epilogue3 ハッピー⭐︎ウェディング前 狂騒曲 さん
「秋の王都は、金の都」とは、いずこの詩人のつぶやきか。
10月末の王都は、黄金色に染まった銀杏に彩られる。
初代歌の聖女リリコが、銀杏の種を蒔いたらソッコーで成長し、その実が独立直後の王都を食糧難から救ったと言われている。
「大きくなーれ! ごはんになーれ!」
祈りを込めて歌った結果、王都が銀杏まみれになった。
かつてマリアベルは、「銀杏がくさくないって、設定が神!」と呟いて、フレデリックに首を傾げられた。
この都で生まれ育ったフレデリックにとって、銀杏は『非常食が実る落葉樹』である。幼少期、課題が及ばなくて食事を抜かれた際の、命綱だったのだ。くさかったら、困る。
マリアベルは逆に「王子の命綱が銀杏て」とドン引きした。
なんだかんだで仲睦まじく育ったふたりは、サンドライト歴422年の秋に、結婚の日を迎える。
黄金色の都市は、7日間にもおよぶ婚礼記念式典の準備でおおわらわだ。
国内外から訪れた賓客や観光客、一旗あげようと目論む商人たちで、迎賓館も宿屋も河岸も満員御礼。
街を飾るたくさんの段幕、キラキラ光る無数の飾り玉。婚礼にあやかった催しも目白押しで、老いも若きも、貴族も平民も、王都中が浮き足立っている。
王太子妃となるマリアベルは「フェスとお正月とクリスマスとハロウィンが、いっぺんに来たみたい」と思っていた。
あまりにもせわしなくて、明日が前夜祭初日のパレードだという実感が、わかない。
神経が昂っているのだろうか。夜半に目が覚めて、眠れなくなってしまった。目を閉じても羊を数えても目が冴える。もう、諦めてピアノを弾くしかない。シルクのネグリジェだけでは肌寒いから、ネルのガウンを羽織った。
8歳で王太子の婚約者になったマリアベルには、城内に専用の客室を与えられている。ピアノを弾くためだけの、窓のない音楽室も込みで。
客室を用意したのは王家だが、音楽室とピアノはフレデリックからのプレゼントだ。
妃教育の師、ミネルヴァ正妃が「上品で優しい弩級のスパルタ」だったから。幼い頃は、本気で泣きをみた。極上の笑顔で幼児を追い詰めるの、やめた方が良いとおもう。夢に出るし。
座学の難易度は、前世の感覚だと「K塾の模試なら8割くらい」だ。ありあだった頃は、普通に勉強して7.5割くらいだった。ピアノの時間を学業に充てれば、不可能ではなかっただろう。実際、知識の習得や芸術理解に関しては、あまり苦労しなかったから。
伸び悩んだのは、上流階級ならではの茶会や夜会の処世術、ファッションや話題選びのTPO、宗教行事の数々、細やかすぎる所作の諸々、そして公務という名の行政指導参加だ。特に最後の。地方河川の治水対策を丸投げされ、本気で実家に泣きついた日もある。ガチで流域に住む国民の、生死に直結するから! なぜか、親よりクリスフォードが完璧にフォローしてくれた。
誰もいない噴水に向かって「私なんか、小中高と公立で、のんきな趣味に生きたド庶民なのに。無理。もう無理。せめてピアノ弾きたい……」とひとりごちた日もある。
そうしたら、次の次のくらいのお茶会で、フレデリックにこの部屋に案内された。
「防音は完璧にしておいた。前世で弾いてた曲、弾いてよ。僕が聞きたいから」と。
めちゃくちゃ泣いて、めちゃくちゃ弾いた。
マリアベルは、この世界に存在しない楽曲を、公にしてはいけないと思っている。それをしたら、この世界ではマリアベルが作曲した曲になってしまうから。
オタク知識で異世界チートを否定するつもりはない。でも、音楽ばかりは、歴代の奏者たちが創りあげた無形のサグラダファミリアみたいなものだ、と思う。教会カンタータからオーケストラが生まれ、社会への反骨精神からロックが生まれ、科学の発展がテクノミュージックを生んだ。
偉大なる先人たちの、贋作家になりたくない。それが、ゲーム音楽作家を志していた少女の矜持だ。
でも、弾きたい。
