が高鳴った。僕の相棒は、静かにそこで僕を待っていてくれた。
つやのある黒い筒。僕はゆっくりそれを撫で、リードを取り出して水に浸ける。リードは水に浸けると、音が良くなるのだ。リードを取り出して、連結部にグリースを丁寧に塗りこんでから組み立てた。すうっと息を吸う。もう何か月も吹いていないどころか触ってもいない。折原に知られたら、殴られるどころでは済まないかもしれない。
久しぶり過ぎて、息が上手く整わない。しかししばらく呼吸を繰り返していると。自分の身体が一本の管になったような感覚になる。身体の中心を空気が循環する、演奏前のあの感覚だ。僕は息をつめて、リードに唇を寄せ、そして吹くのを止めて立ち上がった。バスーンは武器だ。武器は室内で使ってはいけない。
立ち上がった瞬間、ここしかないと僕には分かっていた。高台の薮を超え、僕は河原に出る。誰もいない河原。風の音と水のせせらぎ、木の葉のささやきが僕を満たした。僕は震える唇を再びリードに寄せ、相棒に命を吹き込む。
瞬間、満ち足りていくような幸福感に、鳥肌が立った。足りなかった最後のピースが埋まった感じだ。僕は一心不乱にバスーンを吹く。何を吹いているのかもよく分からなかったが、僕にとって、なんの曲を吹くかよりも、バスーンを吹いているという事実のほうが遥かに大切だった。風が鳴り、どこかで鳥が鳴く。僕は音の一部となり、それは風や水と同じ存在だった。
リードから唇を離すと、今日は暑い日ではないというのに僕は汗だくだった。その事実に僕は魔法のようだと思った。僕はもう、バスーンを上手く吹けるとは言えないだろう。第一線で活躍しようとしている折原と僕の実力は、既に隔てられていた。それなのに、バスーンは僕にとって魔法の楽器のままだった。離れられるわけがなかったのだ。僕は呪いと祝福のような、折原の言葉をかみしめながら家に戻った。
家の前には見覚えのある車が止まっていた。母の車で、覗きこむと既に僕の荷物は後部座席に詰め込まれていた。予定より早い到着だ。
「温」
玄関から、母が出て来る。久しぶりに見た母は少し痩せた気がした。続いて整さんが玄関から出て来る。母は、元気そうで安心したわと言って、靴を履いた。休日だというのに隙のない化粧は変わっていない。
「聞こえたよ。演奏」
整さんはそう言って、微笑んだ。音楽はよく分からないが、すばらしい演奏だと、整さんはおかしな褒めかたをしてくれたが、僕はそれでも十分に嬉しかった。それにしても河原からこの家までよく聞こえたものだと思う。整さんは、高台からは遮るものがないから、きっと風に乗って町じゅうに聞こえたろう、と言った。僕は恥ずかしくなってしまう。
「いいじゃないか。音楽のプレゼント。洒落てるな」
僕はバスーンを丁寧にトランクに詰める。そして母と一緒に整さんに、今までのお礼を言う。整さんはまたいつでも来てくれと言った。母は、車の中でこれまでの話を聞かせてと言って、先に車に乗り込んだ。
「温君こそ、ありがとう。こんなに年下の君に目を覚まされる不甲斐ない俺だけど」
精一杯、生きてみるよと、整さんは言った。僕は頭を下げて車に乗り込んだ。車は発車して、整さんの姿は小さくなる。僕は大きく手を振った。僕達は遠く離れるけれど、同じ世界で生きている。
車はゆっくり門を出て坂を上る。振り向くと緩やかな坂の向こうに、青く輝く海が見えた。車は遠和と初野のトンネルを潜る。しばらくすれば、車は田園地帯を抜けて、僕の故郷に続く高速道路を走り始めるだろう。
ある寒い十二月、僕は小さな本屋にいた。折原が注文していた、新しい楽譜の受け取りに付き合ったのだ。本屋は混み合っていて、僕たちは人混みをかき分けて進む。今日はひどく寒い日で、店内の暖房が心地いい。
僕が学校に戻ってしばらくが経つ。僕は同じ学校の普通科に編入し、毎日勉強に励んでいた。同じ学校だったが、僕は普通科がどんな授業をしているか知らなかったので、日々、小さな驚きの連続だった。普通科の人は僕たちが楽器のレッスンに費やす時間を勉強に費やすので、差を埋めるのが大変だった。とはいっても音楽科だって勉強はしていたので、最近には僕とみんなの学力に、そう差はないと思う。
