エターナル・オラクル
「再び、巡り逢うことが出来たから、もう、良いのだよ……」
第一章 出逢い
天空と大地の果てまでも、見渡せそうな丘。恵み豊かな深い森が広がっている。その森には、森の主と呼ばれている、古き大樹があり、そこは少女のお気に入りの場所だった。
「私、ここが一番好き」
森の主の頂まで登ると、天空と大地が見渡せる。丘から見渡せれる景色よりも、ずっと彼方まで。少女は、古き大樹の頂の枝に座り、何時も景色を見ながら時を過していた。独りぼっちでも、ここにいる時は淋しくないから。
今の季節は、あらゆる生命が、輝き賑わいをみせている。森の主も、白く輝くような小さな花を無数に咲かせていて、森にはとても善い香りが漂っている。その様な森の中を、白き衣を纏い、輝いているかのような長い白銀の髪の青年が、森の主の処へと、訪ねてきた。
「何事も無く、過ごしているのかい?」
白い青年は、古き大樹に呼びかけるかのように、言った。
「はい。お陰さまで。全ては、健やかですよ」
静かな囁きで、森の主は答えた。
「それはよかった。少しずつ、地上の人間と自然との均衡が、ずれてきている様だったので、気になっていたのだよ。それで、地上を廻っていたところなのだよ」
青年は、私の思い過ごしだな、という感じで、ホッとしたかのように答えた。
「万物の調停、均衡を保つお役目も大変ですね」
と、森の主。深く静かな森には、不思議な気配が満ちていた。小鳥の囀りがあちら此方で聞えているのに、小鳥の姿は見えない事がしばしこの森ではおこっていた。
「万物の調停者として、万物の均衡を取り纏める。私も其の一人。万物の均衡の安定こそが、世界の成り立ちを守る事と、なるのです」
青年が言った。其の時だった、
「ねぇ、誰かいるの?」
青年の頭上、森の主の上で声がした。青年は、驚いて見上げる。周りには、人間はいなかったが、
「そこにいるのは、誰だい?」
森の主の上に向かい、問い掛けた。
「近くの村の娘だよ。ここへ来ては、私に登っては、よく空を見つめて居るよ」
森の主は、青年に囁いた。その囁きは青年にしか聞こえないものだった。青年が見上げていると、少女が上手に幹や枝をつたって降りてきているのが見えた。
そして、地上に降立つと、不思議そうに青年を見つめて、問う。
「ねぇ、あなた。森の主と、おしゃべりしていたの?」
「え、ああ、そのようなところかな」
青年は、一瞬たじろいでしまった。まさか、森の主に人間が登っているなどと思ってもみなかったから。それに、少女の眼差しは、まるで深い森の色を映し出しているかのようだった。それと、同じ髪色の少女。その穢れのない、純真無垢な瞳に、彼は見入ってしまった。
「私も、よくおしゃべりするよ。私が、森の主におしゃべりすると、森の主は何処か遠い国のお話を聞かせてくれる、そんな感じがするの。だから、ここが一番好きなんだぁ」
青年を見つめたまま、少女は言う。
「あなたは、誰? この辺りの人ではないでしょう?」
「ああ。私は、ラーストゥクル。そ、その、旅の学者ってところかな」
青年は、困惑し戸惑いながら答えた。すると、少女は微笑んで
「私は、ナディア。よろしくね、ラーストゥクルさん」
言って、少女ナディアは、右手を差し出した。その手を、戸惑いながら、ラーストルクは握り返した。その時、ラーストゥクルは自分の中に初めて識る想いが生じたことに気付く。
「あ、よ、よろしく」
生じたばかりの感情は、よくわからないけれど、とても照れくさいものだと思ってしまう。ナディアという少女は、とても無垢な魂を秘めている。そのせいなのか、何故か少女に惹き付けられてしまう。自分自身、不思議に思いながら、ラーストゥクルはナディアを見つめていた。そんな、ラーストゥクルをナディアは、あどけない瞳を不思議そうにして見つめていた。
「ラーストゥクルさんは、どうして旅の学者さんなの?」
唐突に問われて、ラーストゥクルは戸惑った。人間に、しかも、まだ幼い少女に何と説明するべきかと。そして、少し考えてから、これなら幼い少女にでも、分るかと思い
「世界の平安の為に、色々な事を調べているんだよ。色んな所を旅しながらね。ここに来たのも、その為なんだ。ここの森の主は、長く生きているから、物知りなんだよ」
と、優しく語り掛けるように、少女の問いに答えてみた。すると、ナディアは瞳を輝かせて、ラーストゥクルを見る。
「いいなぁ。色々な国へも行けるのでしょう。いいなぁ、私は、森の主の天辺からしか、遠くを見つめる事しか出来ないから。私の住んでいる村は小さいけれど、世界には大きな国とか、綺麗な都とかがあるのでしょう?」
子供らしい無邪気な微笑みで、言う。
「そうだよ。世界は広くて、色々なものがあるのだよ」
無邪気な少女が、微笑ましく思えてくる。
「大きくなったら、ナディア、君も旅をすればいいじゃないかい。世界を観る事が出来るよ」
ラーストゥクルの言葉に、ナディアは残念そうに言う。
「たぶん無理よ。だから、私、森の主から見つめる事にしているの」
「どうしてだい? 大人になれば出来る事だろうに」
「大人になったら、この森を護るんだ」
ナディアは、小さく答える。そんな、ナディアに代わり
「この娘は、早くに両親を無くしていてね。その両親が、森護り人だったから、自分もその血を継いで、森護り人になるつもりだということでしょう」
そっと、森の主は、ラーストゥクルに耳打ちした。そうなのか、内心呟いて、ナディアを見る。すると、ナディアもまた、ラーストゥクルを見つめると、
「ねぇ、旅の学者さんなら、色々なお話を知っているのでしょう? 何か聞かせてくれないかなぁ」
森の主の根元、大きな根に腰を下ろして、ナディアは言った。
「お話か、何かあるかな」
じっと見つめる、あどけない少女の願いを、跳ね除けるわけにもいかず、ラーストゥクルは悩んでしまった。今までに、ない事だったから
「えっと、世界はね、色々なものから創られているんだよ。光とか闇とかね。天と地などもそれだね。正義があれば邪悪も有るように。それらが、全て安定しているから、今の世界があるんだよ」
なんとか、話題を見つけて、幼い少女にも解るように話してみる。自分でも、頭を抱えてしまいそうだった。
「う~ん。よく解らないよ。でも、皆がいないといけない、仲良くしないといけないって事かな?」
難しい顔をして、ナディアは首を傾げた。
「ゴメンね。私は、余り話し上手ではないから。それに、難しい話しか知らないんだよ」
申し訳なさそうに笑って、ラーストゥクルは言う。それから、しばらく他愛のない話をする。ナディアと話せば話すほど、自分の心に波風が立っていく。それは、暖かくもあり、痛みにも似ているものだった。それが、とても辛いものだと、ラーストゥクルは思ってしまう。そして、それに対する疑問も生まれていた。考えてしまう、どうしてしまったのだろうか? と。どうして、胸がざわめいているのだろうか、それは何かの吉兆であるのだろうかと。
「ねぇ、もっと他のお話を、聞かせてはくれないの?」
じっと、ラーストゥクルを見つめて、ナディアは言う。
「ラーストゥクルさんって、不思議な人だね。綺麗な光みたい」
ナディアの言葉に、ラーストゥクルは、ドキッとした。この少女は、自分の正体を見抜いているのではないかと。別に、正体が判ってもかまわないけれど。純粋無垢なる者は、時として強い力を持っているが、既にもう、その様な者は、この地上からは居なくなってしまっていると、思っていたが
「ごめんね、ナディア。私は、もう行かなければならないのだよ。遠い国へと。そこへ、帰らなければならないんだよ。だからもう、お話はしてあげられないんだよ。ごめんね」
ナディアを気づかいながら、ラーストゥクルは言い、立ち上がる。纏っている白い衣には、土すら付いてはいなかった。長い白銀の髪が揺れるたびに、木漏れ日に輝いていた。
「えー、そうなの。私、もっとお話したかったなぁ、お話聞きたかったなぁ」
頬を、プッくりと膨らませて、残念そうに呟いて、ナディアも立ち上がる。服に付いた土を払うと、再び、ラーストゥクルを見つめた。
「また、何時か、ここへ来てくれるの? また、何時か逢えるよね?」
深い森色の瞳は、真っ直ぐにラーストゥクルを見つめていた。立去ろうとしていたラーストゥクルは、足を止めて
「そうだと、いいけど、ね」
と、答えて、軽く手を振る。ナディアも、無邪気に手を振って、ラーストゥクルを見送った。
ラーストゥクルが立去り、独りになったナディアは、
「不思議な人。もしかすると、神様だったりして。でも、そんな事ないよね。ずっと遠い昔に、神様と人間は一緒に住むことを、辞めたのだから」
呟いて、森の主を見上げる。そして、小さく笑って、頬を紅く染めた。
夕日が天空を染めながら、夜の帳を降ろしてゆく。地平の彼方は、まだ少しだけ、紅く染まっていた。
「おかえり、ナディア。今日もまた、森の主の処へ行っておったのかい?」
暖炉で焼いていたパンを取り出しながら、老婆は帰って来た、ナディアを迎えた。
「うん。森の主は、私のお友達だもん」
テーブルに、皿を並べるのを手伝いながら、ナディアは答えた。
「そうかい。でも、余り危ない事をしてはいけないよ。森の主も、心配することだからね」
「大丈夫だよ、クナア婆様」
「そうか、それならいいが。それにしても、今日は何だか、嬉しそうだね。何かいい事でもあったのかい、ナディア?」
「うふふ。不思議な人に、逢ったの。その人は、森の主と、おしゃべりしていたんだよ。旅の学者さんなんだって。すごいよね。それに、すごく、綺麗なお兄さんって、感じだったの。なんだか、綺麗な光に包まれているみたいだったよ」
森での出来事を、ナディアは嬉しそうに、クナア婆に話して聞かせた。皿にスープを注ぎわけながら、クナア婆は相鎚を打った。
「それは、とても善い出来事、出逢いだったね。ナディアは、とても幸運なのかもしれないよ」
クナア婆は、言って、ふふと、笑った。
「また、逢えるといいなぁ」
嬉しそうに頬を紅くして、ナディアは呟いた。
クナア婆は、そんなナディアを、優しく見守っていた。
「さぁ、冷めないうちにお上がり」
言って、独りではしゃいでいるナディアを、席に座らせて、少し早い夕食を食べ始めた。
穏やかなる光に包まれ、静かなる楽が流れているかのような美しさを秘めた庭園。幻なのか実体なのか、色とりどりの花々が咲き誇り、輝くほど透明な小川が流れている。不思議な光を放っている石で造られた、東屋が所々に建てられている。その景色は、夢幻にも似ている。その庭園の東屋の一つで、ラーストゥクルは何度も溜息を吐いていた。
「私は、一体どうしてしまったのだろうか。この様な想いを生じさせてしまうとは」
自分自身に問いただす。其れを繰り返していた。そうすればそうするほど、苦しく痛いものが、蠢いている。それを感じ考える度に、溜息がこぼれてしまう。
「どうした、ラーストゥクル。さきほどから、溜息ばかり吐いているではないか。何か、あったのか?」
美しく凛々しい白き輝きを纏う女性が、ラーストゥクルの顔を覗き込むようにして声をかけた。
「サフィローア。いや、別に何もないが」
ラーストゥクルは、答えると視線を外した。
「ラーストゥクル。そなた、先日、地上に降り立って来て以来、何だか変だぞ。均衡が崩れていたとかは、聞いていないし、そのような事はなかったのだろう? 万物は安定している。何も悩む事はないだろうに」
美しい女性は、外見に似合わず、男っぽい口調で言うと、ラーストゥクルの肩を叩いた。ラーストゥクルは、複雑な笑みを浮かべて
「そのことに関しては、大丈夫さ。問題はない。今は、全てが健やかで穏やかだ」
事務的に答えると、ラーストゥクルは立ち上がる。東屋からは、幻想的な半透明な色の鳥達が、天を舞っているのが見える。その東屋を立去ろうとする、ラーストゥクルに、サフィローアが問う。
「ラーストゥクル、何処か行くのか」
「ああ、今一度、地上へ降りて来る」
ポツリと、呟くように答える。
「は? やはり、そなた、変だぞ。何か、あったのではないのか?」
立去ろうとしている、ラーストゥクルを呼び止めて問い詰める。
「我胸に生まれた想いが、何であるのかを知る為と、それを確かめたいのだよ」
「想い? その為に地上に降りるのか。本当に大丈夫なのか、ラーストゥクル。そなた、解っているのだろう? その様な想いは……」
サフィローアは、きつい口調と表情でラーストゥクルを、咎めるかのように言った。
「もし、そうであったとしても、解っているさ、そのことは。ただ、想いの真実が知りたいのだ。この胸に生まれた想いのね」
その答えに、サフィローアは心配そうな表情へと変わってゆく。そんな、サフィローアをチラッと見て、
「すまないな。サフィローア」
と、言い残すと、夢幻なる庭園を後にした。
「ラーストゥクル」
サフィローアは、心配そうに、その後ろ姿を見送るしか出来なかった。夢幻なる庭園に、ひとり残り佇むサフィローアは、虚空を見つめていた。
「サフィローア。ラーストゥクルと、何かあったのか? ラーストゥクルの様子、何だか変だったぞ」
青い輝きを秘めた長身の男が、ぼんやりとしていたサフィローアに、声をかけた。
「ああ、シャフール。ラーストゥクルは、何でも、己の胸に生じた想いを確かめたいとかで、地上に降りたのだ。地上で何があったのかは、知らないけれど、とうてい、いや絶対的に叶わない想いであるはずのに。それなのに……」
そっけなく言ったが、内心は苦しく戸惑っていた。
「まさか、ありえないことだろう。その様なこと、その様な想いは不可能だ」
シャフールは、驚く。
「そうだろ、シャフール。それなのによ」
サフィローアは、答えて苦笑する。
「ラーストゥクルも、なんだな、サフィローアのような女を、置いてまで、わざわざ地上へ降りて想いを確かめるなんて、愚かだよ」
サフィローアとシャフールの話を聞いていた、他の者達が会話に加わってきて、その言葉に、男達は同調する。
「そうだな。サフィローアを、差し置くなんて、信じられないぜ」
会話に加わっている、若い男達は頷く。
「ははは、それほどでもないだろう? 私なんて者は」
苦笑いを浮かべたまま、サフィローアは言う。他の男達が、自分の事を褒め称えてくれても、嬉しくは無かった。
「サフィローア、大丈夫だよ。すぐにでも、ラーストゥクルは戻って来るよ。私達と人間との時間は違うもの、共に過ごすことも、交わる事も出来ないのだから」
穏やかな色のベールを被っている娘は、そう言って、サフィローアを励ました。
「ああ、そうだな。私達、神族と人間は、共に在る事も交わる事も出来ないのだから。共に有るなんて不可だ。決して、報われる事は無い事なのに。ラーストゥクルも、すぐに解るはずさ。解っているはずだ」
周囲の者達に、自分の心の動揺を悟られないように、何時もに増して強い口調で、女神サフィローアは言った。
「貴女とラーストゥクルは、最高神や高神達にも認められている神格なのだから、新しい神産をするべきよ。ラーストゥクルも、人の子に心を惹かれている時間なんてないはずよ」
年配の女神に言われて、サフィローアは少し紅くなった。
「万物の均衡は、万物世界の安定に繋がる。今は安定していて穏やかだ。我等は、其れを常しえに護り続ける存在。感情に流されてはいけないのだよ」
呟いて、サフィローアは彼方を見つめた。
まほろばなる天の神皇宮。神族の中でも、高位の神々が集う久遠なりし美しさを誇る宮殿。
「ラーストゥクルが、あの人間の娘に心惹かれれるのも、解る気がします。まだ、無垢で穢れのない魂を抱いている者だから。無垢な魂と心を持ち続けている生命達が居る限り、万物世界は安定しているでしょう。何処かの世界みたいに、欲望にかられ、穢れてしまった魂や心を抱き、無益な殺し合いをして、万物世界を崩壊させてしまう事はないでしょう。ラーストゥクルが、その穢れ亡き魂に惹かれてしまったように、その無垢なる魂を持つ生命達が、無垢であり続けるように祈り育むのが、私達、誕生と生命を司る者の使命です」
淡く白い光と、透明なる淡紅の光を湛えた、穏やかで深い慈愛を秘めた女神は静かに語った。
「それは、わかっている。しかし、今は数百年に一度の神産の時。ラーストゥクルとサフィローアは、二神共に調停を司る者。神格共々申し分なき者達だ。それを思うと、惜しいな」
深い皺が幾重にも刻まれた、仙神は言った。
「それは、ひとつありますね。でも、難しいことです。暫くは様子を見守りましょう。本当に、神族と人間は、共になれないものなのか、そうではないのかを。絶対的な事は言えないと、私は思いますよ」
女神は言う。
「ふむ。そなたが、いうのならば、暫く様子を見よう。だが、悪い方に転がらなければよいが。ところで、次期、調停司高神は、サフィローアに命じようと考えているのだが、皆、異は無いな?」
仙神は、円卓に集っている神々を見回した。一同は、頷く。
「それでは、よろしいかと。ラーストゥクルの一件は、一先ず置いて置きましょう」
「ああ。決まりじゃな。では、近いうちに、サフィローアを神皇宮へと召喚いたそう」
仙神は、筆を執ると召喚状を書き上げた。
天上神界。そこは、神族達のいる世界。神族達は、永遠に近い時を存在出来る。万物の原初に共に生まれたとされている。神族は、それそれが万物そのものを構成するものを司っている。万物の均衡と調停も、その一つ。数ある構成要素のなかで、万物の均衡と調停は重要な役割である。ありとあらゆる神々を束ねている最高至高神と、その側近である仙神に継ぐ力を持っている。生命・天体・自然界における、水や炎、風や大地を司っている神々がいる。神族は、天上神界に普段はいて、司るものの務めの時のみ、地上世界へと降り立っているのだった。
神話は少なからず、神族と人間の関わりを語るもので、神族に伝わる神話と人間に伝わる神話とがあった。天上神界に伝わる神話は、人間はおろか神族でも、一部の者を除けば知るものはいない。いわば、天上神界の神話は、秘書でもあるのだった。
地上では、天上神界の神族の司る職務を請け負う存在がいる。それらは、生霊であり、永き時を生きた生命たちでもあった。古き大樹である、森の主もその一部であった。
錦色に染まった森は、今年も多くの恵みを村人にもたらしていた。森と共に生きている者にとって、一番嬉しく、そして、恩恵にあやかれる季節。かつて、古の時代には、森と村との橋渡し的な役目を担う者がいた。その者は、森と人間の均衡を護るものであった。その者の下で、人々は森を湛え敬っていた。しかし、時流れとともに、そのような習慣も薄らぎ、今では略式された祭りのみ残されている。今年の恵みに感謝し、来年の恵みを願う。小さな村で、一番の賑わいである収穫祭も、昔に比べると小さくなってしまっていた。
収穫祭を終えたばかりの村は、夜になっても祭りの余韻を残していた。村の真ん中の広場には、炎が焚かれ、その周りでは村人が、ほろ酔い気分で歌っていた。
「今年も、豊作でよかったなあ、ナディア」
痩せ細り血色の悪い老婆は、ベッドの上に上半身を起こして言った。窓からは、祭りの炎が空を焦がしているのが、見える。
「ええ。クナア婆様。何時もの年よりも、多い位だったよ」
深い森色の瞳の娘は、答えて、ケープをクナア婆に掛けてあげた。
「今年、収穫された薬草で煎じた、お薬よ」
ナディアは、湯気と薬草独特の香りのする湯呑を、クナア婆に渡した。
「すまないね」
クナア婆は、受け取ると、ふうふうと冷ましながら、薬湯を啜る。
「私は、余り長くないようだよ」
薬湯を飲み終えて、一息吐くと、クナア婆は言った。
「婆様、その様な事を言わないで下さい」
空になった湯呑を受け取り、ナディアは言う。
「クナア婆様、弱気な事を言わないで下さいよ。婆様は、独りぼっちになった私を引き取って、今まで育ててくれたでは有りませんか。そんな、私まだ、その恩をお返ししてはいません。それに、私は村を出るなんて事はしませんよ。生まれ育ったこの村と、森のこと大好きだから」
クナア婆を横たえながら、ナディアは言う。
「いいのだよ、ナディア。私の事は。村が好きでも、この先、ずっと森だけを頼りに暮してはいけないかもしれない。世界は、目覚しく発展してきている。いずれ、ここも街や都、国などの一部となるかもしれないよ」
「そうかもしれないけど。街の暮らしは便利だと、聞くけれど、やっぱり、私は、森と一緒がいいの」
「はは。子供の頃に、森で出逢ったという、不思議な学者の事を想っているのじゃな」
「まさか。あの人は、旅人よ。あの時は、たまたま森に調べ事をしに来ていただけよ。少ししか話さなかったし、もう、十年は過ぎた昔の事よ。私は、憶えていても、あの人は忘れているよ。何処か別の土地に、大切な人がいるのかもしれないし。……もしかして、幼い日の幻だったのかもしれないよ。どっちにしても、もう昔話よ」
そうは言ってみたもの、心に痞えている想いがある。それを考えていると、顔や耳の辺りが熱くなってしまう。ナディアは、それを振り払うかのように、たまっていた仕事に取り掛かった。
「仕方のないことかもしれんな」
そんなナディアを見て、クナア婆は小さく呟いた。
昔、森の主の処で出逢った、白き輝きを秘めた不思議な青年に、一目で惹かれてしまった幼い心。もっと話をしたかったな。あまり会話もすることもなく、彼は去ってしまったから。それから、すでに十年以上過ぎた今でも、忘れられない想い。それ以上に、より強く想いは、ナディアの心の中に存在していた。
まだ幼かった日、両親を亡くしてしまったナディアは、長老でもあったクナア婆に引き取られた。クナア婆は、我が子のように育ててくれた。不思議な青年ラーストゥクルとの想い出があるから。何よりも大切にしている、想い出だった。あれから、十数年余り、ナディアはあどけない少女から、年頃の娘へと成長していた。