覚えている曲、弾きたかった曲、弾けなくなった曲、全部弾きたい。こっそり楽譜を書いているが、逆に渇望が湧いて満たされずにいた。
習得する利が見えない厳しい教育、破滅への不安……音楽少女の転生者は、奏でることでしか発散方法を知らなかった。
うっかり、爪の先が割れるまで弾いて、慌てたフレデリックに肘を持ち上げられた。
「ピアニストは、爪が割れてからが勝負です!」と、反対の手でサムズアップしたら、ピシッとデコピンされた。
「きみが指を傷つけたら、侍女が怒られるだろ? ほどほどにしなよ」
「……そうね」
「ピアノは逃げないんだから」
「! また来てもいいの?」
「この音楽室とピアノは、僕からのプレゼントだ。君の客間続きだろ? 鍵を預けるから、好きに使いなよ。でもこんなに手を傷つけるくらいなら、辛いことを相談してほしい」
「えっと……嬉しすぎて、調子に乗っただけですから。大丈夫です」
あの時は、たいそう無邪気に「優しいし気前いいし。さすが王子様」とか思っていて、本当に申し訳ない。ものすごく本気で心配してくれていたのに。
「この曲、いいな」と言われたらもちろん、彼が心地よさげに目を細めた曲の完成度を高めることで、あのスパルタを乗り切った感がある。
マリアベルが蓋をしてきた恋心を、フレデリックは知っていたのかもしれない。それでも、マリアベルが怖がらないよう、不安を見逃さないよう、適度な距離感を保ってくれた。
思い出せば出すほど、感謝の気持ちが胸にこみ上げてくる。
演奏曲は「主よ、人の望みの喜びを」
ステンドグラスから差し込む光を連想させる、優美で荘厳な曲だ。なんとなくだが、フレデリックはバッハの曲が似合うと思う。優美で力強くて、とても神聖なイメージだから。
弾き終えて鍵盤から指を離すと、パチパチと手を叩く音が。振り返る間もなく、たったひとりの観客に背中から抱きしめられた。
「相変わらず、見事だ」
「フレッド」
「子どもの頃に聞いた同じ曲より、弾き方が力強い?」
包まれるように抱きしめられて、マリアベルはそのカフスにそっと触れた。サンドライトの王族を象徴する、唐草の刺繍が美しいカフスを。
「もともとは、たくさんの楽器を使った合唱曲でしたの。さまざまなアレンジがありますが、先ほどのピアノアレンジはオクターブを超える和音が多くて。幼い頃の私や、ありあの手では、弾きこなせませんでした。今はせっかく指が届くようになったのに、いまいち鍛錬不足ですわね。お耳汚しを」
好きなことを語ると、つい饒舌になるマリアベル。
大人びた美貌と抜群のスタイルを誇るが、本人が誇る1番のチャームポイントは「大きな手と長い指」である。前世では、音をばらしたり省略したりペダルを工夫したりして、諦め、または食らいついた和音を、易々とクリアできるから。前世も今世も、立派なピアノオタクであった。
「以前弾いたバージョンは、こちらですわ」
奏ではじめると、フレデリックは抱きしめていた腕をほどいた。女性作家のアレンジだからか、先ほどの演奏よりオクターブ超えの和音が少なく、調べが繊細で敬虔だ。
マリアベルが奏でている間、フレデリックはピアノの上に置かれたお手製の楽譜を眺めていた。
「合唱曲なんだよね。どんな歌詞?」
「異世界の神を讃える讃美歌ですの。あなた、この曲を弾けまして?」
「ん、もう一度通してもらえば、多分」
いつの頃からか、フレデリックは楽譜を見て演奏を聞けば、大抵の曲を初見で弾けるようになっていた。マリアベルとしては「この完璧超人め」と、こめかみをグリグリしたくなる天才である。
「何で、難易度の高い方をやらせるかな」
「こちらの方が歌いやすいから、ですわ」
パッケージに掲載された悪役令嬢スマイルで、席を譲ってあげた。ノーメイクのネグリジェ姿では、いささか迫力に欠けるけれど。
フレデリックは、人当たりは柔らかくても、とんでもなく負けず嫌いだ。案の定、数回指を慣らしたら、あっさり弾きこなしやがった。フレデリック曰く、『譜面通りに弾けばとりあえず形になるクラシックより、瑛美のアイドル曲やゲーム音楽の方が難しい』らしい。
