旅立ちの皇太子と、通常運転な王太子
マリアベルが次に目を覚ました時、やんごとなき王太子と皇太子は優雅に昼餉を召していた。スゥが貯蔵庫を探し、年単位で保存のきく干し肉やチーズ、果実酒などをみつくろったらしい。
「やあ。マリアベル。気分は?」
「大丈夫……です」
マリアベルは、表情筋を動かさずに瞬きをくりかえした。
身を起こすとめまいがするが、立ちくらみではない。
無防備な寝起きに浴びた、イケメンビームのせいだ。
右に、ボロボロの旅装束から偉そうな衣服に着替えたフレデリック。
左に神堂の狂気が消え、優雅にして高貴なオケアノス。なぜか、その膝にスノーローズが頭を乗せてゴロゴロしている。
ありあ時代の一推しと二推しが、こちらに視線を向けて微笑んでいるなんて。
ありえない。
こんなボーナススチル、現実にあって良いのか???
この世界には存在しない「携帯カモン!」な非常事態である。
「ベル、大丈夫?」
「はい」
「……本当に?」
「ダイジョウブ デスヨ ?」
令嬢の矜恃で動揺は見せないが、フレデリックはなんとなく何かを察しているみたいだ。
微妙にだが、笑顔が引いている。思い返せば、オタクモードに入ると、サーっと距離を置かれてきたような気がしないでもない。改めないけど。
一方、オケアノスは、ありあベルのオタク加減を知らない。カケラも気がついていない。幸いなことである。
「未来の王太子妃マリアベル・シュナウザー。御身のお陰でこの身を取り戻すことができた。感謝する」
臣下の礼をとる皇太子に、マリアベルは小さく首を振った。
「帝国の皇太子ともあろう方が、小国の貴族に傅いてはなりませんわ」
「皇太子など。神堂を気持ちよく黙らせる為に与えられた、名ばかりの地位よ。真実の帝位継承者は、第3妃の第1皇子沙羯羅皇子であろう。余が生まれる10年も前に、秘密裏に帝位継承の儀を終えているよ」
「……」
帝国の帝位継承は、単純明快なサンドライトと違って複雑怪奇だ。皇子たちの地位や順位は、びっくりするほどコロコロ変わる。びっくりするほど暗殺も盛んだ。
皇帝が崩御してはじめて次の皇帝が決まるのが定石だが、実際はまあ、予定調和があるのだろう。
サンドライトの王侯貴族に、そのカーテンの内側をしれっと喋るオケアノスっていったい。
「あのう。伺ってよかったのかしら? その情報」
「御身らに、余が皇太子でないと納得して頂けるならば。余は第15皇子が相応なり。フレデリック王子とも密約したが、戦後はルス州とシギ州を併合し、太守になる」
「遣帝女の廃止には、シギ太守の調印が要るからね」
笑顔を交わし合うふたりに、マリアベルは小さく頷いた。
『遣帝女の廃止』
サンドライト王国の長年の悲願が、こんな形で叶えられようとしているなんて。
このふたりは、大陸東部に繁栄をもたらす有望な為政者となるだろう。マリアベルの心が、震えた。
ゲームのオケアノスは、転校生としてプレイヤーの前に現れる。
エイミの歌に勇気をもらい、第15皇子の地位から一気に皇帝の座にのぼりつめるのだ。
そのくだりがとんとん拍子すぎて、多数のファンから「出世早すぎ!」とつっこまれていた。
現実のオケアノスは、転校どころか自国の初等教育も修めていない。友も後ろ盾もない。
それなのに、10年以上帝王学を学んできて外交経験もあるフレデリックを相手に、必要以上に自国を不利にしない取り引きを交わしている。フレデリックも、自国を有利にし過ぎて帝国中枢を刺激したくないとはいえ、相手は腹黒魔王子である。
オケアノス皇子、ゆるゆるノベルゲーム内で皇帝になるより、難しいことしてない???