育ての親であるクナア婆が、寝たきりになり数年。ナディアは、ずっと看病していた。血の繋がりはないけれど、たった一人の家族であるから。
森は、秋の色から冬の色へと変わろうとしていた。時折り吹く北からの風は、樹木をゆらし、家々の戸を叩いては、秋の終りを告げていた。
「もうすぐ雪が降り始めることだから、その前に森に行って、今年最後の薬草とかを集めてくるよ。まだ、奥の森の主の辺りには、木の実とかも残っているから、それも採って来るね」
ナディアは、厚手のコート着ると、籠を背負った。
「すまないね、ナディア。私の為に、若い時間を割いてもらって」
咳をしながら、クナア婆は言う。枯木のような腕や身体が日々に衰えていくことに、ナディアは胸を痛めていた。
「その様なこと言わないで、クナア婆様。両親を亡くした私を、引き取ってくれなかったら、私は……」
クナア婆の手を優しく、自分の両手で包み、ナディアは励ます。
「私は、もう長くないから、その先はお前の自由にすればいいよ」
「何を言っているのよ、クナア婆様。私は、ずっとこの村で暮らすの。それじゃあ、行ってくるね。夜までには、帰れるようにするから」
ナディアは家を出る。村外れにある家だから、森はすぐそこだった。小さな村では、今も昔も冬を越すのは大変だ。最近では、村に残っている人も少なくなっていた。皆、安定した生活の出来る街へと、出て行ってしまったのだ。雪に閉ざされてしまう村より、暮らし、やすい街の方が良いと。一家また一家と、村を後にしていたのだった。小さな村は、さらに小さくなってしまっていた。空き家となってしまった家々にも、北風は扉を叩いては吹き抜けて行った。ナディアとクナア婆の他は、数人の家族しか残ってはいない。昔から一番の賑わいであった収穫祭ですら、今年は行なわれなかった。まだ、去年の秋は、それなりに賑わいがあった。村は静まり返っていて、ただ北風の音だけが、響き、冬の到来を告げていた。
秋も終り、冬へと入る森は、一面の落ち葉で埋れていた。彩り様々な落ち葉は、絨毯みたいだった。
「ここは、何時来ても変わらないね」
ナディアは、呟きながら森を歩く。時折、足元の落ち葉を掻き分けては、薬草を探す。そのついでに、キノコや木の実も集めていく。この森は、豊かなる恵みの森、年間を通してそれを実感できる。村人が村を出、森を去ってしまっている今でも、森は変わる事無く与えてくれている。
「村から、人がいなくなってしまっても、森だけは変わる事無く在るのかなぁ」
秋の終りを告げた風が、森を吹き抜けてゆくと、まだ樹に残っていた、紅黄の葉も一斉に舞い散ってゆく。
「森の主も、すっかり葉を落としてしまっているね」
森の奥にある、古き大樹・森の主の処まで来ると、森の主に僅かにのこっていた、実を集める。籠に色々と森の恵みを詰めて、ナディアは森の主の根元に、腰を下ろして一息吐く。
「あの白い不思議な学者さん、ラーストゥクルって、名前だったよね。あれから、十数年は経つけれど、今も何処かを旅しているのかなぁ。また、逢いたいよ。逢えるのかな」
呟きながら、幼い頃の想い出に浸る。いつも、そこで思うのが、私の事なんて、忘れているのだろう、て、事だった。
森の主を見上げる。葉の落ちてしまった枝から、冬色の空が見えた。自分の吐く息が白い事に、気付いて、ナディアは大きく息を吐いた。
「もう、冬だね。春になった、また来るからね」
と、森の主に呟いて瞳を閉じる。そして、森の主の鼓動に耳を澄ませた。大樹の生命の音色が聞える。ナディアは、しばらくそのままでいた。深い森色の長い髪が、風に揺れる。何かの気配を感じて、ナディアは顔を上げた。
「あっ」
ナディアの瞳に、白い輝きが映った。ナディアはそのまま、静止してしまう。
「あなたは、いつかの、旅の学者さん?」
無意識のうちに言葉が零れた。
「久しぶりだね。また、逢う事が出来た」
白い輝きを持った青年は、驚きと戸惑いを隠しきれないナディアに、微笑み言った。ナディアは、青年の姿があの時のままで在る事に、さらに驚いてしまった。しかし、それ以上に、再び逢えた事の方が、驚きだった。今しがたまで、幼き日の想い出に浸っていて、再会を望んでいたから。それが、現実のものとなっていることに。そのことによる、戸惑い。青年は、そんなナディアを愛しく見つめる。
「うそ、どうして、また、逢えるなんて……」
ナディアは、自分の顔が熱くなっていくのが分った。嬉しくて堪らないのだけれど、何故か恥ずかしく照れてしまう自分がいた。あの日の出来事は、幼い日の幻だったのかもしれないと思いながらも、心の何処かでは幻では無かったことを祈っていた。そして、再び逢える事を願い望んでいた。それが、今こうして現実のものとなっている、それは、ナディアにとって奇跡に等しい事だった。
「ラーストゥクルさん、だったよね? どうして、また」
ナディアは、幼い記憶を辿りながら問う。
「また、旅の途中なの?」
すると、青年ラーストゥクルは、静かに首を振り答えた。
「ナディア。私は、もう一度、君に逢いに来たんだよ」
座り込んで、自分を見上げているナディアに手を差し出した。ナディアは、少し戸惑ったけれど、その手を取った。そのまま、立ち上がって、ナディアは照れくさそうに言った。
「私も、貴方に逢いたかったの。もっと、おしゃべりしたくて、だって、あの時は、あまりおしゃべり出来なかったから」
ナディアは、視線を合わせていると顔が熱くなってしまうので、少し視線を外して話す。胸の鼓動は、森の主の鼓動より遥かに大きく聞え、周囲の音をすべて消してしまうかのように、響いていた。ラーストゥクルは、成長したナディアを見つめる。昔と変わることの無い、無垢で穢れの無い瞳。それを見て、自分の抱いている想いが嘘でない事を、識る。人間の娘・ナディアへの想いは確かなものであると。自分にとっての時間は、短くても、人間であるナディアにとっては、長い歳月。自分に流れている時間と、違う時間の流れ。ナディアの事をよくは知らない。だけど、心惹かれてしまう。それは、ナディアの抱く、純真無垢なる魂のせいなのかもしれない。一方、ナディアは、これは、一目惚れというものなのかなと、思っていた。それにしても、十数年前に出逢った時の姿とまったく変わっていない、ラーストゥクルを不思議に思いながらも、再会の喜び、幼心に生まれた想いと、今ある想いが同じであることが、嬉しかった。ラーストゥクルが、自分との再会を望んでいてくれた事は、何よりも嬉しかった。
森の主の根元に、二人は座り話す。村での暮らしのこと、この森が好きだという事を、ナディアは子供のように無邪気に話した。ラーストゥクルは、其れを聞きながら、自分も人間の目線を想像して、地上世界で見てきた事を話して聞かせた。
「ラーストゥクルさんって、世界中を旅して廻っていたんだね」
「ああ。ここ数年で、世界の様子は随分と変わってきてしまったよ。人々は、機械を造って以来、どんどん街を大きくしているよ。今までは、自然と共に生きて来ていたのにね。その生きるための自然より、今では機械を使って街都の為に、森や山は切り開かれている。そのせいか、そこに住まう生き物達は、消えてしまった。人間が発展するのは、構わない事だと思うけれど。それも、万物の一つだから。でも、自然界が壊されてしまう事に対して、私は不安を感じしまうんだよ。だけど、ここは、森の生命が活気に満ちていて安心したよ」
色々と語っている、ラーストゥクルの横顔を見つめるナディア。
「だけど、皆、森と暮らすより、街の安定している生活の方が良いって、村を出て行っているんだよ。村は、すっかり寂しくなってしまったの。だけど、私は、ずっと、ここで暮すの」
ナディアは、ラーストゥクルの話は、ナディアの村の人々が望んでいる街での生活、その為に、人間が払っている代償であると、思った。
「私、いくら便利で安定した暮らしが出来ても、森とかを傷付けてまで、そのようなことやりたくないなぁ。ずっと、昔は、森と共に生きていたのにね。どうしてかな」
寂しげな悲しそうな顔をする、ナディアを垣間見ると、ラーストゥクルは言った。
「世界を旅していても、それだけは、私にも解らなかったよ。もしかすると、人間はその様に創られているのかもしれないね」
「う~ん。神様が、その様に創ったのなら、森を傷付けても当たり前って事? そんなのって変だね」
「そこまで、神々は考えていないよ。人間や自然を創ったのは、神々ではないのだから」
「えっ。そうなの。でも、どっちにしても、私にはよく解らない事だよ」
と、ナディア。
森は、すっかり暗くなっていた。一段と冷たくなってきている風が、吹く。
「あ、すっかり、遅くなってしまったよ」
ナディアは、はっとして、立ち上がった。
「ねぇ、ラーストゥクルさん、何処かに身を寄せていたりするの? もしよかったら、村へ来ませんか? この辺りには何も無いですよ。今の季節だと、森の中での野宿も無理ですし」
ナディアは、素っ気なく言う。あの時みたいに、何処かへ行ってしまうのではないかと、思ったから。あの時、まるで消えてしまったみたいに、ラーストゥクルの姿は何処にもなかった。それが、また不思議だった。
「あ、ああ。構わないよ。今回は、急ぎの用事もないから」
ちょっと、戸惑ったが、ナディアの提案を受け入れた。ラーストゥクル自身、ナディアともっと過ごしたいと、思ったから。ナディアは、とても嬉しかった。少しでも長く一緒にいたい。その様な存在に、なっていたから。その様な存在として、ラーストゥクルの事を想っていたから。
白と灰色の世界が、一面に広がっている。森も村も、雪に埋れて閉ざされていた。村人達は皆、家に篭り長い冬を過ごす。冬を越える為に、秋の終りまでには、一冬の為の準備を済ませておくのだ。人間だけではなく、僅かな家畜たちの物も含めて。冬の間は、まず森へ入る事はない。蓄えていた食糧で、春までつなぐ。厳しい暮し。冬にはすることがない。ひたすら、春が訪れるのを待ちつづける。昔は、森で集めていた木や蔦で、細工物を作ったりもしていたが、最近ではそれも、暇つぶし程度だった。だから、皆、村を出て街で暮らすのを選んでいたのだった。小さな村は、今では二十人足らずの人間しか住んではいなかった。 雪は音も無く、静かに舞っている。森も村も、白く埋め尽くしながら。冷たい静寂の季節。時折、風が鳴いては、戸の隙間などから、微かな冷気を吹き込んできた。
冬の始りの日に、ラーストゥクルと再会したナディアは、クナア婆との三人で暮す事にした。ナディアが、ラーストゥクルを伴って帰って来た時は、クナア婆は驚いてしまった。ただただ、驚き戸惑ってしまったが、ナディアの想いを悟ってか、一冬の逗留を、共に暮してゆきたいという事を、聞きいて許したのだった。
村の人々は、見知らずのせ青年を不信に思っていた。この様な季節に、辺境の村へと来るような者は、何かあるのではないかと、考えてしまうから。ナディアの想い人であっても、どこか受け入れがたいものがあった。村人達は、暫くは遠巻きに、ナディアとラーストゥクルを見ていたが、雪が降り積もる頃には、まあいいだろうと、したのだった。もともと、村外れで暮している、ナディアとクナア婆とは、村人は深い付き合いをしていなかった。数年前から、村を出る者が増えるに従い、次第に距離を置くようになっていたから。クナア婆も、そうだったが、なによりナディアは、頑なに森と共に生きることを護っていたから。だけど、クナア婆は、そんなナディアに何度も、街へ出ることを勧めていた。まだ若く先のある娘を、独りここに残すことは忍びなく想っていたから。でも、ナディアは、街へ出る気など、まったくなかったのだ。クナア婆は、村に残り森と共に生きていくという事が、嬉しかったけれど、心配でもあった。
吹き付ける風は強く、荒れた天候が続いている。暖を取るのは小さな暖炉のみだった。暖炉の火を絶やす事無く、燃やしていても、寒さは残っていた。
「もう、納屋の薪が無いから、私、取りに行って来るね」
毛皮で出来たコートを着て、ナディアは言う。
「私も、行こうか?」
と、ラーストゥクル。
「いいよ。大丈夫だから」
答えて、ナディアは家を出る。外へ出るため扉を開けると、強い風と共に雪が吹き込んできたので、慌てて扉を閉める。
「さむ。雪、まだ降るのかなぁ。ああ、屋根の雪下ろしもしないといけないなぁ」
白く重そうな屋根を、見上げる。
「また、吹雪きそう。寒い。さあ、先に急いで雪下ろしだ」
ナディアは屋根に登って、雪を下ろす。毎年冬になったらやっているので、慣れたものだった。
「今年は、雪の多い冬だなぁ」
呟いては、雪を下ろしてゆく。
暖炉に薪をくべては、掛けてある鍋の中を混ぜている、ラーストゥクルにクナア婆は、話し掛けた。
「正直言って、驚きました。あの子が、貴方様を伴って、森から帰って来た時は。ラーストゥクル様は、天上の神族でございますでしょう?」
手を止めて、ラーストゥクルは
「ほぉ。クナア婆殿。何故、そう思われます?」
内心動揺し、問う。
「幼い日、あの子は森から戻って来るなり、貴方様と出逢ったという話をしていました。私は、その話を聞いただけで、もしかすると、人間ではなく神族のお方ではないかと、想ったのです。少なくても、私には解るのです、その様な事が。貴方様と一緒に森から、ここへ来た時、私の予感は確信に変わりました」
クナア婆の話を、聞きラーストゥクルは、問う。
「ナディアは、私が人間ではないことを、知っているのでしょうか?」
不安だった。
「いいえ。多分、知りませんよ。私としては、あの子が幼い日の幻であったと想っていてくれた方が、良かったんですが。神族と人間が、出逢う事自体、稀有な事。なおかつ、想いを抱き合うなんて。想い合っても決して、報われる事のないものなのに」
申し訳なさそうに、クナア婆は言った。暖炉の炎を見つめて、ラーストゥクルは静かに言った。
「解っています。その事は、天上を出るときに、言われたことです。だけど、この想いは変わらない。ナディアへの想いは、彼女を大切に愛しく想う心に、偽りは無いのです。そんな、謂れは、絶対的ではないと、私は思います」
薪をくべると揺らめく炎が、ラーストゥクルの影を揺らしていた。
「あの子、ナディアの恋も想いは、いいのです。が、貴方様の覚悟は出来ておられるのですか? 変わらぬ想いは、信じましょう。だけど、人間の時間は短く限り在るモノ。何れ、死が訪れるもの。貴方様は、その先に耐えられますか? 独り取り残されてしまう、孤独と淋しさに」
天井の一点を見つめて、クナア婆は言った。
「私は、昔、大切な人を亡くしてしまった。まだ、村には大勢人が暮していた頃だった。想いの人を亡くしてしまった私に、思いを抱いてくれる人はいた。だけど、私は、生涯に懸けて、あの人の事を愛すると誓っていたので、あの人の事を想い、独り生きて行く事を選んだ。以来、村人とは距離を置いている。ナディアを、引き取って育てたのは、生まれて来るはずだった子のかわりなのかもしれない、その子の分まで、ナディアに愛情を上げようと想ったから、だから。独りを貫くのも、淋しすぎたのかもしれない」
クナア婆は、涙を溢した。
「私には、まだ、失うという事がどのようなものであるのかが、理解出来ないのです。だけど、ナディアが存在している限りは、私はナディアを愛し続けます」
「そうですか、あの子は幸せですね」
微かな笑みを浮かべて、クナア婆は呟いた。
雪は強くなっていく風とともに、吹雪はじめていた。屋根の雪下ろしを終えた、ナディアは、薪などを纏めて保管している村の倉庫へと向かった。各家々でも、ある程度保管してはいるけれど、大きく量もあるものは、村の倉庫に置いていた。ナディアは、大きな幹のまま置いているものから、切り出しては薪割をする。家の裏にある小さな納屋に、薪の束を置くと、数日分の薪だけをソリに載せて、家に帰る。家の扉を開いて、戸口の処に薪の束を置いた。吹き込んできた雪や、服についている雪を払っていると、奥から、ラーストゥクルが出てきた。
「お帰り、ナディア」
迎えてくれて、奥へと薪を運ぶのを手伝ってくれる。
「ありがとう」
礼を言って、ナディアは、雪で冷たく湿ってしまったコートを脱ぐと、ハンガーに架ける。
「やっぱり、私も手伝った方が良かったかな?」
コートを暖炉の近くに干していた、ナディアの背後で、ラーストゥクルは照れながら言った。
「あはは。その方が良かったかもね。さすがに、雪下ろしして、薪割はきつかったかな。ふう、疲れたよ」
笑って、ナディアは暖炉の前に座る。
「遅いと思っていたら、色々とやっていたんじゃな。外は、よく冷えているじゃろ」
ベッドの上に身体を起こして、クナア婆は言う。
「まあね。さっき、倉庫で、カルアと会ったよ。春になったら、家族皆で、先に街へ出て暮しているお兄さんの所で、皆で暮すんだって。カルア、とっても嬉しそうだったよ」
少し複雑で淋しそうに、ナディアは言う。ラーストゥクルは、温かなスープを注ぎ分けると、ナディアとクナア婆に渡した。
「ありがとう」
受け取って、ナディアはスープを啜る。
「そうか。皆、この村から出て行ってしまうのじゃな。確かに、この村は、時の流れより取り残されている。先の事を考えるのなら、ナディア、お前も街へ出てもいいのだよ。何時までも村に拘らなくても。まだ若いし、良きお方も、おられるのだから……」
さらに細くなってしまった腕が痛々しかった。ナディアは、スープを飲んで身体が温まると、少し疲れがとれた気がした。スープを飲み終えたクナア婆は、相変わらず弱々しい溜息混じりに、ナディアを見つめて言った。
「私は、きっと春を迎えることは出来ない。だから、その後の事はいいんだよ。無理をして村に残ることもない。お前の自由にすればいいよ。私の為に、村に残るといっているのだったら、いいんじゃよ、私の事は」
その言葉を、ナディアは叱咤する。
「クナア婆様。そのような事は言わないで下さい。私は、村と森が好きだから、何処へも行かない。森の主の頂や丘の上から、見渡せれる空や大地が、好きなの」
薬湯を渡し、ナディアは優しく言う。
「私は、ここでずっと暮すよ。クナア婆様、もう気弱な事を言わないで」
ラーストゥクルは、二人の会話を聞きながら、暖炉に薪をくべていた。揺らめき燃える炎を見つめて、限りがあるということは、どういうことであるのかを、考えていた。人間というものについても、遠くから見ていた時と違い、近くにいて始めて知ったこともあってか、ラーストゥクルは、より強くナディアへと惹かれていた。人間は、永遠ではないということ。自分が、愛する者は、自分と違って永遠では無く、短く限りが在る事。そのことを考えていると、胸が疼きはじめることに、気付いていた。
『我等神族と人間は、交わることは、出来ない。共にすることさえ、不可能……』
天上で、サフィローアに言われたこと、クナア婆から言われた事が、ラーストゥクルの心の中で回っていた。
そのようなことは、無い。今だって、同じ時間を共に過ごしているし、想いだって同じだ。この先も、変わる事も無く、ずっと……。
サフィローアやクナア婆の、言葉を打ち消すかのように、ラーストゥクルは強く想い続けた。 新たにくべた、薪が弾けて火の粉を散らしていた。
「どうかしたの、ラーストゥクル」
夕食の片付けを終えた、ナディアは、暖炉の前で考え込んでいるラーストゥクルを、心配そうに声をかけた。
「なんでもないさ。少し、考え事をしていただけ。ずっと、ナディアと過ごせるといいなと」
不器用に笑って、ラーストゥクルは答える。
「あ、うん。そうだね」
暖炉の炎に照らされたかのように、ナディアの頬は紅く染まった。
薪が燃え弾ける音だけが、繰り返されている。小さな村は、雪に閉ざされた長い冬の真中にいた。幾度となく、過ごしてきた冬。他愛の無い会話や、服を縫ったり、細工物を作ったりして過ごしてきた。暇で退屈というわけでもない、雪下ろしなどの作業は日々ある
吹き付ける風が緩んで、俄かに空が姿を見せる日が、多くなってきていた。冬の半ばから、殆ど眠っているばかりだった、クナア婆は、ここ数日は、呼びかけにも反応しなくなっていた。
「クナア婆様、死じゃあいやだよ。春になったら、また一緒に、春花実を食べようよ」
涙ながらにナディアは、クナア婆の枕元で訴えつづけた。ラーストゥクルは、何も出来ない自分を悔やみながらも、ナディアの力になるには如何するべきかを、考えていた。神族である自分は、人間と違う。それだから、死というものを理解できないのかもしれない、考えても、答えは解らなかった。
風の無い、静かな夜だった。クナア婆の枕元で看病しているナディアが、うつらうつらしているのに気が付いた、ラーストゥクルが、ナディアに毛布を掛けた時だった。静かに、クナア婆の躰・器から、魂が離れていく気配が、微かに感じ取れた。
「これが、死? クナア殿、これが、死というものなのですか?」
虚空に向かい呟く。しかし、微かにある魂の気配は、其れに答える事もなかった。ラーストゥクルは、魂を僅かには感じる事は出来ても、観る事は出来なかった。その魂の気配も、どこへともなく消えて逝った。
溶け始めた雪に、沫雪が舞う中、クナア婆の葬儀と埋葬が行なわれた。悲しみに暮れる、ナディアをラーストゥクルは、何とか励まそうとしていた。
初めて死なるものに、触れた。そのことで、ラーストゥクルは、徐々に、サフィローアやクナア婆の言っていた言葉の意味を、実感し始めていた。
「何時か、ナディアも、クナア殿のように」
そう思うと、堪らなく苦しくなってしまう。
「何があっても、私は、ナディアと共に」
それは、ラーストゥクルを困惑させる。ただ、掛ける言葉も見つからないので、ギュッとナディアを抱きしめる事しか出来なかった。そんな自分が、とてももどかしく思えた。神族も人間も、抱く根源的な感情は同じだと思う。ただ、神族は感情なんかに流されない。それは、永遠に近い存在だからなのかもしれない。生命が短く限りある故に、人間は感情と共にあるのだろう。