マリアベルはピアノの傍らに立ち、軽く発声練習をしてから、彼に合図をした。
「Jesus bleibet meine Freude,
Meines Herzens Trost und Saft……」
青い瞳が、好奇心と驚愕で見開かれた。
サンドライトの音楽は、メロディーと歌詞が同一の、単純な曲が多い。合唱は盛んだが、多様な楽器を購入して維持できる富裕層が多くないせいもある。
だからこそ、フレデリックの耳には、マリアベルの奏でる音楽がとても斬新で、魅力的に聞こえるのだ。
マリアベルは歌ったり、連弾に誘ったりして、やりたい放題しはじめた。
幼い頃に、フレデリックがはじめた遊戯だ。涙をこらえるマリアベルを慰めたくて。言葉では多分、届かなくて。
最初は譜面通りだが、だんだんアレンジが加わって、原曲がわからなくなるまでが、この遊戯のお約束だ。
子どもの頃は、だいたい「ネコ踏んじゃった」で締めた。ピアノを習ってなくても弾けるお手軽曲ながら、締めの実力が侮れない逸品である。
大人になった今はーーー曲が途切れたタイミングで、フレデリックがキスを仕掛けた。
賑やかな演奏が止まり、呼吸の音さえ拾う夜の静寂が訪れた。
「眠れなかった?」
「ん」
「緊張、してる?」
「自覚ないけど、多分」
「僕も、眠れなかった。明日が楽しみすぎて」
囁く声と耳元をくすぐる吐息に、マリアベルは思わず身をすくめた。こういう反応をするから、フレデリックは抱きしめる力を強くして、たくさんのキスをはじめてしまうのだ。
「ピアノは神聖なんだから! ここじゃダメ」
不埒な手をつかんで甲を軽くつねると、王子さまは「ピアノは神聖、か。……たしかに」と、急に真顔になった。
「フレッド?」
「この楽器は、いつだってマリアベルを支えてくれた。君の奏でる音楽に、僕も癒しと勇気をもらってきた」
「この音楽室とピアノを用意してくださったのも、気弱な私を守ってくださったのも、貴方ですわ」
フレデリックは長椅子から立ち上がると、マリアベルの白い手を取り、甲にキスをした。
両思いになるまではふりだけだったけれど、夜の闇に響くリップ音が、なんだかなまめかしい。
エスコートされるように立ち上がったマリアベルを前に、フレデリックはカフスの袂からリングケースを出して、ピアノの上に置いた。
「ベル。これを」
「なあに? ……まあ、綺麗!」
それは、一対のエタニティリングだった。全周に色ダイヤが留められたフル・エタニティ。
小さな指輪は金の地金にブルーダイヤ。大きな指輪はプラチナの地金にパープルダイヤ。濃淡のグラデーションが、燭台の灯りに照らされて輝いている。
等級とサイズと絶妙な濃淡の色味をここまで揃えるとなると、権力や財力だけでは難しい。数年がかりの時間や高度な技術が要る。
それがわからないマリアベルではない。
何年も前から、長い間ずっと、彼が愛してくれてきた証拠だ。
「どうして……」
「異世界では、結婚式で交換した指輪を生涯外さないんだよね? 頬を赤らめて、目をキラキラさせて、そう言った女の子があまりに可愛くて」
以前「主よ、人の望みの喜びを」を演奏した時、そんな話をしたかもしれない。
デビュタント前で、10歳くらいだったと、思う。
従姉妹の結婚式の為に練習したとか、指輪の交換に感動したとか、その程度の世間話しかしていないはずなのに。
「挙式に組み込むことも、できなくはなかったけど。僕個人が君だけに誓いたいって思って。デザインが気に食わなければ、直すけど……ベル?」
マリアベルは、リングケースに並んだ指輪を前に、両手で口元を押さえていた。
すみれ色の瞳からあふれる涙を、必死にこらえながら。
「受け取って、くれるね?」
「はい……!」
マリアベルの指に、金の台座のブルーダイヤのリングをささげた。マリアベルもフレデリックのしなやかな指に、プラチナの台座のパープルダイヤのリングを通した。
いつになく真剣な、青いまなざし。マリアベルの心をざわめかせる、厳かで優しい声。
