チャラ系な宰相令息は、日和見でチョロい
早朝の温室を背に、ひとりの少女がうずくまっている。
庭木の隙間からそれを見つけたアーチラインは、訝しみながら立ち止まった。
用務員の出勤前に温室を訪れるなんて、学園広しといえど、自分くらいなものだ。
宰相令息のアーチラインは夜は夜会や美女との逢瀬に忙しいが、朝は植物園の見回りに忙しい。
女の子なら容姿や性格問わずみんな好きだが、同じくらいの勢いで被子も裸子もシダも苔も好きだ。
好きで植物に関わるアーチラインと対照的に、少女は泣いているようだった。
頭のてっぺんから白濁液をかぶり、肩をふるわせている。胸に抱きしめているのは、教科書だろうか。
貴族の子女としてはありえない災難だが、不思議と胸を打つような佇まいだった。粘液にまみれて乱れた制服に、皺だらけのスカートからのぞく足。粘り気のある液体に絡まるストロベリーブロンド。
名画のような美しさと春画のような淫猥さが混じり合って、なおかつ本人は無垢な乙女であろう奇跡の美少女…といえば。
「エイミちゃん…?」
名を呼ばれて、俯いていた少女が顔をあげた。顔も粘液と涙に濡れている。限界まで開かれた水色の瞳が、溢れそうなほど揺れた。
「あ…アーチ、さま?」
手にしていた教科書を膝に落とすと、前の乱れた制服が露わになった。ブレザーとブラウスのボタンは半分くらいなくなっているわ、そのくせ胸のりぼんはほどけきってなくて見えそうで見えないわ。
アーチラインは、思わず後ずさった。
いたいけな少女が泣いているのだ。紳士たるもの迷わず手を差し伸べるのが務め…なんだけど、アーチラインのムスコさんが救助と反対方向に激しく反応しちゃったのだ。
「ふええん!…アーチ様あああ!」
「ちょ、ちょ待てよ!」
お花畑ヒロインとは、まことに空気を読まない生き物である。
保護者を見つけた幼児のごとく、がむしゃらにしがみついてきた。
「ひっくひっく!こ、怖かったですうう!」
抱きつかれたアーチラインも、もれなく粘液にまみれた。甘い芳香が鼻腔をくすぐる。
「これ、食紙植物の消化液…?」
アーチラインはエイミの背後の温室に視線を向けた。間違いない。これは、紙製品を栄養とする植物の消化液だ。
溶けるのは紙だけで、人体に悪影響はない。
ない、のだが。
粘液まみれの服と肌がぬるぬるヌメヌメ。それを擦り合わせるかのような抱擁が…ヤバイ。こんな使い道があったのかと新たな扉を開いてしまいかねない。
そもそも、エイミが美形すぎるから悪いのだ。
顔だけじゃなくて声も可愛いとか、反則だ。喋る内容はおバカさんだが、声質そのものが美しいのだ。その声でしゃくりあげられる破壊力ときたら! しかも耳元で!
服と粘液越しに否応なく伝わる豊かなバストの質感、ほっそりとした腰、乱れたブラウスにうっすら透ける肌の美しさ…。
「た、食べられちゃうかと、おもいましたっ…ぐすっ」
この瞬間、アーチラインの理性が決壊した。
猛り狂うムスコさんの司令のままに、額にかかる髪をかきあげる。粘液の重さと抵抗感が、もどかしくてなまめかしい。
髪に触れた手で頬をなぞり、小さな顎をくいと持ち上げた。
火遊びには事欠かないアーチラインだが、こんな風に衝動が先走ったのは初めてだ。
自分でもわけがわからない。もっとわかってなさげなエイミは、目を大きく見開いて固まっている。
ら。背後の木がガサゴソ揺れた。
「エイミさん、こんなところにいたんですか!」
アーチラインの理性の助っ人、本能の邪魔者、クラスメイトのステラが現れた。
枝から枝に移動してきて、宙がえりして着地とか、5女とはいえ伯爵令嬢としていかがなものだろうか。魔王の嫁(確定)の侍女だから、つっこんだら負けだろうか。
「ステラちゃーん!」
保護者二号の登場に、感極まって両手を広げるエイミ。
ステラはスクールバッグを開き、バスタオルを取り出した。突進してくるエイミを闘牛士のようにかわし、そのまま包み込む。この間、2秒。
「ステラちゃん、ステラちゃん、怖かった。怖かったよう!」
「それは、食紙植物がですか? アーチライン様がですか?」
慇懃無礼かつ遠慮のない無表情が、マジで手を出す2秒前だったアーチラインの良心をえぐる。
「こわい、でっかい花こわいっ! です!」
ゴシゴシ拭かれながら、さめざめと泣くエイミ。
アーチラインに襲われかけたことは、ノーカンみたいだ。というか、そもそもキスされかけてたことにさえ気がついていないっぽい。
淑女にあるまじき間抜けさだが、それでも可愛いのだから、高すぎる顔面偏差値って罪だ。
「それにしても、一体どうしてこんなことに?」
アーチラインもフェイスタオルを借りて、ゴシゴシふきはじめた。ステラのせいかおかげか、爆破寸前だったムスコさんも正気を取り戻している。