自分の腕の中で、泣き続けているナディアと共に、自分も涙するべきなのか、励ます方がよいのか、このまま抱きしめ続けるべきなのか、考えても解らなかった。
『人間とは共に出来ない』
脳裏を何度も掠めてゆく、女神サフィローアの言葉、クナア婆の言葉。それには、時間だけではなくて、心までも共有出来ない意味が入っていたのだろうか。考えると不安になってしまう。どうであっても、ナディアを愛しく大切に想う心、魂には偽りは無い。それだけは、ハッキリしている。
ひとしきり泣いていたナディアは、そのままラーストゥクルの腕の中で、眠ってしまった。クナア婆の看病から死を看取り、葬儀埋葬を済ませるまで、殆ど眠っていなかった。疲れと悲しみの表情を浮かべて眠っているナディアを、そっと、ベッドに横たえると、ラーストゥクルは寝顔を見つめる。
「何時か、ナディアもクナア殿の様に、歳を老いて死んでしまうのか、それが、人間なのか」
呟くと、何故か堪らない想いに駆られてしまう。永遠では無いという事に、気付く。クナア婆の死を切っ掛けに、永遠では無く限りある時というものが、どういうことであるかを、ラーストゥクルは理解した。それと同時に、何時かナディアを失ってしまうという、恐怖を抱いてしまった。
「それでも、私は、ナディアを愛し共に在りたい」
眠るナディアの頬に、そっと口づけた。
やわらかな雨は、雪解けを促しながら、大地に小さな芽を芽吹かせて、森や村に春を呼んだ。村人達は、街へと出るため荷物を纏めていたものを、馬車へと積み始めていた。ナディアは、遠巻きにそれを見つめて、溜息を吐く。
ナディアは、森の主に登っていた。
「この森と空だけは、何時までも変わらないで欲しいな」
彼方を見つめると、かつては緑の平原だった処にも、今では街の建物が立ち並んでいる。
「森の主に登ったのは、数年ぶりになるのかなぁ。子供の頃は、毎日の様に登っていたけど。今となっては、子供の頃のような器用さが無くなっているから、昔みたいに登れないやぁ」
独りで呟きながら、森の主の頂から見つめている。やがて、村人達の姿が見えなくなった。
「時代の流れに、取り残された村かぁ。世界が変わっても、ここは何時までも、変わりなく在り続けるよね、そうでしょう、森の主」
春の風が、深い森色の長髪をなびかせた。
春の森は、花々の香りで満たされていた。それはまるで、新しい生命達を祝福するかのように。そのような森の中を、白き青年ラーストゥクルに抱き抱えられ、老婆は、咲き誇っている花々を見つめていた。真っ白い髪と、刻まれた皺。だけども、その瞳は、森と同じ色をしている。
「あれから、幾年も過ぎ去っているのに、ラーストゥクル、貴方は少しも変わっていないのね。不思議な人だね」
老婆は、ラーストゥクルを見上げて言う。白い青年は優しく笑って、静かに古き大樹の根元に老婆を下ろした。
「ああ、ここへ来るのも、随分と久しぶりだね。もう何年来ていなかったのかしら。こんな身体になってからは、ずっと寝てばかりだったもの。貴方には、手間ばかり掛けさせてしまったわ。ごめんなさいね」
痩せ細り皺だらけの顔を、幾つもの涙がつたってゆく。
「ナディア、私は―」
何かを言おうとしていた、ラーストゥクルを遮るかの様にナディアは首を振り、何も言わないでと、云う感じで見つめた。
「見て、ラーストゥクル、数十年ぶりに、森の主に花が咲いているよ。とても善い香りだね」
横たわったまま、森の主を見上げてナディアは言う。もう、自分で身体を支えることさえ出来ない。森の主の根元に寄りかかるようにして、頭上に咲き乱れている森の主の、白く小さな花々を見つめる。小さな白い花は、微かに光を放っているかよのうに見える。生茂った新緑の葉の間からは、木漏れ日が優しく降り注いでいた。
「貴方と、始めて出逢った時にも、森の主は花を咲かせていたのよ。憶えている?」
息苦しそうに呼吸しながら、年老いたナディアは問う。
「ああ、よく憶えているよ。森の主から、降りてきたのを。あどけなく、純粋で無垢な小さな女の子を」
息苦しそうにしているナディアの背を、擦りながらラーストゥクルは答えた。きっと、何も知らない人から見れば、老婆とその孫と思ってしまいそうな光景。少し楽になったのか、ナディアは、なんとか身体を起こして、ラーストゥクルを見つめる。
「天上の、お方なのでしょう?」
くすっと笑って言う。年老いてしまった今でも、無垢な笑顔はあの時のままだった。「知って、いたのかい? 何時から、気付いていたのだい?」
ラーストゥクルは驚いて、問い返した。クナア婆には、初めから見抜かれてはいたけれど。クナア婆が、ナディアに話したとは思えなかった。それとも、クナア婆と同じ様に、ナディアもまた、自分の正体を見極めていたのかと、考える。
「ええ。あの時、再会した時よ。もしかしたら、そうかもしてないって。それに、始めて出逢った時から、とても不思議な感じの人だと思ったからね」
昔を思い出すかの様な、懐かしく遠い目をして、ナディアは答えた。ラーストゥクルの腕の中で。
「今は、あの時と同じ様に、森の主は花を咲かせている。貴方は、森の主とお話していた、不思議な旅の学者さん、だったね」
ただ、愛しく想う者を見つめ合う。
「あ、あれは、幼い人間の子供に何て答えれば良いのか分らなくて、思いつきで言ったんだよ。今でも、それを憶えていてくれているんだね」
「昔の想い出だけが、強く戻って来る。人は、死期が近づくとそのようになるって、聞いた事があるけれど、本当だったのね」
ふぅと、大きく荒い息を吐く。何処かで小鳥が囀っている。その優しい囀りだけが届く。
「ナディア?」
瞳を閉じかけていた、ナディアに呼びかける。
「もう、この様な身体では、森の主に登る事は、出来ないね」
閉じかけていた瞳をまた開くと、残念そうに呟く。
「私が、連れて行こう」
ナディアを抱き抱え立ち上がると、ラーストゥクルは、森の主の頂を目指して翔いた。一瞬、光が舞ったの様にナディアには見えた。ナディアが再び瞳を開くと、森の主の頂だった。ラーストゥクルに抱えられたまま、そこにいた。
古き大樹は、天へと届くかの様で彼方まで見渡せる場所。かつては天空と大地の境が見渡せたけれど、今は建ち並ぶ建物の果てに隠れてしまっていた。この数十年で、見渡せれていた景色は、すっかりと変わってしまっていた。
「すごいね。こんなことが出来たんだね」
抱えられた腕の中で、まるで子供の様に驚き嬉しそうに、ナディアは言った。
「ああ、この位の事ならば……」
凄く悲しそうな顔をして、ラーストゥクルはナディアを見つめた。
「私、すっかりお婆ちゃんだね。もう、お別れだよ……。人間は、永遠では無いから」
ナディアは呟く。抱き抱えられている腕の中から、彼方を見つめて。
「私ここが、一番好きだったの。村は小さいけれど、ここへ来れば、世界中を見渡せそうだから。だけど、その世界も変わってしまって来ているね。本当に、時の流から取残されてしまっている場所。だから、好きだったのかもしれない。森が、村が、それに……」
涙を浮かべて、ラーストゥクルを見つめる。
老婆と孫の様に見え、とても愛し合っている者同士とは、見えないのかもしれない。
神族と人間とは、存在する時間が異なる。
「この森は、出逢った処だから、ずっと大切にしたかったの。それも、一つの理由よ」
頬の皺を涙がつたい、ラーストゥクルの腕へと落ちてゆく。ラーストゥクルは、年老いてしまった、ナディアを見つめ続ける。
「村に残ると言い続けていたのは、そのことの為だったんだね。ありがとう、ナディア。私の事を想い続けてくれて」
その言葉を聞き、ナディアは微かに笑うと瞳を閉じる。涙は止め処なく流れてゆく。森の主は、ただ静かに二人を見守っていた。 これも、大いなる万物が織り成す一つのカタチなのかもしれないと。
「ねぇ。魂って、存在しているのかなぁ」
かぼそくかすれた声で、弱々しく問い掛ける。細い身体と幾重にも刻まれた皺の老婆。愛する者を抱き抱えたまま、頷く。
「存在しているさ。生命あるものには皆。心の中心のさらに深い処に。魂は存在していると聞く。魂自体が一つの存在なんだ。それが、一つの生命と共にあるんだ。魂は、万物世界と時空を旅して廻っているんだよ。何かを見つけるまで。でも、魂が何を求めているのかは、誰にも分らないんだ。きっと、それは神族ですらね。それを見つけるまで、転生を続ける。輪廻は、私には判らないし、知る術もない。だけど、魂は巡る存在、生命から生命へと。生命そのものが、魂が入る器とも云えるのかもしれない。生命が次の世代へと継がれていくように、魂も来世へと伝わってゆく。あまり、詳しい事は分らないから、いい説明じゃあないけれど」
ラーストゥクルが答えると、ナディアは微笑む。「それだったら、またどこかで、巡り逢えるかもしれないってことだよね」
ラーストゥクルを見つめて呟く。唯一人の愛しく大切な存在を。
「ああ、在りえる事だよ。人としての記憶が無くても、魂が持つ記憶が在るから。転生した何処かの時代で、気付く筈だよ」
答える、ラーストゥクル。
「魂の記憶かぁ。私の中にある魂は、記憶していてくれているのかなぁ」
かすれゆく声で、ナディアは呟いた。徐々に力が抜けてゆく躰。
「約束するよ、ナディア。私は、必ず君を、その魂を見つける事を」
力の抜けゆくナディアの躰を、抱きしめながら、ラーストゥクルは静かに誓いを込めて言う。
「ありがとう、また、逢えるといいね……」
最後に残っていた、一雫の涙が森の主へと落ちてゆく。ナディアは、深く永遠なる眠りに就いた。其れと同時に、魂は器を離れて旅立って往く。眠りに就いたナディアを見つめて、ラーストゥクルは涙を流す。きっと、神族でこれほどまでに、相手を想い愛して涙を流した者は他にはいないだろう。自分自身も、初めて流した涙と呼べる涙なのかもしれないと、想いながらラーストゥクルは、ナディアを抱き抱えたまま、ラーストゥクルはナディアが好んで見つめていた、彼方の空を見つめた。
ナディアの死を弔うかの様に、森の主は自らの花を散らせた。小さな白い花は耀きながら、天空へと舞い上がってゆく。まるで、魂の旅立ちを見送っているみたいに。
ラーストゥクルは、ナディアの亡骸を暫く抱きしめていた。二度と、微笑む事の無い愛しき者を。森の主の頂より、地上の根元に戻ると、ラーストゥクルは森の主に問う。
「ここが、ナディアにとって一番良い場所だと思うから、ここに、葬るのが良いのかな?」
すると、森の主は
「そうですね。この地上で生きと生けるものは、土へと還るもの。ナディアは、森と共に生きてくれた。私が、その器を受け取ろう、いつか、私も土へと還る日まで」
「ああ、そうか。すまないな、森の主」ラーストゥクルは、森の主の根元に、ナディアを埋葬すると、森に咲いていた花を手折り、墓前へと捧げる。瞳を閉じ、ナディアを想う。ナディアは、もういない。ナディアという、愛しき者は自分の隣にはいない。ラーストゥクルはようやく、孤独を、残された者の悲しみと淋しさを実感し、それを理解した。
「クナア殿。貴女が言わんとせんとしていた事を、私は今ようやく、理解できました。神族と人間は、共にする事も交わる事も出来ないと、された。だけど、ナディアと私は、時を共に出来た、少なくてもそれだけは」 ラーストゥクルの頬を、涙がつたい、ナディアの墓へと幾つも落ちては、土へと消えてゆく。森の主は、暫くその様子を見つめていたが、静かにラーストゥクルに問い掛けた。
「この先、如何なされられるのですか。天上へと戻られるのですか。この地上には、もう、ナディアは存在しないのですよ。もう、永遠に」
その言葉にラーストゥクルは、沈黙する。虚ろにナディアの墓を見つめながら。そして、静かに首を振った。
「天上へは、戻らないと申されるのですか? まさか、ラーストゥクル殿、それは、余りにも……」
森の主は、頂にて交されていた会話を、思い出した。
「ナディアの魂を、探す。魂との再会。それが、ナディア自身と魂との約束だから。魂の記憶が在る以上。私は、必ず見つけ出して、約束を果たしてみせる」
ゆっくりと答えると、ラーストゥクルは森の主の下を立去り、森から姿を消した。
「本当に、その様な事が可能なのだろうか。幾億も存在されるとされる魂の中から、ナディアであった魂を、探し見つけ出すことが、本当に可能なのだろうか」
心配気な、森の主の呟きは、深い森に消える。
静まり返った森には、小鳥の囀りが響き、森を抜けてゆく風が、森の樹木の葉を、森の主の根元のナディアの墓に手向けられている、花をも揺らしていた。それを優しく包みこむように、木漏れ日が差し込んでいた。ナディアと云う人間と、その人間を器として宿っていた魂。器を失ってしまった今、魂は解放された。しかし、その行方を、ラーストゥクルには識術すらなかった。だが、ナディアとの約束を果たすために、当ての無い旅へと出たのであった。
人間のいなくなってしまった、小さな村は、何時しか森へと還り森となってしまった。辺境の小さな村は、消えてしまった。それは、人々の記憶からも。
世界は日々に大きく発展してゆく。人間たちの成長はめまぐるしいほどだった。其れと同時に、万物の均衡は少しずつ少しずつ、そのバランスを狂わせていっていた。天上の神族達は、それに不安を抱いていたが、既に地上世界・人間世界との干渉を控えている今、深くは関わらず、各々の務めに従事していた。神族とは、万物世界において、其々を司り護り導くもの。人間が信仰する宗教上の神々も、もとはそのような神族を識者より、創まったとされている。
第二章 彷徨
天上のまほろばなる庭園で、女神サフィローアは、ラーストゥクルの帰りを待っていた。人間の娘・ナディアが死んでしまえば、きっと、神族と人間が共になれないことを理解して、ここへと戻って来る。そうすればまた、ラーストゥクルと一緒だ。私達は、誕生した時から共にあり、新しき神産も託されているのだから。
しかし、ラーストゥクルが天上に戻る事はなかった。
「人間に想いを抱くなんて、一時の迷いだと思っていたのに。どうして、その人間が死んでしまっても、まだ想い続けているの。もう、存在し無い者を。ラーストゥクル、私は貴方を待っているのに」
男勝りの潔さがいたについている、女神サフィローアは、珍しく沈み悲しんでいた。ラーストゥクルには、自分の想いが届かない事が辛かった」
「ラーストゥクルは、あの人間の魂を追い求めているらしい。サフィローア、そんな奴の事は、もう良いではないか。ラーストゥクルは、天上を捨去ったも当然。それよりも、この私は、どうかね」
沈んでいたサフィローアに、黄金なる耀きを誇る髪と逞しい肉体を煌びやかな衣装で身を包んでいる男は、そう言って、自身たっぷりに、黄金の髪を掻き上げた。その仕草に、サフィローアは、ムッとして言った。むしろ、男のその態度よりも、言葉が気に障った。
「私は、誰よりも、ラーストゥクルの事を知っている。そして、誰よりも想っている。だから信じている。今は、あの人間の事が忘れられないだけ。だから、魂までも追い求めているんだ。今はそうかもしれない、だけど、そのうち、天上へ、私の隣へ戻って来る。幾億ある魂の中から、唯一の魂だけを見つけ出す事なんて、伝説の死と再生を司っていた神ですら、不可能よ。再生を促す事を司っている者だって、魂までは見抜けない。なのに、ラーストゥクルには、どうやって魂を見つけ出す術があるのだというのだ。そのうち、諦めて忘れて、戻って来るさ。私は、待っているから」
普段なら、感情的になることはないのだけど、サフィローアはつい声を荒げてしまった。
庭園にいた他の神々が、驚いてサフィローアを見る。庭園の静けさを打ち破った、サフィローアに視線が集った。
「サフィローアだよ。彼女は、生まれた時から、ラーストゥクルと一緒だったらしい。次期、神産の役にも、名を連ねていると聞いたぞ」
「ああ。サフィローアもラーストゥクルも、力と知、神格を持っているからな。それに、神皇宮で聞いたのだが、サフィローアは調停司高神の位を近々頂くらしい。すごいよな、上位神となるのだから。ラーストゥクルもともに、調停司高神の位に昇格するらしかったが、なにせ、人間の娘に想いを抱いてしまい、天上を去ったからな。しかし、どんな手段を使っても、我等と人間は共になる事は出来ぬ。ましてや、死してしまってもまだ、想い続けているらしい。サフィローアも、可哀想だな」
サフィローアと黄金の男神のやり取りを遠巻きに見つめながら、庭園の神々達はアレコレと詮索するかの様に話している。諍いも揉め事も、在る事ではない。静かで穏やかな天上神界では。
「でも、黄金なる太陽の僕である、クリサンセマムの言わんとする事も、解る。数いる女神達の中でも、最も美しく華麗、だけども、凛々しくも勇ましいサフィローアは、新たなる神産の相手に、誰だって選びたいだろうな。万物世界を担い、それを司る者達を新たに生みだす母神となるのだから。また、父神ともなれるのだから、誉れ高きことよ」
「その上、次期、調停司高神とくれば申し分ない。調停司高神は、万物の均衡を司る者達を纏め、その者達をも司る。そして、あらゆる罪穢れをも、浄化させる力と権限をも持ち合わせている。ここ数百年程、不在だったから、この辺りで必要な神となるのだろう」
サフィローアの話で、天上の庭園はざわめいていた。話題といえば、男神達はサフィローアの事だった。他の女神達も、サフィローアには一目置いてはいるが、内心は少しばかり複雑だった。気の合う者同士、話しながら、サフィローアに言い寄っている、クリサンセマムを見ていた。
「サフィローアは、凄いよなぁ。並みの神だと相手にもならない。そのんな女神が唯一想っている男神は、よりにもよって、人間に想いを抱いてしまって、天上を去ってしまった、ラーストゥクルだとは、なんとも皮肉な事だよ」
美しく穏やかな庭園は、サフィローアとラーストゥクルの話して、もちきりだった。自分の事は色々言われているけれど、ラーストゥクルの件以降は、それが増して来ていて、サフィローア、腹ただしかった。今までは、何を言われても動じる事はなかった。だけど、ラーストゥクルの事となると、心が乱れてしまい感情的になってしまう。自分でも自分の心感情が理解できなく、それが苦しかった。
「どうであろうとも、私はラーストゥクルを待つ。私は、ラーストゥクルが、ここ天上へと戻って来ることを、信じている」
遠巻きに、自分とラーストゥクルの事を話している者達に、苛立ちに任せて言放つと、サフィローアは、足早に庭園を去ってゆく。一緒にいたクリサンセマムは、唖然としていたけれど、周囲の視線を感じたのか、苦笑いでサフィローアの後を追う。
「辞めておいた方が、よかろう。クリサンセマム殿。サフィローアは、何時に無く御機嫌が悪いようだ。それに、調停を司る役を頂く前には、聖煌神騎士団の聖騎士であったという。彼女は、その辺りの男神よりも、ずっと強いかもしれませんぞ。まぁ、気を付ける事ですぞ」
年配の男神が笑いながら、庭園を出て行こうとしていた、クリサンセマムに言った。
「はは、私とて、太陽の僕となる者、太陽まではいきませんが、自信はあります」
自尊心タップリに答えて、そのまま、サフィローアの後を追って行く。その様子を見ていた者達は、半ば呆れてお互いを顔を見合わせると、溜息を吐いた。
「我々、神族が感情に流されるのは、どのくらいひさしぶりなのだろうか。万物世界の均衡が、崩れる前触れなのかもしれんな。それなのに、ラーストゥクル殿は……。そして、サフィローア殿も」
真っ白く長い顎鬚を足元まで蓄えている、老神は呟いた。
「まさか、それはないでしょう。きっと、神産を控えていて、色々とあるのでしょう。昇神の義もありますことですし。神産のことは、その心は、きっと人間の持っている心と感情と、そう変わりないものかもしれませんな。人間は、感情に対して正直なだけ。我々は、存在する時間が永遠に近い為、感情が薄らいでいるのかもしれませんね。だけど、人間であれ、我等神族であっても、心というものを取り扱うのは、難しい事なのかもしれません。しばらく、そっとして置くのが良いでしょうね」
白髭の老神の隣に座っていた、老婆神が言った。
「心か。そう波風の無い時代じゃからな。サフィローアも、暫くすれば落ち着くであろう」
老神達の話をはじめ、サフィローアが庭園を去った後も、交される話は、ラーストゥクルの話とサフィローアの話ばかりだった。
「上位高神達は、ラーストゥクルの事を、どう御考えしているのだろうか?」
やはり、皆の関心は、ラーストゥクルの事ばかりだった。
「天上を去ってしまった者が、再び天上に戻って来ることが、出来るのだろうか?」
若い神が、老神に問う。
「どうかな。本人の意思もあるが。最高神や上位高神の命で、強制的に戻される事もあるだろう。ただ、邪悪に穢れていない限りじゃな」
と、老神は答えたものの、不安があった。
「儂も、ラーストゥクルの事は良く知っているから、戻って来て欲しいと思う。ただ、純粋に相手を想う事を否定する事はしなが、想い余って、禁忌を犯してしまうのではないかと、思うと」
深い溜息を吐く。
「いくらなんでも、そこまではないでしょう。優れた調停司神だったのだから」
「ああ。そうだな。サフィローアが信じているのだから、儂等も信じてやらなければな」
老神と老婆神は、二人して頷いた。