「ピアノと指輪と、君の全てに誓うよ。ひとりの男として、生涯君を、君だけを愛すると」
「私も誓います。病める時も健やかなる時も……どうか、どうか、お傍にいさせてくださいませ」
泣き出したマリアベルを、フレデリックは腕の中に閉じ込めて、背中に流した巻き毛を撫でた。
今宵、マリアベルは、シルクのネグリジェにガウンを羽織っただけの軽装だ。
たわむれに抱き上げて、フレデリックはその軽さに驚いた。ドレスでも修道着でも、痩せ過ぎを心配したほどだったのに。貴族女性の下着の総重量って、いったい……。
「……っ!!」
マリアベルの方は、悲鳴を飲み込んでいた。
身長差は10センチ程度なのに、鍛え抜いた彼は軽々とマリアベルを抱き上げてしまう。
上から見ても横から見ても美形って、反則だ。
夏空みたいな青い瞳に見あげられて、動悸を止められるマリアベルなんていない。
フレデリックは、マリアベルを抱いたまま音楽室を出て、客室のソファに沈みこんだ。恥じらう頬を引き寄せ、情熱的に唇を貪る。
フレデリックのキスは、強引で、激しくて、切なくなるほど甘い。やっと呼吸の仕方を覚えたのに、すぐに息がきれてしまう。
フレデリックの服の固さとネグリジェのシルクの衣擦れが、もどかしい刺激をあたえる。
やがて、大きくて固い手が、しなやかな指が、無防備な素肌に触れてきた。
「え! 今日も、練習……するの?」
濡れた瞳がまばたきをした。
「本番前の、総練習だね。こんな夜更けに来た僕が、何もしないと思う?」
「…………………知らない」
学園卒業後、「褥の詳細」を教わって以来、ふたりきりの逢瀬が加速的に甘くなってしまった。
「初夜って圧がすごそうだし、絶対にアーチに譲りたくないし。少し練習したい」と提案されて、それもそうかと了承したら、深みにはまったというか。沖まで流されたというか。
絶対に「少し」じゃないと気がついた時には、マリアベルも彼に溺れていた。時には自らすがりついてしまうほどに。
「知らなくは、ないだろ?」
「…………ばか」
思わず両手で顔を隠すと、「なに、その顔。かわいすぎる」と、指輪に口づけをされた。指輪、涙、こめかみ、髪、耳、首筋、唇……エトセトラ、エトセトラ。
純潔を散らす前に、こんなにも甘く触れ合って、よかったのだろうか? マリアベルは逡巡した。
今さら、知らなかった自分たちには、戻れないけれど……。
「で。婚礼前日に夜這いするウツケが、どこにいるのさ?」
自室に戻ったフレデリックを、従兄弟で腹心で親友でスペアのアーチラインが待ち構えていた。
時刻は午前4時。
フレデリック的には、よくある就寝時間である。
「チッ……熟睡してると思ったのに」
「護衛対象が脱走すれば、起きるよ。行き先がマリアベルの客間だったから、放置したけど」
一線さえこえなければ、なんでもいいと言わんばかりだ。
『まっさらな新雪を愛でたい気持ちはわかるけど。失敗できない褥で、ゼロスタートは危険だ。それなりに慣らしておけ。具体的には……』と入れ知恵をした本人だし。
アーチラインだって断固チェンジしたくないし、初夜の床が殺人現場になってほしくもないのである。
そんなこんなで、本日から初夜を迎えるまでの3日間、アーチラインは「王太子の間」で寝泊まりしている。
最終的に褥事の認識が間違っていないか、確認する役割もあるのだろう。
20年前の国王と王弟がどんなだったか、ちょっと想像したくない感じだ。侍女の代理に王姉アストレア(国内最強女子)が入っていたという記録だけで、お察しだが。
この、いわくつき過ぎる「王太子の間」は、フレデリックが立太子してからつい最近まで、刺客まみれだった。
オケアノスが停戦条約を調印して以降は、誰も暗殺にこなくなったが……あの男がほざく自称『無位無冠』も、信じたらダメだ。
ともかく、暗殺の心配がなくなったらこっちかと、アーチラインは胡乱な眼差しをパープルダイヤの指輪に向けた。正妃殿下の心配も、あながち過剰と言い切れまい。