僕がふらふら店内を歩いて本を眺めていると、折原が人混みをかき分けてやってきた。折原はベルリンから帰ってきて、今までよりさらに練習量を増やしたと言っていた。実際音楽科の噂でも、折原は火がついたように毎日練習をしているらしい。折原は、世界のレベルを感じたからと言っていた。僕も折原も大学に進学するが、折原はドイツの、僕は東京の音楽大学に進学することを目標にしている。
「ここにいたのか。そういえばお前、読書するようになったもんな」
僕は頷く。整さんの作品を待つため、あれから定期的に書店に足を運ぶようになった。そして面白いタイトルを見つけては買って、読んでいるのだ。そろそろ整さんの本も出ていいと思う。まあ、なかったらなかったで面白そうな本を買うのもいい。そう思っていると、新刊のコーナーで平積みになっている、一冊の本が目に入る。
夕暮れの海辺。暗い空の下に女の人が立っている。こちらに背を向けて、風に髪を遊ばせていた。とろりとしたはちみつ色の光が逆光となって、女の人の特徴らしきものは全く掴めない。細身で長身で、髪が長い。分かるのはそれぐらいだった。僕はその本を手に取った。
「お、今日はそれ買うのか」
「うん。やっと見つけたからね」
僕はこの女の人を知っている。この女の人を撮った人も、傍らでそれを眺めていた人も。この海を臨む町で、夢を追いかけた人達のことも。
「買うものがあるんだ。寄り道していいか」
折原は頷いて、珍しいじゃないかと不思議がる。何を買うのかと聞かれたので、僕はレジに続く列に並びながら答えた。あの人達は元気だろうか。整さんの小説が出来たら、手紙を書こうと決めていた。遠和は変わりないでしょうか。僕は元気にやっています。便箋は花柄にしよう。冬の間の花が咲かないあの家に、少しの彩りを届けるのだ。
「レターセットを。手紙を書くんだ」
それはきいきいと風に揺れていて、私は思わず後ずさった。木の枝から垂直に、一直線にロープは落ち、その先に頭がある。頭の次に顔が来て、顔に続くのは首と胴体だ。そうして腰が来て足が来て。足は地に着かず、浮遊するようにふらふらしている。私はビスケットを噛み砕き、飲み込む。喉元からせりあがってきた酸味には、気付かないふりをした。
それは私のなれの果ての姿のはずで、私もこうして消えようと思って、樹海の底まで来たのに。ぶら下がる死体には、瞳がない。腐り落ちたのかは知らないが、瞳がなかった。彼なのか彼女なのかも分からない。
叫ぼうとしたのに、声は出なかった。頭の中をいろいろなものが駆け巡ったが、最初に思ったのは、帰りたいという願いだった。私は走り出す。足元も思考も覚束なく、しかし私は止まれなかった。樹海の底。友ならばこんな場所なんて軽々と越えてしまえるだろうが、私は方向音痴だった。ここには分かりやすいモニュメントもなければ、目印になるものもない。ただひたすら、同じような草と木々が続くばかりだ。
死だなんて、結局醜いものでしかない。私は、生きなければならない。母を亡くした孤独に酔って楽になろうというのは、なんと浅はかな考えだろうか。生きなければいけない。生きる苦しみが、私の終わらない罰だ。生きることなんて、孤独で淋しいものでしかない私にとって、それは何よりも苦しいことだった。
走り続けて、私は気が付けばトゥデイの前に立っていた。全身あらゆるところが擦り傷と切り傷と打撲だらけで、そこで私はようやく、森の中で何度も滑ってもがいていたことに気付く。しかし私は痛いと思う前に、会いたいと思った。かけがえのないあの人に、会いたいと思ったのだ。
泥だらけで車に乗り込み、発車させる。走る車に光が差し込み、時折チラチラ目の前が霞んだ。清々しい夏のある日だった。
色んな人からたくさん手紙をもらった作品なので思い入れがあります。
2011.FL8掲載作品