天上で、囁かれている話題が自分の事であっても、地上を彷徨い、ナディアの魂を探し続けている、ラーストゥクルにとっては関係の無いことだった。天上で、自分がどのように言われていようと、思われていようが、今のラーストゥクルには、どうでもいい事だった。胸の中に在るモノは、唯一つ、ナディアの魂を探し出し見つけ出して、再会する事だけだった。地上の人間世界では、既に幾時も流れ過ぎていた。世界はめまぐるしく、変わっていた。既に、ナディアであった魂は、幾度となく転生を繰り返していたけれど、ラーストゥクルには、それを知る術すらも無かった。ただ、自分の中にある、ナディアへの想いと、その記憶を、そして、ナディアであった魂が秘めている記憶を求めて、探し求め続けていた。再会が、再び抱きしめあう事が、ラーストゥクルにとって、何よりも代え難い望みであった。しかし、幾億も存在している魂、その中から、ナディアであった魂を見つけ出す事は、ラーストゥクルにとっては、不可能だった。それを思う度に、悲しみと絶望にさい悩まされ、嘆いていた。
「ナディア、こんなにも、愛し想っているのに。私は、君の魂を見つけ出す事が、出来ないでいる。ああ、あれから、この人間世界で、どの位の時が過去ってしまったのだろうか、この世界は、すっかり変わってしまっているのに。未だに再会は出来てもいない。如何すればよい。必ず探し出すと約束したのに、なのに」
ラーストゥクルの嘆きは、虚しいまでに深く、その叫びは届くことのないもの。ただ、ラーストゥクルの目の前には、何とも例え難い、闇の空間が広がっていた。
「神族の中には、死と再生を司とっていた者がいたと、聞いた事がある。しかし、私が知る限りでは、その者は天上には存在していなかった。神族の中でも特異な者だったらしいが、その者ならば、ナディアの魂を見つける術を知っているのかもしれない。その者は、今何処に。だけど、例え知っていても、答えてはくれないかもしれない。私のやっている事は、もしかすると、万物の均衡に反しているのかもしれない。仮にも、私は、万物の均衡と調停を司っていた者」
ラーストゥクルは、闇の空間を見つめているうちに、自分の中に在る想いと、そこから生まれて来ている欲望に気付いて、悩まされていた。それが、堪らなく、苦しく辛かった。万物の均衡と調停を務めていた者の理性と、新たに生まれた欲望が、胸の中で激しくぶつかり合っていた。ラーストゥクルは、そのどちらも手放すことも、どちらかを棄てさることも、だからと言って、自分の中に在る欲望に流されてしまう事も、出来なかった。今ある選択肢は、二つ。ナディアの魂を諦めて、天上に戻る。今ならまだ、戻る事が出来るだろう。もう一つは、ナディアの魂を追い求め続ける事。その二つ。でも、より強くあるのは、ナディアと交した約束の言葉。“必ず、見つけるから。”その言葉は、何度も頭や胸の中を谺している。迷えば迷うほど、より強く響き続けていた。そのような時は、自分の想いに押し潰されそうになり、思わず瞳を閉じて涙してしまう。瞳を閉じた暗闇の向こうには、記憶に眠るナディアの姿が浮かび上がって来る。記憶の中のナディアに、呟く。
「必ず見つけ出すから」
ナディアが今際の際に呟いた言葉が、甦ってくる。
『また、逢えるよね』
「ああ、約束だから。必ず探し出してみせるよ」
ラーストゥクルは、記憶のナディアに何度となく答えて、瞳を開いた。
瞳を開くと、天上にも地上にも属さない処に、自分がいることに気が付いた。自分は、先ほどの闇の空間に飲まれてしまったのか、驚き戸惑いながら、ラーストゥクルは、辺りを見回した。そこは、白く聖な自分とは、余りにも不釣合いな場所であった。酷く不安定な空気と、沼の底の様な闇が漂っている。どことなく、腐臭の様なものが満ちていて、嫌悪に満ちた場所だった。
「ここは、何処だ? とてつもなく、嫌な空気と闇が満ちている。底知れぬ、何かが蠢いているかのようだ」
ラーストゥクル自身、自分が何故このような場所に居るのかが、理解出来ないでいた。ナディアの魂を見つける為に、彷徨い続けた挙句に、自分の前には闇の空間が広がっていた。そこまでは、憶えている。だけど、そこから先が、解らない。
「あの闇の奥が、この場所なのだろうか? 私は、闇に踏み込んでしまったのだろうか」
ナディアの魂を、探しつづけているうちに、自分は堕天してしまったのかと、ラーストゥクルは考え込んだ。しかし、それだけで、闇に堕たとは、考え辛い。
「闇にしては、この闇は普通の闇ではないみたいだ。邪悪というものなのだろうか、この異様な気配と嫌悪してしまう空気は」
皮膚の下、身体の中のほうから、この空気に対して反発するかのように、ゾッとするものが、噴出す感じがして、益々嫌悪を感じて、ラーストゥクルは眩暈を覚えた。
「邪悪、ここは、邪悪なる者達の世界なのか?」
魂や身体が、自分の思考とは別に、この場所を嫌悪しているのが分る。それが余計に、ラーストゥクルを戸惑わせ苦しめた。調停を司っていた自分は、闇もその万物の一つとしていた。闇自体は、無害な筈。均衡の中に存在しているモノだ。だけど、闇に嫌悪感が在るという事は、ただの闇ではなくて、それは、邪悪という者が創りだす闇だ。その闇に対しては、ラーストゥクルには、術が無い。邪悪と対峙する力も術も、心構えすらも持ち合せていない。自分の司っている事以外の管轄は、全くと言っていいほど力が使えないのだった。天上には、邪悪と対峙し戦う者がいる。その者達は、邪悪を討つ事を務めとしている。邪悪なる者の話は知識として、あるのみ。しかし、それ以外は知る由もない。
「邪悪というモノは、こんなにまで嫌なモノなのか。うぅ……」
邪気に当てられて、ラーストゥクルは立っていることすら、出来なくなって、膝をついてしまった。何時の間に、この様な処に迷い込んでしまったのか。どこへ往くべきなのか、道すらも分らない。その場に、膝をついたまま、如何するべきかを、考えていた。すると、そっと、耳元で囁く声がした。
「人間の魂を、探し続け追い求めし、天上の者よ。人間の魂を、生けとし生ける者の魂が欲しいのならば、我等の仲間となりなされ。我等の力は、魂を手に出来る力。魂を狩り、自らの手に出来るぞ。狩りし魂を、自分の物に出来る力だ。人間の魂を、求める力が欲しかろう?」
ゾッとする奇怪な声は、妙に甲高く甘ったるい口調で、ラーストゥクルに囁いた。その声に驚いて、ラーストゥクルは顔を上げて、辺りの気配を窺う様に見回した。沼底様の闇の中は、幾ら目を凝らしても、相手の姿を見付ける事が出来なかった。その闇の中に、自分が嫌悪して堪らない気配が、幾つも在る事に気付いた。だけども、姿を観る事は出来なかった。
「我々の仲間となれば、魂を狩る力を手に出来る。愛しく想う者の魂を狩り、永久に手中に収める事だって、可能となるのだぞよ。ふははは」
沼底様の闇の中からは、無数とも思われる嘲笑と、囁く声が幾重にも重なり合って、異様に響いていて聞こえる。姿が見えないぶん、嫌悪感が増してゆく。
「そなた達は、邪悪なりし者達か? 邪悪なる者は、むやみやたらに、万物を食い荒らすと聞いていたが、まことだったな」
姿の見えない気配に向って、ラーストゥクルは自分を苦しめている、嫌悪を撃ち払うかのように叫んだ。
「私は、万物の均衡と調停を司りし者だ。その様な、万物なる者を喰らうような事を、出来るものか」
そうは言ったものの、如何してもナディアの魂を見つけ出したいと、云う想いは存在している。ナディアとの約束を、果たしたいと。だけど、邪悪の力を借りてまでは。天上を出た今でも、均衡と調停を司っていたので、その務めの事を考えてしまう。理性と欲望の狭間で、ラーストゥクルは迷い続けていた。自分は邪悪を知らない。自分自身とは直接の関係は無い。神界の伝説には、欲望のために邪悪となった神の話があるけれど、自分も、欲望、ナディアの魂を見つける為に、邪悪となってしまうのだろうか。闇の中で考えていても、埒もいかない。それよりか、より深い迷いに堕ちてしまうだけだった。ラーストゥクルは、ただ邪悪な気配を睨み衝ける事しか出来なかった。
「くっははは。よく言うわぃ。この上品は。何が、均衡と調停を司っているだと? 人間の女に想いを抱き、その魂の為に己が務めを蔑ろにした者が、な。天上は、キレイゴトしか言わないのか? はっはは」
嘲笑う声が無数に谺して、ラーストゥクルを包み込む様に、鼓膜の奥へと突き刺さる。ラーストゥクルは、苦悶した。邪悪な気に当てられてしまい、再び膝を付いた。もはや、嫌悪の領域を越えていた。
「我が手を取るが良い。そして、魂を狩る力を得よ。魂を狩り、そなたが愛しく想う者の魂を見つけるがよかろう。魂を狩り続ければ、何時かは、その魂を見つける事が出来よう。そして、手中に収めれば、常に共に在り続ける事が出来るぞ。幾億も在る魂の中から一つだけの魂を見つけ出すには、魂の器である生命そのものを奪い取ればよいのだからな。それが、魂を見つけ出す術だ。魂を見つけ出す術を、探していたのじゃろう?」
甘ったるい声で、囁き続ける。
「天上を出た時点で、そなたは、天上を棄てたのと同じじゃ。どっちみち、天上に戻る事も戻れる事も、もはや不可能。それに、愛しき者の魂と、巡り逢うにはこの術しかないのだ。魂を狩る。全ての魂を狩ってしまえば、いい。狩り続けていればいいだけ。それが、魂を手にする術だ、ラーストゥクルよ」
沼底様の闇の深淵より、その闇よりもおぞましい闇色の異形の者が、闇の中に浮かんでいるのが見えた。
「邪悪なる者、邪神の眷属か?」
睨みつけて、呟く。邪悪なる者達の誘いに、ラーストゥクルは答える事が出来なかった。何もかも見透かされているようなのが、堪らなく恐かった。天上の神族を敵に回し、邪悪の手まで借りてまでも、ナディアの魂を求めたとしても、果たして本当に、巡り逢えるのだろうか。天上にいる、邪悪を討つ事を務めとする者達は、自分の事も討ち払ってしまうのだろうか? サフィローアは、均衡と調停を司り護る者として、それを怠り棄ててしまった自分を、調停の為に術を使うのだろうか? 本当に、魂を狩れば、ナディアの魂を見付ける事が出来るのだろうか。そこまでして、ナディアは如何思ってくれるのだろうか。様々な思い考えが、ラーストゥクルの中を駆け抜けてゆく。
『また、逢えるよね』
ナディアの言葉が、脳裏に響く。
「約束、だから」
記憶の中の言葉に、幾度と無く返した、“約束”それが、ラーストゥクルの全てだった。もう、天上もサフィローアも、どうでもよかった。やはり、自分に在るモノは、ナディアの魂を見つけ、再会する事。ナディアと交した約束を果たす事だけが、自分の存在の全てだった。ラーストゥクルは、ゆっくりと立ち上がると、闇の最も深い処にいる邪悪を見つめた。その者は、笑った。
「さあ、ラーストゥクルよ。在るがまま、望みに進むがよい」
その言葉を拒む事は無く、ラーストゥクルは頷いてしまった。その瞬間、白き輝きを誇っていたラーストゥクルの姿は、漆黒の闇色の姿にと染まり変わった。その事に、ラーストゥクル自信、驚いてしまう。清く美しい聖であった自分は、ナディアとの約束を果たしたい想いに駆られて、其れまでも、棄ててしまったのかと気付いた。しかし、もう後には引くことは出来ない。
「くっははは。我等は、この様にして眷属を増やしてゆくのだ。或いは、悪意邪心より生まれでたりしてな。この深き闇の深淵で、更なる悪意と邪心を求めて、欲望を喰らいながら在り続けているのだ」
再び、甲高く甘ったるい声が、闇の中に響く。唇を噛み締めるラーストゥクルの前に、一人の者が歩み出た。
「この大鎌にて、望みの者の魂を狩るがよい。その魂が見つかるまで、器となる者を斬り、その魂を狩り続けるがよいだろう。己が望みを果たすためにな」
その者は、闇色に輝く大鎌を、ラーストゥクルに差し出した。
「死、清らかなる聖である死を司り、再生を願う一族。伝説の一族の中で、神聖であるべき死を、弄び欲望を満たしていた者が、いたと聞く。その者は、天上の神族や一族から追放され、天上の神族からも追われた。その者は、全ての邪悪の祖となり、邪神と呼ばれるようになった。それは、そなたの事だな。コギュドース」
ラーストゥクルは、目の前に立っている、闇よりも暗く漆黒なる異形の男に言う。
「くっくくく……。その様な話、既に遥かなる久遠の向こうの事だ。それに、ラーストゥクルよ、そなたも、我等とは変わらぬよ。今にそうなるさ。そうする事でしか、魂を手にする事は出来ぬのだからな。ここへ、迷い込んだ時から、そなたは、我の手を取る事を運命としたのだ。今の其の姿が、真実だ。そなたの心のな。くっくくく」
「ふぁ、ははは」
耳の奥、脳裏にまで残り続けそうな、嫌な笑い声を何時までも響かせながら、沼底様の闇のより深い処へと、気配たちは、消えて行く。その者達の気配が消え去った後も、笑い声だけは残っていた。唇を噛み締めながら、残されている、闇色に輝いている大鎌を見つめる。大鎌は、禍々しい気を秘めているようだった。
「どのみち、戻る事は出来ないな。もう、天上にも何処にも。それも、今となっては、どうでもいい事だ。私の全ては、ナディアとの約束。魂を見つけ出し再会する事のみ。その術が、邪悪の力だというのならば、それもよい。私は、如何なる術を使ってでも、約束を果たしたいのだ」
ラーストゥクルは、闇色の大鎌を手に取った。身体の中から、感じた事の無い力が湧き出てきた感じがした。
「何だと、ラーストゥクルが、邪神コギュドースの下へと堕ちてしまい、その手までを取ってしまっただと?」
天上のまほろばなる庭園を一望できる山の頂に建てられている、荘厳なる神皇宮。その神皇宮にて、調停司高神の任を受け賜ったばかりの、サフィローアは、驚きを露わにして、報告に来た、使役の若い女神達を問いただした。
「はい。邪神界を監視されている者の、お話によると、ラーストゥクル様は、邪神界に迷い込んでしまった挙句に、邪神コギュドースの囁きを聞き入れ、その手を取ってしまいました。そして、生けとし生ける者の生命を奪い、魂を狩る力を手にしてしまったのでございます」
サフィローアの余りに激しい口調に、若い女神達は、思わず怯えて縮こまってしまう。男神顔負けの勇ましさを持っている、サフィローアは、それと裏腹に内心は、戸惑い嘆いていた。神皇宮の上位高神達も、その報告を受けて、皆一様に動揺し驚きを隠せずにいた。このところ、天上神界全体では、ラーストゥクルに対する感心が集っていたので、ラーストゥクルが邪悪に堕ちてしまったと言う話は、瞬く間に広がっていった。昔から、ラーストゥクルと共に過ごしていた者達は、人間に想いを寄せてしまったラーストゥクルの行く末を案じていたのだが、今となっては、皆戸惑うばかり。神皇宮は、ラーストゥクルの件で、ざわめいていた。
「ラーストゥクルが、人間の女性に心を寄せていた事は、周知の事実だが、まさか、その魂を求める余り、邪神の手引きに乗ってしまうとは」
神界を取り纏めている者達は、話していた。
「我々と人間は、所詮、別々の存在だ。なのに人間に想いを抱いてしまうとは。叶う事のない想いによって、我々神族は、狂ってしまうのかもしれんな。過去に、何度かそのような事があったから、それらはどれも報われる事なく消滅してしまっている。天上の片隅で、嘆きながら時を過ごす者もいた。邪悪に堕ちてしまうのであったのならば、強制的にでも連れ戻すべきであったのかもしれん」
「惜しいのう。ラーストゥクルほどの者を、失ってしまうのは。彼には、サフィローアと共に調停司高神に昇神し、神産も執り行ってもらうつもりだったが。この先、ラーストゥクルをどう、扱うべきだろうか?」
深刻な顔をして、話し合う神々。
「やはり、罪なる邪悪として、邪神コギュドースと共に、討つべきでしょうか? コギュドースは、神聖なる死を欲望の為に、喰い物とした者。かつては、死を司り再生へと導く者だったが、今では、邪悪の中心にして、邪悪の祖である」
神皇宮では、ラーストゥクルの件が話し合われている。天上の者達は、その成り行きをただ待ちながら、行く先を見つめることしか出来なかった。
まほろばの庭園では、かつての仲間達が、驚きを隠しきれずに話しをしていた。
「まさか、ラーストゥクルが。幾らなんでも、邪悪の手まで借りてしまうとは、そこまでするとは、思わなかったぞ」
姿格好が、何処となくラーストゥクルに似ている青年が言う。同じ、調停を司っている者。
「兄にも近い存在だったから、辛かろう、カクトゥー。私とて、未だに信じられん」
青き姿の男は言って、溜息一つ。
「でも、僕よりも、サフィローア殿の方が、辛いでしょう。共に昇神するのだったし、神産にも選ばれていた。それらすべて、絶望だよ。ラーストゥクルは、どうしてしまったのだろう。人間の女に、想いを抱いてしまうなどと」
カクトゥーは、深い溜息を吐いて、空を見上げた。
「やはり、人間になんかは、想いを抱いてはいけないのだ。人間とは相成れないもの。想い自体が、そもそも間違えの源となってしまったのだ」
皆其々話しては、お互い頷きあっていた。その会話を遠巻きに聞いていた、一人の女神が言った。
「それは、違うと思いますよ。神族であろうが、人間であろうが、誰かを大切に想う事、愛しく想う事は、間違えではありません」
蜜色の流れ落ちるような長い髪は、地に付いて引き摺るまでも長い。幾重にも重ね合わせた衣を纏っている女神は、悲しげな瞳を向けて言った。
「確かに、愛しく想えば想うほど、心は苦しくなるものです。時として、恐ろしく不安定な苦しみともなるでしょう。しかし、誰かを愛し大切に想う心に、罪は無いのですよ」
と、ラーストゥクルの話をしていた者達を、見つめる。
「誰かと思えば、慈悲と慈愛の女神・ウィンギュ―ファか。そういうものかもしれないが、でも、ラーストゥクルは、邪神の手を取ったのだぞ。それは、許される事ではない」
黄金なるクリサンセマムは、言った。
「確かに、邪悪へと堕ちてしまった事は、虚しく許されざる事でしょう。だけど、ラーストゥクル殿の、お心を救えた者が、ここ天上にいた事でしょうか? それは、サフィローア様でさえ、叶わなかった事であるのに。他の誰が、それを出来た事でしょうか……」
静かに言って、微かに笑う。何処か、憂いを含んでいる微笑だった。その言葉に対して、誰も何もいう事が出来なかった。
「私には、痛いほどよく解りますよ。ラーストゥクル殿のお心が」
ウィンギュ―ファは、悲しげに呟く。
「あ、ああ……」
お互いに顔を見合わせて、クリサンセマム達は、申し訳なさそうに、ウィンギュ―ファを見つめた。
「よろしい事ですよ。もう、ずいぶんと古い話ですから」
女神は、哀しげに笑った。
「だから、私は、ラーストゥクル殿の事を悪くいう事も、咎める事も出来ないのです」
そう言い残して、憂いを纏っている女神は、静かに立ち去ってゆく。ゆらゆらと、揺れる長く伸びた、蜜色の髪を引き摺るその姿は、悲しみを湛えているように見える。
「あの女神は、古い話と言っていましたが、何かあったのですか?」
まだ若いカクトゥーは、クリサンセマムに問う。
「彼女、慈の女神ウィンギュ―ファも、かつて、人間に想いを抱いていたんだ。私も直接知っている女神ではないからよくは知らないが、聞いた話によると、神族と人間が共に出来ない事を、改めて示した事だったらしい。今回のラーストゥクルと似ているけれど、彼女は、強制的に天上へと連れ戻されたんだ。ほとぼりが冷めるまでは、幽閉されていたらしい。知っている者は知っている、話だよ」
と、答えるクリサンセマム。天上神界の女神の話は、どの男神よりも詳しいと、言わんばかりに。
「へー。そうなのですか。ですから、あんなにも哀しそうな瞳をしているのですね」
「ああ。あの長い髪は、想いの名残とも、想いを貫き続ける為だとも、噂されている」
「さすが、女神の情報に詳しいな。クリサンセマムは」
一緒に話していた、男神達は笑う。クリサンセマムは、自信あり気に
「それは、とりえの一つだよ。司る務めだけでは、無いのだからな」
言って、黄金の髪を掻き上げた。 天上は何時にもなく、ざわめいていた。
黒き闇色の衣をはためかせ、右手には闇色の輝きを放つ大鎌。漆黒の夜の向こうには、幾つもの小さな灯りが、浮かんでいる。地上の人間の街。夜も更けて、そろそろ街は眠りに就こうとしていた。
「ちょうどよい。遊びがいのある街だな。今夜は、あの街で楽しませてもらおうではないか」
ラーストゥクルの周りには、幾つもの影が集ってきていた。
「ケケケ。間も無く、疫病が蔓延する街。その前に、俺達が楽しまなければ」
残忍な笑いが、あちらこちらから、聞える。
「何をするつもりだ」
怪訝そうにラーストゥクルは、影達に問う。
「人間狩りってところかな、魂を狩るのさ」
「そうそう。お前、コギュドース様から、大鎌で狩るといい。一振りで、簡単に器を壊し、魂を狩る事が出来る。悶え苦しむ姿も面白いが、狩った魂も、また面白い。魂自体に人格や感情が無くても、魂自体は恐怖する。それが、堪らなく良いのだよ。魂の中では、我等と同類系もあるので、それは仲間として引き入れる。特に良い魂は、純真無垢で穢れの無い魂だ。それは、堪らなく美味なもの。まあ、稀にしか無いがな。魂を手中にしてしまえば、転生は叶わない。どうするかは、好きにすればいい。永遠に共に在り続ける事だって、可能だ。さぁ、一余興だ、行こうぞ」
影達は、耳に残る嫌な笑いを響かせて、街へと向かう。ラーストゥクルは、街へと向う影達を黙ったまま見つめていた。自分も、あのような影達と同類と化してしまったのかと、思うと、酷く惨めになってしまった。
「ナディアの魂は、まだ存在していて、転生を続けているのだろうか。魂を喰う者にすでに、喰われてしまっていたら」
闇色の邪悪へと、堕ちてしまった自分の事、それが良かったのか、とてつもない不安に襲われてしまう。すでに、ナディアの魂が喰われてしまっていたら……。
全ては、ナディアの魂だけなのに。それが、自分の存在理由であり、拠り所であった。
「いや、大丈夫だ。まだ、ナディアの魂は存在している。それだけは、今でも解る。存在していると、分っていても、見つけ出す事が、再会する事が出来ないでいるだけだ」
ラーストゥクルは、胸の中に残っている、僅かな光を信じていた。記憶と希望を。