「揃いの指輪を、マリアベルに?」
「もちろん」
濃淡のグラデーションが、たいそう見事なエタニティリングだ。細すぎず細身で表面がフラットなので普段使いに最適。重厚な指輪を重ねても映えるだろう。最適が過ぎて、ちょっと怖いくらいだ。うっかり触れただけで、呪われそうというか。
「……特級呪物?」
「失敬だな。君だってエイミに琥珀やシェラサードブルーの品々を贈ってるだろ? 同じだよ」
「婚約者として当然の贈り物と、生成までに10年近くかかりそうな執着の品を、一緒にしないでほしいな」
アーチライン、なかなかに辛辣である。遠慮する間柄でもない。フレデリックは、彼の前にワインの瓶を置いて核心に迫った。
「なにか、気に触ることでも?」
「いや……」
アーチラインは遠慮なくワインを空けて、グラスに注いだ。フレデリックの分を先に注ぐあたり、側近が板につきすぎている。
「ああ、ひとつ言っておく。僕は伯父上ではないから。衝立の外には出ないよ」
同じ話をエイミにした瞬間、空色の瞳に涙の線が浮かんだ。ぷっくり膨らんだそれは、表面張力の限界を迎えてポロポロと白い頬を伝わった。
『そんなの、宣言しなくていーのに。フレディ様が衝立の内側には入らないだろうっておっしゃってたから、真に受けたままでいたかった……デス。そりゃ、他の人から真相を聞くよりは、マシですけど』と。
アーチラインは平坦に告げた。
「こちらで説明するつもりでいたんだ。余計なことは言わないでほしかったよ」
「なるほどね。私は、我が子の代までに、借り腹と代理人制度を廃止したいんだ。忠臣である君が放棄してくれると、やりやすいんだがね」
全く悪びれないフレデリックに、アーチラインは「こういう人だけどさ」とため息をついた。
最も、借り腹や立会人制度の廃止は、アーチラインも賛成だ。子を成す機能の検査や、親子鑑定技術が向上した現在、形骸化された悪習とさえ思う。
「僕が衝立に入るのは、王太子妃と彼女の健康維持に欠かせない、女医や看護師らを護衛する為だ。ステラがいるから、さほど心配なわけではないが……」
聖職者でごった返す衝立の外にいたら、剣を得意とするアーチラインは逆に動きづらい。
混戦に慣れたスゥに任せた方が、理にかなっている。
屋根は辺境のワイバーンライダーたちが、ふたつの大河の水路はシーサーペントライダーたちが巡廻するから、外の守りを気にする必要もないし。
「先代のスペアは、天井に細工して屋根裏に登り、戦闘服に着替えて朝まで待機された。立会人の役目を放棄することで、最適解を取ったのだと、僕は思う」
あの時代の警備体制では、真上はガラ空きだったはずだ。
愛する女性を初めて抱くのだ。多少は無防備になる。
それがわかるから、ファルカノスは自らの居場所を寝室の真上に選んだのだろう。何があっても、王太子とその妃を守るために。
アーチラインは、王弟ファルカノスこそが、サーガフォルス陛下の最たる忠臣だと思っている。
もちろん、日頃口にする『世界一ムカつく』も、断じて嘘ではないだろう。双子心は、なかなか複雑みたいだ。
「それならアーチも、『立会人』は放棄してるだろ」
「言われてみれば、その通りだけど。そもそも、歴代に純然たる立会人なんて、いたのかな?」
「さあ……?」
褥事は秘事なので、衝立の中のこと、天幕の中のことは、外にいる記録人には窺い知れない。まして今代の天幕ときたら、要塞っていうか、結界っていうか、人知を超越した何かだし。
「ともあれ、だ。君の娘が次の王太子に嫁ぐ可能性も、なくはないんだ。悪法は駆逐しよう?」
「……そうだね」
「現行の規範だと、立会人は私の次男かアーチの子息あたりになるだろう。エイミは、さぞ嫌がるだろうね。子どもを連れて、離婚しかねない程度には?」
「よし、今年度中に廃止しよう」
先ほどまでの呆れや逡巡を、秒で流したアーチライン。日和見は彼の十八番である。
フレデリックは鷹揚に頷き、いつも通り極上の笑みを浮かべた。
「頼りにしてるよ。これからも。この先の未来も」