「捨てたい紙がいっぱいあったのでー、この子たちに食べてもらおうと思ったらー、教科書をとられちゃったんですう」
さめざめと泣くエイミの頭上で、アーチラインとステラは目配せして、温室を凝視した。
ガラスの向こう側は、食紙植物の楽園だ。
馬車の車輪ぐらいの大きさの花が、舞い散る紙切れを音もなく奪いあっている。赤、白、黄色。どの花見てもバカでかい。
「取り返そうとして、体ごと花弁に突っ込んじゃったの?」
「はい」
いくら人体に害がなくても、普通はやらない。
表情筋に仕事をさせないステラも、無表情なりに衝撃を受けた。
「何を捨てたかったのかは問いませんけど。焼却炉で燃やせば良かったのでは?」
「郷里にいるとき、お前は火に近づくなってお父様がー」
「あー。わかるわ、それ」
粘液をある程度落としたら、今度は濡れタオルを貸してくれた。
1日分の教科書を入れたらいっぱいになる小型のスクールバッグのどこに、数種類のでかいタオルが入るのだろうか。あえて考えまいとするアーチライン。
「まあ、イジメとかじゃなくて良かったよ」
とりあえず、ホッとした。いじめられていたかもしれない女の子に何をしようとしたとか、最低な自分はまるっと無視だ。未来の宰相たるもの、見て見ぬ振りのスキルは必須である。
「このステラ、護衛を任された以上、外敵からは指一本たりとも触れさせません。自らドジを踏みに行ったら知りませんけど」
微妙に牽制してくる藪睨みの黒い瞳に、アーチラインは降参するみたいに手をあげた。
「敵を倒すより、ドジを事前に阻止してほしいかな」
「ぐ。こ、考慮します」
はっきりいえば、マリアベルの懐刀…いや、侍女であるステラに、そこまで世話を焼く義理はない。
だが、今やすっかりエイミのボディーガードで定着している。
危なっかしすぎて放っておけないのか。庇護欲を刺激されまくったか。
アーチラインも生徒会副会長と室長を兼任している義務でエイミの世話を焼くことが多々あるから、人のことは言えないが。
礼儀知らずで淑女らしさのカケラもないが、意外にも同性からの人気は高い。
学園に迷い込んだ森の妖精か、毛並みの良い天然記念物あたりと認識されているらしい。
アーチラインの婚約者も、伯爵以上の身分がなければ卸さない店のクッキーを下賜していた。
むしろ、エイミの敵は男子生徒である。
見た目が絶世の美女で、中身が絶世のアンポンタンで、声も絶品、スタイルも絶品。それでいて平民に近い爵位で大金持ちときた。
モテないワケがない。
何が何でも婚約に持ち込みたい弱小貴族が、ロマンスを夢見る青二才が、ゴマンといる。結婚するつもりがあるから、まあいいけど。
問題は、爵位持ちのゲスどもだ。
彼らはエイミの心なんて戦利品程度にしか思っていない。愛人にしてやるからありがたく思え、である。
プレイボーイで鳴らしているアーチラインには、そういう情報がどっさりたんまり入ってくる。
「エイミ嬢の純潔を散らす会」なんて、下等な秘密倶楽部が結成されたなんて話も伝え聞いている。
ようは、不埒な虫がつきやすいのだ。
女遊びに枚挙はないが、婚約者の名誉に傷が付くような火遊びは避けてきたアーチラインさえ、ステラが来なかったらヤバかった。
あれを回避できるのは、下半身に人外レベルの自制心を誇る魔王ぐらいだろう。
逆に、小心者で日和見主義で遊び慣れているアーチラインだからこそ、接吻未遂で終われた気もする。
もしも、居合わせたのがアーチラインじゃなかったら?
ステラには、手を出せない身分の人間だったら?
(吹き矢で暗殺かな……局部を)
想像するだけでヒュッとなる。
とにかく、愛する植物たちの楽園で事件が起きなくてよかった。起こさなくて良かった。本当に良かった。
ほっと胸をなでおろす宰相令息であった。
欄外人物紹介
アーチライン・シェラザード
建国以来、宰相を歴任する大公家の嫡男。夜会と植物をこよなく愛する、真面目な遊び人。なんだそりゃ。
10歳の弟と7歳の妹がいる。
婚約者は2学年下のシンシア・フルート伯爵令嬢。
平均的な肌色、褐色の髪と琥珀色の目、万事整った造作と、なんでもそつなくこなす器用さから、目立たずおいしいポジションにつくのが得意。フレデリックの無茶振りを、難なくこなすか、かわすことができる稀有な人材。
母が正妃腹の王女(現国王の実姉)で、フレデリックの従兄弟にあたる。それなりに似てるように見せて、実はかなり似ている。
そこら辺に潜む暗い過去を、恋愛的に癒したのがゲームのエイミで、アニマルセラピー的に癒すのが現実のエイミ。
キャッチコピーは「真実の愛を求めて彷徨う、不埒な夜の蝶」。めっちゃ早起きだけど。