失礼な思考が止まらないマリアベルの横顔を、ニコニコで見守るフレデリック。その笑顔が不穏すぎて、スゥが無表情でドン引きしている。
神堂のゲーム知識を持つオケアノスは、『もしやマリアベル嬢は、婚約破棄された方が人生が楽だったのでは……?』と、心密かに同情していた……。
昼食後、出立を前にスゥがアンデッドの停止方法をレクチャーした。
「このように、核を壊すと活動を停止します」
自らが騎乗してきたワイバーンの脊椎のあたりに、躊躇なく剣を突き刺すスゥ。
核と呼ばれるオレンジ色の球体が、音もなく砕けた。
痛覚を持たない死屍はそのまま地面に平伏し、ピクリとも動かなくなった。
フレデリックがその剣捌きに「見事だな」と呟けば、忠臣を褒められたオケアノスも嬉しそうに頷く。
一方、スノーローズは、スゥのアンデッドワイバーンとオケアノスのアンデッドドラゴンを交互に見ては、マリアベルにピッタリと身を寄せ、背中の毛を逆立てている。
「すまぬ、スノーローズ。移動手段のない余らを赦せとは言わぬ。あと一度だけ、民を守るためにこのドラゴンに騎乗させてくれ」
その苛立ちを察したオケアノスが頭を下げると、スノーローズはぐりぐりと体をすり寄せた。「謝るなら撫でろ」と、言わんばかりだ。
「必ず、丁重に弔うと約束する……」
首の周りの毛を撫でる手つきは優しく、慈愛に満ちている。
満足な教育も与えられず、命を狙われ、亡命を余儀なくされた少年時代。快楽主義の神堂の傀儡に堕ちた10年間。
それなのに、この威厳と包容力はなんなんだろう。
何気ない所作、表情、立ち振る舞い。何もしなくても、立っているだけで、存在だけで、賢君に見える。
フレデリックは思わずため息をついた。
辺境州の太守はサンドライトの国王よりも格上だが、その地位で終わらせるには、あまりに惜しい人材である。
などと思っていたら、スノーローズを撫でながらオケアノスが顔を上げた。
「大恩ある王太子フレデリック。余はいつか、御身の恩に報いる。かならず」
「皇帝になって、我が国を盛り立ててくれるのかい?」
「ははは。中央で登りつめては、極東の平和に貢献できぬ。そんなことより、辺境の暮らしを立て直さねばな。ルス州の貧窮対策こそが、我が急務だ」
フレデリックは「……そうだね」と、袖の袂から装飾の豪華な短剣を出し、オケアノスに手渡した。
「柄に密書を忍ばせてある。トニオ・アリスト辺境侯かヨアン・カーマインに渡してくれ。彼らは聡く、強く、そして気高い。決して君たちを悪いようにはしないよ」
「これは……王太子の宝剣では? 余ごときに託すには、あまりに勿体ない」
あくまで真面目なオケアノスに、フレデリックは思わずつっこんだ。
「私よりも遥かに位の高い皇太子が、何を言ってるのさ? スゥ、この人が死に急がないか、ちゃんと見張って。命を粗末にしかけたら、気絶させてでも現場から離れてくれ」
「御意」
無表情で間髪入れない、あまりにスゥらしい返答。
「スゥは、いつの間にフレデリック王子の部下になった?」
「貴方の命を護る為なら、誰の配下にでも」
「それは困る。余の従者がいなくなる」
オケアノスにしては珍しく素の笑顔をうかべた。くしゃっと笑いながら優しくスゥを見下ろした。女性にしては背が高く筋肉質だが、大柄に育ったオケアノスの目には華奢に見える。4歳年上の女性を『可愛らしい』と思う。
幼かったオケアノスは、このスゥをいつも見上げていた。この忠臣に庇護欲を抱く日が来るなんて、思いもしなかった。
とはいえ、今や甘やかな恋心はない。
寵を強いて辱めた日に、スゥへの恋慕は砕け散っていた。
残ったのは、死にたくなるほどの自己嫌悪と罪悪感。
スゥに限らず、神堂は女たちを犯しすぎた。操られていたとはいえ、オケアノスも快楽に溺れた。思い出すたびに、吐き気を催すほどに。
多分、神堂とオケアノスは、本能的な性趣向が似ているのだろう。神堂はそこに違和感を抱かず、オケアノスは理性で律する違いはあるが。
もう2度と、あんな目には合わせまいと誓う。誰一人として。決して。
この日の午後、オケアノスとスゥは砂漠の野営地に旅立っていった。死屍騎士団の進撃を止める為に。