こうして、未来の国王と宰相は、与太話をしながら酒を飲み交わしたのだった。独身最後の夜が明けるまで。
◇
華やかなパレードやお披露目の式典が続く前夜祭がスタートして、3日目の夕刻。
王都の大聖堂にて、王太子フレデリックと王太子妃マリアベルの、婚礼宣誓式が執り行われた。
大聖堂の扉が開かれた瞬間、参道につめかけた人々は息を呑んだ。
王太子フレデリックにエスコートされた新妃が、あまりにも美しかったから。
挙式前、純白のベールで顔を隠し、父親のシュナウザー公爵と腕を組んで参道を歩いたマリアベルは、たいそう神秘的だった。
だが、結婚宣誓式を終え、ベールを上げた彼女は、誰もが息を呑むほど清らかで、瞬きを忘れるほど美麗だった。
繊細な刺繍を幾重にも重ねた、純白のドレス。
複雑に編み上げた銀髪に輝く、白銀のティアラ。
背中に流した長い長いベール。優しい雰囲気の白い花を集めたブーケ。
白磁のような肌。薄紅色の頬に、優しげな笑み。流通している絵姿は気の強そうな美女だが、この日のマリアベルは国民の認識を一新させた。
茜色に染まる空、金色の陽光、舞い踊る木の葉。
響き渡る大聖堂の鐘の音。鳴り響くファンファーレ。
フレデリックが大階段を降りた瞬間、どこからともなく歓声が上がった。
「フレデリック殿下!」
「マリアベル妃殿下!」
「おめでとうございます!」
階段の脇に並ぶ貴族たちが、沿道を埋める平民たちが、盛大な拍手を送った。
日頃厳しいシュナウザー夫人も、さすがに眉を下げ、笑みを浮かべて手を叩いている。見た目は悪役ロマンスグレーなシュナウザー公爵は、感極まって泣きそうだ。一段下がりつつ、クリスフォードは養父の失態フォローに余念がない。
アーチラインとフレデリックが、すれ違いざまに笑顔で拳をぶつけ合った。
階段脇で見守る貴族令嬢たちが、双眼鏡を覗いていた婦女のみなさまが、貴賤を問わず赤面し、または倒れてゆく。
(相変わらず、ファンサービスが凶器!)とか思いつつ、全力で拍手するエイミ。その眼前に、白い花のブーケが差し出された。
「ふぇ?」
甘い香りのバラやリシアンサス、スノーホワイトにクレマチス。新婦の持つブーケは、どこかエイミの故郷に咲く花たちを連想させた。
「エイミさま。今宵、私は王太子殿下の……フレッドだけの花嫁になります。この白い花たちに誓い、貴女に捧げます。どうか私たちを、そして、アーチライン様を信じてください」
ポカンと見上げるエイミに花を捧げて、幸福な花嫁が囁く。花嫁は極上の笑みを浮かべ、花婿と腕を組んで大聖堂の階段を下っていった。
暮れなずむ秋空に、一番星が輝き始めた。
人々は、フレデリックとマリアベルを迎え入れ、追いかけるように拍手を送っている。
エイミはアーチラインに寄り添って、空いた手で彼の手を握りしめた。
「エイミちゃん」
覗きこんでくるまなざしは、いつも通り優しい。エイミは白いブーケを自らの胸につけて、視線をあげた。
「また私……ベルベル様に守られちゃいました」
王太子妃が、祝福のブーケを直接手渡したのだ。
もともとマリアベルはエイミのフォローに余念がなかったが、これは破格だ。今後、エイミを軽んじる者は、マリアベル妃に忌避されることになると、国中に知らしめたのだから。
「アーチ様、お願いです。今夜、おふたりを、特にベルベルさまを、ちゃんと守ってくださいね。逃げちゃったら、ガチで怒りますから」
澄んだ空色の瞳で、愛しい人を、まっすぐに見上げる。
アーチラインの眉が優しく下がった。温厚なアーチラインが、ますます優しく見える。エイミが一番好きな表情だ。
「仰せのままに。夜が明けたとき、君の目を見て話せる自分でいるから……信じて、待っていてほしい」
聖堂の鐘が、再び鳴り響いた。
大歓声にかき消されなかった誓いに、エイミは「信じます」と頷いた。
『主よ、人の望みの喜びよ』(1723)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ




