上
その森は平和な場所だった。木々は高く、昼間だが日の光は射さない。ここは背の高い、都心では見かけない針葉樹でいっぱいだ。光の届かないこの場所では下草は生えないようで、歩く度に足が湿った腐葉土に沈み込む。多分に水分を含んでいたので、ときどき滑ってしまいそうになる。
昨日の真夜中に雨が降っていた。ホテルのロビーで、私はそれを見ていた。夏の雨らしい豪快な土砂降りだった。でも今朝、私が起きた時には止んでいたので、長い時間降っていたわけではないらしい。
深呼吸をすると青臭く、土っぽい森の匂いが鼻を突く。メグのコロンのグリーンノートなんて足元にも及ばない、もっとずっと深く、重苦しい木々の香りだった。
夏だったがここの日差しは弱く、大して暑くはなかった。それでも湿度は高く風も吹かないので、私は滝のように汗を流した。ここでは本当に風が感じられない。それでも時折、遥か頭上の木々が揺れる音がするので、きっと風は吹いているのだろう。ただその風は、私には感じられない。
木の幹には苔が生えている。毛足の長い、ビロードのように滑らかな苔だった。近寄って触ると、存外それはふわふわしていて、撫でていて気持ちがよかった。ふわふわ。そういえば先週、近所で可愛い子犬が産まれた。三匹の兄妹。オスが二匹とメスが一匹。彼らの手触りは、これよりももっと滑らかで、温かかった。
クリーム色の三匹の子犬は、ビションフリーゼとダックスフンドの合いの子だ。メグが欲しがっていたが三匹の子犬は小さい町では引っ張りだこで、早々に貰い手が決まってしまった。一方ここには、生き物の気配がない。時折、遠くや近くで鳥の声がしたが、深い森の奥でそれらは、何か得体のしれない音でしかなかった。
生き物の気配はしないが、ここには人のいた痕跡がある。歩いていると、枝葉にまぎれて、ジュースの缶や古い雑誌を見かけた。色があせても、缶や雑誌の派手で人工的な色は、暗い森の中で、どうしようもない程に異質だった。雑誌の一つを拾い上げてみる。手に取ったそれは週刊誌で、聞いたこともないアイドルの熱愛が報じられていた。
私はテレビを見る方ではないが、それにしたって聞いたことがない名前だった。短い髪をカールさせたモダンな髪型で、シャツから伸びた片腕を、背の高い男の腕に絡ませている。男の顔は、雑誌の写真から確認することは出来ない。雑誌の発刊日は、二十年も前だった。私は雑誌を元の場所に戻して、森のさらに奥の方に進む。
実際に奥に進んでいるかは定かではない。自分では真っすぐ進んでいるつもりでも、実はいつの間にか大きな弧を描いて、来た道を戻っているかもしれない。もしかしたら、私はこの深い森の円周を軽くなぞっているだけなのかもしれない。
知らない土地で自分の勘を信じるな。これは私の友人の口癖の一つだ。彼はよく道に迷う私に、何度もそう言い聞かせてきた。私はよく道に迷う。新しい建物がひとつ、見慣れないオブジェがひとつ出来ただけで、それが例え近所でも、私にとっては未知の場所となる。メグや友人は迷った私を見つけるたびに、不便な脳だと笑っていた。
今回、私は迷ってこの場所に来たわけではない。この森そのものが私の目的地なのだから、ある意味で私は一応目的地に到達していることになっている。しかし私は歩くことを止められない。もっと奥に行く必要がある。だけれども、そんな決意の割に私の歩みは遅い。
ここはとても不快な温度と湿度で、見通しも悪く、枝で足を取られてぬかった土で足を滑らせることもある。でも、そんなものは言い訳でしかない。いくらなんでも一時間歩いて、未だスタート地点の森の入り口が見えているのはおかしいだろう。
ここから、まだ私の乗ってきたトゥデイが見える。泥が跳ねて汚れてはいるが、黄色のトゥデイはよく目立つ。そう言えばメグがトゥデイを欲しがっていた。軽自動車のトゥデイ。丸みを帯びた愛嬌のある車体に、ペールイエローのカラーリング。トゥデイのCMをメグと一緒に見ていたが、きっと欲しいと言いだすに違いないとすぐに思った。
ここまで乗ってきたトゥデイはレンタカーだ。軽自動車なので格安で借りられた。格安というのがトゥデイを借りた理由だと思っていたが、こう思い返して見るとどうにもメグの影響の方が大きい気がした。
私の歩みは遅い。多分小学生がこの森を歩いても、私よりいくらかは早いだろう。私がメグとトゥデイに想いを馳せている間だって、私は立ち止まってしまっている。新幹線を乗り継いで、こんな遠くまで来てしまった。今更進むのをためらった所で、メグも彼も、もう見つけてはくれないだろう。私はいい加減に歩くことにした。
途中で古いゲームのカセットやガスコンロと、何故ここにあるのか興味を惹かれるものもあったが、手にも取らずに先を目指す。あまりにも急ぎ過ぎて、私は二回も転んでしまった。急いで行動するのは、あまり得意な方ではない。得意ではないというより、苦手といった方がいいだろう。
つい何年か前までは東京に住んでいたが、東京の急かされるような空気に慣れることが出来ずに、さっさと地元に帰って来てしまった。私は泥だらけで歩く。地元にいようが東京にいようが、この森にたどり着いてしまえば、結局は同じだ。
遠くの方で鐘が鳴った。深い森に似合うような、かえって場違いの様な、澄んだ鐘の音だった。本当に鐘が鳴っているのかは分からない。この森に来る道に鐘のある様な建物は無かったから、放送なのかもしれない。時刻は一二時を回っていた。
私は少し空腹と疲労を感じていたので、幹のしっかりした木に寄りかかって、ショルダーバッグを漁る。バックの中には、今朝食べきれなかったイチゴのジャムパンと、チョコレート菓子が入っていた。
旅に出る時は必ずチョコレートを鞄の中に入れておくのだと、友人が言っていたのを思い出して買ってみた。しかし買ってから気付いたのだが、彼の言う旅と、私の旅行はスケールが違いすぎる。
しかも彼がチョコレートを推す理由は、過酷な環境で生き残るためである。私がここに来た理由に、チョコレートはそぐわなさすぎた。それから私が買ったチョコレート菓子は、ビスケットに申し訳程度にチョコレートがかかったものである。生命維持には役にたたなそうだ。
映画などで雪山で板チョコをかじって生き延びるシーンがあったが、彼が勧めていたのも、多分板チョコの方だ。メグは、チョコレートならなんでも大好きだといっていたけど、私は板チョコが嫌いだ。パキパキと噛み砕くのはなんとなくスマートじゃないし、安っぽくべとべとしたチョコレートが口の中に残るのも好きになれなかった。
私はジャムパンを食べることにする。よく考えれば、私にはもう食べる必要なんてなかったが、せっかく買ったのだしと、袋からジャムパンを取り出した。甘い匂いがする。パンはぱさついてしまっていて飲み物もなかったが、虫が寄ってこない内に手早く食べてしまうことにする。でも私はどうやら食べることさえ早く出来ないらしく、すぐにむせてしまった。
呼吸を落ちつけて、残ったパンを飲み込み、少しだけビスケットを食べることにする。ビスケットにかかったチョコレートは少し融けかかっていて、私の指はべとついた。さくっと、ビスケットに歯を立てながら、私は辺りを見回してみる。
木々はいつの間にかまばらになり、私の立っている一帯が明るくなっていた。しかし森の終わりというわけでもない。大きな木が根元から倒れていて、その分だけ差し込む光が増えたのだろう。黄色い花も咲いている。
その花は家の近くでも見た事があるが、名前が分からなかった。メグなら分かるだろうか。私はその花に近づいた。黄色の薄い花弁が五枚ある、近所でよく見る花だった。日当たりがいいからか、ここ一帯に群生しているようだ。
私はその一本に手をかけ、折り取ろうとする。そして屈んだ所で、やはり止めておくことにする。この花を折り取ると臭みのある乳液が出てくると、メグが教えてくれたことがある。私は花の茎から手を離し、もう一枚ビスケットをかじる。かじりながら、私は浅く生えた草の上に腰を降ろした。ここにしようと決めた。だからもう、動く必要がない。
私は大きく深呼吸をする。土が近くなった分だけ、土の匂いと草の匂いが強くなった気がした。野の香りとでもいうのだろうか。湿度がひどく高く感じられるため、快適というわけではない。それでも居心地が悪いわけでもなかった。
慣れない旅のせいで、少し眠くなってくる。時々聞こえる虫の羽音さえ気にならなくなって来たので、私は木に寄りかかって目を閉じることにした。
しばらくしてここでは珍しいことに、私の頬を風が撫でた。風は生ぬるく、けして涼しさを感じることはない。しかし私の目を開けるのに、その風は十分な威力をもっていた。異臭がしたのだ。嗅いだ事のない匂い。
チーズ、野良犬の体臭、胃液。私の嗅いだ事のある匂いで思い当たるのはこの三つだったが、しかしそれともかけ離れている。腐臭。こんな森だ。大型の野生動物が一匹ぐらい死んでいてもおかしくはない。私は腐臭をごまかすためにもう一枚ビスケットをかじる。そうして私は鼻に抜けるチョコレートの濃厚な匂いを感じながら、優しい光に抱かれて眠る、匂いの元を見つけた。
振動が無くなったが、走行を止めたわけではない。体を捻ってスピードメーターを見る。目盛りは見えなかったが、窓の外の様子だと、高速道路に乗ったようだった。母が何事か言う。僕が二度聞き返すと、母はゆっくりと、おそらく同じ言葉を口にした。
「眠いなら寝てなさい。車の中で動き回ると酔うわ」
運転中の母が緩やかにハンドルを操作しながら、僕に向かってそう言った。ミラー越しに母と目が合う。母にとって今日は休暇ではあるが、普段と同じように化粧に隙はない。僕は母の言う通り大人しく寝ていようかとも思ったが、やはり外の景色でも見てみようと、姿勢を正して座った。
窓から見える近くのガードレールが、目で追えない早さで過ぎて行く。白いビームの向こうには、濃い緑の山が見える。遠近感がおかしくなりそうな、ひたすらの緑だ。夏真っ盛りの太陽を受け、その山は輝くようだった。車内はクーラーが利いているが、きっと外は酷い暑さに違いない。カーナビの示す気温は、三十二度前後をいったりきたりしている。
八月後半。夏休みも終わり、学校ももう始まる時期だ。僕の通う学校はクーラーがあるので比較的楽に授業が受けられるだろうが、公立の学校なんかは辛いと思う。とはいっても、僕はしばらく学校を離れることになるから、あまり関係ない。僕に関係あるのは、これから向かう場所の気温のみだ。僕は暑いのが大の苦手である。
「……これから行くところは、暑いの?」
「いやね。遠和よ。叔母さんの法事やったでしょう。広い居間に、二階が民宿になってて……」
寂びれた田舎町。きっと音楽の気配はどこにもないに違いない。いや、かえってそのほうがいいのかもしれないし、母もそう思って僕を遠和の親戚に預けることにしたのだろう。音楽のない生活に、僕はこの先耐えていけるだろうか。昨日の夜、荷造りをしながらそのことを繰り返し考えた。
荷造りといっても、引っ越すわけではないからそれほど荷物を持ってきているわけではない。だが荷造りなんてしたことがなかったので、準備に手間取ってしまった。やはり少し寝ておくことにした。向こうについたら、きっとやらなければいけないことが、たくさんあるのだから。
不調に気付いたのは、八月十日の部活中だった。僕はクーラーが程よく利いた教室で、バスーンを吹いていた。部屋の中には同じようにバスーンを抱えた吹奏楽部員が、何人もいる。皆一様に壁を向き、互いに背を向けてそれぞれが練習していた。
時々、パートリーダーをしている女の先輩が、甲高い声を上げ、手を打ち鳴らして個人練習を止めさせる。何人かは不機嫌そうに、それ以外の人は無表情に練習を止めた。リーダーの合図で、みんなで練習していた曲を合わせてみる。
木管楽器の中でも、バスーンは特に深く重い音色をしていて、メロディーラインを担当することはめったにない。それは目立たない僕にとてもよく似ている気がして、僕は僕なりにバスーンという楽器を愛していた。
僕とバスーンの出会いは僕が小学生の時で、初めて触れたバスーンは父が大学の吹奏楽部で使っていたものだった。父の実家に連れられた時、押し入れで見つけたそれは、黒い革の張られた長方形のケースの中にしまわれていた。
黒いケースには埃が厚く積もって白っぽくなっていたが、小学生の僕はそのケースにただならぬ宝物の気配を感じていた。僕はケースを押し入れから引きずり出し、父を大声で呼んだ。それから金具の部分が錆びて開かなくなったケースを開けてもらおうとした。大人しい子供だった僕が珍しく大声を上げたと言うので、父は何事かと肝を冷やしたという。
父は早く開けてと急かす僕をなだめながら丁寧にケースを拭いて、金具を外してくれる。そして現れたのが、バスーンだった。黒光りする四つの筒に、落ち着いた色合いでひんやりした銀のボタン。僕がその銀色の部分を押して遊んでいると、父が、それはピースと呼ぶのだと教えてくれた。
「これは武器なの? お父さんは戦士だったの?」
小学生の僕はそのバスーンを、組み立てて戦う武器だと思ったのだ。父は少し考えてから、神妙な顔で頷いて見せる。小学生の僕は、叫び出したくなるぐらいに興奮した。
「そうだよ、温、これは武器で、お父さんは戦士だった。これで人の心を揺さぶる攻撃が出来るし、癒しの魔法も使える」
「お父さんやって! やって見せて」
「いいよ。温には特別に見せてあげる。だけど武器は家の中じゃ使えないからね」
父はケースを持つと僕の手を引き、近所の河原まで連れてきた。時刻はよく覚えていない。家で祖母が甘辛い匂いをさせて、僕の好物の魚の煮つけをつくってくれていたのは覚えているから、夕飯時だったと思う。あと、少し空にかかった雲が、オレンジ色で綺麗だった。父は、絶好のバスーン日和だと呟いて、ケースを開き、組み立てを始めた。
「バスーン?」
「そうだよ、バスーン。ファゴットってみんな呼ぶけど、父さんはバスーンって呼ぶ。バズーカみたいで、格好いいだろう?」
父は、筒の連結部にグリースを塗り、バスーンを組み立てる。キュキュッと音を立てて、四本の筒が一本の武器になる。父はピースの動き具合を見たり、少しだけ吹いて音の確認をしていたが、やがてそれを止め、ニコッと笑ってから曲を吹き始めた。
その当時の僕には父が何の曲を吹いたのか分からなかったが、河原の空気が一変し、道行く人が足を止めるのは分かった。低く地味なバスーンの音色。だが父の演奏は道行く人の心を揺さぶり、魔法をかけていく。
僕は家に帰るなり、父にバスーンをねだった。父は渋って僕は泣き喚いたが、翌年の僕の誕生日には、無事に僕はバスーンを手に入れた。父が渋ったのは、父のバスーンが当時の僕には大きすぎて、僕には演奏出来なさそうだったからだ。その時僕の身長はクラスでも小さい方だったが、バスーンを手に入れた九歳の誕生日には、成長期という理由もあって、クラスでも背の高い方に入っていた。
僕は大喜びで父に習いながらバスーンの練習をした。そして小学校四年生に進級して学校の吹奏楽部に入れるようになったが、入部した時点で僕のバスーンの腕前は、六年生にも引けを取らない程だった。
僕が中学に上がる頃に、父は突然ドイツに行った。父は楽器の輸入メーカーに勤めているが、ドイツは大手の木管楽器メーカーがたくさんあるという。僕のバスーンの故郷もドイツらしい。
それから父は年に何回か、写真とドイツの食べ物を送ってきてくれるようになり、食べ物が届くと、母がそれを使っておいしい料理をつくってくれた。母は中学校の音楽教師をしている。平日は僕より早く家を出て、僕より遅く帰ってくる。そして休日は僕と一緒に家を出て、それぞれ別の学校の吹奏楽部で活動するのだ。僕はカギっ子だったが、バスーンがいたので淋しくはなかった。バスーンは僕の一部で、僕の相棒になっていた。
中学二年生に進級すると、吹奏楽の大会のソロ部門に出られるようになった。大会に出るともっと上手になりたいと思うようになり、猛練習を重ねていくつかの大会でそこそこの賞が取れるようになったころ、僕は十五歳になり、当然のように音楽科のある高校に進学した。
その高校は中高一貫の学校で、中学から持ち上がりの音楽科の生徒は、僕よりもずっと演奏が上手だった。バスーンの奏者もよく大会で上位を取るメンバーばかりで、これまで近くに明確なライバルがいなかった僕は、火が点いたような練習の日々を送ることになった。
そして高校二年生の夏休み。秋の吹奏楽全国大会に向けての練習が始まった。夏休みの終わりには、大会に出場するメンバーを決める選考会がある。この学校の音楽科の器楽部門のほとんどが吹奏楽部に入っているため、レベルも高く、部員全員が大会に出られないのだ。全国大会は音大に進学するための登竜門である。だから部員の緊張感は並のものではない。
「音楽で食べていきたいと思っているやつらばかりだ。中学の頃から、ずっとこんなもんだよ」
昨年、入学したての僕が緊張感に打ちのめされている時、同じバスーン奏者の折原が、軽い調子でそう言った。折原は中学からの持ち上がりの生徒で、バスーン奏者の中でもトップを争う腕前だった。折原なら選考会も余裕で通過するだろうと、誰もが言っているぐらいだ。
「ストップ、ストップ! 雨宮! また走ってるよ。テンポ早い」
パートリーダーが手を打ち鳴らして演奏を止めさせる。呼ばれていたのは僕なのに、僕はしばらくそのことに気付けなかった。ここの所、よくそういうことがある。暑いせいだと僕はずっと自分に言い聞かせていたが、最近、ライバルである折原にまで心配されるようになっていた。だけど折原は気のいいヤツなので僕がライバルであることなんて、全く気にしていないに違いない。
気を取り直して、もう一度合わせてみることにする。息を整えてリーダーの目配せを見る。リーダーの細くて尖り気味のあごがわずかに上下し、僕は深々と息を吸い込んだ。今日は初めて部活全体での練習がある日だ。このまま感覚を合わせられないままだと、僕は絶対選考から漏れてしまうだろう。
「雨宮君。今度は遅い。周りの音に合わせるって、基本よ」
リーダーがイライラした声で言う。みんなも何となく迷惑そうな顔で俯いていた。僕はショックでバスーンを取り落としてしまいそうになった。僕は決して折原のように優秀な奏者ではないが、それにしたってこれほど立て続けに、しかも初歩の初歩みたいなことで注意されるのは初めてだ。いや、本当にそうだったろうか。思い返すとここ二、三カ月ぐらい、どうも授業の演奏指導でも首を傾げられることが多くなっている気がする。
「おい、雨宮、全体練習だって。行くぞ」
折原が声をかけてくる。教室の中ではもう皆が練習のある音楽室に移動するために、片付けを始めているところだった。僕もその波に加わる。長い廊下に出ると、あちこちの教室からそれぞれのパートの人達が出てくるところだった。フルート組は緊張気味。パーカッション組は何事か揉めていた。僕は窓の外を眺めてみる。
今日はとても天気が良くて、暑い日だった。空をじっと見ていると目がクラクラするぐらい青くて、雲はとても薄く、水色に透けている。校庭の野球部のアンダーシャツが、空と同じ色だった。この学校の野球部は弱い。最近あった甲子園の予選も、一回戦で早々の敗退だった。それなのにこの暑い中、彼らは部活に励んでいる。負け続けているというのに、彼らは嫌にならないのだろうか。眺めていると校庭で集合らしきホイッスルが鳴ったので、なんとなく僕まで急かされた心持ちになる。僕はさっさと音楽室に向かうことにした。
音楽室は人が多くて暑かったので、先生が少し窓を開けてくれる。風が強いらしく、少し開いただけなのに譜面がひらひらはためいた。何人かの譜面が、譜面台から軽く吹き飛ばされてしまっていた。音楽室の中では、風の音と譜面をめくる音、それから誰かの息遣いだけが聞こえていた。僕は緊張しているらしく手がじっとり汗ばんでいて、右耳ばかりがやけに敏感にそんな音を拾っていた。