スゥとオケアノスが旅立ち、フレデリックとマリアベルも王都を目指すーーー前に、マリアベルは温泉に浸かった。
温泉完備とは、さすがは王族の隠居先である。
広い広い岩風呂につかりながら、湯煙に吐息を吐いた。
「こんなところに、温泉があるなんて……」
「ああ。バーニャもあったけど、ベルは湯船の方が好きだろ?」
会話はしているが、もちろん混浴ではない。マリアベルが視界に入らない岩陰で護衛をしてくれている。
お互いに視界に入らなければセーフなのが、残酷なマリアベル定立なのである。フレデリックが現在、最強の獣欲と決闘中だなんて、もちろん知らない。
「ありがとう。とても気持ち良いですわ。フレッドも入りまして?」
彼氏の気も知らず、マリアベルはご機嫌である。
誘拐されてから、湯あみどころか着替えもできなかったのだ。
これはもう、乳白色の湯を堪能しまくるしかない。おかげさまで、手足の先までぽかぽかになった。
「傷はスノーが塞いでくれたけど、開くと面倒だから。清拭だけしたよ」
「あ……ごめんなさい」
頭を下げたら、ちゃぽんと音が響いた。
「君のせいではない。今回の生傷、9割が父上だから。バハムートを借りたいって言ったら、一本取れたら許可するって。久々にボコられたんだ」
「はい…………?」
「スコーネ城を脱出したスノーとエイミ嬢が、決闘を潰してくれたんだ。直後に、スノーがバハムートを説得してくれてね。お陰で、神堂とはスムーズに戦えたよ。オケアノスも協力してくれたし」
相変わらず、殿下の敵は陛下だった。
マリアベルはなんだかなあと鍾乳洞を見上げた。
この洞窟、場所によっては発光率の高い光苔で光源が要らないが、温泉の周辺はランプがないと心許ない。
その淡い光が、揺らめく炎が、鍾乳洞の岩壁を幻想的に照らしている。
「あのさ……」
フレデリックのくぐもった声が、洞窟の壁に反響して、いつもより甘く聞こえる。
「なあに?」
「ここらの民は疎開してるから馬も借りられないし、バハムートはこのまま休閑期に入るだろうから、頼れない。スノーにふたり乗りは酷だし、なにより休ませてやりたいから。海軍の詰所までは徒歩になる。不便をさせるよ」
「そんなこと……私こそ、ご迷惑をおかけしますわ」
「いや……むしろご褒美だ。帰ったら帰ったで、メンドクサイから。いっそ、このまま駆け落ちしたいよ」
口調は冗談めかしているが、おそらく本音だろう。
「ほんと、すぐにでも僕のものにしたい。王太子じゃなかったら、とっくに……」
「へ……?」
「ごめん。忘れて」
夢の逢瀬で護身術を習い、上半身に触れはした。
いろいろと、きわどい触れ合いもあった。
でも、全部は見せてないし! 見てないし!
マリアベルは湯の中で、その豊かな胸を隠した。この細腕では隠し切れないけれど。
「……」
「警戒しないで? 僕にもプライドはある。せっかく助けたお姫様に、王子が手を出してどーする?」
爽やかに苦笑されても。もはや、状況が全く爽やかじゃない。
ダメなのに。
絶対に、ダメなのに。
マリアベルは自分で自分の体をギュッと抱きしめた。
今までは、一緒にいるだけで幸せだった。本音をいえば、触れるだけのキス以上の接触は望んでいなかった。
だって、恥ずかしいから。
嫌じゃないんだけど、嬉しくないわけでもないけど、それ以上に恥ずかしいから。すごくすごく恥ずかしいから。
今なんかマリアベル史上最大に恥ずかしいのに、なぜだろう。今すぐ彼を抱きしめたい。抱きしめてほしい。
湯中たりする温度じゃないのに、ひどく体が上気し、ドキドキが止まらない。
今こそ気を失いたい。
いや、気を失ってる場合じゃない。
ひとりで沸騰して、ガタガタ震えて、ひたすら黙り込むマリアベル。
「ベル、大丈夫? 湯中たりしてない?」
人の気も知らないフレデリックは、恥じらうマリアベルをやたら愛でたがる困った人だ。
でも、嫌がることはしない。絶対にしない。嫌がらなければーーーー。
「安全が確保できる範囲で、もう少し離れるよ。ベルはごゆっくり」
「えっと、あの……」
いつもよりも、若干声が低い。
怒っているわけではない、はずだ。