夜の闇の向こうにある街を、見つめる。邪悪な気配が充満していて、ラーストゥクルは嫌悪する。邪悪の手を取り、自分も邪悪と化してしまった今でも、自分自身は、邪悪の存在を嫌悪していた。人間の魂を狩る事、邪悪な影達が何をしていようが、ラーストゥクルには、興味も無く、邪神を担ぐ気も無かった。ただ、ナディアの魂を見つけ出し、再会したかった。ただ、様子を傍観しているだけのラーストゥクルに、ニタニタ笑っている邪悪な影が言う。
「お前も、やっちまえよ。堪らなく、スカッとするぞ。人間の生命にしろ、生けとし生ける者の生命なんぞは、大鎌一振りで終わる。その器からは、どんな魂が出るかが、またお楽しみだぞ」
と、街の通りを歩いていた、酔っ払いの男に持っていた、大鎌を振り下ろした。その男は、苦痛に悶え苦しんだ末に、息絶えてしまった。思わず、ラーストゥクルは目を反らしてしまった。
「ケケケ。何の特色もない、魂だな。面白くもない。こいつの魂とは、この様な魂か、ケッケケ」
残忍な笑いを浮かべると、その器となる男から解放され、宙を舞っている魂を、手にしていた大鎌で切裂いた。ラーストゥクルは、初めてはっきりと、魂を見る事が出来ている事に気がついた。それと同時に、邪悪を更に嫌悪してしまった。
「その様な事をすれば、転生はままならないぞ」
非難の声を上げて、ラーストゥクルは邪悪に言った。
「ケケケ。お上品な、元天上の神さんよ。これが、堪らなく面白く快感なのだよ。早く、お望みの相手の魂を、見つけ出さなければ、ワシ等が、先に見つけて喰ってしまうぞ。ケケケ」
数体の影は、ラーストゥクルを馬鹿にし、闇の中に嘲笑を残して消えてゆく。ラーストゥクルは、何も言い返すことが出来ず、ただ唇を噛んで闇の彼方を睨みつけるしかなかった。
「そのような事は、させない。させるものか。ナディアの魂は、私が見付けるのだ」
天上神界にいた頃には、理解すら出来なかった、怒りや憎しみの感情を、今は良く理解出来る。それらの負なる感情は、ラーストゥクルの中に生じては溢れ返っていた。
「魂を見つけ、そして、約束を果たして、また共に」
自分の中に生じた欲望。そして、邪悪の力。それに、気付いたけれど、もう戸惑う事も迷う事もなかった。なんとしてでも、先に、ナディアの魂を見つけなければ。そう思うと、生命を奪う事を、躊躇ってなどいられなかった。
ラーストゥクルは自分の目の前を、何事もなく通り過ぎて行く人間に、躊躇う事も無く、大鎌を振り下ろした。その人間が、悶え苦しみ死んで逝く様は、ラーストゥクルの押し殺している良心に、激痛がはしり、吐きそうになるものだった。それに耐えながら、ラーストゥクルは、壊れた器から解放されてゆく魂を見つめた。
「違う、この魂ではない」
何処へともなく還り往く魂を見つめて、呟く。そして、ラーストゥクルは、彷徨う様に闇の彼方へと消える。
ナディアの魂を見つける為に、生けとし生ける者の魂を狩り続ける日々。他の邪悪なる者達と集うことも、接しあう事もなく、ラーストゥクルは独り、闇を渡り歩いていた。ナディアの魂を、見つける為だとはいえ、魂を狩るたびに、自分が手を掛けた相手と、その者に残された者の事を考えると、罪の意識に悩まされる。それも、ナディアの魂を見付ける為に必要な事だと、自分に言い聞かせながらも、良心の咎めに狂いそうになってしまう自分がいた。それでも、ラーストゥクルは、無理にでも自分を奮い起たせては、闇色に輝く大鎌を振るう。
天上神界で、最も静かなる神殿にて、女神ウィンギュ―ファは水鏡から、ラーストゥクルの様子を見つめていた。
「ラーストゥクル殿。貴方は、そんなにも苦しみながら、愛しき者の魂を求めるのですね。大罪を犯しながら。私には、貴方の心が痛いほど解ります。もしかすると、私も、その道を辿っていたのかもしれません」
水鏡に映し出されている、沼底様の闇の彼方に佇んでいる、ラーストゥクルの姿を見ては、ウィンギュ―ファは、涙した。邪神の息の繋った空間を覗くのは、かなり高度な術がいる。ウィンギュ―ファは、その術を使って、ラーストゥクルを見つめていた。他人とは思えない、同じ傷を抱く者として。
「私はここで、祈る事しか出来ない。きっと、私には、邪悪の手を取る事は出来なかったでしょう。天上へ連れ戻された時から、私は、愛しく想っていた者の幸を、転生を続けるその先が、穏やかであるようにと、祈りつづけているのです。ラーストゥクル殿、貴方は、本当に良いのですか?」
消えゆく水鏡に映っている、ラーストゥクルに向かって、慈の女神であるウィンギュ―ファは、悲しそうに呟くと、祈り続けた。
一方、神皇宮に集っている、生命を司っている者達は、皆一様に頭を抱えていた。出るものは、気弱な呟きと溜息ばかり。
「最近、邪悪達が活性化しています。むやみやたらに、生命を摘み取り、魂を狩っています。時折、その様な事はありましたが、余りにも多いです。何か、対策でもとらなければならないでしょう」
円卓を囲み、其々の任務より戻った者達は、言う。
「そうだな。我等には、邪悪と対する力は、無いから。討つべき者達へと……」
「しかし。その邪悪の中には、かつて、調停を司っていたラーストゥクルが、いると聞く。人の子に想いを寄せてしまい、邪神の手まで取ってしまったらしい。顔見知りであるから、穏便に処理したいのだが、どうするべきか」
円卓を囲んでいる者の中で、一番若い者は溜息混じりに言った。
「ああ。今、天上では、その事が持ちきりだからな。最高神に、お任せするしかないことだろう。ラーストゥクルの件は」
「それは、上意の決める事。しかし、生命を司る我々としては、棄ては置けないな」
生命を司る者達の長老は、如何するべきかと、肘をついて考え込む。
「邪悪を討たねば、なりますまい。天上騎士団とも呼ばれる、光と聖を司る者達は、まだ、動いてはいないのでしょうか?」
女神の一人が、問う。
「天上騎士、聖煌神騎士団は、正義の騎士。ならば、間も無く、討伐隊が動くのではないだろうか。我々は、何も出来ない。せめて其れを見守り、この先、生命達が、健やかで穏やかに在るように、祈っていよう」
その言葉に、円卓を囲んでいる者達は、皆頷いた。
賑やかな都市の、ざわめきが微かに聞えてくる小高い丘。その丘の上には、小さな森がある。その森の中心に、大きな樹が青々とした葉を茂らせている。
「ラーストゥクル。どうして、地上を彷徨った、その果てに、邪神コギュドースの手を取ったりしたの?」
透明にまで、白く輝く羽衣と幻色彩りの装束を纏い、白銀の長髪を結い上げた女神は、地上に降り立って、かつての同朋を想っていた。
「邪神コギュドースの配下に、成り下がってまで、生ける者の生命を奪い魂を狩るような、愚行で大罪を重ねてまでも、ラーストゥクル、そなたは、あの娘の事を、娘であった魂の事を想っているの?」
呟く。堪らなく、悔しく悲しかった。人間に想いを寄せて、自分の想いを受けとめてくれない事が。
闇の中を見つめると、邪悪な影達が幾多も蠢いているのが見える。それらを睨みつける、サフィローア。万物には、光も闇も含まれ、それらも万物そのモノである。少なからず、邪悪なる要素も、そうなのだ。全てが存在して、お互いに均衡を保つ。其れを取り纏め保てるようにするのが、調停司の努めである。それを司る中で最高位である自分は、誰よりも、その事を理解している。だから、邪悪が活性化し力を増してきている事に、危惧を憶えていた。そこには、邪悪達の事だけでなく、ラーストゥクルの存在がある。それが、サフィローアの心痛であり、危惧を覚えることなのだと考えていた。
「解っている。調停司高神である私が、自分の感情に流されてはいけない事は、解っている」
サフィローアは、ギュッと唇を噛み締めると瞳を閉じた。強く握り締めた手に、爪が掌の肉に食い込んで、痛みがはしる、それに耐えながらも、サフィローアはラーストゥクルの事を、想っていた。
「サフィローア殿」
背後で自分を呼ぶ声がした。不意に声を掛けられて、サフィローアは驚いた。
「な、何用だ」
瞳を開いて振り返ると、そこには、聖なる光の輝きを秘める武器を手にしている、騎士達が立っていた。その一団を見て、サフィローアは一瞬驚いたが、表には出す事は無かったが、内心で、やはり、そうなるか。と、呟いた。
「光と聖、正義を司られる方々。聖煌神騎士団殿。ついに、邪悪を討ちに往かれるのか?」
先ほどの感情を全て殺して、サフィローアは、騎士団の長に問う。
「はい。最高神の命で、ございます。サフィローア殿に、一つお尋ねしておきたい事がありますが、よろしいですか?」
サフィローアを、やたらと気遣うように、騎士団長は言う。
「ああ、構わないが」
「ラーストゥクル殿の事は、いかがいたしましょうか。最高神は、サフィローア殿の御意志に任せるようにと、仰られていました。いかが致しますか、ご自身が往かれますか?」
その言葉を聞いて、サフィローアはしばし考えた。如何いう意味があるのか、最高神は、何のおつもりなのだろうか、と。
かつて、共に育ち過ごした者であり、神産の相手ともなる者であったから、それとも、調停を司っていた者に、あるまじき大罪を重ねる者を、調停司高神である私に、直接、討てという事なのだろうか? 考え込んでいる、サフィローアを、聖煌神騎士団は沈黙したまま、心配そうに見つめている。そして、長い沈黙の後。
「……私が、直接行く。今一度、話をしてみたい。其れ次第で、私自身でケリをつける。如何なる事があろうとも、手出しは無用。それだけは、譲れない」
と、答える。それが、今言える全てだった。もう一度、ラーストゥクルに会い、話をつけて、諦めさせる。今ならまだ、邪悪から、邪神コギュドースから、救い出せるかもしれない。例え、話が決裂しても、ラーストゥクルの事は、私自身が処理したい。私がケリをつける。サフィローアは、内心、呟きつづけた。
「分りました、サフィローア殿。ラーストゥクル殿の事は、全てお任せいたしましょう。それでは、我々は今より、邪神コギュドースを始めとする、邪悪達を討ち取りに参ります」
騎士団は、丁重にサフィローアに礼を取る。
「御武運を」
サフィローアは、沼底様の闇の中へと、光を撒きながら飛立ってゆく、騎士団を見送った。
一人、地上に残った、サフィローアは、霞んだ空を見上げて呟く。
「私は、調停司高神。万物の均衡を護り保つ事を、務めとする者。ラーストゥクル、そなたが、其れを乱しているのならば、私は、務めに従わなければならない」
決意を固めてたかのように、サフィローアは、再び闇を、その先にある沼底様の闇を見つめた。
かつて、正義とか邪悪とかと云う、概念すら無かった時代があった。光とか闇の形は既に成立してはいたが、まだ万物の一つとして定義されてはいなかった。誕生したばかりの万物世界は、全てが混沌としていたと云う。時が過ぎ神族が成立し、神族が万物世界を統べることを、担って以来、正義と邪悪が生まれたのかもしれない。一つの定義として。もしかしたら、他のモノに埋れていただけなのかもしれない。万物には、不要なるものはなにひとつないのだから。
神族は、使命と務めを其々担っている。それらは、万物世界を成り立たせるもの。其々、司る定を持ち、務めている。世界を成立させるために、その力を、自らの欲望と快楽に使う者が現われ始めた。使命と務めの為の力を、己が為に、無益に振るい続けているのを、他の者が、咎めた。
「万物世界を成り立たせる為の力、何ゆえに、無益なる事に使われるだ」
「ははは。力を使い、我、快楽とせん。全ては、我欲望の為に、力は使われるのだ。くはっは」
「それは、愚かなり。万物世界は、その様な事を望んではいない。今すぐに止めぬのであれば、そなた等の存在を許すことは出来ぬ」
「ははは。ならば、どちらが正しく強いのかを、万物の果てまでかかろうとも、示してみようぞ」
それより、二者の間には反するものが生まれた。その事が、原初なる対立だったのかもしれない。以降の歴史は、邪悪の根源の定かではないが、邪悪達は、邪神コギュドースを崇めるようになる。邪神コギュドースが、原初なる邪悪だと認めていた。
邪悪なる存在は、天上神界においては、封印された歴史でもあった。邪悪なる者の存在については知る者は、多くはいなかった。ラーストゥクル自信も、少しばかりの知識でしかなかった。邪悪なる存在は、万物世界の成り立ちを崩す者。しかし、今や、その存在は、堕ちてしまった自分自身。邪悪を激しく嫌悪していた筈なのに、邪悪の力を手にしてしまっている。邪神の手を取ってしまた今でも、邪悪というモノへの嫌悪感は、消えてはいなかった。むしろ、より強くなってきてるようであった。
ナディアの魂を求め、闇色に輝く大鎌を手にし振るい、生命あるものを殺めて、魂を狩るたびに、ラーストゥクルの心は痛み続けた。かつて、清らかで美しい天上の、まほろばなる園で、過ごしていた時には、考えもしなかった事を、今の自分は行なっている。罪も無く関係もない生命達を、自分の想いと欲望の為に、犠牲にしてしまっている。罪の意識、それよりも、ナディアとの約束の方が強かった。あの時、沼底様の闇の深淵で、邪神コギュドースの言葉と、その力を受け取ってしまった時から、もう、天上にも、清らかで聖であった自分にも、二度と戻る事は出来なくなってしまっていた。
今はもう、ナディアの魂を、ナディアとの約束だけが、ラーストゥクルの存在している理由だった。
闇と現の境に、ラーストゥクルは佇んでいた。
「私は、この先もこの様な罪を、重ね続けてゆくのだろうか」
呟いて、現世界の方へと歩く。視界が広がり、天空が見える。
「あれから、地上世界、人間達は随分と変わってしまっている。これは、万物世界におけるものなのか。それとも、何かが狂い始めていて、万物の均衡が崩れてしまうおうとしているのだろうか。それは、私が、使命と務めを、疎かにしてしまったからなのか」
建ち並んでいる、高い石造りの塔の頂に立ち、街を見つめる。この街の建物は、どれも皆天空を目指しているかの様に高く聳えている。
「あるべきものは、ほとんどない。それらは、消えてしまっている。殆どが都市に消えた。それは、人間が進化してしまったからなのか? すべてが、石と鉄で築かれて、覆われている都市」
ラーストゥクルは、堪らない悲しみに包まれていた。ナディアと死に別れて、既に数百年という歳月を地上を彷徨っている。天上世界とは、時の流れが異なる為に、とても永い時を感じて、そして、残された者の孤独と淋しさを抱え込み、約束だけを糧にしていた。
『また、逢えるよね』
脳裏より心より、消える事の無い言葉を何度も繰り返して、ラーストゥクルは呟いていた。
もうどれ位の生命を、殺めてきたのだろう。器から解放された魂達は、私の事を恨んでいる事だろう。求める、ナディアの魂とは、未だに出逢えていない。姿の似ている者も、纏っている気配が似ている者は、大勢いた。カタチが似ているだけで、ナディアであった魂ではなかった。転生体が、人間だけとは限らない。あらゆる生命までも、狩ってみたものだが、どれも違っていた。
「どうしてだ。こんなにも、探しているのに、探し続けているのに。どうして、出逢えないのだ」
天空に向かい叫ぶ。照りつける真昼の太陽が、眩しくてたまらない。
「私が、邪悪となってしまったから? 邪悪な、力を手にしてしまったかなのか」
太陽も天空も、堪らなく眩しくて苦痛に感じてしまう。以前より強く。天上にいる時や、ナディアと過ごしていた時には、何とも無かった事なのに。
「私は、邪悪なのか。太陽や天空からも、拒まれる者に、堕ちてしまったのか」
悲しい呟きと共に、ラーストゥクルは、照りつける太陽から、隠れるように闇の中へと消えて往った。
闇の彼方、沼底様の闇の中では、天上の光と聖を司る、聖煌神騎士達と、邪悪達の闘いが繰り広げられていた。
「天上の騎士。しかも、聖煌神騎士団か」
遠巻きに見つめて、ラーストゥクルは呟く。
「私も、天上から討たれる立場となってしまったのか」
陣に加わることも、加勢することもせず、ただ見つめていた。
「かつての同朋とは、戦えない。もし、私も討たれるのであるのならば……。いや、討たれるわけには、いかないのだ」
ラーストゥクルは、大鎌を持つてに力を込める。多くの邪悪なる影達とは、闘ってはいるが、何故か自分の処へは、騎士は向かってこない。まるで、避けているかのようにも見える。
「何故だ?」
それが、不思議に思えた。最高神は、何か考えているのだろうか? 邪悪へと堕ちてしまった自分に対して。自分に対して、何を思っているのだろうかと。沼底様の闇の深淵で、邪神コギュドースは、影達と闘っている、聖煌神騎士団を見つめて、嘲笑っていた。
「くっくくく。ムダよ。邪悪は不滅だ。ラーストゥクルよ、そなたも、見ているだけではなく、加勢してはどうだね。そなたは、力を持っている。天上のしがらみなど、棄ててしまい、邪神となれば、よいではないか。下らぬ、良心などは、さっさと棄ててしまえ」
邪神コギュドースは、言う。幾重にも、甘ったるく不気味な笑い声を、こだまさせながら。その声を、振り払うようにラーストゥクルは、言った。
「私には、全てを棄ててしまう訳には、いかない。全てを棄ててしまう事など、出来ない」
邪神コギュドースを、睨みつけると、ラーストゥクルは手にしていた、闇色の大鎌を邪神コギュドースに、投げつけると、沼底様の闇の深淵より、姿を消した。ラーストゥクルの投げた大鎌を受け取り、笑った。
「くっくくく。愚かな奴だ。一度、邪悪へと堕ちてしまった者は、二度とは戻れぬ。天上だけでなく、何処にもな。幾ら、愛しき者の魂を求めていても、幾億ある魂の中から、それと同じだけ存在している、生命ある者の中から、見つけ出すなど、不可能に近い。見つけ出される筈が無い。全ての生命ある者を、皆殺しにでも、しない限りな」
吐き棄てるように、ラーストゥクルの消えた空間へと、叫んだ。
「くだらない良心を、正義感を何時までも、持っているからだ。棄ててしまえば、いとも簡単に魂を狩る事が、出来るモノなのに。それが、何れ快楽となる。それこそが、我が悦びなのだ」
嘲笑い続ける、邪神コギュドースの前に、新たなる邪悪な影達が、幾つも現われる。影を打倒しながら、向かってくる、聖煌神騎士達に、闇色に輝きおぞましい気を放つ大鎌の刃を、突きつけて、邪神コギュドースは、
「さあ。天上の騎士どもを、食い尽くすのだ」
と、声高らかに言った。
その声を待っていたかのように、邪悪な影達は聖煌神騎士達に、向かってゆく。騎士達は、聖なる輝きを放つ武器で、影達を迎え撃つ。
「邪神コギュドース。かつては、死を司り、転生へと引き継ぐ役を担っていた者よ、己が欲望の為に、神聖なる死を喰いものとし、邪悪の源となりし者よ、最高神の命によって、討たせてもらう。そなたの、愚行により、どれだけ多くの生命と魂が消えてしまったことか。そして、死と再生を司り務める者が、誰一人として存在しなくなたことは、贖いきれない罪。神聖なる死であっても、死そのものが、人間世界において、忌み嫌われ否定されるものとなってしまったのは、コギュドース、そなたの咎となる」
影を討ち払い、邪神コギュドースの前へと、聖煌神騎士長は降立ち、眩く輝く聖剣の先を向けた。
「言ってくれるものよ。邪悪は不滅だぞ。いくら影どもを打消しっても、それに私が消えてしまっても、この万物世界が在り続ける限り、邪悪もまた存在し続けるのだ」
邪神コギュドースは、手にしていた大鎌を振るった。騎士長は、それをかわす。
「正義なる者と、邪悪なる者。どちらが、正しく強いものかを、証明しようではないか。幾時かかろうともなぁ」
邪神コギュドースの声が、闇の深淵に響く。ぶつかり合う刃の音は無数にこだまし、刃が交わる度に、光り輝く雫が闇の中に散っていた。
正義と邪悪の闘いは、果てる事無く続く。天上神界、地上人間界の各神話伝説のみが、其れを語り伝えていた。すべては、万物世界に巡り往くものとして。
天空は、どんよりとして霞んで見える。曇っているわけではない。空が、低くなっているように、見えるのは高く聳える建物郡のせいなのかもしれない。進化した人間は、技術を極めた末に、世界を汚してしまったからなのか、それとも、邪悪達が世界へと散ってしまったからなのかは、ラーストゥクルには分らなかった。たしかに、今の地上世界には、かつての様に、自然と称される生命は、少なくなってしまている。
都市を見渡せる丘。丘の上に残されているのは、都市とは対照的な、古えの大樹。
「すっかり変わられてしまいましたな、ラーストゥクル殿。そこまでして、ナディアの魂を求めなさるのですか」
森の主と呼ばれていた大樹、その森も今はない。森の主は、今も丘に佇んでいる。森の主は、ラーストゥクルに語り掛けた。
「約束だから、私は何としてでも、魂を求めて、再会を果たさなければならない。それを、叶える為には、手段を選べない。そのために、私は、邪神の手まで取ってしまった。しかし、それも終わった。でも、この手の大罪は消えない。その上、天上の聖煌神騎士にも、邪悪にも加勢することも、出来なかった。卑怯な、傍観者なのだよ。自分でも、嫌悪してしまうよ」
懺悔するように、呟く。生暖かく、何処か嫌な臭いを含んだ風が吹いていた。
「あまり気に病むことを、なさられるな。ラーストゥクル殿、もしかすると、それらも、万物が定めたことなのかも、しれませんよ」
と、森の主。
「どうかな。私には、解らない。もう、万物世界の均衡も崩れていて、調停すらも、ままならない世界となってしまっているようだし、ここも、すっかり変わってしまったな」
力なく呟く、ラーストゥクル。
「確かにな。そうかもしれませんな。だけど、人間達が我々を忘れてしまっても、我等は忘れる事はないでしょう。きっと、最後の生命が尽きるまで」
そう言うと、森の主は口を閉ざして、眠りについた。