皆パートごとに固まって座っているが、話すことはない。緊張で張り詰めた音楽室を先生が横切って、もう一つ窓を開ける。風の通り道が出来て、僕の首筋からじっとりした汗が、すっと引いて行くのを感じた。窓の外の雲は早いスピードで流れ、薄い雲がさっと散っていく。煙のような雲だった。
先生がカンカンとタクトで譜面台を叩き、皆はそれぞれの作業を止めた。
「まずは一回通して、様子を見ます。準備は? いいですね」
僕はリードに口を当てる。このところ練習のしすぎで唇が腫れて痛い。ひりひりした痛みと、ピリッとした痛みが交互に来る。タクトがふいっと跳ねて、クラリネットによる短い前奏が始まる。すぐにバスーンも加わるので、僕はさらに気を引き締めた。
「うん、よろしい。上々。だが少し引っかかるね。ちょっと、うん。フルート、ファゴット。それにコントラバスのところだ」
先生がネクタイを緩めながら、タクトでそれぞれのパートを指す。僕はどきりとした。僕を含め指されたパートは、皆難しそうな顔をしながら指定された部分を演奏した。
「ああ、ダメダメ。ファゴット。雨宮、遅れてるぞ。そう難しい運指ではないだろう」
「えっと、コントラバスに合わせているつもりなんですけど……」
その後何度やっても僕はコントラバスに合わせることが出来なかった。昼食の休憩の最中、それを見かねた折原と先生が僕の所にやってくる。
「雨宮、どうしたんだ。ここのところ疲れてるのか?」
「先生、僕は疲れたって手なんか抜きません」
先生の本当に心配している顔を前にして、僕はどうしようもなく情けなくなってしまった。折原がフォローに入る。
「わかっているよ雨宮。だからパートリーダーも俺も心配なんだ」
先生はコントラバスの人を呼び、楽器を構えさせた。コントラバスのリズムを覚えてしまえということらしい。
「よく聞いておけよ。感覚さえ掴めば、こっちのもんなんだから」
折原が元気づける調子で、僕にコントラバスを聞くように促した。確かに他の音を当てにするという手もあるだろう。僕がコントラバスの真正面に座ると、奏者はゆっくりしたメロディーを弾き始める。まどろむようにどんどん低くゆっくりになって、メロディラインの底に潜り込んでいく旋律だ。そして眠るように音が低く微かになり、問題のバスーンが入る箇所になる。
「……え?」
僕は息を詰めて耳を澄まし、コントラバスの音に集中する。微かではかなく、しかし重厚な音のはずだった。まだ演奏は終わっていない。奏者はつやつやしたコントラバスを体全体で抱きしめるように演奏している。僕は耳を澄ます。強い風の音や木々の揺れる大きな音がする。室内では何を言っているかはよく聞き取れないが、話し声がする。
そういえば最近僕は聞きそびれや聞き間違いが多い気がする。僕はドキドキした。そして息苦しいような、とても嫌な悪寒のようなものが背筋を這いまわる感覚を覚えた。先生と折原がこちらを見ている。コントラバスの演奏は終わっていた。
「何年かここで教師をしていると、お前のようなやつを見ることがある」
先生が何とも言えない顔をして、そう口を開く。緩いカーブに差し掛かったので、先生も緩くハンドルを切った。車の中、パートリーダーと折原が僕の両側に座っていて、少し狭いぐらいだったが、クーラーが効いていたので暑くはなかった。
夕日がビルの窓に反射して、オレンジ色の光線が道路一帯を照らしている。先生が日よけを開いて、車の中は暗くなる。僕は目を閉じた。泣きたい気持ちだったが涙は出なかった。折原が口を開く。それから二、三度呼吸を整えてから、言った。
「俺が中等部の時、水島さんという人がいて、雨宮と同じ病気になったんだ」
「水島……今学校にいないってことは、その人、やめたってことなのか?」
聞き覚えのない名前に僕がそう聞いてみたが、折原もリーダーも答えなかった。折原は窓の外を見て、リーダーは俯いて自分のおさげの先をいじっていた。先生は、死ぬような病気ではないし水島も生きているという話をした。
音楽室でのコントラバスの演奏後、先生はすぐに僕を大学病院に連れて行った。折原とパートリーダーは午後の練習を休んで、僕と先生について来た。その後の練習は副顧問と部長辺りが進めているだろう。大学病院の耳鼻咽喉科に連れてこられた僕は、一時間と少し待合室で待った。折原はその間、いつものように他愛のない話をしてくれ、リーダーはそれに相槌を打ったり、別の話題に繋げてくれたりした。
その後呼び出されいくつかの問診を受けると、僕は診療室とは別の部屋にある、電話ボックス大の箱の中に入れられた。箱の中は灰色でふかふかしていて、椅子が一つあった。窓も一つあったが、検査技師の人がボックスの扉を閉めてしまうと、外の一切の音は遮断された。
技師の人はしばらく外で操作パネルらしきものをいじっていたが、ボックスの中のスピーカーから、技師の指示が聞こえた。ボックスの中の手のひら大のイヤホンに右耳を当てるように言われた。
「音が聞こえましたら、手元のボタンを押して下さい」
たまに学校でやる聴力検査と同じことらしい。イヤホンに耳を当てると、水の中に入ったような、詰まったごぼごぼという音が聞こえ始めて、僕の検査が始まって、そしてあっと言う間に終わった。
「突発性の、難聴だそうです」
医者から診断シートをもらい、会計を済ませ、車に乗り込んでから、僕はやっと口を開いた。誰も何も言わずに車は発進し、車は街を抜けて学校を目指していた。学校に母が迎えに来ているらしい。先生は途中コンビニに寄って、僕達三人にアイスを買ってくれた。
アイスには氷の粒が入っていて、シャリシャリした口当たりが、後味をさっぱりさせていた。夕日に当たったバニラアイスは薄オレンジになる。折原はそれを、美味しそうなはちみつ色だと言って微笑もうとして、失敗した。笑い損ねた折原の顔は、右半分がくしゃりと歪んでいた。パートリーダーはそれを見て何も言わずに俯いた。
僕は運転席でコーヒーを飲んでいる先生を見た。先生の豊かな白髪頭もはちみつまみれだ。先生はミラー越しに僕と目を合わせてくれた。先生の目は少しうるんでいる気がした。だから僕はせめて笑っていようと思ったけれど、やはり折原と同じように笑い損なってしまった。
学校につくと、母は既に到着していて、先生はすぐに母に説明を始めた。僕は折原とパートリーダーにさよならを言って、母の車に乗り込んだ。外を眺めていると、校庭ではまだ野球部が練習を続けていた。模擬試合をしているらしく、時々ボールが空に高く舞い上がっていた。夕日が強いのに捕手は眩しくないのだろうかと考えていると、何回かに一度は取り落としていた。彼らの練習は永遠に終わりのないように見えた。
先生との話が終わったらしく、母が戻ってくる。母は車のドアを開くなりキーを差し込み、乗りこむと同時にアクセルを踏んだ。母は無言でしばらく車を走らせていた。早くも遅くもないスピードだったが、ブレーキの踏み方が急で、車がガクリといった感じで止まった。
母は困ったように眉を寄せ、近くのスーパーの駐車場に車を止める。そして僕は母に促されるままに車を降り、スーパーに入りカートを押した。スーパーの中は寒いぐらいにクーラーが利いていた。
「夜ごはん何がいいかしら。ほら、お父さんからヴルスト来たじゃない。あれに合いそうなもの」
ドイツのソーセージ、ヴルスト。皮がパリッとしていたりシナシナしていたりする時があるが、よく燻製された肉の香りは豊かで、僕も母も大好きだった。バスーンの聖地の味だ。
「ポトフがいい」
「いいわね、ポトフ。ちょっと暑いけど」
そういうと母はいくつかの玉ねぎの入ったネットを二つ手に取ると、ごろんとカートのかごの中にそれを入れた。
「そんなに買って食べきれないんじゃない?」
「さらし玉ねぎにでもするわよ。温、好きでしょう玉ねぎ。しばらく玉ねぎいっぱい出してあげる」
その後、荷物持ちがいるからと母はスーパーを歩きまわりながら、あれもこれもとかごに入れた。そうしてそろそろかごがいっぱいになるかという頃、母は言った。
「いつかは治るかも。先生は言ってたわ。三人に一人は治るって」
「母さん、治らない二人が、僕かもしれないんだ」
スーパーを流れる音楽はよく聞こえなかった。だが震える母の声も何かにかき消されそうになっている。僕は今、何の音を聞いているのだろうか。よく分からなかったが、きっと雑踏のような音に違いない。
僕と母は家に帰り、僕はテレビを見て、母は鍋をかきまわした。意識して聞くとテレビはいびつな聞こえ方をしたが、聞こえないわけではない。僕は左耳が特に聞こえなくなったらしい。一度感じてしまった違和感は、気付いてしまえばもう拭えなかった。もっと聞こえなくなってしまうことはあるのだろうか。
しばらく学校に行けそうにないことも、選考会に漏れたことも分かっていたが、未来への見通しが利かないことが、何より不安で仕方なかった。
休学届けを出し、僕はしばらく部屋に引きこもった。バスーンを吹き、しかし自分の知っているバスーンの音ではなく、バスーンはもう自分の相棒ではないことを知った。僕はバスーンをしまい、窓の外を見る。ポスターカラーよりも鮮やかな青い空だった。
その下をとてもよく知っている制服の男子や女子が数人、僕も持っているケースを抱えて、歩いている。レッスン帰りか、あるいはこれからレッスンなのかもしれない。声はかけられなかった。
僕は持っている、ありったけのCDを聞いた。CDは僕のために何度も歌ってくれたが、僕は乾くばかりだった。
そんな一日を何度も繰り返していると、見かねた母が、僕に遠和に行くことを勧めてきた。ここは音楽に溢れていて、しかし音楽を失った僕は、ここにもう居場所はなかった。
起きてと肩を揺り起されて、僕は目覚めた。揺り起こされるまで気付かなかったということは、僕は相当な時間眠りこんでいたに違いない。横にしていた体を起こすと、頭が鈍く痛んだ。目の奥とこめかみとが、疼くように痛む。厄介な頭痛だった。僕は動き出したくなかった。ずっとこの体を起しかけた、半端な姿勢で留まっていたかった。
さっさと車を降りて歩き出した母は、道の途中で僕を呼ぶ。頭も痛いし車の中だったのでよく聞こえなかったが、きっと僕が呼ばれたのだろう。ここはとても静かな場所だった。どこかで小さく鳥だけが鳴いている。鳥だけが生きているみたいな場所だ。空は青い。今は何時だろうと、ふと思った。もしかしたら眠っていた時間は、そう多くはなかったのかもしれない。
僕は車から降りてドアを閉める。バンと言う音と、僕の手のひらに硬く滑らかで生温かい手触りを残して、この場所に車という存在が加わった。
そしてこの場所には静寂が戻ってくる。聞こえやしない耳の奥から鼓動の音さえ聞こえてしまいそうな、静かさだった。
母のいる場所に向かって踏み出す。最近ろくに外出もしていない体はひどく重く、僕は愚鈍な生き物だった。その僕に、夏らしい爽やかな風が吹いてくる。陽に透けた浅緑の木の葉が頭上で揺れて、サラサラと乾いた音を立てる。地面に映った葉の影も同じようにサラサラ揺れた。大して強い風でもなかったが、葉が一枚だけヒラリと僕の前を横切る。見慣れない、やけに大きな葉だった。
「温」
風が止むと、母の呼ぶ声が聞こえた。風が止んだ場所で、呼び声はやけにクリアで硬質だった。僕は歩き出す。歩みはひたすら遅く、足は僕の意思というよりは母の意思で動いていた。だが僕のスニーカーの下で、踏まれた小枝がパキンと音を立てた。僕は動いている。
車はどこかの家の門の前に止められていて、僕は今、どこかの門をくぐったらしかった。門は立派な木の門で、見えてきた家も大きな二階建ての家だった。屋根は瓦が敷いてあって、夏の太陽を受けて黒光りしていた。
「しばらくこの家でお世話になるからね」
母はそう言ってインターホンを押す。僕は教科書にのるような日本家屋に、インターホンの音は似合わないなと思った。僕は母に背を向けて、今通ってきた庭を眺めた。夏の盛りだが色味の強い花はなく、葉もごく柔らかい色で統一されていた。よく手入れの行き届いた庭で、風が吹く度に植えられた木々や草花が微かに揺れる、静かな場所だった。
「まだ外にいたの? ほら、入りなさい」
母はいつの間にか家の中に入ってしまったらしく、中から僕に声をかけてきた。僕は玄関に入って靴を脱ぎ、家に上がった。家の中は昼間だというのに薄暗かった。陽の当たらないせいなのか、ヒンヤリした空気と、不思議な緊張感に満ちている。そしてどこからか、スイと花の香りがした。庭の花とは違う、硬質で透き通った、硝子のような香りだった。
一足踏み出すごとに黒みがかった焦げ茶の床が、きしきしと音を立てる。立ち止まってしまうと同時に、廊下の奥の部屋で、また母が名前を呼んだ。
居間らしき部屋にたどり着くと、一気に辺りは明るくなる。居間はとても広い。学校の教室ぐらいは優にあった。以前ここで叔母の通夜が行われたのをぼんやり覚えている。その時には大きなテーブルが出されていたが、今は六人掛けぐらいの小さな木のテーブルが畳に置かれている。その向こうには大きな窓があり、やはり庭が見えた。
窓が開いていて風の通り道が出来ている。母はテーブルについて冷えたお茶を飲んでいる。そのはす向かいに、ここの家主らしい男の人が座っていた。僕は礼をして母の横に座る。
「長旅御苦労さま。まずは一息どうぞ」
男の人が氷の入った硝子のグラスに、急須でお茶を注いでくれた。急須を操る指は白くて細長かった。指の通りに男の人も痩身で背が高く、そして僕の想像よりずっと若かった。白地のプリントシャツにカーゴパンツのシンプルだがおしゃれなファッションは、どこかの服屋のスタッフでもおかしくない。
僕はなんとなく通ってきた庭や家の様子から、年配の人かと思っていた。この家で葬儀をしたのだから、僕はこの人にあったことがあるはずだ。だが僕は全くこの人に見覚えがない。こんな若い人は居なかった気がする。
「初めまして温君。俺がここの主人の整。よろしく」
整さんはすでに僕の話を母から聞いているらしい。僕は言うこともなくなってしまったので、よろしくお願いしますとお辞儀をした。
「お金はいいからね、美佐子さん。親戚の子が遊びに来るもんだし」
「そういうわけにはいかないわよ。民宿でしょう」
母はそう言って鞄から封筒を取り出す。だが整さんは苦笑いして拒んだ。本当に受け取る気はないらしい。
「いいんだ。今は民宿なんてあってないようなものだし。もともとアルバイトを頼むつもりでいたんだ。そこの新聞社が人手不足でね」
母はその言葉にしぶしぶといった感じに封筒をしまう。どうやら僕はしばらくこの町でアルバイトをするらしい。母は僕に車の鍵を渡し、荷物を取ってくるように促した。
僕はもう一度靴を履き、庭を横切って車のトランクを開く。荷物といってもかさ張るのは服ぐらいだ。あとは細々したものが入ったバッグと、バスーンだけ。荷物は整さんが指定した、二階に続く階段の下に置く。居間に再び戻ると、母はあっさり立ち上がった。
「なんだもう行くの? ご飯ぐらい食べていけばいいのに」
「明日も学校はあるもの。温をよろしくお願いね」
整さんが了解と頷くと、母は僕に向き合った。母はあっさりした言葉とは裏腹に、心配そうな顔をして僕を見る。
「じゃあ、しっかりやるのよ。いつでも連絡ちょうだい」
「母さんも。帰り、事故にあったりしないでね。僕は大丈夫だから」
母は頷いて、少しだけじっと僕の顔を見てから、しかしあっさり家を出て車で去って行った。あとには僕と整さんだけが残された。
「ずいぶんあっさりしてるね。いいのかい」
僕は頷く。少しの間だけだし、さっぱりしているのが僕の母だ。整さんはそれから僕の荷物を眺めていたが、すぐに二階に案内してくれた。僕は荷物を持って階段を昇る。階段は家に比べて段が狭く急で、僕は足を踏み外さないように、慎重に整さんに続いた。
二階に上がると一階と同様に、まっすぐ廊下が続いていた。部屋は民宿らしく四部屋もあるが、僕が泊まる予定の部屋以外は既に埋まっていた。一つは整さんの自室だという。
「客じゃないが、俺以外に二人いるんだ。庭師と冒険家が」
整さんはそう言って僕の部屋のふすまを開ける。部屋は八畳の畳みの部屋で、広すぎるぐらい広い部屋だった。それにしても庭師と冒険家だなんてファンタジーのようだ。どんな人なのだろう。整さんは、荷物の整理が終わったら居間に戻ってくるように言い、一階に戻って行った。
荷物の整理といっても、そんな大荷物というわけではない。僕は荷物を置いて、部屋の様子を見てみることにした。部屋には窓と机が一つあるだけで、あとはひたすら畳だった。
窓の向こうには、一本の大きな通りがあり、この町の商店街らしきものが見える。その坂の先には漁港らしきものが広がっている。空よりずっと暗い青の海だ。部屋の押し入れには布団がひと揃い入っていた。夜はこれを敷いて寝るということだろう。
一通り観察し居間に戻ると、整さんは今度はコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいた。整さんは僕に気が付くと新聞を畳み、僕に机に着くように言った。整さんが話す度に、コーヒーの香りが、ふわりとこちらに漂ってくる。人の吐息ではあるが不思議と不快ではなかった。
「早速だけど、明日から近所の新聞配達を手伝ってもらうよ」
整さんはいいかな、と僕に聞いてくるが、先程の母との会話から僕が手伝うことは決定事項のようだった。整さんは新聞配達の場所に連れていくから、明日から四時半には起きておくことと言った。お世話になってすぐに寝坊するのは情けない気がしたので、持ってきた目覚ましと携帯のアラームをかけておくことにする。
「君、一人っ子だっけ。俺には兄さんが一人いる」
整さんとは、しばらく取り留めのない話をした。整さんは甘党でケーキが特に好きらしいが、この町にはケーキ屋がなくて残念だという。僕は甘いものは好きでも嫌いでもないが、父は甘いものが好きで、ドイツのお菓子は美味しいと手紙に書いていた。
整さんはひとしきりどんなお菓子が好きかを話した後、おもむろに立ち上がり玄関に向かった。手にはパソコンケースを持っている。
「悪いけどちょっと用事で出てくる。たぶんそろそろ愛が帰ってくると思うから、心配しなくていいよ。初野に行ってくる」
本当に唐突といった感じだったが、時刻はきっちり四時丁度だった。おそらく約束でもしていたのかもしれない。僕に構わなくてもよかったのに。僕はやることがなくなってしまったので、花壇を眺めることにした。
花は割と好きだが、名前が分かる程ではない。それでも興味を惹かれたのは、この庭の花壇にはたくさんの花が色の調和良く咲いているからだ。薔薇やパンジーなどの派手でポピュラーな花はない。この日本家屋によく映える花ばかりだ。白や朱色、ほのかな黄や桃色といった、着物の色合いにも似ている色だ。
そうしていると玄関から物音がした。廊下で反響してうまく聞こえなかったが、整さんか、冒険家か庭師が戻って来たのだろうか。僕はまずは挨拶をしようと廊下に向かう。すると玄関から女の人が家に上がってくるところだった。
「えっと、居候の温君よね、初めまして」
女の人はすぐに僕に気が付き、照れたように微笑んで軽いお辞儀をした。女の人はどこかで買い物をして来たらしく、バッグから野菜や牛乳パックを覗かせていた。女の人は少し重そうにそのバッグを両手で抱え、台所に入って行く。
「あっ、ごめんなさいね。ここまで戻ってくるのに結構時間がかかって。早く冷蔵庫に入れないといけないのよ」
女の人は鼻歌を歌いながら、手早く冷蔵庫に食材を入れる。鼻歌は僕も知っている流行りのドラマの主題歌だった。女の人はまず、ひどく整った顔とプロポーションをしていた。目鼻立ちははっきりしていて、背は高くすらりとしている。ここが遠和ではなくどこかもっと都会だったら、この人は女優やモデルとして活躍していたのかもしれない。
ただ、女の人の皮膚は、色んな箇所がただれていた。一番ひどいのは、シャツから覗く腕から手の甲、そして首から右頬の下にかけての皮膚だった。足はジーンズで分からないが、やはりただれているのかもしれない。
僕の無遠慮な視線を感じ取ったのか、しかし女の人は先程のように照れくさそうに微笑むだけだった。僕は申し訳ないのと恥ずかしいので、台所から出て居間で待っていることにする。居間で時間を潰していると、女の人が冷たい紅茶を持ってやって来た。
「肌のこと、気にしないでね。体質なの」
まさか先手を打たれるとは思わなかったので、僕は何も言えずに首を曖昧に振ることしか出来なかった。
「初めまして。清水愛って言います。私もここに居候してるの」
どうやら客ではないらしい。では客は一人しかいないのだろうか。
「あと一人いらっしゃるんですよね。僕は冒険家と庭師がいるって聞きました」
愛さんはさして驚きもせず、ああと頷く。こう紹介されるのは慣れているのかもしれない。愛さんは自分を庭師だと説明した。あの庭は愛さんが整えているという。そして冒険家は健吾さんという男の人で、そろそろ帰ってくるという。
「私はともかく、健吾さんは本物の冒険家なのよ」
詳しくは健吾さんに聞くといいわ。愛さんはそう言って、縁側からサンダルを履いて庭に出る。よかったら温君もどうぞと言われ、意味が分からないが、玄関から靴を持って来て、愛さんについて庭に出ることにした。
愛さんは庭に出ると、屈んで僕を手招きした。僕はよく分からなかったが愛さんの隣で同じように屈んでみる。愛さんは地面から生えている草の一枚をちぎると、はいと僕に渡してきた。しっかりした茎から、何枚もの葉が枝分かれしている、木のようなシルエットの草だった。ザラザラした葉脈を持ち、縁はギザギザしている。
「夕飯は大葉のスパゲッティーにしようかなって」
思えば大葉の実物を見るのは初めてだった。そっと匂いを嗅ぐと、青々とした爽やかな、そして不思議と少し甘いような香りがした。愛さんはプチプチと何枚も葉を取って僕に手渡してきた。一通り取り終わったのか、愛さんは大葉を摘む手を止め、立ち上がった。
「どうかしら、この庭」
「静かで、花が綺麗で、僕は好きです」
こんな簡単な答えでよかったのだろうかと不安になりながら、僕は愛さんの質問に答える。
「よかった。温君は花は好き?」
どちらかというと好きといった程度だったが、僕は頷く。いや、気を配って見入ることもあったから、僕は案外花が好きなのかもしれない。
「もうすぐ木槿の花が咲くの。整が楽しみにしてて」
愛さんは庭にあるたくさんの花の中から、すっと空に立ち上がる細い木を指した。
「整さんも花が好きなんですか?」
「分からないわ。花だって私が、勝手に育てているだけだもの。どうして木槿が楽しみなのかも」
あの木には、どういう花が咲くのだろう。それも気になったが、その隣の赤い花も気になった。赤いというより上品な朱色で、とても細い茎なのにぴんと立って、いくつも咲いているこぶし大の花を支えている。薄く縮れた花弁をいくつも織り重ねた花だ。
「これは立葵の花よ。綺麗でしょう。私も好きなの」
僕の視線をたどって、愛さんがそう説明してくれた。愛さんの手がそっと立葵の花に触れる。白くて細い指が、そっと慈しむ様子で花の輪郭をなぞる。かげって来た日の光は薄いオレンジ色になり、庭に落ちる影は濃い灰色になった。強い光に愛さんの指先は溶けそうだ。ハチミツ色だ。そうふと思って、僕は緩く首を振る。思い出したら泣いてしまいそうなぐらいには、まだ傷口は新鮮だった。
愛さんが夕飯の準備をしに台所に戻っていく。僕はしばらくその場で花を眺めてから戻る。居候なのだから、夕飯の手伝いぐらいはするべきだろう。僕はそう思い愛さんの後ろ姿に声をかけようとした。すると玄関から誰かが呼んでいる声がする。整さんとは違う、野太い男の人だった。僕は直感的に、この人が冒険家の人だと分かった。
玄関に出ると大きくて筋肉質の男の人が、大きな荷物を降ろすところだった。黒いカールした長めの髪と、少し伸びた顎鬚が特徴で、紺のポロシャツから伸びた腕はたくましい上腕二等筋が盛り上がっていた。
「ちょっと手伝ってくれよ。車が側溝にはまってさ」
冒険家らしき男の人は僕が誰かについて追及するより、車の心配を優先していた。僕なんかで役に立てるだろうかと思いつつ、僕は縁側から靴を履いて門から外に出た。車は家の前の坂道を下った商店街の手前ではまっていた。ごつい男には似合わない、黄色くてコロンとしたフォルムの軽自動車だった。商店街の男の人が何人か車を押している。男は一緒に押してくれと言って車に乗り込んでアクセルを踏んだ。
僕は空いている場所を探して、商店街の人達と一緒に車を押した。車は時折ほんの少し持ち上がりそうな気配を見せるが、あと少しというところでがくりと側溝に戻ってしまう。それを何回か繰り返して一息ついていた所に、隣で車を押していたおじさんが声をかけて来る。
「お前、そういえば見ない顔だな」
「ええと、今日から居候させてもらってます、坂の上の家に」
「あーあ! 整坊の所か」
おじさんは納得したらしく、再び車を押しにかかる。そこに坂の下、海の方向から整さん本人がやって来た。運転席の窓から冒険家の男の人が顔を出す。
「また落ちたの? 健吾はもう車乗らなければいいよ」
整さんは冒険家にそう声をかけると、僕の隣に来て、車を押した。冒険家がアクセルを踏み込む。タイヤが空回り地面に擦れる音がした。もう一度冒険家が声をかける。今度は僕も万力を込めて車を押した。
「けっぱれ! もうひと踏ん張り!」
車が少し持ち上がる。タイヤは大きな音を立て、側溝から脱出する。僕はいつの間にか汗ばんでいた。手を貸していた一団が歓声をあげる。見守っていた人達も安心したようにそれぞれの場所に散って行った。潮の匂いがする風が、僕の額を柔らかく撫でる。冒険家は注意深く車で坂を上がって行った。
「今のが冒険家だよ。車の運転が下手でね」
僕の予想は当たっていたらしい。整さんは行きに持っていたパソコンケースを持ち直して、坂をゆっくり上がった。
「少し早めに用事が済んだから、海に散歩に行ったんだ。そしたら愛からコロッケ買ってきてって電話が来て」
来てみたら、こんな騒ぎになっていたと笑って、整さんは通りの精肉店に入った。精肉店ではつやつやとした肉がディスプレイの向こうに並んでいる。夕飯時らしく、主婦が何人か品定めしていた。
「温君はたくさん食べる?」
「そうでもないと思います。普通ぐらいだと」
整さんの質問に答えると、整さんは、食べ盛りなんだからたくさん食べなきゃと言って、いくつかコロッケを注文した。精肉店のおじさんが、その場で揚げていたコロッケを袋に入れていく。からりときつね色に揚がった、美味しそうなコロッケだった。
「おい整、とうとう愛ちゃんとの子が出来たのか?」
「違うよ。親戚の子。しばらく居るからよろしく頼むよ」
整さんはおじさんの軽口を軽く流して、コロッケを受け取る。揚げたてのコロッケは紙袋に入っていても熱かったらしく、慌てたように掴みなおした。四人分にしてはずいぶんな量だった。
「早いとこ帰ろうか。コロッケは揚げたてがいいよ」
整さんはそう言って、だけど先程とさほど変わらない歩調で坂を上り始める。僕はふと愛さんと整さんの関係が気になりだしたが、聞くわけにもいかずに整さんの後をついて行った。
「さっきはありがとうな。温」
冒険家は大きいコロッケを二口で食べると、白い歯を光らせて笑った。冒険家は健吾さんと言って、未開の土地や山などに入って、観光者向けに地図を書くという、本当に冒険家らしい仕事をしているらしかった。
「温にもあとで聞かせてやるからな、俺の武勇伝。整の親戚なら、俺の弟みたいなもんだろう」
「どういう理屈だよ」
整さんのつっ込みなんて気にせずに、健吾さんは豪快に笑ってコロッケをもう一つ食べた。健吾さんはよく食べる人で、整さんが買った山の様なコロッケを、どんどん平らげていった。スパゲッティーにコロッケなんて変わった組み合わせだと思ったが、愛さん手製の大葉のスパゲッティーは爽やかな後味で、こってりしてコクのあるコロッケとの相性は抜群だった。
ご飯が終わると、僕は愛さんと並んで食器を洗った。愛さんは慣れた手つきで手早く食器を擦る。泡まみれの食器を受け取って、僕が洗う。指を滑らせるとキュキュッといい音がした。
明日は早いので僕は早めに二階に上がった。布団を敷くのは修学旅行の旅館以来だったが、なんとか敷くことが出来た。
僕は布団に寝転がりながら携帯を開いた。着信とメールが二回ずつ。全て折原からのものだった。自分の近況を伝え、こちらの近況を窺う内容のメール。着信は留守番電話に切り替わる前に切られていた。僕は習慣で返信ボタンを押した。しかし真っ白の画面に一体何を打ち込めばいいのか分からなかった。
折原の演奏の仕上がりは順調だというメールに、僕はバスーンのない生活を始めたと。そんな返事を返せるわけがなかった。
僕はアラームをセットして携帯を枕元に放り投げる。電気を消すと、周りに明かりのないこの部屋は真っ暗になった。廊下へのふすまの間から、微かに温かいオレンジの光が漏れてくる。外ではよく分からない虫が鳴いていた。何の音も聞きたくなかったので、僕は頭から布団をかぶる。自分の息の音が不快だった。
念のため携帯電話のアラームはセットしていたが、鳴る前に起きることが出来た。携帯電話のディスプレイは、四時二十分を表示している。僕はアラームを解除して、仰向けに寝転がる。天井は木目の渋い模様が広がり、そして微かに木の香りがした。僕は自分が親戚に預けられている現実を再確認した。
部屋のどれをとっても、慣れ親しんだものなんて何もなかった。目を閉じると、目の奥の方が鈍く痛んだ。眠くてしょうがないと、よくこんな感覚を覚える。
こんなに早起きをしたのは、昨年の朝練以来だ。大会前に木管パートで集まって練習していた時期がある。あの時は皆一様に眠そうで、奏でる音までもなんだかもったりしていると、全員で笑ったことがある。
折原は早起きが大の苦手らしく、よく遅刻してリーダーに怒られていた。きっと今日も部活まで寝ているに違いない。思い出したら少しおかしくなって、無意識にバスーンのケースに手を伸ばしかける。しかし僕はすぐにその手をひっこめた。ひんやりとした、木の匂いのする静かな部屋。ここは、僕のいた場所ではない。
僕はバスーンではなく、起き上がってふすまに手を伸ばす。ふすまはすーっと引っかかることなく開いた。ふすまの中は暗く、上段には布団や毛布、下段には何十冊もの本が入っていた。僕は本を押してスペースを開け、そこにバスーンを押しやって、すぐにふすまを閉める。乱暴に閉めたせいか、少し大きな音を立ててしまった。軽く乾いた木のぶつかりあう、トンという音だ。
服を着替えて廊下に出る。どの部屋もふすまが閉まっているので、まだみんな眠っているに違いない。健吾さんの部屋の前を通ると、大きないびきが聞こえてきて、少しびっくりした。
階段は踏み外さないように、ゆっくり下りる。やはりこの階段は急な上に段が狭い。そうして一階に下りると、テレビの音がした。こんな時間だけれど、もう誰か起きているらしい。僕は洗面所で顔を洗い、歯を磨く。
「おはよう。あともうちょっとしたらご飯出来るからね」
居間に入ると、台所で何かを包丁で刻みながら、愛さんが出迎えてくれた。居間のテレビでは朝のニュースが始まっていて、整さんが眠そうに雑誌を読みながらそれを見ていた。
「温君おはよう。飯食ったら、俺と一緒に新聞社行こうか」
整さんの言葉に僕は頷いて、整さんの向かいに座る。台所では愛さんがせわしなく動き回り、コンロの調子を見たり、野菜を刻んだりしていた。味噌汁のいい香りもしてくる。
テレビではチョコレートケーキのランキング特集をやっていた。てかてかとしたコーティングに覆われたオペラケーキが、きれいな女の人に食べられていく。しばらくそんな様子を整さんと一緒に眺めていると、愛さんが炊き立てのご飯と味噌汁、それから魚の煮つけを運んできた。
「たくさん食べてね。ここは海辺だから、魚がとても美味しいの」
手を合わせてからご飯を口に運ぶ。炊き立てのご飯はそれぞれの粒がピッと立っていて、つやつやと光っていた。噛み締めるとお米の微かに甘い香りが、口いっぱいに広がった。味噌汁は母がつくるのよりも少し薄かったが、わかめと豆腐、大根と具だくさんだったので気にならなかった。
わかめは歯ごたえがあって、噛むとしゃきしゃきと音がするぐらいで、豆腐はふんわりと大豆のいい匂いがした。そして甘辛く煮付けた魚は、僕の大好物だ。
「美味しい……です」
「でしょう? ここってお米も魚も美味しいのよ。私も初めて来た時はびっくりしたわ」
愛さんはパッと顔を輝かせて、まるで自分が褒められたかのように言った。整さんはケーキのランキングを見ながら、美味しそうだなと呟いていた。
「初野なら売ってるかな」
「どうかしら、このお菓子屋さん、東京だし」
初野は遠和の隣町で、車で二十分ぐらいの所にある。ここに来る途中に母と車で通ってきた。僕の住んでいた街ほどではなかったが、遠和よりずっと栄えていた。一方の遠和といえば、何もない。西を海に、あとは山に囲まれた淋しい漁師町で、初野とは山のトンネル一本で繋がっているだけだ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
もう一度手を合わせると、愛さんがにこにこしながら食器を片づけ始めた。僕も手伝うべきか少し悩んだが、整さんが玄関で急かしていたので、小さくお辞儀をして外に出ることにした。
まだ早い時間のせいか空気はひんやりしていて、薄暗かった。空は薄青く、太陽の昇る辺りの空がサーモンピンクのグラデーションになっていた。太陽の光線を受けた庭の門や木々が、地面に濃い影を作っている。庭に植えられた草木には、朝露が小さく浮いていた。さっと露切りの風が吹く。涼しいというより肌寒いぐらいだ。
整さんと門を出て家の前の坂を下る。町を見下ろすこの家は高台にポツンと建っている。坂は割と急で、上ってくるのは疲れてしまいそうだ。
「この坂を上がると初野へのトンネルに出る。新聞社はこの坂の下。そこからは商店街で、そのまま一番下まで行くと、海に出る」
整さんの説明を聞きながら坂を下ると、後ろから自転車が走ってくる音がした。僕は左に避け、整さんは右に避け、そして僕はやんわりと整さんに引っ張られた。チリンと自転車のベルが鳴り、自転車が僕の左を通ってゆく。僕は頬を殴られた思いだった。僕は、左耳が聞こえない。今だって右からしか聞こえなかったから、右から来ると思ったのだ。聞こえないということは、僕には無いのと同じだ。
僕は立ち止まり、整さんは坂の途中で振りかえる。整さんの向こう側には海と空ばかりがあった。どうしてこうなってしまったのだろう。僕はこれからもっと多くの音と、それと同じ数だけの世界を失っていくに違いない。
整さんが僕に向かって手を述べる。そして僕に近づいて、僕の右手を取った。整さんの手はひんやりしていて、整さんのイメージそのものだった。
整さんはそのまま僕の手を引いて歩いた。整さんは長い脚をもてあそぶようにゆっくり坂を下り、僕は泣きたい気分を堪えて、整さんに手を引かれるまま歩いた。風は向かい風で、熱くなった僕の眼頭と頬を撫でた。僕はなだめられているような気分になる。
「温君、子供体温だね」
整さんはそう言って、少し笑った。
「じゃあ温君、しっかり稼げよ」
整さんは飄々とそう言い、新聞社の前に僕を置いて帰って行った。新聞社は僕が想像していたようなビルではなくて、古い木造の小屋のようなものだった。そこから整さんと入れ違うようにして新聞社から出てきたのは、こんな田舎の景色にそぐわないような金髪の男だった。僕は無意識に身構えてしまう。
「新しいバイトってお前? 整さんとこの」
僕が頷くと、金髪の男が僕を中に招き入れる。新聞社の中には、部屋いっぱいの大きな机があり、その机に新聞らしきものが入ったバックがいくつも並んでいた。新聞社の中には金髪の男の他に中年の男が一人いて、人の良さそうな笑みを浮かべている。
「初めまして。私は責任者の沼澤です。でも基本的な仕事はほとんど鮫島君が教えてくれるんだけどね」
沼澤さんの言葉に合わせて、鮫島と呼ばれた金髪の男が頭を下げる。
「つってもさ、新聞配るだけだべ? ルートだって、この町ほとんど一本道だし」
鮫島さんは、じゃあ早速と言って、バックを二つ掴む。その様子を見た沼澤さんは頼んだよと言って、すぐに新聞社の奥に引っ込んでいった。
「まず朝来たら机の上のバックを二つ掴む。重いけど一つは自転車のかごに積めるから」
僕は言われたとおりにバックを持つ。予想以上に重くて軽くふらついてしまった。そして鮫島さんと外に出て、用意されている自転車にまたがる。
「この坂から町を半分に分けて、俺は北側、お前は南側を配るんだ。地図これな」
僕は地図を受け取る。地図には赤い点がたくさんついていて、その場所が僕の配る家らしい。最初はさっきまで僕がいた整さんの民宿だった。鮫島さんは僕が配るのを待ってくれるらしく、僕は自転車で急な坂を上る。だが坂はあまりにも急で、すぐに僕は足をついてしまった。
振り返ると鮫島さんが笑いながら、早くしろと急かしていた。僕は自転車を押しながら民宿の門までたどり着く。すると門の前には整さんと愛さんが微笑みながら立っていた。
「初仕事ね。御苦労さま」
愛さんがそう言って新聞を受け取ってくれる。整さんはひらひら手を振った。
「ここの坂自転車で下ると、気持ちいいよ。急だからブレーキかけながらな」
僕は二人に軽くお辞儀をすると、勧められたように自転車に乗る。自転車はみるみるスピードが付いて、僕は軽くブレーキをかけた。ゴウゴウという風の音が耳いっぱいに響いて、汗がすうっと引く感覚がした。
鮫島さんの所まで下りると、鮫島さんは、行くかと言って坂を下りながらポンポンとポストに新聞を入れていった。僕もそれに習って地図をよく確認しながら、赤い点の場所に新聞を入れていく。入れもらしがないか時々チェックもした。僕が大通りを終える頃には鮫島さんはすでに二つのバックを空にして戻ってきた。
「じゃあ裏通りさ入るべ。道が狭いから注意しろよ」
裏通りは道が入り組んでいて、民家が並んでいた。民家は一様に古く、海風でさびも浮いている。人が住んでいない空き家も多かった。
日が高くなってきたらしく、家と家の間から、光る静かな朝の海が見える。僕が地図と自分の位置を確認しながら配達していると、時々、海からの波光がチラチラと僕の目を射した。最後の家に配り終わると、新聞は手元から全てなくなっていた。鮫島さんは合格というようにニカリと笑うと、方向転換をすることなく、そのまま裏通りを通り抜けた。
「眩しいだろ。近道なんだけどな」
鮫島さんに続くと、海のすぐ近くに出た。漁師が何人か忙しそうに働いていて、その内の一人が鮫島さんに向かって手を挙げた。鮫島さんも答えるように軽く片手を挙げると、商店街に続いている緩くて長い坂道をゆっくり上りだした。
「なあ、自転車返し終わったら、釣りするべ。お前の分の竿も貸してやるから」
「え? 何ですって?」
「釣ーり! 釣りするべ! 付き合ってけろ!」
僕は立ち漕ぎで一生懸命ペダルを漕いでいたので、聞き返してしまう。釣りなんてやったことがない。
「いいんだよ適当に糸垂らしてれば」
僕は新聞社の前までとても漕げそうになかったので、昨日立ち寄った肉屋の前で自転車から降りる。鮫島さんはそんな僕を見て、軟弱だと少し面白そうに笑った。
新聞社の中にいる沼澤さんに一声かけて、自転車を置く。すると新聞社の中から、ジャージ姿の男の子が出てきた。ジャージは学校指定のジャージらしく、初野南中と胸元に刺繍してあった。隣町の中学生らしい。勢いよく出て来たので、僕とぶつかりそうになる。
「あ、おはようございます」
中学生は礼儀正しく挨拶すると、そのまま僕と扉の間を軽い身のこなしですり抜け、鮫島さんに声をかけた。
「兄ちゃん自転車! 今日朝練なんだ」
どうやら鮫島さんの弟らしい。鮫島さんははいはいと自転車を降り、弟に渡す。鮫島さんの自転車にはよく見ると、鮫島と名前が付いていた。僕の乗っている自転車のように、新聞社のものではなく自前の自転車らしい。
「こいつは俺の弟で、翔っていうんだ。で、こっちは温。高校生で、今整さんのとこに居候してる」
鮫島さんは二人分まとめて紹介する。翔くんはよろしくお願いしますと礼儀正しく挨拶した。素朴な笑顔と焼けた肌が鮫島さんにそっくりだった。
途中で鮫島さんの家に寄ってから海につくと、鮫島さんは朝からやっている釣具店でエラコというミミズが筒に入って束になったような餌を買い、僕に直接渡してきた。僕は少し気持ちが悪くて取り落としそうになったが、ひんやりしてざらざらするエラコの感触に耐えた。
鮫島さんはウキと重りを付けてからエラコの筒の端をちぎって、中のミミズのような本体を取り出した。本体はピンクと茶色を混ぜたような色で、ニュルニュルしていた。尻尾のようなものが付いていて、これを海の中で揺らして魚を誘うのだと鮫島さんは教えてくれた。僕はなかなかエラコの筒を割くことが出来なくて、結局鮫島さんが針につけるところまでやってくれた。
「どうやって投げればいいんですか?」
「適当に。あ、針を引っ掛けるなよ!」
海辺の風は強くて、僕は鮫島さんの声が全く聞こえなかった。僕は二度聞き返したが、全く聞きとることが出来なかった。鮫島さんは不愉快だろうと、僕はどうしようもないぐらい委縮した。
「あー、風強いしな! 俺、訛ってるから余計に聞きとり辛いべ」
そうじゃないと僕が首を振ろうとしたところで、鮫島さんが僕の頭にポンと手を置く。
「聞こえないんだべ? 知ってら。整さんがよろしく頼むって言ってたし」
僕はどうしようもない気分になった。こんな僕とでは会話が成立しないだろうと、申し訳ない気分にもなる。
「そんな顔するなよ。俺もお前も暇なんだから、聞こえるまで俺は何回も話してやるし、お前は何回でも聞き返せばいいべな」
鮫島さんは困ったように笑うと、僕に早く餌を投げてしまえと急かした。僕は出来るだけ遠くに行くように投げたが、餌はあっけなくテトラポットに打ちつけられ、テトラポットの隙間に入って行った。
「まあ、釣れればいいんだ釣れれば。隙間だって釣れる時は釣れるべ」
鮫島さんは呑気なことを言って、自分も餌を投げた。鮫島さんの餌は大きく弧を描いて、僕よりずっと遠くの水面に落ちた。
「……何かしゃべってけろ」
十分ぐらいしても、僕にも鮫島さんにも一向に当たりが来る気配がしなかった。鮫島さんは手早くリールを巻き上げてもう一度餌を投げてから、そう僕に言った。何かとはなんだろうか。僕は少し考えたが、もともと僕は話が得意ではないので、こんな時気の利いた話題がポンと出るわけもなかった。しょうがないなと鮫島さんが少し考えてから、こう話しだした。
「なあ、知ってる? カンガルーのポケットって、臭いんだぜ」
「……そうなんですか」
どうにも聞いたことがある台詞だった。僕はどう返せばいいのか分からなかったので、つまらない返事で返してしまう。鮫島さんがまた黙り込む。僕は鮫島さんの真似をして竿を軽く振ってみたが、魚がかかる気配はなかった。
「なあ、知ってるか?」
「何です?」
「ノミのジャンプって俺の身長より高いんだけどさ、弁当箱ぐらいの容器に入れると、容器の高さ以上にジャンプ出来なくなるんだ」
僕はそもそもノミのジャンプがそんなに高いということを知らなかったので、二重の驚きだった。
「ノミってすげえよなあ」
鮫島さんは間延びした声でそう言うと竿を引き上げる。それからもう一度海に挑みかかる。
「そう言えば、お前ってどんなところから来たんだ?」
「ええと、ここよりは建物がたくさんありました」
「それから?」
鮫島さんに続きを促される。それ以外には何があっただろう。何もかもがあった。こことは違う。しかしそれは漠然とし過ぎていて、僕は説明出来そうになかった。鮫島さんはしばらく考えてから、学校はどんな感じだったかと聞いてきた。都会の学校はこことは違うだろうと。
「僕の高校は音楽科があったので、音楽が盛んでした。普通科もありますが、そっちはよく分かりません」
「へえ、音楽科。ってことは楽器が出来るのか」
「いくつかは。ピアノは必修でした」
鮫島さんは感心したように頷くと、竿を上下に振った。そういえばこの町には学校がない。鮫島さんによると、この町にあった学校は全て統廃合されて初野の学校に吸収されたらしい。翔君も今年の春から初野の中学校に通っているそうだ。鮫島さんは東京の大学に通っているらしく、来年卒業だと言った。
そんな鮫島さんの説明を聞いていると、漁船が沖から帰って来た。ボーッという低い音が浜に響き、鮫島さんはそれを合図に立ちあがった。あれには鮫島さんのお父さんが乗っているという。
「じゃあ今日はこの辺にしとくか」
釣れるまでやるからなという鮫島さんの声に、僕は曖昧に頷く。朝の日差しはぽかぽかと熱くなるぐらいだったが、海風が強かったので丁度よかった。少し眠たい。慣れない早起きがこれから毎日続くのかと思うと、少し憂鬱だった。
家に戻るために、坂を上る。朝の商店街はにわかに活気付いていて、時折港へ向かうトラックが坂を下りていく。僕は注意深く周りを見回しながら、ゆっくり町を歩いた。体はほんのり火照っていて疲れているのに、まだ朝だった。ここでは時間がゆっくり流れるのだろうかと、僕はあり得ないことを考えた。
家に戻ると体がひどく重かった。愛さんに一言言って布団にもぐる。愛さんはゆっくりお休みと言って僕を寝かせてくれた。
眠っていられなくなるほど瞼が熱くて、僕は目を覚す。じりじりとした暑さは、窓から射す西日のせいだった。風通しはよく汗はかいてなかったが、喉がひりつくほど渇いていた。僕は軽く二三回咳をして起き上がる。昼寝なんてするのはいつ以来だろう。目覚めはすっきりしていて、日焼けしたらしく皮膚がひりひりと突っ張った。
洗面所で顔を見ると頬の上が特に赤くなっていて、顔を洗ったぐらいでは腫れは引きそうにない。部屋からタオルを持って来て居間で冷やすことにした。居間には愛さんも整さんも誰もいない。微かに風の音がして、冷房がないのに涼しいことに僕は少し驚いた。
縁側でちりんと風鈴の音がした。その音を聞いて、僕は初めてそこに風鈴があることを知る。薄くて透き通った硝子の中で、金魚が泳いでいる。垂れ下っている紙は涼しげな水色の曲線でデザインされていた。ちりん。高くて硬質な音色がする。僕は右耳でむさぼるようにその音色に聞き入った。
ちりん。風鈴の音はどうしてこんなに綺麗なのだろう。僕は温くなったタオルで目を覆い、縁側に寝転んだ。タオルで覆われた暗がりに、風鈴の音が染みる。
しばらく縁側に寝転んでいると、きしりとすぐ近くで床が軋む。誰かが僕のすぐ近くに座ったのが分かった。微かなコーヒーの香りがする。しばらくそのままの体勢でいると、ふうと息をつく音が聞こえた。一口飲んだのだろう。体を起してタオルを取って見ると、整さんが隣に座っていた。
「初日から結構焼けたな、痛むかい」
「多少は。でもちょっとなので大丈夫です」
整さんがコーヒーを淹れてくれるというので、飲むことにする。僕がバイトの様子や鮫島さんとの釣りの話をする間に、整さんはお湯を沸かし、手際良くコーヒーを淹れてくれた。
「砂糖とミルクはいる?」
「あ、大丈夫です」
大人だねーと言いながら、整さんが僕にコーヒーが入ったマグカップを渡してくれた。コーヒーは舌が火傷しそうなぐらい熱かったが、缶コーヒーよりもずっといい香りがした。
「健吾がコーヒーとか紅茶とか好きでさ、凝った道具とか仕事のついでに買って来るんだ」
お陰で台所が喫茶店みたいになってしまったよと整さんは笑った。僕が整さんに美味しいと言うと、整さんは良かったと言ってテーブルの上のパソコンに向かった。僕がコーヒーを飲む間に、整さんは忙しないキーパンチを続ける。仕事のように見えた。
「温君は、風鈴好きなの?」
整さんはパソコンから目を離さずに、僕に話しかけてくる。まるで僕ではなくパソコンに聞いているみたいで、僕は少しおかしくなってしまった。
「今、好きだなと思いました」
「何だそれ」
整さんは少し笑って、チラリと僕を見た。風鈴の音をちゃんと聞いたことがなくてと伝える。家にも学校にも風鈴なんてなかった。スーパーや百貨店、ドラマで見かける程度だった。整さんはキーパンチの手を休め、肩をほぐすように回した。
「風鈴、いいよね。あの硝子の曲線ってセクシーじゃない?」
言われて改めて風鈴を眺めてみる。セクシーかどうかはよく分からなかったが、ふんわりとした丸みはかわいいなと思う。僕が曖昧に頷くと、整さんはお子様には分かんないかとちょっと笑った。
週に一度僕は病院に行って検査を受ける必要があった。もしかしたら聴覚がさらに下がっているかもしれないし、症状が出たらそれで治療法もはっきり分かるかもしれないからだ。僕は母からそう聞いていた。聞いてはいたが、あまり期待はしていなかった。今更僕がもう一度、折原達と同じように演奏できるとは思えなかった。
僕が行くのは隣町初野の大病院だった。愛さんも週に一度その病院に行っているので、連れて行ってくれるそうだ。
「じゃあ今日の一時にはお家にいてね。バスに乗るから」
愛さんはそう言って僕に大盛りのご飯を渡してきた。朝からこんなに食べれるかという量だったが、半分寝ぼけながら整さんは同じ量の白米を平らげていった。今日は健吾さんも一緒に朝ごはんを食べていて、愛さんの二倍ぐらいの量を食べていた。
「あら、今日はお仕事なの?」
「ああ、デスクワークだけどな。遅くなるから夕飯はいい」
愛さんは健吾さんの茶碗にお代わりを盛ってやる。健吾さんの仕事場はここから少し離れているらしく、朝ごはんをかきこむと、さっさと仕事場に行ってしまった。僕も配達があるので、その後に続いて玄関に向かった。
「整さんもお仕事ですか?」
整さんも僕の隣で靴を履く。整さんは、朝の散歩と言って健吾さんを見送ってから、初日のように一緒に坂を下りる。時々欠伸を噛み殺していた。
「仕事があんまりはかどらなくてね、気分転換」
そう言えば整さんは何の仕事をしているのだろう。健吾さんは資源の調査会社に勤めている。出張で長期間海外に派遣されることが多いが、それ以外の期間は自由な時間が多いと言っていた。派遣の期間が長いため、マンションやアパートを借りるのではなく、整さんの民宿に格安で住んでいるらしい。
整さんは民宿を営んでいるとはいっても、それだけで生計を立てているとは思えない。遠和は観光地でも大都市でもない。整さんは謎が多い人だった。
今日もしっかり稼げよと言う整さんと別れると、坂を上がってくる鮫島さんが見えた。鮫島さんは立ち漕ぎで自転車を漕いでいて、上り坂なのにぐんぐん近づいてきた。すぐにへばってしまう僕とは全然違う。挨拶をすると少し眠そうに片手を挙げる。
二人で新聞社の中に入ると、沼澤さんがバッグを準備しているところだった。沼澤さんはちょうど準備を終えたらしく、僕達に柔らかい笑みで挨拶をするとバッグを渡して、すぐに奥に引っ込んでしまった。
そして今日も僕は新聞を配る。最初に向かうのは整さんの民宿で、僕は鮫島さんのようにさっさと坂を上り切ってしまおうと立ち漕ぎで奮闘するも、やはりすぐに足をついてしまう。坂の上を見ると、そんな僕の奮闘を家の門の前で愛さんと整さんが眺めていた。
目が合うと愛さんがちょっと手を振ってくる。僕は恥ずかしく思いながら自転車から降りて坂を上る。前より多少は上ったと思うことで、自分を奮い立たせた。
「沼澤さんって忙しい人なんですか?」
全ての新聞を配り終わり、海に向かう途中で、ふと気になって僕は聞いてみる。自転車を返す時も沼澤さんは忙しそうに奥で書類仕事をしていた。
「あー、まあ、最近な。やっぱお金必要なんだべな」
沼澤さんには光ちゃんという一人娘がいるらしいが、事故にあって入院しているらしかった。手術が必要らしく、その費用を稼ごうとしているのだろうと、鮫島さんは説明してくれる。光ちゃんは翔君の同級生で、幼馴染だという。そんな説明を聞きながら海に着くと、前回と同様に鮫島さんはエラコを買う。
「狭い村だば、みんな家族みたいなもんだ」
沼澤さんが体を壊さないか心配だと言いながら、鮫島さんはエラコを針の先につける。僕はなんとかエラコの筒を割くと、ぬるぬるする感触に耐えながらエラコを針の先につけようとした。エラコはぷりぷりと弾力があり、そして表面がぬるぬるしているので、針の先が滑ってしまう。
そうして僕が苦戦していると、そんなペースでは日が暮れてしまうと鮫島さんが付けてくれた。二人揃って海に向かってキャスティングすると、鮫島さんの餌は遠くまで飛び、一方の僕のはやはりテトラポットの間までしか飛ばなかった。
そうしてしばらく無言でいると、鮫島さんはまた僕に何か話せと言ってきた。話題と言っても、今日は沼澤さんについてを話してしまったので、もう僕に話題らしい話題は出せそうになかった。鮫島さんはしばらく考えて、またどこかのCMで聞いたことのある豆知識を教えてくれた。
「なあ、知ってる? カバの汗ってピンクなんだ」
鮫島さんは至って真面目な顔でそんなことを言う。僕は笑っていいのかどうか分からずに、神妙に頷いてしまった。鮫島さんはいい人なのだが、なんとなくその金髪に威圧感を感じてしまう。
鮫島さんの髪は黄色よりは白に近い、綺麗な金色だった。こんな田舎町の景色では、その金色はどうしても浮いてしまって僕は少し怖い。だけど慣れ親しんだ金色でもあった。安っぽい金色ではなく微妙に褪せたような、しかし格調高いその色に、僕は金管楽器の色を思い浮かべてしまう。聴覚が鈍ってしまった今の僕には、ちゃんと聞くことが出来ない音色を思い出す。鮫島さんの髪の色は、そんな金色だ。
「なあ、知ってるか」
鮫島さんの髪が海風に散らばる。猫っ毛なのか、金の髪は羽毛のようにふわふわとしばらく宙を漂ってから、すっと元通り落ち着いた。ワックスの類は付けていないようだ。僕は鮫島さんの髪の散らばりを目で追いながらゆっくり頷いた。
「ムンクの叫びってあるべ? あれって、真ん中のやつが叫んでるんじゃないんだ。周りの人間の叫びを聞いて、頭をかかえてるんだってさ」
あの極彩色のぐちゃぐちゃの背景の絵のことかと、美術の教科書で見た絵を思い浮かべる。確か橋の上に立っている絵だったろうか。
「何があったんだべなあ」
鮫島さんは呑気にそう言う。間延びした声は、よく晴れた空にぼんやり溶けていくみたいだった。風交じりなので、僕は釣り竿の先より鮫島さんの声に集中した。しかし鮫島さんはそれ以上何も言わない。
そうして沈黙を続けていると、後ろからジャージ姿の翔君が興奮した様子でこちらにやって来た。学校がなくて曜日を気にしなくなってきているが、そういえば今日は土曜日で学校は休みらしい。翔君は興奮して頬が赤くなるぐらいだった。
「兄ちゃん、やった! 俺選ばれた! 第六走者だ!」
すると鮫島さんは満面の笑みでくしゃくしゃと翔君の頭を撫でた。朝も七時だが、二人にとってとても嬉しいことが起こったらしい。翔君は嬉しそうに僕にも説明してくれた。
「県内の市町村対抗の駅伝があるんです。その代表さ選ばれて! この町を一番にするチャンスですよ!」
目立たない僻地のこの町が、初野を初めとする県内の市町村を負かすチャンスだという。また、この町の学校は統廃合されるまで陸上競技が強かったという。その意地もあり、遠和の町で駅伝は一大イベントらしかった。
「でさ、お願いがあるんだ。光に今週の宿題届けて欲しいんだけど」
「え、お前行けばいいべ。ついでにそれ教えれば」
光とは先程の話に出た入院している光ちゃんのことらしい。翔君は困った顔をして首を振った。
「何か提出物あって、進路調査。これは早いほうがいいと思う。今日行こうと思ってたら、これから公民館で駅伝の顔合わせがあって」
翔君の通う学校と病院は離れていて、通学の途中に寄るということは出来ないらしい。初野市は遠和町よりずっと広いようだ。
「初野の市民病院なら、今日行ってくるよ。検査があるんだ」
馴染みでもない自分にそんなことを頼むとは思っていないが、一応そう言ってみる。すると意外にも翔君は助かったという顔をして、じゃあお願いしますねと言って、渡すプリント類を取りに家に帰った。駅伝の代表に選ばれるというだけあり、翔君はあっと言う間に遠ざかっていく。五分ぐらいすると翔君は走って戻って来た。鮫島さんの家からここまでは、歩いて十五分ぐらいなので、僕はさすが選手だなと感心した。
「じゃあこれです。よろしくお願いします」
翔君はお辞儀をして、これから家族に伝えに行くのだと軽い足取りで走って行った。無邪気にはしゃぐ翔君の後ろ姿を眺めてながら、鮫島さんはしょうがないなと笑う。
去年の駅伝の様子なんかを話していると、海の向こうの小さな点から汽笛が聞こえてきた。鮫島さんが立ち上がる。今日はごちそうかなと鮫島さんが呟いた。翔君を家族みんなでお祝いするのだろう。鮫島さんの、明日も釣りだからなという声で別れる。僕は帰り道をのんびり歩きながら、自分の家族のことを思い出した。
初めて僕がバスーンのソロ大会で入賞した日。父は嬉しそうに僕を褒め、母は父よりもずっと落ち着いていたが、夕ご飯は僕の好きな玉ねぎの料理や魚の煮つけを作ってくれた。父は祝い事にはケーキが必要だと言って、仕事から帰ってきた直後だというのに、慌ててケーキ屋に駆け込んでショートケーキを買ってきてくれた。僕はそれがとても嬉しくて、もっと頑張ろうと思ったものだ。
全てが幸せだった。今思い返すと眩しい程に輝いていた。僕は憂鬱な気持ちになる。溜息を吐くと、何かが胸の奥から零れるような心持だった。もう僕は、あんな風に家族を喜ばせてあげることが出来ない。
ささやかだが朝の喧騒が訪れた町は、駅伝の話題で持ちきりだった。なんとなくしか聞こえないのが今の僕にはかえって救いで、俯いて早足で坂を上った。今頃鮫島家は笑い声でいっぱいなのだろうか。振り返って海の方向を眺めてみると今日はすばらしい青空で、空も海も何もかもが輝いていた。記念日にはうってつけの日和だろう。
部屋に戻って少しのつもりで昼寝をしていたら、愛さんが部屋に起こしに来た。一瞬うとうとしたと思っていたら、もうバスの時間だ。僕は慌てて準備をし、玄関で待っている愛さんと一緒に、バス停に向かった。
バス停は坂の頂上、初野へ続くトンネルの手前にある。ここは終点で、初野からきたバスはここで乗客を降ろして海まで下りてターンしてから、初野へ行く客をこのバス停で乗せるそうだ。バスは二時間か三時間に一本で、今日みたいに寝坊はできないなと僕は反省した。
外で待っていると、夏も終わりに近いが太陽がじりじりと肌を焼くのがわかった。愛さんは長袖にジーンズという完全防備で、見ているだけで僕が暑くなりそうだ。
初野からのバスは愛さんの言う通り、一度僕達の前を素通りしてから、今度は坂を上がって僕達を乗せてくれた。バスの乗客は僕達だけで、こんなに誰もいないバスに乗るのは初めてなので、僕は妙に緊張してしまった。
バスは短いトンネルを抜けた後、しばらく田畑の間を走った。窓の外には青々とした稲が一面に広がり、風が吹くと一斉にさあっと揺れた。すると稲の絨毯には陰影がスーッと伸び、濃い緑と薄い緑に曖昧にわかれた。時々稲の中に、すっとしたシルエットの白い鳥が立っている。鳥はどれも剥製のようにじっとしていたので、その風景は絵画にも似ている。
バスは田園地帯を抜け、初野市街地に入る。市街地に入ると人は何人も乗って来て、バスはすぐに満席になった。高層ビルこそないものの、そこそこの高さのビルがあちこちに林立していて、遠和から見たら初野はずっと都会だ。街の規模に比べて道路の幅がやけに広いなと思って観察していたら、大型のダンプカーがよく通る。
「初野は新興工業都市なの」
臨海地域に工場が発達していて、このダンプカーもその工場のものだと愛さんは説明してくれた。そうしているうちにバスは騒がしい市街地を抜けて、閑静な住宅街を走る。遠和では絶対に見られないようなお洒落で真新しい家が立っている。住宅街はまだ更地も目立ち、まだまだこれからといった様子だ。