最大限、気を使ってくれているのだろう。
だけど、ご機嫌がよろしくないのも、すごーくよくわかるから、この状況をどうにかしたくて、どうしたらいいのかわからなくて、思わず呼び止めてしまった。
「待って」
「ベル?」
「あ……」
「えーと、その。無体はしないけど、僕も男だから。聖人君子じゃないから。あんまり君が無防備だと、可愛がりたくなる。そーなったら、多分、止まれない。わかる?」
抑えた声には、欲情が込められていて。
多分、それはマリアベルの望む感情と一致していて。
今さら気がついたけど、健康な男女なら当たり前なのかもしれない。
病気だった頃のありあは、好きな人と結ばれたいと思わなかったから……。
「わ、私は、フレッドが、望んでくれるなら……嬉しい、です」
フレデリックの背中には、本人も知らないであろう古傷がいくつも残っている。そのひとつひとつにキスをしたいと思う自分は、彼を好きになりすぎて頭がおかしくなったのかもしれない。
「それに…………」
少しだけ現実に帰ったマリアベルは、白い湯に愚痴をこぼした。
「表沙汰にはならないでしょうが、誘拐されて何日も過ぎてますもの。王都に戻れば、純潔を診察されますわ。それならば……貴方に、先に、確認していただきたい、です」
フレデリックの肩がこわばった。
マリアベルは全く自覚していないが、身を差し出す理由は大概これだ。
フレデリックが、好きだから。初めては彼がいいから。
そんなマリアベルの愛を守りたいからこそ、フレデリックはその据え膳を食わないのだが……。
「疑う理由がない。だって君は、誘拐された時の修道衣のままだった」
「ここには、それを証明する暗部すらいませんわ」
「それまでにはステラを叩き起こす。とにかく、診察なんてさせない。意味がない」
「お世嗣の問題に直結しますから。王太子に嫁ぐ女には必要なことです」
「必要なもんか!」
吐き捨てる声が鍾乳洞に反響して、耳に心地よいくらいだ。
この人の声が、好きだった。
この世界に生まれてくる前から、ずっと。
「君がそんなことが言えるのは、無垢だからだ。そうじゃないなら、必要なのは医療処置だけだ。傷ついた乙女に追い打ちをかけるだけの検査なんか、要らん! よく考えて、マリアベル。ありえないけど、もし僕たちの娘がその憂き目にあったら? そんな家に嫁がせたいか? 僕は嫌だ。それこそ婚約破棄させるからな!!」
どこまでも真っ直ぐな愛情が嬉しい。
でも、この感覚は危うい。愚者の烙印を押されかねない。愛情に流されがちな、愚かな王子と。
「たったひとりのお世嗣が、そんなこと言ったらダメダメですわ?」
「結婚前からここまで無防備なマリアベルも、大概だぞ?」
「そんなの、フレッドだけだもん……」
マリアベルが口を尖らせると、フレデリックは一瞬だけ息を呑んで、深い深いため息を吐いた。
「とにかく、検査はさせない。慣習通り、初夜のドレスを純潔の証とする。どうせ、監視がいて不正なんかできないんだから。十分だろ。わかった?」
初夜のドレスとは、ウェディングドレスである。
この国の王族は、婚礼衣装を着たまま初夜を迎える。純潔の証をつけた衣装は後宮に運ばれ、妃たちの審査を経て、花嫁は王族の仲間入りを果たす。
「……ありがとう」
マリアベルは声を詰まらせて俯いた。
乳白色の湯に、ポタポタと滴が落ちる。
丸い輪を、いくつも描きながら。
この人は、なんでこんなに優しいのだろう。なんでこれほどまでに愛してくれるのだろう。
このときのマリアベルは、気がついていなかった。
こうやって要所要所で心を掴まれては、あれこれ流される羽目にあってきたことに。
このときのマリアベルは、知らなかった。
帰還後には、純潔を散らされない範囲で愛でられまくる、甘々の婚前ライフが待っていることを。
頭が回るフレデリックが、ストップが効かなくなる環境でつまみ食いをするわけがないのだ。近く、マリアベルは「ここで?!」を連発することになる。
そして、「結婚したら、どうされちゃうの……?!」と悩む羽目にも、あうのである……。
異世界恋愛ヒーローの法則=愛が重い