ラーストゥクルは、そのまま彼方を見つめていた。ナディアと過ごしていた頃の、面影すらも無い彼方を。
「ナディア、君の魂は、今何処に」
当ても無く、求め続けることに、疲れていた。
「変わってしまった。この世界で、再び巡り逢えるのだろうか。私の事を、記憶していてくれているのだろうか、ナディア」
呟きは、虚しく消える。
折からの風が、森の主の葉を散らせてゆく。
「今一度、考え直せ。ラーストゥクル」
背後から、聞き覚えのある声がする。その声に、ラーストゥクルは思わず身体に力を入れた。ゆっくりと、振り返る。気は進まなかった。出来れば、忘れられてしまいたかった。
「サフィローアか。随分と久しぶりだな。君は、まだ私に関わるのかい? それとも、邪悪に堕ちてしまった私を、討ち取りに来たのかい? もう、放っておいてくれと、言った筈だ」
白く輝く羽衣と翼。幻色彩りの装束と、手には、透明なる輝きを放つ錫杖を携えている、女神サフィローアを、気まずそうに見た。決して、視線を合わせることは無く。
「調停司高神が、何故何時までも、私に関わるのだ。君の様な、女神が」
ラーストゥクルは、抑揚のない無機質な声で言う。その言葉に、美しい女神は、悲しみの瞳で見つめる。
「ラーストゥクル。どうして、邪神コギュドースの手を取ってまで、あの娘の魂までを、追い求め続けるのだ? どんなに、その手を汚し大罪を重ねても、不可能な事だ。なのに、どうして、そこまでする必要が、あるのだ。あの時、天上を去る事をしなければ、ラーストゥクル、そなたも、調停司高神へと昇神できていたのよ。何よりも、誉高き事ではないか。それすらも、棄てて、邪悪にまで堕ちてしまって、なんになるというのだ」
美しい顔を歪めてまで、サフィローアは必死になって問いただす。ラーストゥクルは、そんなサフィローアと、距離をとって答えた。
「如何して? 私自身でも、そう考えているよ。もう何度となくね。だけど、ナディア自身、ナディアの魂を、愛しく大切に想う事、護りたいという事は、今でも変わらない。愛する者と、永遠にいたいからだ。例え、ナディア自身と過ごした時は短くても、記憶は終らない。私は、ナディアとの約束を果たす。魂との約束を。魂と、再び巡り逢うという」
一度も視線を合わせる事無く、ラーストゥクルは答える。
「だから、邪悪にまで堕ちて、大罪を重ねたのか。魂を求めても、転生体すら見つけられない。転生は、我等神族ですら、よく解らない事。かつては、転生を司る者がいたとされるが、今ではそのような者は存在していない。なのに、邪悪な力で魂など、見極めれるはずが無い」
「そうさ。転生体と巡り逢いたい。それが叶わぬのであれば、魂だけでも見つけたい。私には、ナディアが、ナディアとの約束だけが、全てなのだから。再び巡り逢い、そして、また共に過ごしたいのだ」
「何度、言えば解るの、ラーストゥクル。私達と人間は、共になれない。それは、幾度生まれ変った相手であっても、同じ事。永遠ではない。瞬く時だけしかないのだから。転生体を見つけても、それを繰り返すだけ。絶対的に、神族と人間では、報われる事など無いのよ。絶対に」
サフィローアは、声を荒げ叫ぶように言う。美しく輝く髪をも、振り乱し必死になって。
「例え、そうであっても、私はナディアを見つける。全て捨去っても、ナディアだけは」
「無理な事よ。言っている筈よ。同じ事を繰り返すだけだと。それは、見え透いた事。邪悪の力を借りても同じだ」
さらに声に力を込めて、サフィローアは言った。
「だから、転生体を見つけるよりも、その魂だけでもと、邪悪の力を借りたんだ。その力で、魂を狩っていたんだ。全ては、ナディアの魂を見つけたいが為に。魂を手にし、永遠に共にあるが為に」
その答えに、サフィローアは涙を浮かべて、ラーストゥクルの頬を思いっきり叩いた。ラーストゥクルは、黙ったままそれを受けた。
「なぜだ、何故。人間の娘一人の為に、そのような事を、邪悪にまで堕ちてしまったのだ。それでも、万物の均衡と調停を司る者のすべきことなのか。それで、本当に良いと思っているのか、ラーストゥクル?」
怒りと悲しみのサフィローアは、ラーストゥクルの襟元を掴んで、叫ぶ。
「本当に良いのか? それで、あの娘は、良いと思ってくれると、思っているのかっ」
揺さぶりながら、サフィローアは叫び言いつづける。ラーストゥクルは、その間も、サフィローアと視線を合わせなかった。
「何故、私を見ない。どうして、瞳を反らすのだ」
襟元を掴んでいる手に、強い力を込めて、サフィローアは怒鳴る。
「言うな。サフィローア。これ以上、私に何も言うな。私に、構わないでくれ。私は、全てを捨去ったのだ。天上に関わる者は。天上神界も最高神も、そして、天上の光も聖も。良心ですらも、全て。だから、幾時過去ろうとも、私は必ず、ナディアの魂を探し出し再会すると、誓ったんだ。全てを棄て去る代償として。例え、如何なる手段を使ってでもと」
淡々とした口調で答えると、ラーストゥクルは、サフィローアの手を振り払った。
「そこまで、堕ちてしまったのか。己が望みのためだけに、多くの生命を奪ってしまった大罪。そなたは、均衡を乱しているのだぞ。ならば、私は、調停司高神として、均衡を乱す者は、務めにより、討たねばならない。かつて、調停を司りし者が、自ら均衡を乱しているという事で。ラーストゥクル、今一度、考え直せ。今ならまだ……」
「放っておいてくれ、サフィローア。それに、もう遅いさ。見てみるがいい。人間世界を、進化を極めた人間の行いを。今では、地上世界を始めとし、万物の均衡も何も無くなりつつあるではないか。この世界の変わり様が、それを示しているかの様では、ないのだろうか」
ラーストゥクルは、丘から見渡せる、彼方を指して言う。
「それに、サフィローア。君に私が討てるのかい? 例え、聖煌神騎士が私を討ちに着ても、私は彼等を迎え討つ事だろう。サフィローア、私の事など忘れてしまい、別の者と新しき神産をすればよい。君は君の道を往き、私は私の道を往くだけだ」
漆黒の闇色の衣を翻して、ラーストゥクルは、姿を消していった。
「待って、ラーストゥクル……」
止めようとする間も無かった。勇ましい女神サフィローアは、瞳に涙を溜めたまま、ラーストゥクルの消えた場所を見つめていた。零れ落ちてゆく涙に、戸惑う。涙を溢してしまうほど、自分はラーストゥクルの事を想っていても、ラーストゥクルは決して自分を観る事はない。この先も、きっと。それは叶わないかもしれない。そう考えると、涙が止らなかった。去り往く、あの姿が無言のまま、それを示しているかのようだった。
「ラーストゥクル。そなたが、ナディアを想い続けているように、私も、そなたの事を想い続けているのだぞ。ずっと、昔から共に過ごしてきた、そなたの事を」
小さな呟きは、何処にも届く事なく、サフィローア自身の白く輝く翼の翔きに掻き消された。
天上のまほろばなる庭園の片隅、人気のない小さな泉のほとり。花々の香り漂う中、サフィローアは、その泉で顔を洗い、他の者に自分の涙を知られいようにしていた。それだけは、誰にも知られたくなかった。
「私も、弱いのかもしれないな」
少し瞳が、赤く潤んでいるのを見て、力なく呟く。
「サフィローア様?」
自分の名を呼ぶ声に、ドキっと、してしまう。慌てて、布で顔を拭いて、振り返った。
「何か用か?」
何事も無かったかのように、サフィローアは言う。振り返って、そこにいた自分の名を呼んだ者を見て、はっとする。
「慈の女神・ウィンギュ―ファ。そなたは、確か……」
「はい。私も、人間に想いを抱いて、天上を去り地上へと降りた者。でも私は、天上へと連れ戻されました。今は、慈悲慈愛を司る務めを担っています」
憂いを含んだ瞳で、静かに答えた。
「そなたが、私に何か?」
心の中を悟られないように、強い口調で言う。
「私が言うのもなんですが、どうか、ラーストゥクル殿の事を、責めないでください。私には、あの方のお心の苦しさが、良く理解出来ます」
サフィローアの隣に座り、ウィンギュ―ファは言う。
「そなたの言わんとせんことは、解るつもりだ。しかし、邪悪にまで堕ちてしまったのだぞ。幾ら、それしか術が無くても、許される事ではない。それに、そこまでして、あの人間が、魂が、嬉しく思うのだろうか?」
平静を装う。内心は、叫びたかった。
「どうでしょう。それでも、想いは代えられない。私は、今でさえ、あの方の事を忘れる事が出来ず、想い続けているのですから。二度と逢う事すら出来ない者への、想いを。報われる事はありません。ただ、あるのは、この長髪のみ」
悲し気に言うと、自分の蜜色の長髪を指で梳く。
「天上神界の中で、最も髪の長い女神と呼ばれているほど、あるよな。それが、そなたの想いのカタチなのか?」
「ええ。このようなカタチでしか、想いを貫けない。だから、ラーストゥクル殿が、魂に拘り続けるのも、その為に全てを棄ててしまったお心も、きっと、私がこうして、髪を伸ばし続けているのと、同じことだと思います。こればかりは、自分にしか、いえ、自分でさえ、解らなくなる時がありますが、自分でも理解出来ない感情を、他の者に理解出来る事では無いことだと、私は思っています」
「はは、それは、そうだな。辛い事だな」
ウィンギュ―ファの話を聞き、サフィローアは少しだけ、自分の気持ちに素直になれた。
「ただ私は、魂の行く末をだけを、祈っております」
穏やかな風が、二人の女神を包み込む様に吹いていった。
第三章記憶
一 夢
天へと届きそうな、高層ビルが無数に建ち並んでいる。幾つもの大通りには、多くの車と人間が行交っていて、雑踏が絶え間なく続いている。空は重たいまでにくすんでいる。晴れているのに、曇っているかのような空、漂っている空気は、まるで閉ざされている部屋の中みたいだった。アスファルトとコンクリートに支配され、人間達が溢れ返っている都市には、自然と呼べるモノは無いに等しかった。人間達は、今や地上だけでなく、海も空も手中に収めていた。大都市は、それでもより大きくなろうとしていた。世界は古の面影すらなくなっていた。
「森の主。今の世界を如何思う?」
小さな公園として、古き大樹である森の主は、残されていた。ラーストゥクルは、森の主の前に立ち問い掛けた。暫くして、森の主が答えた。
「如何言えばよいか。まだ、この丘が森であった頃より、幾時過ぎさてしまったことでしょう。あの頃は、静かだった。聞えるものといえば、風の音と小鳥の囀りだけでした。何時も穏やかで、心地の良い風がふいていました。今となっては、古い記憶です。今のこの世界は生き辛いですな。全てにおいて、危ういものを感じています」
「そうだな。他の神族も見かけなくなったし、邪悪なる者も、なりを潜めている。万物世界が危うくなっているからだろうか。人の世も、すっかり変わってしまったな」
呟く、ラーストゥクル。漆黒の闇色となってしまった長髪を、風が揺らす。
「ラーストゥクル殿は、今でも、ナディアの魂を探しておられるのですか?」
「ああ。あれから、邪神コギュドースとも決別した。誰とも接することもなく、地上を彷徨っていたが、やはり魂を、見つけることは出来なかったよ。ナディアの転生体と思われる、人間を見かけたりしたが、確かめることさえ、魂を見出すことさえ出来なかった。ナディアの魂は、私の事を憶えているのだろうかと、不安になってしまう。せめて、万物世界が終ってしまう前に、約束を再会を果たしたい」
大都市の中に、取残された小さな丘の上の古の大樹。今は、小さな公園となっていて、人々の憩いの場所となっている。
「そうですか。私は、殆ど眠っている為に、世界の動きまでは分りません。時折目を覚ますと、変化している風景に驚かされるばかり。それでも、まだ、私は人間を忘れてはいませんよ。こうして、私の近くで、憩う人間がいるものでね」
「そうか。私は、ナディアの魂を探し求める為に彷徨っている。宛てもなく、ただひたすら。ナディアの魂は、この世界の何処かに存在していることは、解っている。邪悪の手にかかる事もなく在る事も。それが、まだ救いなのかもしれない」
ラーストゥクルの姿は、人間達に見えることはない。ラーストゥクルは、森の主の陰に立ち、何時もと同じ様に、彼方を見つめる。
「それがわかるのならば、きっと、ナディアの魂も、それを感じている筈です。私も、ナディアの転生体である者が、何時かここへと、戻る日を待っているのかもしれません。だから、こうして切られる事もなく、ここへと在り続けているのでしょう」
森の主は、ラーストゥクルに同調するかのように、言った。
「そうか。そなたも、待っているのだな」
少し笑う、ラーストゥクル。数羽の小鳥達が囀りながら、森の主の枝へとやってくる。
「私が、気付かなかっただけで、ナディアは、あのような小鳥にも転生していたのかもしれませんな。この小鳥達のように、こうして、私の元へときて、囀っていたのかもしれませんよ。魂は巡るもの、生命と同じ様に巡り継がれる。転生先は、必ずしも人間では無いのです。古き神話の時、今は無き魂を抱く神が存在していた頃に、一度だけ聞いたことがあります。人間だけが特別ではない。でも、魂が人間で在る事を望むのならば、その望んだカタチをとり、望みを果たそうとすることでしょう。ラーストゥクル殿、ナディアの魂が、この場所を記憶とし、再会を望む場所とするのならば、何時か、ここで逢えることでしょう」
小鳥の囀りを聞き、元気付けられたのか、森の主は言った。
「……そうだな。私も信じていよう。魂なるものを、魂を抱く神の神話を」
ラーストゥクルは、天空を見上げる。幾時ぶりに見た、太陽は汚れてしまった空気の彼方に霞んで浮かんでいる。
「すっかり、世界は汚れてしまった。もすかすると、我等が云う邪悪よりも、人間達の欲望が強く、邪悪すらも喰ってしまっている、今はそんな世界なのかもしれないな」
ラーストゥクルは、苦笑いを浮かべる。
「はっははは。人間の方が恐ろしいか。ははは、以外とそうなのかもしれないな」
森の主は、声を上げて笑う。
「私には、もういいことさ。そのようなことは」
と、ラーストゥクル。
「また、往かれるのか? ナディアの魂を探しに」
丘を去ろうとした、ラーストゥクルに問う。
「ああ。また、世界を廻る」
振り返り、答える。
「そうですか。時折、ここへも寄って下され。話し相手にでもなりましょう」
「そうだな、そうさせてもらおうか」
森の主の言葉に、少し笑ってラーストゥクルは答えて、丘を去って往く。
「だいぶ落ち着かれましたな。悲しみと孤独を越えた先に、人間は強さなるものを見つけるのですぞ、ラーストゥクル殿。いつか、その先に在るものを見つけてくだされ。その時になると、再会が叶うかもしれませんよ」
去っていったラーストゥクルに、向け呟くと、森の主は再び眠りに就いた。
大都会の賑わいを遠くに見る。小さなカフェ。屋外のウッドデッキには、春の午後の日差しが、植えられている観葉植物の葉の間から差し込んできている。少女の年頃を過ぎよという感じの三人は、お茶と他愛の無い会話を楽しんでいた。
「ねぇ、前世って在ると思う?」
黒髪を長く伸ばしている少女は、ティーカップを置くと、一緒にお茶をしている二人を見て聞いた。二人のうち、色々なアクセサリーを身に付けている少女の方が、興味深そうに答えた。
「私は、あると思うよ。そのような事は、詳しい方だと思うよ。ほら、占いとか色々好きだし。よく聞くよ。話として」
と、少女は掌に、小さくキラキラと光る石を置いて、二人に見せた。
「新しいの見付けたんだ。いいでしょう」
「そりゃあ、ルミは、オカルトマニアで占いオタクだもんね。私は、そのような事は信じていないからね。 それにしても、ルミ。あんた、幾つのパワーストーンを身に付けたら気がすむの? 学校で、よく先生に怒られないよね」
ボーイッシュな少女は、身体のあちらこちらに、パワーストーンのアクセサリーを付けている、ルミを見て呆れた様に笑って言った。
「そのあたりは、大丈夫よ。学校にいるときは、ポーチに入れて、ポケットの中に入れているから」
と、ルミは、小さなポーチをテーブルの上に出した。
「でも、ルミ。パワーストーンって、さあ、石同士の相性があるんでしょう?」
「そのあたりは、きちんとしているから。それにしても、いきなり前世なんて事、何かあったの、セルシア」
ポーチにパワーストーンを入れポケットにしまい込むと、ルミはセルシアに向き直り、問う。
「本当、何かあったの、セルシア。このところ元気ないよね。なんだか、ボーっとしているし」
頬杖をついて、ぼんやりと空を見上げているセルシアに、連れの二人は心配そうに言った。
「うん、まぁ。なんていうのかなぁ。ここ一ヶ月ほど、同じ夢を見るんだよ。毎日、同じ内容の夢よ。で、その様な事は、前世とかと関係しているって聞くからさぁ。何か在るのかなって、考えていたの。どう思う、ルミ、マーリ」
交互に二人を見て、セルシアは、ハーブティーを啜る。
「それは、どんな内容の夢なのか、覚えているの?」
ルミは、興味津々に問う。セルシアは、ハーブティーを啜るのを止めて、息を吐く。
「そうだね。夢の内容は……。う~ん、どうなのかな、どう話したらいいのかなぁ。簡単に話せば」
少し考えて、セルシアは、ゆっくりと語り始めた。
「すごく綺麗な景色が、広がっていて、それを何処までも見渡す事の出来る丘が、あるの。丘には、森があるの。その森は特別広いとか大きいとかじゃあないんだけど、ずっと昔からある森で、その森の奥には、古い大樹があるの。その大樹は、森の主と呼ばれているの。森の外には、小さな村があって、夢の中で、私は小さな女の子なの」
そこまで話して、セルシアは、ハーブティーを啜って一息吐く。
「なんだか、凄くはっきりとしている夢、なんだね」
「はっきりしているから、不思議なんじゃないの。前世の記憶なのかもしれないよ。も、その様なロマンが無いんだから、マーリは」
興味無さそうに言った、マーリに、ムッとして、ルミは言った。
「前世の記憶ねぇ。そうなのかなぁ。でも、時々、それが現実なのか夢なのかが、判らなくなってしまいそうなことが、あるよ」
と、セルシア。
「それ、ヤバくない? セルシア、何か別に悩み事が在るんじゃあないの?」
マーリの言葉に、セルシアは苦笑いを浮かべる。ルミは、横目でマーリを睨む。
「続き、話していいかな?」
セルシアが言うと、二人は頷く。
「その夢の中に、不思議な感じの白い青年が出て来るのだけど、幼い私は、その青年に恋をしてしまうの。なんていうのかな、無意識の内に惹かれてしまうって感じなのかな。一目惚れとは違って、なんだろう? 夢の中の私は、その青年にとにかく想いを寄せているの。なんだか、夢にしたら出来すぎている気がするし、それに、私、恋愛ロマンス的な事や物語って、興味無いし、はっきり言って好きじゃあないのよ。うん、嫌いに近いかもね。だけど、毎日見ている夢が、その様な世界観を背負っているなんてね、前世の記憶? なのか、それとも、表では嫌っている恋愛ロマンスは、実は深層意識に隠されている、密やかな、願望なのかなぁ」
セルシアは、溜息混じりに話し、ティーポットに残っていた、ハーブティーをカップに注いだ。マーリは、始めと違い、セルシアの話にウットリとして、
「私、前世とかの記憶とかはともかく、その女の子の恋心とか、いいなぁ。私、恋愛ロマンス大好きよ。だって、すっごく憬れちゃうよ、その様な世界観に」
ウットリとしているマーリを、セルシアとルミは、不思議そうに見つめる。学校内でも、有名なスポーツ選手であり、男勝りでボーイッシュなマーリからは、想像しにくい事だった。
「私、恋とか恋愛が、どうとかいうのって、よくわからないんだよね」
セルシアは、ふぅと溜息を吐いて、少し冷めたハーブティーを啜り、ぼーっと、通りの向こうに植えられている花壇の花を見つめた。
「ねぇ、続きは?」
ルミとマーリの声がハモる。セルシアは、それに思わず、クスッと笑ってしまった。
「何、変だった、声がハモったの」
マーリが問う。ルミも、何? と、いった感じだった。
「いや、何でもないよ。ただ、気が合っているなぁと、思っただけよ」
セルシアは、笑った。
このような時、シミジミ思ったりする。私達三人は、性格も趣味も違うのに、何故か息が合う、気が合っているのだなぁと、思う。ルミは、少し暗い所があるけれど、自分の好きな事や興味が在る事に対しては、凄く楽しそうにしている。オカルト好きで、お店とかで、パワーストーンとかアクセサリーを片っ端から買い集めたりしている。マーリは、とても明るくて元気いいし、学校でも有名なスポーツ選手。一つの種目に拘らず、色々挑戦している。見かけは男っぽいけれど、意外とロマンチスト。去年、同じクラスになってkらは、気が付けば、何時も一緒だった。
「セルシア、如何したの? 続きは?」
と、ルミが言った。
「あ、うん。続きね。そう、私は、小さな女の子だった。両親を早くに亡くしていて、何時も一人だったの。その女の子は、森が好きで、いつも、森の主と呼ばれている、古き大樹に登っては、空を見上げていたの。ある日、そこへやって来た、青年と出会って以来、女の子は、ずっとその青年の事ばかり、考えていたの。どこか、人間離れした美しさっていうのかな、清らかさっていうんだろうか、その様なものが漂う青年だったの。夢だけど、凄くリアルな感じで、手を伸ばせば触れる事が出来そうだった」
セルシアは、瞳を閉じてゆっくりと、思い出すかのように語る。
「なんだか、赤い糸で結ばれている相手って、感じの話だね。私は、前世なんてモノは信じないけれど、そう云う話を聞くと、本当に前世ってあって、運命の赤い糸の繋がっている人とは、昔から決まっている、運命の相手って感じだね」
マーリは、ウットリとして言う。
「……だけど、その青年は、遠くへ行ってしまうの。それが、最初の出逢いと別れ」