バスのアナウンスが次の目的地は市民病院と告げたので、愛さんがバスを止めるボタンを押す。少しレトロなブーという音が鳴り、バスは病院の前で止まる。病院の周りは更地だらけだが病院はやけに大きく、僕のいた街の病院よりもずっと立派だった。
「ヘリポートもあるの。ここからドクターヘリが飛ぶわ。この辺って初野以外はまだまだ開けていないから、需要が多いんですって」
愛さんに連れられて病院に入る。外来の待合室は広く硝子張りで、自然の光が部屋いっぱいに溢れていた。愛さんは皮膚科、僕は耳鼻咽喉科の受付を済ます。愛さんはすぐに呼ばれるそうだが、予約なし、しかも初めて来た僕は一時間待ちになってしまった。愛さんを見送り、僕は待合室のソファーに座る。
こうしていると、難聴であることが告げられた日もこうして座っていたことを思い出す。あの時はパートリーダーと折原が隣にいてくれたけど、今は彼らとは遠く離れた街にいる。そういえば折原のメールに返事をしていない。今更返すのも変だろう。僕は少し後悔した。
しかし僕は今でも、はっきり折原を妬ましいと思っている。彼は未来も技術も、僕にはないものを全て持っていた。そんな彼のメールに、僕は一体何と返せばいいか見当がつかない。
折原のファゴットは好きだった。初めて折原を意識したのは中学のコンクールで、僕は佳作、彼は銀賞だった。折原の深く滑らかな演奏を、僕は舞台袖で聞いていた。彼の音は僕とは全く違う。それは折原のファゴットがアメリカ製で僕のがドイツ製だからということもあったが、そうではなく何かが根本的に違っていた。
中学生の僕はその時おぼろげに、ああ彼が天才なのだろうなと淡い嫉妬を抱いた。音楽は、間違いなく才能の世界だ。最大限の努力をすることなんて、この世界では前提条件だ。だから、持って生まれた才能の差は埋まらない。
だけど僕はバスーンを愛していた。魔法の楽器は僕の相棒だった。一番になれないのは昔から知っていたけど、離れるわけにはいかない。一番じゃなくてもいいから、なんとか折原のレベルに食らいついてでも、相棒と生きる道を探したかったのだ。
僕はソファーからゆるゆると立ちあがって、病棟に向かうことにする。一時間座って過ごすより、お使いを果たすべきだろう。愛さんを待たせるのも申し訳なかった。四階の一番奥の部屋と教わっているので、エレベーターで四階まで行く。
病棟もなかなか立派で、休憩室には子供のためかキーボードや積み木で遊べるスペースもあった。休憩室に人はいないが、ご飯時のためか人通りは多かった。廊下には配膳車が出ていて、いくつか食べた後のお盆が出ていた。
目的の部屋は大部屋で、そっと覗いてみたが部屋の入口にネームプレートなんてついていないため、誰が光ちゃんかがわからなかった。恐る恐る入ってみると入り口すぐの所に寝ているおじさんが、親切にどうしたんだねと聞いてきてくれた。要件を話すと、おじさんは味噌汁をすすりながら窓際の誰もいないベッドを指した。
お礼を言ってベッドに向かうと、確かに机の上に置いてある筆箱はピンクで、いかにも女子中学生という感じがした。持ち主はどこに行ってしまったのだろう。しばらく待って来る気配がない。しょうがないので筆箱からペンを拝借して、メモを残して頼まれたプリントを置いておくことにした。
病室から出たが、待ち時間はまだまだある。時間を潰そうと思い、休憩室に立ち寄った。戯れにキーボードのスイッチを入れる。念のため音量を下げて、鍵盤に触れてみる。音が聞こえなかったので、少しだけ上げた。
指鳴らしのつもりで授業の練習曲を弾いてみたが、ちょっとした曲だというのに指がもつれてしまった。あんまりの演奏に自分で笑ってしまう。もう一曲弾こうかなと思ったところで、ねえと後ろから声をかけられた。
「あなた、雨宮さんでしょう」
振り向くとそこには入院服で車椅子に乗った、ショートカットの女の子がいた。女の子はぎこちない動作で車椅子でこちらにやってくる。おそらく彼女が光ちゃんだ。
「音楽をやっている人って、さっき電話で翔から聞いた」
にこりともせず話す様子は今朝の翔君とは対照的だ。
「あの、雨宮温です。どうぞよろしく」
ぶっきらぼうな物言いに気圧されてしまって、ついついかしこまってしまう。
「沼澤光。光でいい。プリントありがとう」
ぺこりと頭を下げられる。向こうも少し緊張気味らしい。僕は内心安心しながら、キーボードのスイッチを切った。
「もう弾かないの?」
「僕も診察に来たんだ。それにピアノはあんまり得意じゃなかったし」
どうやら光ちゃんは僕が弾いているのをしばらく後ろから見ていたようだ。トイレに行っていただけだったが、慣れない車椅子で時間がかかってしまったと説明してくれた。光ちゃんは僕とキーボードを眺めてから、首を傾げた。
「でも、雨宮さんはピアノを習ったことがあるでしょう? 私もピアノをやっていたからわかる」
「僕も温でいいよ。本当はバ……ファゴットを吹くんだけど、授業で必ずピアノを習わなきゃいけなくて」
音楽の学校なのよねと聞かれるので、頷く。バスーンと言っても伝わらないだろうと思ってファゴットと言い換える。バスーンはドイツ語で、英語ではファゴットの意味だ。別にファゴットと呼んでも間違いではないが、僕の相棒はドイツ生まれだ。ならばドイツ語で呼んでやるべきだろうというのが僕の持論である。だから僕のドイツ生まれの相棒はバスーンで、折原のアメリカ生まれのそれはファゴットだ。
「なのにどうしてこんな田舎にいるの?」
光ちゃんの無垢な質問は、しかし僕の胸を静かに打つ。そういえば難聴ということを自分で説明するのは初めてだ。こちらに来てからは整さんが説明を済ませてくれていたので、こういう機会はなかった。なんとなく息が詰まる。一度だけ深呼吸をする。緊張することなんてなにもないというのに。
「難聴に、なってしまって」
光ちゃんは少し目を泳がせて、小さくごめんなさいと口にした。僕には光ちゃんの反応がかえって申し訳なかった。
「じゃあ、今日の翔の目の前にいることなんて、耐えられなかったでしょう。私は電話越しでもそうだった」
光ちゃんは僕ではなく、僕の背後の窓の外を見ながらそう言った。光ちゃんはもう申し訳ないなんて微塵も感じていない口調で言った。
「私も似たようなもの。歩けない。陸上部だっていうのに」
光ちゃんは再び僕の目を見ながら、何かを納得したように頷いた。
「ねえ、また来てくれない? 翔と話していると辛いし、一人で暇だから」
週に一回はどうせここに来なければいけないのだ。僕はいいよと頷いた。光ちゃんは初めて少し嬉しそうに笑った。でも僕は話があまり得意ではない。それは毎朝の鮫島さんとの釣りでよく分かっていた。光ちゃんはそれでもいいからと言う。よっぽど暇らしい。そろそろ診察の時間だと言うと、光ちゃんはまたねと手を振ってくれる。その仕草は彼女の実年齢より少し幼くも見える。
光ちゃんと別れて耳鼻咽喉科の待合室に行くと、すぐに呼ばれた。ここでもまた電話ボックスみたいな箱に入って、同じような検査を受けた。ただこちらの検査室や治療室は、向こうの何倍も立派だった。だけど僕は自分を戒める。立派な設備に、期待してはいけない。期待して結局だめだったら、僕は立ち直れそうになかった。
案の定検査結果を見ながら、先生は向こうの先生と同じことを言った。治療方法は確立していない。ただ手術をするとしたら、聞こえなくなるリスクもある程度覚悟しておくことだ。そう言われたら手術なんて出来るわけがなかった。
今よりも聞こえなくなるなんて、そんなの死ぬのと同じことだ。僕にとって聞くということは、生きるということと同意義だ。実際問題、全く聞こえなくなったら、生活にも支障が出るに違いない。今でもただでさえ人の話していることが聞こえないというのに。先生は必ず定期的に検診に来いと言い、次の検診の約束をする。それから念のために耳鳴りの薬をもらう。
耳鼻咽喉科を出ると、愛さんが待っていた。お待たせしてすみませんと謝ると、百貨店を見てきたから大丈夫と言われた。
バスを降りて遠和に戻ってくると、ついでに買いものをしましょうと、愛さんが言う。
「お夕飯何がいいかしら」
「何でもいいですよ」
「もう。整もそう言うの。作りがいがないわね」
愛さんはそう笑ってしばらく何を作るか考えていたが、突然人差し指を一本立て、僕の真正面に立った。
「温君は、もう裏山の河原に行った?」
僕は首を振る。川があることも知らないと話すと、愛さんがそれは行かなきゃ損と言う。
「小川なんだけれどね、綺麗なのよ」
川は家の裏の道から行けるらしく、愛さんは急かすように僕の手を引いて小道を行く。小道は車が通れるような幅ではないが草が綺麗に取り払われているので、誰かが定期的に利用していることがわかる。しばらく細い道を歩いていると、この道は町の高台に位置しているので、遠和町一帯が見渡せると、愛さんが教えてくれた。
しばらく歩くと、愛さんがパッと手を離す。川のせせらぎが聞こえ始め、道がもっと細くなったからだ。道の両脇に生えている背丈の高い草や細い木々が一層深くなった。しばらくそんな道が続くのかと思ったらそんなことはなく、意外にすぐに視界が開けた。
「……あ……」
思わず声が出てしまう程の景色だった。一面の濃い緑。目がおかしくなるかと思うほど、果てのない緑だった。緑の山を夕日が照らす。見上げる山は、初野と遠和を隔てる山だ。小川はさらさらと流れ、夕日をきらきらと反射している。
「どう?」
「あ、の。すごいです」
僕はどう言っていいのかよく分からなくて、思わずどもってしまう。愛さんが川に向かって歩き、そのほとりで大きく伸びをする。風が吹いて、愛さんの長い髪を揺らす。なにもかもが綺麗だった。深呼吸をすると、水の気配を含んだ冷たい空気が肺に染み込む。気持ちがよかった。今までの鬱屈した気持ちまで払われていくようだ。僕は密かにここにまた来ようと思った。
「ここ、元気が出るでしょう」
愛さんは風で散らばった髪を手で梳きながら笑った。もしかしたら僕は気持ちを見透かされていたのかもしれない。
その後坂を下り、愛さんと買いものをする。途中で整さんから果物が食べたいというメールが来たので、愛さんとスイカを買った。僕はスイカを抱えて愛さんの後をついて坂を上った。スイカはつやつやとして重く、僕は何度か取り落としそうになる。
「これ……冷蔵庫に入りますか?」
僕の家の冷蔵庫には入らなさそうなので、そう聞いてみる。でも民宿なら業務用冷蔵庫があるのかもしれない。愛さんは明らかにしまったという顔をしていた。
「まあ、なんとかなるわよね」
家に帰ると、整さんが居間で仕事をしていた。愛さんが買ってきたスイカを見せると、整さんはしかたがないなと、倉庫からレトロなたらいを出す。庭に運び、ホースで水をいっぱいに入れる。スイカに水をかけると、つやのある皮の表面が、パッと水をはじいた。整さんは嬉しそうにスイカを眺める。
「うん。美味そうだ。つい買っちゃうのもわかる」
僕は夕ご飯の手伝いをしようと愛さんに声をかける。愛さんはお米を研いでいて、僕は煮物にするという人参や里芋を切った。母の帰りが遅い時はよく自分で作っていた。人参は一口大より少し大きく、里芋は半分に。愛さんは僕の手際の良さを褒めてくれた。
ご飯は今日も美味しく、煮物はほくほくして味が濃くよく出来ていた。食後のスイカは切るのに難儀したが、僕と整さんの二人がかりで切ると、いびつながらスイカは切れた。よく冷えて甘くて美味しいが、大きなスイカだったので三人で食べても半分も余ってしまった。
「ははっ、手がべたべた」
整さんは腕に垂れたスイカの汁をぺろりと舐める。赤い舌先が妙に印象に残った。縁側で豪快に齧り付いているのは整さんだけで、僕と愛さんは皿にスイカを盛って、スプーンでくずして食べる。しゃりしゃりと歯触りが良かった。愛さんが半分のスイカをラップにくるんで冷蔵庫にしまう。それでもまだ大きいらしく、冷蔵庫が占領されてしまったわと苦笑する。
僕は明日も早いので、二人におやすみを言って、二階に上った。部屋に入ると携帯が点滅していて、メールが来ていることを知らせる。ちょうどスイカを食べている頃に来たらしい。折原からだった。
全国大会は金賞だった。個人も俺が優勝した。俺はしばらくベルリンに行く。そんな短い文章が綴られていた。折原ならいつか世界に出るだろう。先生もそう言っていたので、僕はさほど驚きもしなかった。しばらくというのは短期留学のことだろう。折原は留学も視野に入れているという話をしていた。個人の優勝が弾みとなったに違いない。
僕は暗い部屋で電気も付けずに、携帯のディスプレイを眺める。こうしている間も、じりじりと僕達の差は広がっていく。ついこの間まで隣で授業を受けていたというのに。小川の景色に払拭されたと思ったドロドロした気持ちが、喉元までこみ上げてくる。ああ、二度もメールを無視することは出来ない。
今日はメールを返さなければ。わかっている。折原は自慢なんてする人間ではない。僕は自分に言い聞かせる。それに僕が聴覚を失わなくても、いつかはこうなっていた。彼は世界に行く。
おめでとう、応援している。僕はそう返信して布団に潜る。体は疲れているというのに、一向に寝られる気配がしなかった。外は虫も鳴かないぐらい静かで、時計を見ると驚くことに日付が変わっていた。深夜なら虫だって鳴かないだろう。
気持ちを切り替えるために水でも飲んで落ち着こう。僕はそう考えて静かに一階に下りた。軋む床をゆっくりと踏みしめ、誰も起こさないようにする。しかし居間には人影があった。健吾さんだった。
「おう。なんだ。眠れないのか」
健吾さんは今帰って来たらしく、まだ自分の部屋に戻っていないようだった。小腹が空いたらしい。この町にコンビニなんてないのが辛いところだ。
「まあ、よくあることだ。この前の出張で行ったアンデスの山奥なんてな、コンビニどころか店がないんだ。原住民が物々交換で生活していてな」
健吾さんが笑って、その時の写真を見せてくれた。山奥らしき場所を背景に、女の人の腰を抱いて映っている。二人ともよく日焼けをしていて健康的だった。
「彼女、とかですか?」
聞いてみると、瞬間、健吾さんは相好を崩して、照れたように笑った。
「いやー、そうなんだよ! 可愛いだろう? 綺麗だろう。同僚なんだけどさ、しかも有能で、今はスペインにいるんだ。今まで会った中で一番綺麗だ」
聞いていないことまで教えてくれた。正直なところ、愛さんのが明らかに美人だと思う。顔に出てしまったのか、健吾さんはにやりと笑った。
「愛ちゃんはしょうがねえよ。元々モデルだったからな」
「モデル、ですか」
こんな田舎にモデルがいるのはおかしいと思うが、やっぱりと僕は納得してしまう。なんでそんな人がいるのだろう。
「あー、なんか知らないけど、整が東京に勤めてた頃に、いろいろあってこっちに連れて来たんだよ。まあ療養みたいなもんじゃないか?」
健吾さんは説明になっていないような説明をして、整はお人好しだからなあと笑う。そこで健吾さんのお腹が鳴って、僕まで笑ってしまった。
「そういえば冷蔵庫にスイカが入ってますよ」
「そういうことは早く言えよ」
健吾さんは嬉しそうにいそいそと冷蔵庫からスイカを出し、聞いてもいないのに僕の分まで切ってくれた。ついでに不思議な香りのするミルクティーみたいなものを淹れてくれる。
「まあ飲め。チャイだ、チャイ。眠れない時はこれだ」
健吾さんはずずっとチャイを飲みながら、忙しくスイカを食べた。一見ミルクティーのように見えるが、シナモンみたいな匂いがする。飲むと紅茶の香りと何かのスパイスの独特の甘くて爽やかな匂いが、口いっぱいに広がって鼻まで抜けた。そして体がポカポカした。チャイは外国のお茶らしい。
「健吾さんは、いろいろな外国に行っているんですか?」
健吾さんは少し考えた後、そうだなあと頷く。
「これから新しい資源を開拓しようって場所は多いからな。ブラジルとかも行った。すごいだろう」
健吾さんがニッと笑うと、黒い肌に白い歯が良く映える。ワイルドってこういうのを言うんだろうなと、僕はスイカを食べながら思った。
「俺達の会社は派遣会社に近いんだ。いろんな技術者がいてな。各地から自然科学系なんかのサンプルを採取して、大学の研究に協力もしている。俺の彼女、あ、美穂子っていうんだけどな。美穂子は海底洞窟に潜って、中の地図を書いてる。地質系の研究で使うらしいんだ」
美穂子の潜水テクニックはすごくてな、とまた健吾さんの彼女自慢が始まる。僕はしばらくそれを聞いていた。そうして健吾さんはスイカを食べ終わると、満足した顔でお腹をさする。そろそろ僕も眠くなってきたかもしれない。チャイのお陰でよく眠れそうだ。
「ありがとうございました。よく眠れそうです」
それはよかったと健吾さんは僕の頭をガシガシ撫でた。それから二人で二階に上がり、それぞれの部屋に入る。僕は先程の気分が嘘のように眠れた。
上京して何カ月かが経った日のことだ。その日はとてもいい天気で、私はどこかに散歩に行こうと考えた。いい天気といっても、林立する高層ビルの間から空は見えない。見上げてもそこにあるのは建物ばかりだ。どこに行こう。私には仕事があるが、今日は休みだ。
慣れない都会暮らしに、少し息を抜きたいと思う。しかしどこに行けばいいのか。とりあえず、街ではなくて人の少ない所に行こう。東京は人が多すぎる。今日ぐらいは人のいない静かな場所に行きたい。
どこに行くにも電車に乗らなければいけないと、私は駅に行く。地下鉄はむわりとした熱気が漂っていて、忙しなく人が行きかっている。行き先がはっきりしていて、駅を歩くことがルーチンワークに組み込まれている人や、初めて東京を訪れて、目的地に行くためにどうすればいいのかよく分からない人。二人の違いは明らかだ。歩き方を見ていればすぐに分かる。
私はこの駅から毎日勤め先に行くが、今日は勤め先に行くのではない。私は他の人にはどちらに見えているのだろうか。
私はとにかく街から離れてしまおうと、いつも乗る電車と逆方向に走る電車に乗った。電車は地下を走っているので外の様子は分からないが、街から離れていってるのかと思うと、少し心が弾んだ。
循環線だったので、適当なところで降りてみる。駅名は馴染みのない場所を指していて、私は期待と不安を半分ずつ抱きながら、外へと続く階段を上る。時間にしてどれぐらい乗っていたのだろう。ぼんやりと座っていたから、時間の感覚がはっきりしなかった。
階段を上り切らないうちから青空が覗く。階段の段の上から徐々に青一色の空が見えてくる。私の口元が期待感でほころぶ。小さくガッツポーズをして、最後の段を一段飛ばしで駆け上がる。しかし駅から出るとそこは工場街で、そのせいで高層ビルがなかったため空が見えただけだった。私は落胆したが、とにかく歩いてみることにした。
ここはどこだろう。少しそう考えたが、しかしその時の私にはどうでもいいことだった。
しばらく歩くと、どこをどう来たか全く見当がつかなかったが河原に出た。河原の向こうには立ち並ぶ工場が見えたが、私は妥協することにする。東京にしては、上出来だ。せっかくの河原なので、何かをしようと思い、平べったい小石を手に取る。回転をかけて石を投げると、石は水面で二回跳ねてから見えなくなった。
故郷の川ではよくこうして友人と遊んだ。彼は私より少し遅れて上京したが、時々会う。今はどうしているだろうか。気になってなんとなくでメールを送る。空メールを送るのも気がひけたので、迷子になったと本文を入れて送った。
しばらく河原でぼんやりしていると、日は暮れて遠くの空に星が見えた。辺りは薄暗くなっていて、駅への道が分からなくなる。しかし、多分なんとかなるだろう。最終列車に乗り遅れなければ、多分なんとかなる。そんなことを考えていると、着信音が鳴る。先程メールを送った友達だった。
「おい、まだ帰ってないのか」
彼は名乗る前に私にそう聞いてくる。私は一度頷いたが、そういえば彼は目の前にいないのだと思い直し、ああと返事をした。彼は今、私の家の前にいるらしい。彼は迎えに行くと言って、あっさり電話を切った。
迎えに来るだなんて。私は少し笑ってしまった。せっかちな彼は、私が今どこにいるのかも聞かなかった。小さな故郷ならいざ知らず、ここは東京だ。しかも本人である私でさえ、ここがどこなのか分かっていない。しかし私は再び河原のほとりに座った。彼が来なかったら来なかったでそれでもいいが、しかし彼は来るのだろう。私は根拠のない確信を持っていた。
彼とは小さいころ、鬼ごっこやかくれんぼをよくしたが、私を捕まえたり見つけたりするのは、いつも彼だ。
そして彼はやって来た。電話から三十分後、さして探しまわった様子もなく、河原の土手を降りて来る。どうしてここが分かったのかと聞けば、彼はなんとなく、とだけ答えて、私と同様に川に向かって石を投げた。石はとんとんとんと、私が投げるより元気よくたくさん水面を跳ねる。
彼は、鍋をするんだから早く帰るぞと言って、私を駅に案内してくれた。私は電車の中でもう一度彼に、どうして居場所が分かったのかと聞いたが、彼はやっぱりなんとなくとだけ答えた。その日は夏だというのに、彼は熱いつみれ鍋を作った。
朝ご飯を食べている最中、整さんが僕に帽子をくれた。今日は特によく晴れるから、帽子をかぶっておきなさいと言われる。帽子は整さんのお下がりらしく、シンプルな黒地のキャップだった。今日のご飯は、きゅうりとツナの酢の物に、冬瓜の煮びたしだった。
実は今日のご飯は早起きをした僕が炊いている。ここのところ生活リズムに体が慣れてきたらしく、早朝にすんなりと起きられるようになった。今日は時間にとても余裕があったので、愛さんの支度を手伝った。炊き加減に特に問題はなかったらしく、整さんも健吾さんもいつも通りご飯を食べている。
「今日のご飯、温君が炊いたのよ」
「へえ、そりゃまた随分早起きしたな」
健吾さんが欠伸をしながら、ご苦労さんと笑った。整さんは美味しいよと頷いている。でも僕は少し水が多いような気がした。いつも愛さんが炊いてくれるご飯は、もっとつやつやしていて、米の粒がみんなピッと立っている。味ももっと濃くて、香りもよかった。だが今日僕が炊いたご飯は、なんだかぼやけた中途半端な味と香りだ。
「僕はまだまだみたいです」
そう言ってみると愛さんは、凝り性ねえと肩をすくめた。
新聞社に入ると、沼澤さんがいつものように挨拶してくれた。今日の沼澤さんは目の下にくまがあり、一層疲れて見えたが、僕は何も言わないことにする。
「光のこと、ありがとう。光がとても喜んでいたよ」
「いいえ、こちらこそ。僕も暇だったので」
沼澤さんがお礼だと言って、ビスケットの箱をくれる。今日の釣りの時にでも食べようかなと、僕はありがたく受け取ることにした。
鮫島さんの到着を待ち、今日も自転車を漕ぎだす。手慣れてきて配達の地図の確認が減ったが、僕は相変わらずこの町の坂を自転車で上りきれないままだった。
「まあ、最初よりはましになったさ。最初なんてちょっと漕いだら、もうへばってたべな。成長だ」
鮫島さんにそう言ってみると、鮫島さんは疲れてへばっている時の僕の真似らしきことをした。そうして話しながら配り、今日も釣りをすることになる。エラコの袋をちぎり、ぬるぬると格闘しながら針に刺す。あまり失敗するとエラコがボロボロになってしまうから、慎重に刺した。
そしてキャスティングだが、力いっぱい竿を振っても、僕のはやはりテトラポットの隙間に落ちてしまう。どうも何かコツがあるらしいと、僕は考えた。
「そういえば、今日は帽子かぶってるな」
「これ、整さんがくれたんです」
「へえ、整さんが!」
鮫島さんが僕の帽子を称賛の眼差しで観察している。整さんがものをあげるのは、珍しいということなのか。僕が不思議そうな顔をしているのが不思議なのか、鮫島さんが少し首を傾げた。しかしすぐに合点がいったという感じで頷いた。
「整さんはな、俺の目標みたいなもんなんだよ」
「目標ですか」
整さんは優しい人ではあるが、憧れが抱けるかと言われると、僕は正直首を傾げた。田舎の民宿のオーナー。それ以外にも何か仕事があるように見えるが、僕はその仕事の内容を、在宅でも出来る仕事ということしか知らない。もう少し鮫島さんの話を聞いてみることにした。
「俺もさ、いつか整さんみたいにこの町を出たいんだ」
出たいと言っても、整さんは今この町にいるじゃないか。その時突風が吹いて、帽子が飛ばされそうになったので、僕は帽子を深くかぶった。この帽子は僕には少し大きかったので、余裕がある。
「本当は整さん、いつでもこの町から出られるんだ。出ないだけだ。出られない俺とは、全く違う」
「でも鮫島さんって、東京の大学に通っているんですよね。普段はこの町にいないじゃないですか」
鮫島さんは少し笑って、リールを勢いよく巻く。そしてもう一度全身を使って、勢いよくキャスティングした。投げられたエサ達は、向かい風だというのに遥か彼方まで飛んだ。しかし鮫島さんは納得いかなかったらしく、同じ動作をもう一度繰り返した。
「それでも、いつかここで暮らしていかなきゃいけない日が来る。そんなの、この町から出たことにならないだろ」
僕には、分からないことだらけだ。
「あーあ、いいなあ、都会は。都会で何年も暮らしてたら、この訛りだって、抜けるに違いねえ」
整さんだって健吾さんだって、昔は俺ぐらい訛っていたと、鮫島さんは昔を懐かしむように言った。僕には鮫島さんがどうしてそんなに都会にこだわるのか、よく分からなかった。この町はこの町で、僕は好きになりつつあるというのに。
それからしばらく鮫島さんは何も話さずに、海をじっと見ていた。海は穏やかで、波光がきらきらと眩しいぐらいだった。遠くの空には白い鳥が飛んでいる。うみねこかかもめか、僕には見分けがつかない。その鳥は羽ばたかずに、羽を広げるだけでふわりと上昇した。いいなあと、僕は思った。
「いやな、翔が進路調査の話をしてたからさ。俺だってそろそろ考えなきゃいけないべ。まあ、学費を払うのだってやっとの状態なんだけど」
柄でもなく真面目な話をしたと、鮫島さんが照れたように言う。大学。僕は自分の将来をおぼろげに思う。僕が返事をしないでいると、再び鮫島さんはぼんやり海を眺めた。もはや釣り竿を動かすこともしない。
そういえば僕にも鮫島さんにも、魚が全然かからない。場所が悪いのか腕が悪いのか、運がないのか。鮫島さんは全く釣果を気にしていないので、僕も気にしないことにしているが、そろそろ一匹ぐらいかかってくれないだろうか。
「なあ、知ってるか。ガラガラ蛇って、千分の一度の温度変化も感知出来るんだってさ」
鮫島さんはそう言って、竿を上下させた。僕も鮫島さんに習って竿を動かしてみる。魚を誘えているかはわからなかったが、どうせならやれるだけのことをやってみたい。
「すげえよなあ、ガラガラ蛇」
僕はガラガラ蛇なんて見たことないが、鮫島さんは見たことがあるのだろうか。なんとなく、派手な色をしているんだろうなと想像する。そういえば人間だって、鍛えれば感覚を鋭敏にすることが出来る。芸術家は視覚を、音楽家は聴覚を研ぎ澄ますじゃないか。
僕はそう鮫島さんに言おうとして、やっぱりやめることにした。鍛えたって、感覚なんて失うこともあるじゃないか。足だって、聴覚だって。そんなことを考えていると、ちょうどいいタイミングで船が来た。鮫島さんは、今日も釣れなかったなあと笑って、家に帰っていった。
家で暇を持て余していたら、愛さんが買いものに行くというので、ついて行くことにした。その時は家には誰もいなかったので、僕ぐらいでもいれば荷物持ちにはなれると思ったのだ。今日の夕飯は何にしようと聞かれたので、僕は少し考えてから、旬のものが食べたいと答えた。前に聞かれた時はがっかりさせてしまったので、なんでもいいと答えるよりは、リクエストを言うべきだろうなと思った。
「うーん。九月か。九月の半ば」
九月が旬の食べ物といえば、何があったろうか。中学校の頃家庭科で暗記したのだが、よく覚えていない。夏の食材は盛りを過ぎたが、秋の食材にはいささか早い気がする。とりあえず二人で坂を下ることにする。
「私、お料理あまり得意じゃなかったのよね。だから旬とか、よくわからなくて」
愛さんの意外な発言に、僕は驚く。愛さんが作ってくれるご飯は、毎日美味しいというのに。
「昔はお仕事が忙しくてね、ご飯はレトルトで済ませてしまっていたの。そうしたら体の調子がおかしくなってね、こんなになってしまったわ」
愛さんはあっさりそう言って、ただれたようになっている自分の肌を指した。そんな愛さんに食生活の注意をしたのが整さんらしく、愛さんが毎日ご飯を作っているのは、料理の修行の一環だという。
「ここではお料理を作ったり、庭いじりするぐらいしか出来なくてね。でも、やってみれば楽しかったの」
ガーデニングというものをやってみたくて、と愛さんは朗らかに笑う。そうしているうちに八百屋に着く。八百屋のおじさんに旬のものを聞くと、この辺のものがそうだと、店頭に並ぶ野菜を教えてくれた。店頭には、大きめのかぼちゃがまるごとでごろごろ積まれていて、その隣には緑の葉で包まれたとうもろこしが並んでいる。
愛さんは、煮物にしようかなと言って、鈍い緑のかぼちゃを、一つかごに入れた。それから一人一本ねと、とうもろこしを四つ入れた。
最後に買えばよかったと二人で反省しながら、僕達は八百屋を出る。かぼちゃととうもろこしの入った袋は重く、取っ手がちぎれないようにと、僕は袋を抱えるようにして持っていた。その後魚屋に向かうと、魚屋のおじさんが、申し訳なさそうにどこかの主婦と話していた。
「すいません、最近漁が不調続きで、冷凍物しかないんですよ」
漁業の町の面目も丸つぶれだと、おじさんが弱ったように話している。そういえば鮫島さんが、学費を払えないと言っていたが、このことと関係があるのかもしれないと、僕は愛さんが魚を選ぶのを見ながら思った。
「私がこの町に来た頃に、時々不調が続くようになったの。もう三年ぐらい前かしら」
帰り道、坂を上りながら愛さんがそう説明してくれた。重い袋を抱えながら坂を上るのは骨が折れたが、スイカを抱えた時よりかはましだ。あの時はもっと重く、そしてまだ気温が高かったため、汗だくになった。
家に帰ると、愛さんは早速かぼちゃの支度にとりかかった。かぼちゃをよく洗って、大きめの包丁で切り分ける。かぼちゃは硬く、愛さんはなかなか切り辛そうにしていたが、最後はザクっといい音を立てて半分に切れた。かぼちゃの濃い緑と中の明るい黄色は、見た目にも美味しそうだ。それをさらに小さく切って、鍋の中に入れる。小さな鍋のため、鍋はかぼちゃでいっぱいになってしまった。沸騰したら吹きこぼれてしまいそうだ。
僕はそれを見ながら、とうもろこしを包んでいる葉を剥いた。やけに大きなとうもろこしだなと思っていたが、葉を剥いているうちにとうもろこしはどんどん小さくなって、最後には葉を剥く前より一回りも小さくなってしまった。全て葉を剥き終わると、台所はとうもろこしの葉でいっぱいになってしまう程の葉の量だ。
「茹でたてが美味しいから、とうもろこしは食べる直前に茹でるわ」
愛さんはそう言って庭に出る。かぼちゃはあとはじっくり煮るだけらしい。愛さんが僕にも庭に出るように呼び掛けるので、僕も庭に出ることにした。
「そうそう、教えようと思っていたの。今朝、木槿の花が咲いたわ。綺麗でしょう」
愛さんが指した枝の先には、白い花が咲いていた。花弁は風にひらひらと揺れる程薄く、中心は淡い紅色に色付いていた。ただ咲いている花はどれも一様にしおれていた。愛さんは咲いている花を一輪摘んだ。愛さんの白い指先で、摘まれた花はくるくると遊ばれた。
「木槿はね、一日花なの。朝に咲いて、夕方にはしおれてしまうわ。朝に見せればよかったわね」
そういえば整さんが木槿を見たいと言っていたが、整さんはきちんとしおれる前に見ることが出来たのだろうか。
「でもね、木槿は毎日たくさんの花をつけるの。花は儚いけれど、木はたくましいのよ」
だから明日も見れるわと、愛さんは遊んでいた木槿の花を縁側に置いた。しばらく愛さんと他愛もない会話をしていると、健吾さんと整さんが帰ってくる。僕は全員分のご飯を盛り、食卓に並べる。
「そういえば、来週は初野湾岸の花火大会だな」
健吾さんがご飯をお代わりしながらそう言った。初野では毎年大規模の花火大会があり、遠和の高台でも花火が見られるらしい。整さんはしみじみとお茶をすすりながら、もうそんな時期かと呟いた。僕は花火大会を生で見たことがなかったので、出来れば見てみたいなと思った。
「いいね、たまには外で食べるのも、悪くないだろ」
整さんに頼んでみると、整さんもあっさり承諾してくれた。健吾さんがバーベキューをしたいと言ったが、そんな道具はここにないらしく、愛さんがお弁当を作るということで妥協した。そして食後に愛さんがとうもろこしを茹でてくれた。とうもろこしは粒がぴかぴか光っていて、歯を立てるとシャクっといい音がして、甘い味が口いっぱいに広がった。
「やっぱり、きみは美味いなあ」
健吾さんがそう言って嬉しそうにとうもろこしに齧りつく。きみというのは、この辺の言葉でとうもろこしを指す言葉らしい。健吾さんはとうもろこしが大好物らしく、とても美味しそうに食べていた。健吾さんは食べ終わると、愛さんと倉庫に弁当箱を探しに行った。整さんはとうもろこしを食べるのが苦手だといって、縁側でゆっくり食べていた。
「嫌いじゃないんだけどね、こう、皮が歯に挟まるのが苦手で……」
整さんはとうもろこしを一粒ずつぷちぷちちぎって口に運ぶ。健吾さんはその様子を見て、熱いうちに食べないなんて邪道だと整さんをからかっていた。整さんは愛さんが夕方に摘んで縁側に置いた木槿の花を、愛さんと同じように指でくるくる回した。回された木槿の花は、白と紅色の二色の円になった。
「木槿が咲くのを楽しみにしていたと、愛さんから聞きました」
整さんはとうもろこしをちぎるのを中断して、そうだよと言った。綺麗な花だが、派手さはない。この庭にはとてもあっているが、しかし夏の花でも秋の花でも、この花は主役になれないだろう。僕は木槿の花にそんな感想を抱いていた。思い返すとそれは、僕の演奏への先生からの感想とも似ていた。小綺麗にまとまってはいるが、光る何かが足りない。主役になるには、もの足りない演奏だと。
「ああ、木槿が好きなんだ」
噛み締めるように、整さんがそう言う。夜の暗がりに咲く白い花は、まるで自ら発光しているように見えた。ぼんやりと白い花が、夢みたいに光っている。そして風が吹くと、ぽとぽとと花は身投げのように落ちた。
「木槿は、存外強い花なんだ。枝だけ地面に挿しても、いつの間にか馴染んで、そこからまた木になる。どんな土地でも生きていける」
見た目と違って、木槿はとてもたくましい花らしい。自分への評価と重ね合わせるのが、申し訳なく思えるほどだ。整さんは目を細めて、木槿を眺める。少し眉を下げて愛しそうに、あるいは憐れむように。
ある日の新聞配達の終わりに、翔君と会った。その日は僕の調子が良かったのか、自転車で上り坂の半分を超えて上ることが出来た日だった。坂の上でいつものように待っていた整さんと愛さんはちゃんとそれに気がついてくれていて、成長してるじゃないかと褒めてくれた。
「おはようございます。なんだか今日は嬉しそうですね」
僕はそんなに分かりやすい顔をしていたのかと、思わず頬をさすってしまう。翔君は犬の散歩の途中らしく、足元に柔らかなクリーム色の犬がいた。犬はじっと僕を見ていたが、それきり興味を失ってしまったのか、ぺたんと翔君の足元に座りこんで動かなくなってしまう。毛皮がもこもこした、ぬいぐるみみたいな犬だった。
「あの、光に会ってくれるそうで、ありがとうございます」
なんだか最近、光は気難しくて。翔君はそう言って困ったような顔をする。僕は光ちゃんが言っていた翔君へのあれこれを思い出したが、とても教える気にはなれなかった。それは僕が折原に対して抱いている醜い嫉妬やお門違いな憎しみを、折原本人に知られるのと同じことだ。
「駅伝、頑張ろうと思って。光を俺が元気付けてやりたいなって」
翔君は照れくさそうに笑う。僕は頑張ってと言うより他はなかった。翔君にとって駅伝の意味は大きいと、鮫島さんは話していた。町の代表であることや光ちゃんへのエール、そして彼の進学もかかっているということ。この駅伝で活躍すれば、陸上の強い私立高校からスカウトが来る可能性もあるそうだった。僕達の学校で言う、吹奏楽大会みたいなものらしい。
翔君とわかれて鮫島さんと合流すると、雨が降って来た。季節の変わり目の雨は酷く冷たく、これでは風邪をひいてしまうと、その日の釣りは中止になった。そういえばここに来てから毎日釣りをしていたなと、帰り道に気が付いた。家に戻ると庭は雨に濡れていて、草木の緑は一層濃く僕の目に映った。つやつやとした葉っぱは水を弾き、薄くてかさかさした葉は雨を吸って項垂れている。
病院へのバスは、雨のせいか少し遅れて到着した。初野へ入り田園地帯に入るころには、この前と違って人がたくさん乗って来た。湿気と人の熱気で具合が悪くなってしまいそうだ。人は乗ったり降りたりしているが、バスの中の総人数は変わらないままだ。
病院に着き、人をかき分けるようにしてバスを降りる。雨足は相変わらずで、僕と愛さんは病院のロビーで一息ついてから、それぞれ診察を受けることとなった。今回は光ちゃんに会いに行く前に、先に診察を済ませておく。今回は聴力検査がなく、先生に耳の奥を覗かれ、いくつかの質問を済ませるだけで済んだ。
「こんにちは、雨は冷たかった?」
光ちゃんはベッドに横たわっていたが、僕が来るのを見ると、電動でベッドの背の部分を起こした。
「なんだかね、ごめんなさい。今日は調子が悪い」
「そうか。帰った方がいいかな」
「いい。居て。ちょっとでいいから」
今日みたいな雨の日は、膝下の義足の付け根が痛むの、と光ちゃんがズボンの裾を少し引き上げる。すると金属質な金具が足の甲にあたる場所に見えた。最初に会った時は、車椅子だったので全く気がつかなかった。
「立派な足。でもこれじゃ走れない」
光ちゃんはズボンを元に戻しながらそう言った。
「ここの窓から、温さんと女の人が入ってくるのが見えた。傘をさしていたから少ししか見えなかったけど、綺麗な女の人」
愛さんのことを言っているようだ。光ちゃんは、ときどき遠和で愛さんのことを見かけたことがあるという。その時には大抵隣に整さんがいて、二人はお似合いの夫婦のようだと、光ちゃんは言った。
愛さんのことは町の人はみんなよく分かっていないらしい。整さんの恋人でも親戚でもない、よく分からない人。ただ会って話していると朗らかでよい人で、肌こそただれているがそれでも美人で、みんなから好かれているそうだ。
「東京でモデルをやっていたそうだよ」
「そう。綺麗な人だものね」
私は何をしよう。光ちゃんはベッドの上でゆるく膝を抱えて、そう呟いた。そういえば僕はこの前光ちゃんに進路調査の紙を渡しに来たのだ。沼澤さんともその話をしたのだろうか。光ちゃんは、沼澤さんは、一体どうするのだろう。
「温さんは、どうするの?」
決して、他人ごとではない問題だ。ついこの前まで夢も道も、全て僕の目の前にあったのに。幻みたいに消えてしまった。僕はこれからどう行動して、何になればいいのだろう。僕は曖昧に首を振った。光ちゃんは、黙って目を伏せる。鏡映しの僕のようだった。
「翔、元気? 私あれから会っていないの」
「僕は今朝あった。君のために、頑張るんだってさ」
光ちゃんは、翔の言いそうなことだと言って、溜息をついた。僕は光ちゃんの反応がなんとなく分かっていたので、別に驚かなかった。
「ふふ、翔って面白い。走る足もない私を、走って励ますだなんて」
光ちゃんは、口元を歪めて笑った。面白いと言いながら、光ちゃんは悲しくて仕方のないという顔をしていた。しばらく光ちゃんはそうしていたが、それから、温さんのピアノが聞きたいとお願いされてしまった。僕はもう何日もバスーンにさえ触っていない。ましてピアノの腕なんてぼろぼろだ。