意味深にセルシアは、言った。
「まだ、何か在るの?」
と、ルミ。
「うん。大人になって、再会するんだけれど、夢の中の私は、結局その人を想いながら、死んでしまうの。言葉では、上手く離せないけれど、そこには凄く大切な想いがあるの」
そこまで話して、セルシアは悲しそうな顔をする。
「その夢の中で、一番印象に残っている場面があるの。それは、死に逝く夢の中の私に、彼が言ってくれた言葉。“必ず、見つけ出すから”って、凄い大切な想いなの」
セルシアは、頬を赤らめる。
「いやぁ、凄いステキじゃあない」
マーリは、何時になく、ウットリする。
「え、ふふ。夢って、無意識の願望と聞いたこあるけど、その様に考えてみると、私って意外と、ロマンチストでユメミストなのかなぁ。そんなクサイ物語も、そうないのにどうしてだろう。その夢ばかり見るのかなぁ。なんだか、ロマンス小説とか読み漁っているんだったら、少しくらいは解るけれど。う~ん。シラフで考えたら、何だか、照れるし恥かしいよね。こうして、話していても」
熱った顔を、ハンカチで扇ぎながら、セルシアは微妙な顔をする。
「でも、それが現実だったら、凄くステキじゃあない。そうないよ、そんな感じのロマンス。私、恋愛ロマンス、大好き。憬れちゃうよ~」
ウットリと夢見心地な感じで、マーリは言う。なにやら自分の世界を、創っているようだった。
「その夢が、前世の記憶だったとすれば、夢に出て来る青年と、深い仲であったのならば、この現世において、生まれ変った青年と、巡り逢えるかもしれないよ。よく云われるのは、前世で関係のあった人とは、生まれ変った現世においても。同じ様に関係のある人になるんだって。親兄弟とか、自分の身近な人。友人とかへと、生まれ変っているんだって。もかしたら、気付かないだけで、既に出逢っているのかもしれないよ。まぁ、前世の恋人が、現世での恋人とは限らないけれど、それでも大切な存在になるのだと、思うよ。魂の絆って、強いものだと思うから」
ルミは、輪廻転生のウンチクを力説する。マーリは、半ば呆れながらも、前世の恋人という所には、しっかりと反応していた。
「どうなのかなぁ。もしそうだとしたら、ルミもマーリも、前世で関係あった人なんだろうね」
溜息を吐いて、セルシアは二人を見た。
「まぁ。誰も魂を見た人は、いないだろうし。やっぱり、オカルトだよ。非現実てきだよ。まぁ、一般的なロマンス小説よりは、味があるのかもしれないけれどね」
ふふふと、笑って、マーリは追加注文していた、紅茶を啜った。
「マーリが、知らないだけで、意外と多いよ、その様な物語。まぁ、マーリが、嫌いなオカルト色強いけれどね。読んでみる?」
「いや、いい。良いって思ったけれど、やっぱりオカルトは嫌い。私は、フツーでいいの」
本を差し出そうとしていたルミを、止めた。
「二人とも、何時も同じ事を言っているよね」
クッスと笑う、セルシア。
「仲が良いのか、悪いのか、どっちだって、感じだね」
「あははは。何時もの事だし、もう、一つのコミュニケーションみたいなことだよ」
ルミとマーリは、二人して笑う。
「元気だね」
小さく呟いて、セルシアは二人を見つめる。
「どうしたの、セルシア。元気、無いよ。なんだか、凄く悲しいそう、大丈夫? まだ、夢の事あるの?」
ルミと二人で、はしゃぐのを止めて、マーリが問う。ルミも静まり返って、セルシアの顔を覗き込んだ。
「私、ヘンだし、オカシイかも」
「何が? セルシアは、ルミに比べると、フツーだと思うよ」
と、マーリ。
「だって、夢の中に出て来る、不思議な青年の事、考えていると、胸が痛くなるのよ。夢に出て来る人に、恋なんてしても不毛だよ。考えない様にしようとすれば、するぼど、考えてしまって、苦しくなるの。自分でも、虚しくなってしまうよ。こういうのって。ヘンなのかな。恋の病なのかなぁ。でも、恋ってもの解らない。ただ、夢に出て来る青年が、凄く好きなんだと思う。好きになってしまったのかもしれない、私……」
街の賑わいが遠くに聞え、木漏れ日が風に揺れる。
「……また、逢えるよね……」
セルシアは、呟く。自分自身の意思とは関係なく。無意識のうちに。
「セルシア? どうかしたの、大丈夫? 本当に?」
ルミとマーリは、驚いてセルシアの顔を見つめた。
「え、何が? あっ、あれ?」
セルシア自身も、驚いてしまった。気付かないうちに、涙が頬をつたっていたのだった。その涙に、セルシア自身気付いていなかったのだ。涙は溢れて、頬つたって幾つもテーブルの上にと、落ちてゆく。セルシアは、如何したのか解らなかった。
「なんかヘンだよ。セルシア。本当に大丈夫? 私達、傷つくようなこと、言ったかなぁ?」
ルミもマーリも、あたふたしては、心配そうにセルシアを見つめる。
「私にも、解らない。だけど、何だか夢の話とか、前世の話をしていたら、さぁ、胸が一杯になってきて、悲しいのか何だか解らないけど、涙が止らなくなってしまっているみたいなの。うん、大丈夫よ」
使っていなかったおしぼりを、マーリから受け取り、セルシアは言った。おしぼりで、顔を拭く。おしぼりの冷たさが、気持ち良かった。しばらくそのまま、おしぼりで顔を覆う。
「ふぅ。もう、春も過ぎたよね」
おしぼりを置くと、セルシアは街並を見つめる。
「大丈夫?」
と、ルミ。
「うん、ゴメン。大丈夫だよ。落ち着いたし。はぁ、やっぱり、本当に前世なのかなぁ。魂があって、その魂が転生を繰り返す事を、輪廻転生って言うでしょう。魂が廻るものだったら、前世の記憶、魂の記憶も在るって事よね。私ではない記憶、前世の私の記憶。それが、こんなにも、心苦しいものだなんて。心の痛みとは、また違うのかなぁ」
冷めたハーブティーで、口を潤して、セルシアは溜息混じりに言う。
「もし、それが真実だったなら、本当に輪廻転生が存在していて、魂が在って、魂同士が求め合うのなら、いつか再会できるよ。この世界が終るまでに。現世では叶わなくても、来世があるし、また次期世もね。それが、輪廻だよ」
ルミが力説する。ルミは、更に続けた。
「魂には、さだめられているものがあるんだって。それは、其々の魂によって、其々違うの。そのさだめは、神様でさえ、左右出来ないものなんだって。で、輪廻転生は、魂がさだめを終えるまで続く。そのさだめを終えたり、輪廻転生の中で、何かを見つける事の出来た魂は、そこで終るの。魂としての役目を。その時、魂はあらゆるものから、解放されて昇華してゆくの。もう、その先には、輪廻も転生もないの。少し前に呼んだ本に、書いてあったよ。魂は、現世にて修行するんだって。何処かの国の宗教思想っぽいけれど、意外とそうなのかもしれないね」
ルミは、一息吐いて、水晶のアクセサリーを太陽にかざして。
「ねぇ、セルシア。何か、パワーストーンでも、持ってみるといいかもよ」
と、言った。
「そうだね。綺麗だよね」
キラキラと光っている、水晶のアクセサリーを見つめる。
「もう。本当に、ルミって、オカルトオタクなんだから」
マーリが呆れる。
「でも、パワーストーンには、色々なものがあって、色々とロマンチックなエピソードとかもあるからね」
ふふふと、笑ってルミは、マーリを見た。
「もし、その話が本当で、魂のさだめとかだったら、夢のあれは、前世からの恋なのかな。その青年の転生体と、巡り逢うまで続くってことだよね。それが、いいことなのか悪いことなのかは、よく解らないけれど、どうなのかな。ひょっとして、私がユメミストなだけなのかもしれないけれど」
微妙な笑みを浮かべて、セルシアは言う。
「もう、夢見る少女の頃でも、恋に恋している女の子って年齢でもないんだけどね」
そう言った。すると、マーリは何時に無く、はっきりとした口調で、
「そんな事ないよ。女の子は、永遠にユメミストで、恋に恋出来るのよ」
と、言ったので、セルシアもルミも思わず爆笑してしまった。
「なんで、笑うのよ、二人とも~」
マーリも、笑って言う。そんななかでも、セルシアは、夢の事を忘れる事は出来なかった。
三人は、それから後も、カフェのウッドデッキ席で、他愛のない会話とお茶を楽しんだ。
「ねぇ、夏休みになったら、皆で旅行にでも行こうよ」
ルミが言う。
「あ、いいね。あー、でも試合と大会が幾つかあるから。今からだったら、まだどうなるか、分らないよ」
残念そうに、マーリは言った。
「そっか、クラブ掛け持ちしているもんね、マーリ。殆どの種目制覇するとかで、やっているもんね。でも、辛くない、それだと?」
セルシアが、聞くと。
「へへへ。それは、大丈夫。私、身体を動かすの大好きだし、色々なスポーツを極めるの。だから、全然苦しくないの。私、頑丈に出来ているからね」
答えて、新たに注文していた、カレーライスを食べ始めた。
「よく食べるね。さっき、ケーキ食べたばっかりなのに」
呆れた様に、セルシアは言って笑う。
「いいの、どうせもう夕方だし。この後、スイミングだから。腹ごなしよ。それに、美味しいよ、ここのカレー。私にすると、ちょっとピリ辛だけどね」
言って、パクパクと食べ続ける。それを見ていた、セルシアとルミは、顔を見合わせて
「すいませーん。カレーライス二つ、追加して下さい」
と、店員を呼んだ。
「あんたたち。何だかんだいっておきながら、自分達だって、食べるのかい」
マーリが、厭味ぽく言った。
「あははは。だって、見ていると凄く美味しそうに見えるんだもん。それに、ここのカレーライスは、以前、テレビにも出ていたしね」
ルミは、運ばれてきた、カレーライスを前にして言った。
「セルシア、あんたも~」
「いいじゃないの。私どうせ、独り暮しだし。ここで、食べて帰れば、晩御飯作らなくてすむもん」
さらりとかわして、セルシアもカレーライスを、食べ始めた。
「はぁ~。私達って、なんだか、ヘンな所ばかり良く似ているよね。ヘンなところだけは、気が合うし。性格も趣味もバラバラなのに、なんでだろう」
マーリは、水を飲んで、言う。
「うん。今に分ったことじゃあないよ。ずっと、そうだったしね」
と、ルミ。
「まぁね。それにしても、美味しいけれど、ピリ辛だねぇ」
マーリは、続けて、水を飲む。
「そう? 私は、少しもの足りないんだけど」
と、セルシアはスパイスの瓶をとると、カレーライスにピリ辛スパイスを大量に振り掛けた。それを見ていたマーリは、ギョッとする。
「セルシア、まただね。この前は、パスタにタバスコを大量に掛けていたし、すっごい辛党なんだよね」
ルミも、少し引きながら言う。
「フツウだよ、私にとっては。でも、ピリ辛系は、大丈夫だけど、塩辛いのはダメなんだよね」
答えて、涼しい顔で、ピリ辛スパイスを大量に掛けた、カレーライスを食べ続けた。
「見ているこっちが、火を吐きそう」
引きつった笑みを浮かべて、マーリはグラスに水を注ぐと、急いでそれを飲み干した。
「そんなに、ガブのみするほど、辛かったの?」
と、ルミ。
「どうかな。辛いというより、ピリ辛だったから。私、ピリ辛苦手だから」
答えると、付いていたサラダを食べる。
「う~ん。まだ、ピリピリするよ。味はいいけど、このピリピリはダメだよ~」
と、言って、マーリは新たにメニューを開いて、口直しにと、デザートを注文していた。注文したアイスクリームを食べて、マーリはようやく、一息吐いた。
「ふうぅ。いい感じ。たまには、こういう感じで、時間潰すのもいいかもね」
アイスクリームを食べながら、マーリが言った。それに、セルシアもルミも頷いた。
「あー、でも、金欠の時は、無理だよ」
と、ルミは笑う。
カフェを出る頃には、すっかり日は沈んでいた。
「遅くなってしまったね」
しゃべりながら、駅へと向う。
「また、何処か行こうよ。さっきも話した、夏休みにでもさあ」
雑踏の中を歩きながら、ルミは言う。
「そうだね。行くなら、何処か静かな処がいいな。まだ、緑とかが残っているような処が」
と、セルシア。
「マーリは、やっぱり無理? 試合かな」
「多分ね。私はいいよ。二人で、決めてくれればいいよ。どうなるか、まだわからないから」
「そっか。それにしても、早くも、夏休みの計画とは、気が早いかもね」
ルミは、はははと笑う。
「じゃあ、私は、ここで」
駅前のバスターミナルで、マーリと別れる。
「うん。バイバイ。また、学校で」
セルシアとルミは、マーリに手を振ると、駅の中へと入って行く。
「あー、お腹が重い」
ルミは呟いて、お腹を擦る。
「今日は、食べ過ぎちゃったね」
駅の改札を通り、ホームへと向いながら話す。
「じゃあ。ここで。セルシア、何かあったら、相談乗るからね」
「うん。ありがとう。じゃあね」
それぞれ、違うホームへと、別れて行く。帰宅ラッシュの電車は、疲れきった人達で一杯だった。セルシアは、満員電車に揺られながら、帰路につく。
郊外のマンション。扉を開いて、室内に入っても、迎えてくれる者も向える者もいない。両親を亡くしてからは、独りで暮している。親戚すらもいなかった。もう二年近く、独りで過ごしている。誰もいないマンションは、淋しい。思い出だけが残っている。
「もしかしたら、前世からの何かかなぁ。そこと関係しているのかな」
それほど広くもないマンションの部屋、だけど独りだと広く感じてしまう。
「もう、慣れたけれど」
セルシアは呟いて、家族三人で映っている写真を見つめた。
ああ、まただ。いつもの夢を見ているのだと、セルシアは思った。美しい森と、古き大樹。その場面は、何時も繰り返して見ている。だけど、その日は、何時もとは少しだけ違っていた。夢の中で、セルシアは、その白く輝く不思議な青年が、嘆いているのを、どこか遠くから見つめている感じだった。
「必ず、見つけるから」
嘆き悲しむ叫びが、何度も谺していた。それは、はっきりしている、唯一の言葉だった。
「私は、ここに、いるのに」
セルシアは、心の中で思った。呼びかけてもみたけれど、青年は気付いてはくれなかった。それが、また辛かった。
「必ず、見つけ出す。例え、この手を汚しても、如何なる手段を使ってでも」
青年は呟いて、立ち上がると、闇を目指して歩き始めた。
「何処へ、行くの? 私は、ここにいるのに」
いくら、呼びかけても、その声は届く事は無い。やがて、青年は闇の中へと沈んでゆく。そして、白く輝いていた姿は、漆黒の闇色へと変わってゆく。まるで、死神の様な姿へと、セルシアは、胸がとても痛かった。
「どうして、私は、ここにいるのに」
幾ら必死になって呼びかけても、彼は気付いてはくれなかった。漆黒の闇色へと変わってしまった青年は、更に深い闇の中へと、堕ちてゆくかのように、歩いてゆく。その姿は、まるで、闇に飲み込まれてゆくかのようにも、見えた。
「ラーストゥクル」
闇へと堕ちてゆく青年に向かって、セルシアは声の限り叫んだ。
その瞬間、セルシアの視界は反転した。暗い闇の中だったところには、幾つもの光が差し込んで来る。その光が、まぶしく瞳を閉じて、もう一度、瞳を開いた。自分の視界に入って来たものは、部屋の天井に差し込んでいる、外の街灯の光と、時折道を通り過ぎて行く、車のヘッドライトだった。
「また夢かぁ。だけど、何時もの夢と違っている。同じ登場人物だけど、いつものパターンではなかった。なんだろう、胸が痛いよ。どうして、夢の内容が違っているのかな。みんなに話した事で、夢自体が変化してしまったのかな。それとも、前世の記憶なのかなぁ」
ベッドから起き上がって、セルシアは台所へと行くと、冷蔵庫から良く冷えたお茶を取り出して、グラスに注ぐ。そのお茶を一口飲んで、息を吐く。なんだか、すごく身体が疲れている感じがした。今まで、何度と無く夜中に目が覚めて、夢の事が脳裏を支配してきた事か。眠れない事が続いた。お茶を飲み干して、また息を吐く。
「本当に、前世の私の記憶なの」
自分の部屋に戻り、ベッドに座って、闇を見つめる。夢の中に出て来た、暗い闇はこんな暗闇は比にならないほど、暗く嫌な感じのする闇だった。
「ラーストゥクル? あの青年の名前、ラーストゥクルっていうの?」
夢の中で、叫んだ言葉を無意識に口ずさむ。
「ラーストゥクル……」
「実際の人じゃあなくて、夢の中に出て来る人に、想いを寄せてしまうなんて、私、やっぱりオカシイのかなぁ」
そう言ったとたんに、涙が溢れてくる。その気持ちを否定しようとすれば、するほど逆に、夢の中に出て来る青年への想いは、強くなってゆき、セルシアの心に深々と刻まれてゆくのだった。涙が止らないまま、セルシアはベッドに寝転がって、天井を見つめる。涙で視界は滲んで見える。外からの光は、何処か雪洞の光みたいに、幻想的だった。
「また、逢えるよね。また、きっと、何処かで逢えるよね」
セルシアは、何度も何度も無意識のうちに呟いていた。 低くなり、くすんでしまった空に、下弦の月が浮かんでいた。星々の輝きは天空には無く、それに代わるように、眠る事の無い都市の灯りが、星の代わりに輝いていた。
遠く離れた土地にて、ラーストゥクルは天空の星々と、都市の灯りを見つめていた。
「今、名を呼ばれたような気がしたが……」
周囲を見回し、耳を澄ませる。
「ナディア。君なのか、君もまた、私の事を探し求めているのか?」
呟く、ラーストゥクルの頬を、夏の始めの風が掠めていった。
「何時から、雨は毒を含むようになってしまったのだろう。生ける者には、耐性があるけれど、このまま進んでしまえば、生けとし生ける者達は、生きる事が難しくなるのでは、無いだろうか」
天上神界では、地上人間世界への、干渉を断って久しかった。人間の進化とともに、神々は、人間に愛想をつかせてしまったのだった。
「もう、如何する事も出来ないでしょう。今はただ、見つめる事しか出来ません。万物世界の均衡は、崩壊寸前とでも、言いましょうか。もはや、調停を行なうことですら、ままなりません。無力に思います」
調停司高神である、女神サフィローアは、深い溜息を吐いて、言った。
「そうか。仕方あるまい。それも、一つのカタチであると、思うしかないな。我等も、また、それと共にするしかないのかもしれん」
仙神は、失望を隠せなかった。
「もし、この星なる万物世界が滅びてしまう事が、あったのならば、我等も共に消えてしまうという事に、なるのでしょうな」
神皇宮では、存在して以後、初めての失望と悩みに包まれていた。かつての、神族には、まったく無縁であったそれらの感情は、天上のまほろばなる庭園までも、暗い失望の感情に覆われているほどだった。
かつて、地上世界を見渡す事の出来ていた神殿に、女神サフィローアは、独り来ていた。
「ラーストゥクル。今も地上を彷徨っているのか? 地上人間世界は、かつて、そなたが大切にしていた時ほど、美しくも無く、今は穢れてしまって滅ぼうとしているのだぞ。それでも、未だに探し求めているのかい? ナディアの魂を転生体を。もう、この神殿の水鏡からは、地上世界を見渡す事さえ、出来なくなってしまっている。それだけ、地上人間世界は、万物世界は、均衡を崩そうとしているのだ、既に崩れているのかもしれない。世界が、万物が滅びてしまっても、探し求め続けるつもりなのか、ラーストゥクル?」
サフィローアは、黒い汚れのように、染まってしまっている水鏡の向こうを見つめて、呟いた。地上人間世界の、環境破壊や戦乱は、天上神界すらも、汚そうとしていたのだった。
森の主は、澱んだ空を見つめていた。
「嫌な時代に、なったものだな」
降り続く雨に対して、呟く。
「さて、この様な雨がより強くなってしまえば、この星全ての樹木が、生ける者達が死んでしまうかもしれんなぁ。それとも、もう遅いのか。天上の神々でさえ、地上人間界を憂い、そして、去ってしまった。人間は、万物の一部でありながら、万物を蝕んで行く存在だったのだろうか。私も、ラーストゥクル殿ほどではないが、あの頃の時が、一番良く思えるよ。ナディア、君が、この時代に在ったなら、少しは癒してくれるのだろうか? 今、この時代に、転生体として、生を受けているのだろうか。もし、この時代に転生しているのならば、ここへ、私の下へと、来てはくれないものだろうか」
森の主は呟く。ラーストゥクルが、ナディアに惹かれてしまったと同様に、森の主もまた、無垢で穢れの無い、ナディアの魂。その魂の再来を、求め望むようになってきていた。
「このような、雨が降る日は、小鳥達ですら来てはくれない。人間達の都市の賑わいは、聞えるが、淋しいのう。森であった頃は、良かった。ここは、寝ても覚めても、煩い音と、煩わしい光に溢れている。もう、あの頃には戻れないのか」
森の主は、雨で霞んでいる都市を見つめる。夕暮れ時の都市は、慌しく見える。
「いつか、人間の世が終った時、我々は、昔のような世界に戻れるのだろうか?」
森の主は、太古の記憶を想いながら、また眠り始めた。
湿り気のある、嫌な感じの風と雨が続く。花束を手に、セルシアは、夕闇の墓地へとやって来た。
「久しぶりだね。お父さん、お母さん。私、とりあえず、きちんとやっているよ、学校も生活も」
花束を手向けながら、言う。
「お父さんが、亡くなって、五年。お母さんは、もう一年かぁ。始めは、悲しくて淋しくて、どうにもならなかったけれど、今は、仲良しの友達と一緒だよ。うん、それなりに、毎日は楽しいよ。あーでも、進路だよ。まだ、決める事は出来ていないし、考えてもいなんだよ。どうしよう?」
傘を差したまま、墓の前で話す。
「そのうち、何とかなるよね。それにしても、雨の季節は、好きになれないよ。なんだか、湿りっぽい嫌な風が、吹くから。酸性雨も、より濃くなってきているって聞くし、それに、何時も何処かの国では、戦争している。そんな悲しいニュースしか、流れないよ。もう少し、明るくて幸せなニュースって、ないのかなぁ、って、思うよ」
セルシアは、墓。心の中にある、両親の記憶に向かって、話していた。しばらくそうした後、セルシアは、両親の墓を後にする。
「また、来るね」