それでもいいという光ちゃんに折れて、僕はしょうがなく承諾して、光ちゃんに肩を貸して車椅子に乗せた。その時僕は右耳で、キイと金属が軋む音を聞いて、思わず手を止めてしまった。光ちゃんはなぜかごめんなさいと謝った。謝るのは、僕の方だと思った。
支えた光ちゃんの体は細く、少し熱かった。関節が痛いというのなら熱があるのかもしれない。安静にするべきだと僕は言ってみたが、光ちゃんは頑固らしく、聞く耳を持ってくれなかった。
休憩室に行き、キーボードをセットする。誰かが使っていたのか、キーボードの音がマリンバになっていたので、グランドピアノにセットし直した。リクエストはと聞いてみたが、特にないと言われ困ってしまう。夕飯のメニューに、何でもいいと聞かれるのと同じことだ。僕の手が動かないのを見て、光ちゃんは早くと急かした。
今の僕にも光ちゃんにも明るいメロディーがいいと思った。マーチにしよう。僕は拍子をとってマーチを弾いた。曲名はうろ覚えだが、子犬だったか子猫のマーチだった気がする。弾いている最中、時々後ろから鼻をすする音が聞こえたが、僕は演奏を止めることも振り向くこともしなかった。この曲が少しでも光ちゃんの慰めになると、僕は信じたかった。音楽には力がある。僕はその力を信じている。
帰る頃になって雨が上がった。愛さんと二人で、助かったねと笑ってバスに乗って遠和に帰った。夕食の準備にはまだ早い時間だったので、久しぶりに河原にでも行ってみようかなと思って、携帯を持って外に出た。何かあったら愛さんが携帯に電話してくれるだろう。
小道に生える草は、水分をたっぷり含んで重そうに頭を垂れている。草をかき分けようとしたら、袖に水がかかってしまった。袖の水を拭っていると、携帯が震える。ポケットから取り出して見てみると、折原からメールが来ていた。今、電話してもいいか。本文には一言それだけが書いてあった。この道を抜けたら、河原でこちらから電話をかけよう。僕はそう思って、がさがさと草をかき分けた。
小道を抜けると、折原から電話がかかって来た。どうやら折原は僕からの返信も待ち切れなかったらしい。僕は携帯を開いて、通話ボタンに手をかけた。ディスプレイには折原の名前が表示されている。先程まではかけるつもりでいたというのに、いざ通話の段階に来るとためらってしまう。とにかく、電話には出ようと、通話ボタンを押して、耳を当てる。
「もしもし、折原です。雨宮?」
雑踏の向こうに、微かになつかしい折原の声が聞こえる。僕はうっかり左耳に電話を当てていたことに気が付いて、慌てて右耳に押し当てる。折原は人が行き交う場所からかけているのか、聞き取るのが困難だった。
「元気そうで、よかった」
「そっちこそ。そうだ、大会、おめでとう」
折原の声の向こうに、微かにアナウンスらしき声が聞こえた。折原は、サンキューと言った。
「俺はこれから、ベルリンに行く。しばらく帰ってこない」
「……そうか。応援しているよ」
意外に僕は冷静に、折原へエールを送ることが出来た。僕はもう少し取り乱すかと思っていたが、存外、折原をきちんと送り出すことが出来そうだ。
「俺だって、お前のことを応援してる。お前のこと待ってんだからな」
折原は真面目な調子でそう言う。待たれたって、困る。僕はもう、折原と同じ舞台に立つことは出来ないのだから。
「僕のことなんていいだろ」
「何言ってるんだ馬鹿。お前は俺の戦友でライバルなんだ。勝手に脱落してんじゃねえよ馬鹿」
折原は鼻で笑うようにして、そう言った。僕も折原のすがすがしいまでに勝手な言い分に、怒ることも出来ずに、笑ってしまった。それにさ、と折原が続ける。
「お前は、音楽から離れられねえよ。一生、音楽を愛して、音楽に苦しむんだ」
呪いであり、祝福の言葉でもあるようだと思った。こんな不完全な感覚を抱えて、音楽と向き合っていく。それは天国であり、地獄だ。そして折原は電話をあっさり切り、僕は河原にしゃがみこんだ。そう言えば折原は、戦友でライバルだと言ったが、友達だとは言わなかった。それはとても折原らしく、僕は光栄だと思った。
しゃがみこんでいると、水の流れる音ばかりが聞こえる。顔を上げると、雲の隙間から光が漏れているのが見える。天使か何かが降りてきそうだなと思った。雲間から射す光は山の緑を照らす。山の緑は柔らかい緑で、初めて来た時よりも黄色味がかって見えた。
そうしてぼんやりしていると、日は陰り、涼しい風が吹いてくる。そんな夏の終わりの風が木々と僕の髪を揺らした。遠くの空は暗く、雲が白っぽく浮かんでいた。雲間に星がチラチラ見え、フィリリリと虫も鳴き始めた。風の音も虫の声も、僕の左耳には聞こえなかったが、それでも風は僕の身体を吹き抜けて、虫の囁きは僕の身体に染みていくようだった。
深く息をすると、身体の奥がひんやり冷える。バスーンがもしも手元にあれば、いい音が出るだろうにと僕は思った。
「ここにいたのか」
振り向くと後ろから、健吾さんが草をかき分けてやってくるのが見えた。健吾さんは歩きにくい道を軽快に飛び越えて、僕の隣に立った。
「おう、ずいぶん懐かしい場所にいるじゃないか」
小さい頃はここが健吾さんと整さんの遊び場だったらしい。この河では小魚を釣ったり水遊びをしたりして遊んだという。健吾さんは河原の石を投げる。石は水面を滑るように跳ねて、見えなくなった。自然がいっぱいの場所での健吾さんの振る舞いは、とてもワイルドで格好がいい。
「お前の後ろ姿、昔の整に似てて少しびっくりした」
整の方がずっと背は高かったけど、と健吾さんは笑った。健吾さんと整さんはこの町で一緒に育った幼馴染で、どこに行くにも二人だったという。
「ああ見えてあいつ、ダメなやつだよ。俺がいないと、すぐフラフラしちまう」
「なんだか健吾さんって、整さんの恋人みたいですね」
僕の言葉に健吾さんが吹き出す。健吾さんが大きな声で笑うと、その笑い声は河原いっぱいに木霊した。
「俺の恋人は美穂子だけだよ」
そうしてまた健吾さんの美穂子さん自慢が始まる。この場に美穂子さんがいないというのに、健吾さんは顔をくしゃくしゃにして、幸せそうに笑った。僕にはそれがよく分からなかった。
「お前、さては恋したことないだろう」
健吾さんの突然の指摘に、僕はうろたえる。授業で恋人への歌として、いくつか曲は習ったことはあるが、僕にはいまいちぴんとこない。
「好きな人がいるとな、すごいんだよ。その人でいっぱいになるんだ」
ますます僕にはよく分からなかった。健吾さんは僕にはまだ早かったなと、面白そうに僕をからかった。そうして健吾さんと話していると、小道から整さんがやってくる。
「おい健吾、温君呼んで来いって言っただろう。なんでお前も一緒になって遊んでるんだよ」
どうやら健吾さんは僕を呼びに来ていたらしい。健吾さんは思い出したといった顔をして、悪いと謝った。三人で小道を戻っていると、辺りはすっかり暗くなっていたことに気がつく。
家に戻ると、父から小包が届いていた。整さん達はこれを早く僕に見せたかったらしい。小包を開く。中にはつやつやしたヴルストと、サクランボのドライケーキ、それから手紙が一通入っていた。愛さんが、何が届いたのと聞いて来たので、手紙を抜き取って小包を渡した。そうだ、ケーキもヴルストもみんなで食べよう。父もそのつもりだったのか、小包にはいつもより多めに入っている。
「今日のデザートとおかずにどうでしょうか」
「いいのかしら?」
「父もそのつもりで送ったんだと思います」
すると整さんが、サクランボのケーキだと嬉しそうに小包を覗きこんでくる。そう言えば整さんは甘党だった。愛さんは、ヴルストの調理方法を調べ始めている。僕は縁側に出て、手紙を読むことにした。
手紙の内容は、いつも家に届くものと変わりなかった。僕の様子を問い、向こうの様子を伝える。しかしそこから先は少し違った。今年の冬に、父は休暇を取って日本に帰ってくるそうだ。その時にこれからの話をしたいので、僕にも考えておいて欲しいと書いてあった。
これからの話とは、僕の将来のことである。最後に会ったのは、中学の頃だ。あのころは全てが輝いていて、きっと父は今の僕との落差に愕然とするだろう。
その日の夕食の準備は、愛さんと整さんが台所に立っていた。二人が相談しながらヴルストを調理するのを、健吾さんが、ただ茹でるだけでもうまそうじゃないかと、笑って見ていた。結局ヴルストはパリッと香ばしく焼かれて出され、ドライケーキにはホイップクリームが添えられた。
クリームには明るい緑のミントが添えられていた。ミントは愛さんが庭で育てているものらしい。あの庭にミントみたいな、いかにも西洋の植物があるのに僕は全く気がつかなかった。ミントは生命力旺盛な植物らしく、定期的に刈らないと庭いっぱいに広がってしまうぐらいだそうだ。
「夏の盛りは、刈ったものをミントティーにして飲んでいたんだ。飲むと身体がスッとして。仕事もはかどるよ」
整さんはそう言ってドライケーキを口に運んだ。ケーキにはたくさんのドライフルーツが練り込まれていて、そして香辛料がたっぷり効いていた。さっぱり甘さ控えめとは対極の位置にあるケーキだ。どっしりしているといるが、香りが豊かで美味しい。四人で食べてもケーキは余ったので、鮫島さんや光ちゃんに持っていくことにする。鮫島さんの分は、家族で食べるだろうと少し多めに切り分けた。
新聞配達も手慣れて来て、もたつくことなく配達が出来るようになった。整さんの家に行く急な坂は相変わらず上まで一気に漕ぐことは出来ないが、それでも坂の半分から上まで上ることは出来る。僕にしてみれば進歩だ。整さんと愛さんは相変わらず坂の上でそんな僕の様子を眺めて微笑んでいる。鮫島さんはもう僕の心配はしていないらしく、自分の配達をさっさと済ませて、釣り場で待っていることもあった。
「そうだこれ、ケーキです。父が送ってくれたので」
鮫島さんが釣り具を取りに行く時に、僕は昨日届いたケーキを差し出した。鮫島さんは後で食べるだろうと思ったがその場で包装を開けて、一口千切って口に運んだ。
「なんつーか、大人の味だ。美味い」
もう一口食べてから鮫島さんは包装を戻して、家の冷蔵庫に置いて来た。家の中では鮫島さんのお母さんがご飯を作っているらしく、味噌汁のいい匂いがした。漁と朝練から帰ってきたお父さんと翔君と、味噌汁をすするのだろう。
今日もエラコを剥いて、針につけて飛ばす。相変わらず僕のは鮫島さんのように遠くには飛ばない。鮫島さんをこっそり横目で見てみると、腕というよりは足と腰をばねのように使って飛ばしているようだ。鮫島さんは、飛ばせばいいというものではないと言っていたが、僕は飛ばないよりは遠くに飛んだほうが気持ちがいいと思う。
「親父さんさは、手紙は書いたのか?」
「あ、はい。今度光ちゃんの所に行く時に、一緒に出そうと思って」
僕はひらひらと、父への手紙を振った。本当は今日ポストに投函しようと思っていたが、ここのポストに出すより、初野で出すほうが早く回収されるというのでやめたのだ。
「その手紙はこれから、海超えて、ドイツさ行くのか」
いいな、と鮫島さんは羨ましそうに手紙を見た。手紙が羨ましいだなんてと僕は思ってしまったが、鮫島さんは海を越えるという点を羨ましがっているんだと分かった。僕だって、海を越えて音楽の本場に行く折原が羨ましい。そしてしばらく鮫島さんは黙り込んだ。また、何か話せよと言われるのかと、僕は先に話題を探してみる。だが鮫島さんはそんなことは言わなかった。
「なあ、知ってるか」
「はい」
鮫島さんは竿を片手で持って、水平線の辺りを指差した。今日の空は雲が多く、海風は少し冷たかった。雲間から光が射していて、昨日河原で見た空と同じく綺麗だった。
「あの光を、エンジェルラダーっていうんだ。天使の梯子。この辺は山があるから曇りの日が多くて、だからよく俺はあの光を見る」
天使の梯子。僕はこれ以上ないぐらい、ぴったりの名前だと思った。
「でもあれ、単なるチンダル現象なんだって。昔健吾さんさ聞いたんだけど、空気中の水とかチリの粒さ光が当たって、光の通り道が見えているだけなんだ」
神秘でも神聖なものでもなんでもない。鮫島さんは自分に言い聞かせるようにぽつりとそう言って、竿を上下させる。その時、僕の竿が、がくりと海に引っ張られた。僕はどうしていいか分からずに、カチンと固まってしまう。とりあえす引っ張るべきなのか。だが竿は折れそうにしなり、引っ張るのも怖くなる。
「おいしっかりしろ、引け!」
「で、でも折れそうですよ竿!」
焦る僕の竿を、鮫島さんが横から握る。僕は反射的に手を離してしまいそうになったが、鮫島さんは、握っていろと言う。鮫島さんが掛け声をかけ、僕はそれに合わせて引く。
「魚が引っ張ってる時は緩めろ。で、魚が止まったら、その時に引け。魚もずっと引きっぱなしじゃないべ」
そうは言っても、竿には波の振動が加わっているため、いつ魚が引くのを止めたのかがわからない。鮫島さんは、大きいなと言いながら、竿を引いた。
「はあ、けっぱれ! 逃げられるべな!」
鮫島さんが何かよく分からないことを言いながら、竿を緩める。そこで竿にかかる力が、突然ふっと消えてしまう。鮫島さんは残念そうに、僕にリールを巻くように言う。きりきりとリールを巻くと糸が切れていた。逃がした魚は、そうとう大きかったらしい。
「やっと魚がかかったなあ」
「この海、ちゃんと魚いたんですね」
緊張が緩み、僕の額からどっと汗が出る。僕の言葉に、鮫島さんが面白そうに笑った。
その日の夕食は秋刀魚だった。秋刀魚は整さんの好物らしく、魚屋に買いものに行った時、愛さんが真剣な顔をして選んでいた。整さんは秋刀魚の味には特にうるさいらしい。そして八百屋ですだちを買い、家に帰って丁寧に焼き上げる。
今日は整さんも健吾さんも家にいて、整さんは一日中居間で仕事をしていた。愛さんは真剣にグリルを覗きこんでいるので、僕はご飯を炊くお手伝いだけ済ませると、邪魔にならないように台所を出た。
夕ご飯の時、愛さんはひどく真剣な顔をしてちらちら整さんを見ていた。整さんは何も言わずにいつも通りご飯を食べている。そんなに気になるなら、さっさと秋刀魚の感想を聞いてしまえばいいのにと思いながら、僕は秋刀魚にすだちを絞った。
焼きたての秋刀魚はすだちの果汁にじゅっと音を立てた。熱い内に口に運ぶと、脂がたっぷり乗っていて、黒いはらわたはこってりとして、そしてほろ苦く甘かった。秋刀魚とはこんなに美味しいものだったろうか。やはり漁師の町だから魚がおいしいのだろう。
「美穂子も秋刀魚が好きでな、食わせてやりたいなあ」
健吾さんがそれをきっかけに美穂子さん自慢を始めると、整さんはまたかと、露骨に嫌そうな顔をした。
「その話はずっと前に聞いたよ。俺、美穂子さんに会ったことないのに、お前のせいで美穂子さんのプロフィール空で言える……」
整さんの呟きを健吾さんは、まあいいじゃないかと聞き流した。そして、声の調子を改めた。
「俺、美穂子が帰ってきたらプロポーズするつもりなんだ」
そんな健吾さんの一世一代の決心も、整さんは、はいはいと聞き流す。なんでも二年ぐらい前からそんなことを言い続けているらしい。聞き流す構えの整さんに健吾さんは、指輪も用意したんだと鞄から指輪のケースを取り出す。ケースを開くと、指輪が入っている。ただしはまっている石は、ダイヤではなく光沢はあるが透明感がない緑の石だ。
「健吾さん、ダイヤじゃなくていいのかしら」
愛さんの質問ももっともなほど指輪の石は、言ってしまえば地味だった。緑なのでその辺の石ではなさそうだが、それにしたって結婚指輪にはそぐわない指輪だ。今日その指輪が出来て、健吾さんはそれを取りに行っていたらしい。
「ダイヤはな、傷はつかないけど砕けやすいんだよ。しかもよく燃える。そんなの俺達の絆には似合わない」
整さんは、顔をしかめて秋刀魚の最後の一口を飲み込んだ。そして、よく恥ずかしげもなくそんなことが言えるなと頭をかきながら、指輪を観察する。
「ヒスイか」
整さんの呟きに、ご名答と言って健吾さんは指輪を愛さんにも見せる。愛さんは少しだけ指輪を眺めてから、すぐに健吾さんに返した。健吾さんはその指輪をケースに収め、大切そうに鞄にしまった。健吾さんの解説によると、ヒスイは粘り強い石で、傷つきにくさこそダイヤに劣るが、砕けにくさは宝石の中では一番らしい。そして燃えづらく温度変化にも強い。
「でもなあ、婚約指輪がこんな地味でいいのか?」
「美穂子は外見より実質を取る女だ。整もそんな他人事みたいに言ってると、あっという間にジジイだぞ」
健吾さんの反撃に、整さんは複雑そうな顔をして肩をすくめた。愛さんはそんな二人の様子を笑いながら、食器を片付ける。その日はにぎやかな食卓になった。
「ありがとう。あとでゆっくり食べる」
光ちゃんにサクランボのケーキを渡すと、光ちゃんは戸棚に大切そうにしまってくれた。日持ちすることを伝えると、じゃあちょっとずつ食べれると喜んだ。今日はとても天気がいい。初野の町も花火大会を控えて活気づいていた。
「さっきまでお父さんが来てたの。進路の相談のために」
光ちゃんはベッドの上で足を伸ばしながらそう言った。さして落ちこんでいる様子もなくあっけらかんとしている。僕は意外だなと思いながら、光ちゃんに続きを話すように促して見る。
「横浜にある学校に進学を考えてみてくれないかって、お父さんに言われたの」
沼澤さんはもともと遠和ではなく横浜の人で、その学校に進学したなら、光ちゃんの一家は沼澤さんの実家に住むことになるらしい。勧められた学校は、身体が不自由な人達のための学校だという。
「お母さんが大反対してるらしくて。そうだよね。お母さんは遠和から出たことがないもの」
私のことなのに、二人が大喧嘩をした。光ちゃんはそう言って苦笑いを浮かべた。
「卒業までに、身体を動かす技能と学力を身につけたら、大学に進学しなさいって。自分で生きていくには、必要なことだから」
今時、障害者で学歴もなければどこでも就職できないだろう。だからせめて大学には進学するということらしい。僕には沼澤さんが、冷静に光ちゃんを諭す様子が簡単に想像できた。光ちゃんは、進学なんて考えたこともなかったのにと冷静に言った。光ちゃんは祖父の農業を継ぐ気でいたそうだ。
「私、勉強嫌いだもの。温さんはどうするの?」
僕は光ちゃんの問いかけに、考え込む。光ちゃんが冷静に将来について話してくれたので、僕も感傷に浸ることなくスムーズにこれからを考えることが出来た。傷はまだ痛むが、嘆いてばかりでは仕方ない。光ちゃんの姿勢は見習うべきだと思った。難聴と言っても、日常生活に支障をきたすほどではない。ただ音楽家としては絶望的であるだけだ。その点では光ちゃんより切迫していないと言える。
僕は何が出来るだろう。光ちゃんのように普通の大学に進学するべきか。それともこれから勉強を始めて、公務員を目指すという手もある。障害者なので、自衛隊にはなれないだろう。僕が知っている高卒の就職先はこんなところだ。一般企業は高卒なんて、まず取ってはくれないだろう。どの道を取っても、音楽とは歩めない。味気ない、人生だ。
「僕も、これからお父さんと相談するんだ。」
光ちゃんを見習おうと思った。僕だって、いつまでもここにいるわけではない。決意した僕に、光ちゃんは今日も僕に何か弾くように言った。
「何か具体的なリクエストが欲しいんだけど……あまりピアノの曲を知らないから」
なんだかメニューに困る愛さんみたいだなと思いながら僕が呟くと、光ちゃんも困ったように言った。
「本当になんでもいいの。温さんのピアノ好きだから。音楽を本格的にやっている人って、独特のセンスがあるのね」
おだてられたって何も出ないのにと、僕は苦笑する。しかしそこまで言われたら弾かないわけにもいかないので、休憩室に移動した。休憩室には人がいる。若い男女が身を寄せ合ってなにかをささやき合っている。ここで弾いていいのかと光ちゃんを見ると、弾いていいからここにキーボードがあるのだと言った。ただし昼間の間だけだという。
僕はキーボードの電源を入れて、軽く指を慣らしながら何を弾くかを考えた。せめてあの人達の話の邪魔にならないようにしよう。ショパン、バラード第二番。ただし本格的にピアノを弾くわけではないので、授業でやった途中までしか弾けない。僕の指がぎこちなく鍵盤を滑ると、光ちゃんは僕の隣でそっと目を閉じた。
「兄ちゃん、来てませんか?」
病院から帰って愛さんと夕食の準備をしていると、翔君がやって来た。僕と整さんが玄関先に出ると、翔君は心底弱ったという顔をして、玄関先でおろおろしている。学校帰りなのか、制服だった。
「兄ちゃん、父さんと喧嘩して、家を飛び出してったんです」
どうやら鮫島さんは家出をしてしまったらしい。それにしても、鮫島さんだって大学生だ。これほど取り乱さなくてもいいのにと僕は思う。整さんは少し目を見開いて、それは大変だと言って靴を履いた。
「俺も探そう。愛! ちょっと出てくる。夕飯までには戻るから!」
整さんは台所の愛さんに声をかける。廊下の奥から、愛さんの返事が反響して聞こえた。人は多いほうがいいだろうと、僕も手伝うことにする。
商店街から海にかけての道に、いつもより人がいる。みんな心配そうな顔をして、歩きまわっていた。海にいるかもと僕は思ったが、海ならとっくの昔にみつかっているだろうと考えなおす。鮫島さんの自転車がなくなっているそうなので、遠くに行ったのかもしれない。整さんは健吾さんに車を借りると、僕を乗せてエンジンをかけた。
「でも自転車なら、割と近くにいると思います」
「いや、分からないな。あいつの自転車は確か折りたためる。バスに乗って初野に出ているかもしれない」
整さんは自動車を走らせながら話す。整さんは、運転なんて何年ぶりだろうと恐ろしいことを口にした。健吾さんの車の中はシンプルな黒の革張りで、今時珍しくカーナビがついていなかった。後部座席には長靴やロープが積んである。
「初野ぐらいならすぐに見つかる気がしますが」
「問題は初野から出た場合だ。初野はこの一帯の交通の要所だからね。飛行場へのシャトルバスも、東京までの新幹線もある」
そこまでしたらもう家出のレベルを超えていると思う。僕は家出なんてしたことなかったので、どの程度までが家出なのかはよくわからないが。整さんは苦笑いを浮かべながら話してくれた。
「あいつな、高校生の時、一度家出してるんだ。その時どこまで行ったと思う?」
「高校生……初野でしょうか。ネットカフェで寝泊まりする人がいるって聞いたことありますし」
今の僕と同じぐらいの時、鮫島さんは家出をしたらしい。僕ぐらいの年齢。どこにでも行けてしまうし、しかし常識や不安に絡めとられて、どこにも行けない気もする。
「長崎にいたんだ」
「長……長崎!?」
ここから長崎なんて、本州縦断どころの話ではない。その時、暇だった整さんが長崎まで行って鮫島さんを連れ戻したそうだ。
「新幹線で東京まで行って、そこから長崎に飛んだんだよ。警察沙汰にするわけにもいかなかったから、駅員とかに聞いて回って」
本気で長崎で生活する気だったみたいで、整さんが見つけた時は、家と仕事を探していたそうだ。高校生でその行動力だ。大学生の今なら海外ぐらい飛んだりしてもおかしくない。みんなの慌てぶりも納得だった。
「家出のための資金を貯めてたらしくてさ。かなり計画的だったんだよ。初野を出るまで俺達に見つからないように工夫までしてさ。あいつ無駄に頭よかったから」
整さんは車のスピードを緩める。花火大会直前の賑わっている初野の街は、かなりの人の往来がある。この中から鮫島さんを見つけるのは至難の技だ。
「昔から、そこまでして遠和を出たかったんですね」
「ああ、執念を感じるね。だけどあいつのところの親父さんは、あいつに家業を継いで欲しいみたいで」
だからこそ余計に遠和を出たいのだろう。そして今回の喧嘩で、家出を決意した。鮫島さんと釣りをしていたあの日々、鮫島さんは僕の横で、いろんなことを考えていたに違いない。
「鮫島さんは、整さんが羨ましいと言っていました」
「まだ言っているのか、それ。あいつは勘違いをしているよ。俺も結局、あの町から出られなかったに過ぎないんだ」
車が交差点を緩やかに左折する。硝子張りの天井が綺麗な、初野の駅だ。ここにいなければ、すでに空港行きのシャトルバスに乗っていて、運が悪ければ本当に鮫島さんは行方をくらませてしまうらしい。
「俺も昔はあいつみたいな感じだった。あの町に残るよりは、都会に出たくて。言葉とか、必死に直した」
だから整さんは遠和の人なのに、鮫島兄弟のように訛っていないという。それでもふとした時や相手が訛っている時は自分も訛ってしまうそうだ。
「あいつも昔はテレビとか見て言葉を直してたんだけどな、あの家は漁師だ。浜の人間の訛りは特に強いから直らなかったんだよ」
だから髪を染めたという。せめて見た目だけは周りの風景になじんでしまわないように、綺麗な金色に。駅に入り、僕達はその金色を探す。あの町から出たくて金色に染めたというのに、あの町に連れ戻す目印になるのもあの金色だというのが皮肉だ。僕は辺りを見回して、整さんは駅員に聞きこみをする。入場券まで買ってホームも探したが、見つからなかった。手遅れかもしれないと、僕は不安になる。
僕が遠和に来てから、毎日会っていた鮫島さん。もっといろんな話を聞きたいと思ったし、僕達はまだ魚を釣り上げていない。僕は電話をかけてみた。もしかしたら捕まらないように鮫島さんは電話に出ないかもしれない。しかし長い呼び出し音の後、鮫島さんは電話に出た。
「はい、鮫島です」
「鮫島さん。僕です、今、どこにいるんですか」
僕は鮫島さんの電話に耳をすませる。駅を行きかう人の物音が邪魔で、何も聞こえない。鮫島さんの電話は風が吹いているみたいな音がする。屋外にいるのだろうか。僕は電話に耳をくっつける。整さんがこちらにやって来て、僕の電話を取った。整さんは何も言わずに、電話に耳を当てている。話しさえしていないのに、一体整さんは何がしたいんだろう。僕が電話を取り戻そうとすると、整さんは電話を切ってしまった。どうしよう。
「温君、車乗って。あいつの居場所分かったよ」
整さんはさっさと駅から出て、車に乗る。何が起こったのかさっぱり分からなかったが、整さんに従うことにした。
「前回も使った手なんだけどね、電話の向こうでアナウンスが聞こえたんだ。あいつ今、中央通りでバスを待ってるよ」
整さんが言うには、バスの案内とティッシュ配りの声が聞こえたという。大した技術だ。まさか整さんの職業は探偵か何かではないだろうか。
「そんなんじゃないけれど、そうだな、職業柄、取材をすることがあってね、一を聞き十を知るの精神だから、色んなことに注意を払うようにしているよ」
整さんは路地に車を乗り捨てると、小走りで中央街に向かう。僕も急いで後を追った。人の間を通り抜け、金色を探す。一度鮮やかな金色の髪が見つかったが、それは遠くからでも別人だとすぐに分かった。それは下品な黄色っぽい色で、鮫島さんの金管楽器の輝きとは全く異なっている。
「いた!」
整さんが人波の向こう側を指す。背の高い整さんには見えたらしいが、僕には全く見えない。それでもこの先に鮫島さんがいるのだと、僕は整さんを追い越して全力で走った。
「……よお」
鮫島さんは大きな荷物と自転車を傍らに置いて、バス停のベンチに座っていた。鮫島さんは、一度目を細めて、人ごみを越えようとする僕を見ると、悲しそうに片頬を引き上げて笑って見せた。僕は胸が締め付けられる思いだった。ああ、と肩の力を抜いて、ゆっくり絶望していく鮫島さん。ベンチに深く腰掛け両手を上げ、降参だと呟く。
鮫島さんは大人しく整さんの車に乗ったが、家には帰りたくないと言った。整さんは少し考えてから、取りあえず家に上がってご飯でも食べなさいと言った。
「まあ、電話だけはするよ。弟君が心配してたからね」
「はい」
自動車は初野の街を抜け、トンネルへ続く田園地帯に差し掛かる。田んぼにはいつか見た白くて細い鳥がいる。
「また遠くさ行かれると困るよ。探しに行くのはいいけどさ」
俺がどれだけ長崎で迷ったと思ってるんだと、整さんは笑いながら言った。鮫島さんは少しだけ笑う。自動車はトンネルを抜けてゆっくり坂を降り、整さんの家の前に止まった。整さんが降りるように促し、鮫島さんは荷物を持ってのろのろ降りる。玄関に荷物を置くように促し、整さんは家に入って行った。
「一日ぐらいなら泊めてあげるよ。お金はいいから」
「……すみません」
しかし二階の部屋は埋まっているらしく、鮫島さんは僕の部屋で一泊することになった。健吾さんが布団を準備して、鮫島さんを迎える。愛さんは鮫島さんに気を使わせないように、さりげなく一人分の料理を作り足していた。僕は鮫島さんが部屋で荷物の整理をしている間、居間に降りていることにする。バス停での鮫島さんの顔が忘れられなくて、なんとなく会いづらい。
鮫島さんが降りて来ると、整さんが鮫島さんに散歩に行こうと言った。整さんが僕も誘ってくれたので、行くことにする。鮫島さんに会いづらいといっても、明日も明後日も新聞配達はある。それに鮫島さんと気まずい状態でいるのは嫌だった。
「父さ、言われました。僕には父ば継いで、あの家を守る義務があるべと」
整さんが連れて来たのは河原で、僕達三人は川のほとりに腰かけた。河原の石は滑らかだが、石なので多少ごつごつして痛かった。鮫島さんは河原にごろんと寝そべると、目を閉じてそう言った。
「それだけならいつもの喧嘩です。でも今日は違った。翔が帰ってきて、こう言ったんです」
陸上の強い県外の高校から、本当に推薦が来るかもしれない。そうしたら僕は、世界で活躍する陸上選手になれる。
「父は、おめでとうと、嬉しそうに言ったんです」
それは、あまりにも酷な話だ。鮫島さんは、耐えられなかったときつく目を閉じた。たった一人の兄として、家族として祝福するべき報告だったが、それが出来なかった。鮫島さんは優しい人だ。そんなこと耐えられないだろう。
「翔君、心配していたよ」
整さんの言葉に、知っていますと鮫島さんは呟いた。そんな弟だから、余計に耐えられないと。僕は二人の会話を黙って聞くことにした。
「遠和の町はどんどん衰退していくでしょう。主産業の漁業ば衰退していますから。そんな町で老いて行く俺と、世界で活躍する翔。俺は綺麗な気持ちで翔を応援なんて出来ないし、そんな町で一生を終えたくない」
それほど出来た人間ではないのだと、鮫島さんは言った。整さんは苦笑いして、鮫島さんに言った。
「俺もそう思って都会さ出たけど、結局戻ってしまったべな」
いつの間にか整さんも訛っていて、僕には時々二人が何を言っているのかが分からなくなる。共通語と同じ言葉でもアクセントやイントネーションが全く異なるのだ。いっそのこと、と鮫島さんは言う。
「死んでしまえば楽さなれるべか」
「はあ、はんかくせぇこと言うなじゃ。死ぬのはとても苦しいんだ」
整さんは珍しく怒ったように顔をしかめた。鮫島さんもそれに気がついたようで、はっと口をつぐむ。
「整さんにも、温にも、わがんねよ」
川のせせらぎにかき消されるぐらい小さな声で、鮫島さんは絞り出すように言った。好きなことを好きなだけ出来る人に、この気持ちなんて分からない。整さんはそんな鮫島さんの言葉に何か言いかけたが、口を閉じた。鮫島さんはいつの間にか、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「おがしぐなりそうだ」
「……けっぱれ。応援してるんだどもこれでも」
連れ戻した本人が言うのもおかしいがと、整さんは肩を竦める。僕は好きなことを好きなだけしてきた人間だったから、きっと鮫島さんの悲しさに沿うことは出来ないのだと、ぼんやり思った。川はとても綺麗に流れて、海は穏やかに光っているこの町には、僕の知らないことがたくさんあった。
その夜鮫島さんはぐしゃぐしゃの顔でご飯を食べ、ぐしゃぐしゃの顔で整さんとコーヒーを飲んだ。まるで鮫島さんと整さんが兄弟のように見え、僕はなんとなく二人から距離を置いて、健吾さんが入れてくれたチャイを、愛さんと健吾さんの三人で飲んだ。居間はコーヒーとチャイの匂いが混じり合って、不思議な香りになっている。整さん達は縁側に出て、ぽつぽつ話をしているようだ。
「俺にはわかんねえな。俺もこの町を出た人間だけど、別に遠和が嫌だったんじゃなくて、やりたいことが遠和の外にあっただけだから」
健吾さんはチャイをすすりながらそう言う。健吾さんももともと東京で働いていたが、三年前に初野の支社に転勤になったそうだ。愛さんも僕もここよりは都会の生まれなので、なんとも言えない顔になった。愛さんはチャイの入ったマグを両手で持って、ゆっくり冷ましている。
「でも整はここにいるわ。もうあの人は、ここで生きていくしかないのよ。少なくとも本人はそう思ってる」
僕は愛さんが言っていることはよく分からなかったが、整さんにもいろいろあったのだろうということは分かった。愛さんが、言いそびれたけどと話を続ける。
「私、しばらく入院しなきゃいけないみたいなの」
今日の検診でそう言われたという。すぐに死ぬような病気ではないが内臓の病気で、肌のただれもそれが原因のようだ。花火大会が終わったら入院するらしい。
「退院はいつぐらいになるんですか?」
「早ければ二週間。遅ければ、秋いっぱいは出られないかもしれない」
それを聞いて、健吾さんが同情しているような顔をした。愛さんはそんな健吾さんにやんわりと言った。
「そんな顔しないで。病人だって怪我人だって、珍しいものじゃないでしょう。生きている限り、何かを損なうのは当たり前だわ」
健吾さんだって、仕事中に怪我をしたり、死んでしまったりするかも。誰にだって起こるという意味では、健吾さんも私も同じよ。愛さんはそう言って、チャイを飲んだ。そういう意味では、そこらへんの健康な人だって、病人や怪我人の予備軍だ。突発的な出来事で、死んでしまうことだってある。むしろ健康な人のほうが、かえって珍しいかもしれない。
「私が入院している間、温君にご飯を任せていいかしら」
「えっ、僕ですか!」
「ええ。なんでも簡単なものでいいから。温君が作った物なら、整も健吾さんもなんだって食べるわよ。ね」
愛さんの言葉に、健吾さんは頷く。健吾さんも整さんも仕事があるし、なにより僕は暇人だ。
「それから、花に水をやって欲しいの」
「花に水ですね」
土が乾いていたらあげて欲しいと言われたが、もう涼しくなってきたから、一日に何度もあげる必要はないだろう。僕が頷くと、愛さんは嬉しそうににっこりした。
そうして寝る時間になった。僕と鮫島さんは二階の部屋に上がり、二人並んで横になった。
「お前の部屋、綺麗だな」
「もともとあまりものを持ってきてなくて」
鮫島さんは部屋をきょろきょろ見回して、首を傾げた。
「楽器は持って来てないのか? ファゴットだっけ」
「押し入れにつっこみました。持ってきたけれど、見るのも耐えられなかったんです」
僕は寝返りを打って、鮫島さんに背を向けた。背中からの声は聞き辛いが、この部屋は狭く僕と鮫島さんの布団は離れていないので聞こえるだろう。
「もう音楽はしないのか」
「たぶん。こうなって、夢を追うのは辛いです。演奏者の世界は、それほど甘い世界でもないですし」
夢を諦めることは辛いと鮫島さんは言うが、追うのだって辛さを伴う。夢が捨ててしまえるものなら、どんなにか楽だろう。
「他にも音楽の先生とか、調律師とかいるべな」
僕は曖昧に頷いて、しばらく黙っていた。僕の寝ている位置から窓の外が見えるが、今日は晴れていて、星がとても綺麗に瞬いていた。なんとなく眠れなかったので、僕はしばらく星を眺めていた。青白い星や赤い星が見えたが、名前なんかはさっぱりわからなかった。
「なあ、知ってるか」
「はい」
鮫島さんは僕と同様にまだ起きているらしい。僕は鮫島さんのいつものフレーズに、反射のように返事をした。
「ちょうどこのぐらいの時間、いつもの釣りの場所から頭の真上辺りにぎょしゃ座が見えるんだ」
「ぎょしゃ座……聞いたことないです」
鮫島さんは、あの星座は日本ではマイナーだからな、と言って欠伸をした。鮫島さんにとって今日は大変な一日だったから、やはり疲れているのだろう。
「ぎょしゃ座のことを思い出してな、あれはお前の星だなと今、ふと思ったんだ」
その言葉がどういう意味なのかと聞こうと思ったが、鮫島さんはその先を言う気がなかったらしく、さっさと眠ってしまった。
次の日の朝早くに鮫島さんは出て行った。僕が起きた時にはもう身支度を済ませて荷物をまとめ終わっていた。家に帰ってご飯を食べて配達をするという。鮫島さんは、今日も釣りだからなと言ってすぐに家を出て行った。その様子はいつもの鮫島さんのように見えた。
「今日のお弁当、楽しみにしててね」
朝ご飯の最中、愛さんは張り切ってそう言った。いろいろあって忘れていたが、今日は花火大会の日だった。整さんも健吾さんも渋滞に捕まらないようにしないとと心配しながら仕事に向かった。
今日の配達で、僕は大きく成長の手ごたえみたいなものを感じた。というのも、整さんの家まで続く坂道を、あと少しで上り切りそうという地点まで上ることが出来たからである。整さんと愛さんは今日も門の前で僕を見ていて、その進歩を一緒に喜んでくれた。上り切ったわけではなかったが、確かな成長の手ごたえが僕を嬉しくさせるのだ。
エラコを針に刺しながら健吾さんにそのことを報告すると、鮫島さんは貧弱な坊やが成長したなと、からかい混じりに褒めてくれた。
「家に帰ったら、みんなびくびくしてたんだ」
「またいなくなるのかもしれないって?」
さあな、と鮫島さんは竿を振る。僕も鮫島さんと同じポーズでキャスティングしてみたが、鮫島さんほど飛距離は伸びなかった。しかしテトラポットの隙間を初めて脱出する。今日は追い風が吹いていたので、鮫島さんのエサ達は、いつもより遠くに飛んでいる気がした。
釣りを終えて家に帰る途中、坂の途中で翔君に呼び止められた。翔君はジャージ姿で、首にタオルを巻いていた。いかにも特訓中といった感じだ。少し話をしませんかと言われて、断る理由もなく僕は頷いた。
「兄ちゃんのこと、ありがとうございました」
道端で話すのもなんだと、翔君は商店街から少し外れた広場のベンチに案内してくれた。家の居間ほどの広さしかない場所だったが、小さな花壇には黄色い花が咲いていた。
「僕は何もしていないよ。整さんが見つけてくれて」
翔君は首にかけていたタオルを落ち着きなくいじっている。青くてやわらかそうなタオルだ。翔君はしばらく、あーとかうーとか唸っていたが、意を決したような表情で僕に質問してきた。
「兄ちゃん、僕のこと、言ってましたよね」
僕は返答に困ってしまう。本当のことを言うにはあまりにも酷で、もし僕が翔君の立場なら、どうしようもなくなってしまう。僕は視線を彷徨わせたが、翔君はしっかり僕の目を見てきた。
「本当は知ってます。兄ちゃんが俺のことどう思ってるのかも。だって俺は兄ちゃんの弟だから」
翔君は悲しそうに首を振って、地面に視線をやる。地面は硬く乾いていて、爪先で丸を描いてみると砂煙が小さく舞い上がった。
「でも、諦めたくないんです。せっかく夢が叶うかもしれないのに」
翔君はタオルをいじるのを止め、吐き出すようにそう言った。僕は鮫島さんの言葉を思い出していた。諦めたくないと鮫島さんも言っていた。結局二人とも兄弟なんだな、とぼんやり思う。整さんは、鮫島さんにこう言っていた。意味はなんとなくしか分からないが。
「こう言う時は、けっぱれっていうんだっけ?」
翔君はきょとんとしていたが、すぐにああ、と理解してくれた。
「夢は追っていると、辛いものだよ。でも辛さから逃げるよりも夢を叶えるほうがずっと大切なんだ。僕はそう思って、ずっと夢を追っていたよ」
説教臭くてごめんねと謝ると、翔君が笑って首を振ってくれた。僕は少しでも翔君の助けになれたのだろうか。
文字数制限があったので、大体半分ぐらいのところで上下に分けました。