すっかり、闇に閉ざされた、共同墓地の路地には、点々と街灯が付いてた。いくらか、小降りになったものの、雨は降り続いていて、湿っぽい生暖かな風が吹いている。
「あまり、夜のお墓って、気持ちよくないよ。今度からは、お昼に来る様にしよう」
独り暮らしをしていると、独り言が多くなるという、まさにそうだなと、思いながら、セルシアは、路地を歩いていた。時折、その風が吹いて、街路樹を揺らす。
「不気味な感じだよ。ルミだったら、好きな世界観かもしれない。オカルト的な事が好きなんだから、幽霊話とかも、よくしているし。そちら系の本は、毎月買い漁っているし。いくら、科学が進化しても、人間が神秘を求めたり、精神的なモノに縋るのは、やっぱり目には見えず触れる事の出来ないモノを、何処かで感じているからなかのかなぁ。だとしたら、私の見続けている夢も、やっぱりそういうもので、それが、前世の記憶ってものなかのか? 目に見る事も、触る事も出来ないモノ。それは、科学だけでは、解明出来ないモノなんだろうね」
自宅マンションに、帰り着く。迎えてくれる家族は、いない。もう、慣れたと言っても、やはり淋しく思う。 コンビニで買ったもので、晩御飯を簡単に済ませて、お風呂に入る。湯上りに、ハーブティーを注いで、独りそれを啜る。
「まだ、今日も、あのような夢を見てしまうのかなぁ。でも、どうして、夢の内容が変わってしまったのだろう。悲しくて苦しい夢は、見たくないよ。それが、前世の記憶でもね」
二 月下夢幻
雨の季節は過ぎ往き、眩いばかりの太陽が地上を照りつける季節へと移って往き、季節は夏を過去る頃。
都市の賑わいと暑さから、遠く離れた土地、辛うじて昔のままの自然なるモノが、残されている。その自然を利用して、造られた広大な公園には、蝉の声が、煩いほどに響いている。
「ねぇ、セルシア。今もまだ、あの夢見ているの? あの日以来は、話に挙がらないけれど」
と、ルミ。
「うん。相変わらずだよ。同じ夢を繰り返して、見ているよ。もう、慣れたけれど。憶えていないだけで、他の夢も見ているのかもしれない。けど、やっぱり印象が強いよ、やっぱり」
まだ、それなりに自然が残ってはいるが、それらは、すべて、人間が管理して保護しているものだった。環境破壊や酸性雨から、守る為の資金は、この公園を利用する人からの入場料や使用料などで、賄われていた。国が出す金額は、ここで働く職員の給料ほどしかない。それでも、数少ない自然を求めて、やって来る人は絶えないので、なんとか維持できていた。その為、ここでのマナー違反は、極めて厳しい罪が科せられるのだった。
「そうか、やっぱり。前世だよ。セルシアが、前世の記憶の夢を見ている様に、夢に出て来る人も、同じ様に夢を見ているはずよ。何処かで、セルシアの事を待っているかもしれないよ」
草原を渡る風が、草と土の香りを沸き立たせる。
「そうかなぁ。あー、でも、その人、夢に出てきていた青年の名前が、分ったんだ」
セルシアの黒く長い髪を、風が揺らして行く。
「え、その人の名前が分ったの、すごいね。なんて、名前だったの?」
ほぅ、と、驚き、ルミは問う。
「ラーストゥクル。夢の中で、私が、叫んでいたの。でも、ラーストゥクルは、暗い闇の中へと堕ちて逝ってしまったの」
セルシアは、悲しそうに答えて、空を見上げた。
「闇に堕ち、闇に包まれた、ラーストゥクルは、白く輝いていた姿から、漆黒の闇いろへと変わっていってしまうの」
空には、ほうき雲が流れていた。
「それって新しい内容だね。前、話していた夢の続きに、あたるものなの?」
ルミが、興味深げに問う。
「どうかな、私はここにいるのに、言って、ラーストゥクルの名を呼びつづけていた。だけど、ラーストゥクルは気付くことなく、闇の中へと逝ってしまった。私は、悲しくて堪らなかった。“必ず、見つけるから”それに、“例え、この手を汚してしまっても、如何なる手段を使ってでも、見つけ出す”そう言って、闇に……」
セルシアは、何処か虚空を見つめて言い、少し疲れた顔をして、ルミを見た。
「どう思う、ルミ? 闇に堕ちて逝く、ラーストゥクルの言葉を」
すると、ルミは考え込む。何時になく、難しそうな顔をして、
「う~ん。前世の記憶。そこまでは、分るけれど。その、ラーストゥクルって人は、闇に堕ちて、白く輝く姿から、漆黒の闇色に変わってしまったのよね?」
「そうよ。まるで、死神の様な姿に見えたよ」
セルシアは、悲しそうに答えて、溜息を吐く。
「必ず見つける。例え、この手を汚してでも、如何なる手段を使っても。そして、闇に堕ちて、白く輝く姿から、漆黒の闇色かぁ」
セルシアの話を、繰り返し呟きながら繰り返す。
「夢の中なのに、ラーストゥクルの言葉は、一句一句はっきりと、覚えている。手を伸ばしても、届く事はなかったけれど。“必ず見つける”それが、耳の奥に強く残っているよ」
セルシアは、瞳を閉じる。
「始めの頃、見ていた夢、小さな女の子の方の夢よりも、その闇へと堕ちてゆくラーストゥクルの夢の方が、見ている確立が高いようだし、でも、どうして、闇に堕ちてしまったのだろう。どうして、清いまでに美しかった、白い輝きが漆黒の闇色となってしまったのだろう? 私、何度も呼んだのに、気付いてはくれなかった」
瞳を開き、悲しそうに、セルシアは呟いた。
「それってさぁ、夢に出て来ている、ラーストゥクルって人が、前世のセルシアを探し出したい為に、力が欲しくて、悪魔とかと契約したみたいだね。でも、清いまでに美しい輝きが、漆黒の闇色に変わってしまうなんて、そうとしか考えられないよ」
気を使うかのように、言うと、ルミは独りで頷いていた。
「私を……、夢の中の私を、探す為に闇へ堕ちていったから、私、悲しく苦しいのかもしれない。私であって、私でない。だけど、想いは同じなの。そこまでしているのに、お互いを見つけ出せないでいるから、苦しく辛い、そして悲しいの?」
ルミに、話しているワケでもなく、独り言のように呟く。
「私も、貴方に逢いたいよ。ラーストゥクル」
涙が零れてゆく、無数に。夢の事を考えたり、話していくうちに、セルシアは、益々悲しく苦しい想いに胸をしめつけられ、自分で自分の事が、分らなくなってしまってゆく。無意識に流れ落ちてゆく涙は、さらに、セルシアを混乱させていた。ルミは、ただ、励ます事しか出来なかった。
「セルシア。泣かないでよ。前世と現世は、また違う事だよ。そりゃあ、確かに前世のしがらみとか、因縁とかは、あるかもしれないけれど。今在るのは、セルシアとしての、現世だよ。だからさぁ、現世にてこの事を考えないと、この現世にて、さだめられている事が、前世の記憶にあるのならば、必ず現世にて何か在る筈だから、それを見つけ出せたならば、きっと、夢は終るよ」
言って、セルシアが落ち着くのを待つしかなかった。少し経って落ち着いたのか、涙を拭く。
「はい。これ、あげる」
ルミは、カバンの中から、掌に乗るほどの大きさの珠を、セルシアの前に差し出した。
「え、何。これ、パワーストーンだよね。クリスタル?」
顔を上げて、セルシアは、ルミから珠を受け取った。そのパワーストーンは、透明に透き通る光を放っていた。石の中には、美しい光を湛えていた。光を受けては、輝いている。
「うん。クリスタルだよ。この石の力は、プラスのエネルギーを与えてくれる、万能のパワーストーンなんだよ。あげるよ。少しは気が晴れて見えて来るものが、あるかもしれないよ。光にかざすと、綺麗でしょう。月の光の方が、本当はいいのだけどね。はい、この布で包んでいるといいよ」
ルミは言って、白く柔らかい布を渡した。
「ふ~ん。そうなんだ。綺麗だね。本当に貰っていいの?」
太陽にかざすと、陽光と空の色を石は映して、光り輝いている。それを見ていると、少しだけ気分が、楽になった感じがして、セルシアは笑った。
「どうぞ。パワーストーンは、色々な物を沢山持っているから、いいよ。私、将来は、その様なグッズを扱うお店を、造りたいの。宝石とかの専門学校とかに行って、それなりの知識と技術を身につけて、高級品じゃあなくて、お手頃のお店をやりたいの」
ニコニコと、ルミは楽しそうに語る。いつも、オカルト話をしている時の顔より、うれしそうに見えた。
「そうすれば、別にパワーストーンとかを、幾つ持っていても、アクセサリーとかを集めていても、オカルトオタクだのマニアだのとか言われても、それは構わないけれど、それを活かして、生きていけそうじゃない。まさに、趣味と実益ってヤツだよね」
「そうかぁ。ルミは、宝石屋っていうか、アクセサリーとか売っているような、お店をやりたいんだね。マーリは、そのまま、スポーツ系を進むことだろうしね。今日は、試合があるからって、来れなかったんだよね。以前、旅行しようって話した時も、そのような事を言っていたから。 皆、それなりに進路決めているのに、私はまだ決めるどころか、考えてもいないよ。いいのかなぁ? 夏休み前の進路調査のアンケートも、未定としか書けなくて。先生には、夏休みの間に考えておくようにと、言われたもんね」
ルミに貰った、クリスタルの珠を布で包みながら、セルシアは苦笑いを浮かべて言うと、溜息を吐いた。
「まあ、まだ、もう半年以上はあるんだし、ギリギリでもいいんじゃないの? 後々になって、分ってくることも、あるだろうし。あせって決めても意味ないよ。焦れば焦るほど、良い事にはならないよ。タブーだよ、そんな事は」
と、ルミ。
「焦っても仕方ないけれど。わかっているけど、う~ん。そのうち、見えてくるかなぁ」
セルシアは、再び空を見上げた。ルミもつられるように、空を見上げる。高くなった青空には、ほうき雲やヒツジ雲が流れていた。
「何時の間にか、秋の空に変わっているよね。早いね」
と、ルミ。そのまま、草原に寝転ぶ。
「いい場所だよね、ここ。自然の中って、凄く気持ちいいよね。でも、大変だろうね。この広大な土地を管理するのって。辛うじて残っている、ここの自然を守るのって、人間の手からは守れても、深刻な問題になってしまった、酸性雨を防ぐ事は出来ないから……。それも、人間のせいだけど。ここは、空が澄んで綺麗だけど、降り注いでいる紫外線は、やっぱり強くキツイんだろうね」
昼下がりの、広大な自然公園の一角。その草原は、静かだった。
「そうだね。だから、ここ値段が高いんだよ。色々と制約あって、罰金とかもあるし。いい場所なんだけどね。結局、自然の中でも、都会でも、紫外線ガードはしておかないと、直ぐに日焼けして、腫れてしまうよ」
「まぁ。お金掛けないと、守れないのよ。でも、お金掛けて守れるのなら、まだ良いと思うよ。それにしても、マーリも試合が無かったら、一緒に来れたのにね。いい所だよ」
セルシアも、寝転んで空を見つめる。
「あー。空って、こんなにも、青い色だったんだね。都市の空は、くすんでいるから、晴れていても、曇っていても。はぁー、ずっとこうしていたいけでど、紫外線ヤバイかなぁ」
心地の良い風が吹いている。空は澄んでいて、晩夏と初秋の雲が浮かんでいる。上空を往く風は、その雲達を流していった。
「そうだね。ヤバイかも。一番強力な、クリーム塗っていてもね。空気が綺麗な分、紫外線が強いって、話聞いた事あるよ」
ルミは言って、起き上がる。セルシアは、そのまま空を見つめる。
「ねぇ。夜にまた、公園内散策しようよ。今夜は、満月だから。満月の光には、浄化作用があるから。月光浴しようよ。紫外線の、心配もしなくていいから」
ルミは持ってきていた、暦を開いて言った。
「へー、そうなんだ。今夜は、満月なんだ。それもいいかもしれないね。月の光は、神秘的だもんね」
セルシアは、布に包んだ、クリスタルを握る。起き上がって、小さく。
「前世かぁ」
と、呟いた。
太陽が西へと傾く頃になると、日暮蝉の声が響き始める。木々と茂みの辺りを蛍が舞う。
人工的に管理され整備された、自然公園内にある、森の中のバンガロー。セルシアとルミは、少し早めに夕食を食べて、外へと出た。
西の空には、夕日の名残。オレンジから蒼へのグラデーションが、西の空一面に広がっていて、東の空には、まだ白い月が昇っていた。
「日が沈んだら、かなり涼しくなったね」
バンガローのウッドデッキに出ていた、セルシアが言う。
「そうだね。でも、帰ったら、暑いんだろうなぁ。十一月になっても、去年はクーラー無いと、過ごせなかったし」
「ずっとここなら、クーラーいらないよね。昔は今よりも、もっと自然が残っていて、エアコンなんてものは無くても、過ごせていたんだろうね。温暖化問題も既に、過去の事。今はすでに、それは現実問題で、如何する事も出来ないんだろうね」
セルシアとルミ以外にも、何人かの人達が夕涼みに、出てきていた。
「まるで、滅びを待つしかない世界って感じ。何かの物語のように、別惑星へ移住するとか? 研究は進んでいるけれど、結局無理でしょうね。ずっと、失敗続きで、何人も亡くなっているし」
と、ルミ。
かつて、宇宙開発が成功すれば、他惑星へ住む事も夢ではないだろうとされ、様々な研究と共に、移住に関する研究が行なわれてきた。あれから、二百年余り。しかし、未だにそのプロジェクトは、成功する事はおろか、進む事さえなかった。
「生まれ育った星に、住めなくなったからって、他の星に移住しようという考えが、間違っているのよ」
森の中の散歩道を、歩きながら話している。森の奥の方では、夏の虫と秋の虫が鳴いてる。
「それは言えてるね。セルシア。悪いのは、私達人間って事か」
ルミは、飛んできた蚊を叩く。
「自然破壊は進んでしまった。自然界にいた生物は、絶滅寸前なのに、蚊とか害虫は増える一方だよね。この前、読んだ本には、数百年前の予想では、“蚊などの害虫は全て、もう百年すれば、技術の進歩で根絶させることが出来るだろう。“と、あったけれど、全然違うよね。いなくなるものは、自然界にいて人間には無害なモノばかりよ」
セルシアは、蚊を払いながら言う。
「虫除けスプレーでも、持って来ればよかったよ」
ルミは、飛び回っている蚊を、鬱陶しそうに見た。
「まぁ。五月蝿いけれど仕方ないよ。蚊だって生きて子孫残さないと、いけないんだしさぁ」
そうは言っても、やっぱり蚊は、五月蝿かった。
西の空が、青から深い蒼へと沈んで行くと、満点の星空が広がり、満月が空に輝き始めた。月の光が、樹木の間から遊歩道へと、差し込んできている。街灯の光とは、違う光。どこか、幻想的だった。
「やっぱり、来て良かったね。清々しくて、気持ちいね。蚊が五月蝿いけれど」
樹木の葉の隙間から、差し込んで来ている月の光を見上げて、ルミは言う。
「本当だね。都市より、ずっといいよね。都市の空気は、どこか閉めきった部屋の空気みたいで、重苦しさがあるけれど、ここは、清々しいよ。爽やかって感じだね」
セルシアは、深呼吸する。森の香りが、胸の中へと染み込んでゆく感じがした。
「私、好きだな、こういう感じの処。凄く懐かしいものがあるし。心が穏やかになってゆくよ」
「元気でた、セルシア? 夏バテとか、夢の事、前世の記憶の悩みもスッキリした?」
気遣う様に、ルミは言った。
「どうかなぁ。夏バテは無いけれど。まー、前世の記憶と夢は、悩んでも仕方ない事なんだろうけれど。ずっと、前世の記憶の夢に悩んでいたら、現実的じゃあないからね。余り考えないようにしては、いるんだけれど、やっぱり考えてしまうんだよね。それにしても、恋ってさぁ、相手の事を想えば想うほど、苦しくなって悲しくなるものなのかなぁ」
セルシアとルミは、森の中を廻る遊歩道を歩いている。日も沈んでしまい、西の空も夜に包まれている。それもあってか、すでに辺りに他の人達はいなかった。遊歩道には、虫の音と、そよ風が葉を揺らしているだけの静けさがある。
「私には、まったく興味の無い世界だから。解らないよ。恋なんてモノのことは。マーリは、かなりのロマンチストでユメミストだから、少し位なら解るのかもしれないけれど、でも、マーリは現実的なものとしての、恋愛には向いていないのかもしれないよ。マーリ自身のイメージと、恋愛のイメージが合わないからね」
ルミは言って、クスッと笑った。
森の中の遊歩道を抜けると、管理センターがある広場に出た。まだ、電気がついていて、仕事をしているようだった。管理センターの周囲には花壇があって、色々な花が植えられていた。人気のない広場には、幾つかの小さな街灯が付いているだけで、あとは、満月の光によって照らされている。
「まだ、お仕事しているんだ。キャンプ場とかあるから、その方の仕事なのかなぁ」
管理センターの建物内の明かりが、窓からもれているのを見て、ルミは言った。
「まぁ、管理センターだからね。公園を利用する人の管理が仕事なんだよ。植物とかの管理も、同じ建物でやっているのかなぁ」
と、セルシア。
「さぁ。やっぱり、そうゆうのって、研究している人達がいるんじゃないの? ここは、公園全体の、運営と管理だけみたいだよ」
ルミは答えて、夜空を見上げた。
「すごいね。まんまる、お月様だよ」
「本当だね。まんまるだね。都市で見る、月はぼやけてくすんでいるけれど、ここは、はっきりと見えるよね。それだけ、ここの空気が綺麗だってことだね」
セルシアは言って、広場にある街灯を見て、
「あの、街灯や管理センターの灯りが無ければ、もっと綺麗に見えそうだね。本当の月明かりだけだったら、きっと、神秘的だろうな」
「ははは。セルシア、それは贅沢な事だよ。あ、待って、公園の案内図があるよ」
ルミは、管理センターの前にある、花壇の処に建っている案内図の看板を、見つけて駆けて行く。セルシアも後に続く。
「かなり広いんだね。山とかも入っているんだ。これだけ広いと、管理する人は大変だよね」
「セルシア、湖があるよ。湖の方に行ってみない?」
「湖があったんだね。へー、色々あるんだね。湖かぁ、湖面に映る月も、綺麗だろうね。いいね、行こう。月夜の参歩でも、しようか」
セルシアは月を見上げ、もう一度、看板を見た。
「昼間に、行っていた草原の方とは、反対方向になるんだ。歩いて、約一時間程だって」
「いいんじゃないの。行こうよ。まだ九時前だし」
時計を見て、ルミは頷いた。
広場から湖方面へと向う遊歩道は、なだらかに登っていた。案内図では、小さな山を越えた先と、示されていた。点々と街灯がある。いたるところから、虫の声が聞えて来る。時折、カエルの鳴く声がする。涼しくひんやりとした風が、吹いていた。整備されている遊歩道の終点は、小さな公園となっていた。
「ふう。結構、ハードな道だったね」
ルミは、ベンチに腰を下ろして、汗を拭きながら言う。
「見て、ルミ。湖だよ」
セルシアがは、公園にある展望台から、ルミを呼んだ。小さな山の上の公園から、見渡せる眼下には、湖が広がっていて、満月が湖面に映っているのが見える。湖の周辺には、街灯は無かった。
「わー。凄いね。お月様、二つあるみたいだよ。街灯も無いから、一段と際だつかもよ、下へ降りる道は、無いのかなぁ」
ルミは辺りを見回して、湖へと降りる道を探す。
「あるけど、来た道みたいに、きちんと整備されていないよ」
セルシアは、湖の方へ降りる道を見つけて、そこまで歩いて行って、ルミに言った。
「ここまで、来たんだから、湖の辺まで行こうよ」
ルミも、湖へと降りる道の所へと来た。セルシアとルミは、簡単にしか整備されていない道を、足を滑らせないように注意しながら、降りていった。
湖の辺は、降りてきた道よりかは、整備されている道で、湖を一周出来る遊歩道となっていた。そこの遊歩道には、街灯は無く、遠くに公園の街灯の灯りが小さく見えているだけだった。澄み渡った夜空には、星々と満月の光が輝いていて、湖は天空を映す水鏡の様だった。
「本当の月明かりって、こんな感じの事を云うんだろうね」
湖の辺を歩き、セルシアは言った。
「当たり前だよ。都市の明りも街灯の灯りも、ここには無い。ある明りは、月の光だけだから、月明かりなんだよ」
と、ルミは足を止めて、湖の辺にある岩の上に座った。セルシアも近くにあった、手頃な岩に腰を下ろした。湖の何処かで、カエルが鳴いている。風が吹くと、波が湖面を揺らし、映る月も揺らした。虫の音やカエルの声に、風で揺れる樹木の葉の音の他には、何も聞えない静寂が、そこにはあった。
「ずっと昔は、このような場所が、何処にでもあったんだろうなぁ。もう、自然破壊は、留まる事無いし、現状はどうにもならない。この国に、今の世界にどれくらい、このような場所が残されているのかなぁ。あの大森林も、紛争によって、殆どが焼け果ててしまったし、砂漠化も止らない。嫌な世界になってしまっているけれど、ここは、自然が護られている。ここだと、世界で起こっている嫌な事、全てを忘れてしまって、心と魂が癒される、そんな感じがするよ」
セルシアは、湖に浮かんでいる月を見つめる。
「セルシアって、好きなんだね。自然ってされるものが。このような場所が、まだこの国に残っているのは、自然とか、山や森、そこに生きている生命を、考えて護ろうという行動に出る人が、いるって事だよね。そうもないと、これほどまでに広い処を維持していく事には、無理があるよね」
「そうだね。そうじゃないと、こんなに清くないよね」
呟いてセルシアは、天空の月を見つめる。
「夢、前世の記憶。朧気だけど、私は、森と共に生きている民だった。今、この様な場所が好きなのは、やっぱり前世の記憶なのかもしれないって、思うよ」
「前世の記憶が、蘇ってきたの? それとも、夢を思い出したの?」
「なんだろう。凄く断片的なんだけれどね。森の好きな、小さな女の子、それが、夢の中での私。女の子が、森を愛して大切に想う気持ちと、今の私の気持ちが同じだって事に、気が付いたの」
ポツリと呟くように、セルシアは言う。
「森の外の小さな村。村人達は、森と共に生きて暮らしていた。だけど、文明の発展と共に、村人達は、村を森を棄てて、街へと往ってしまう。そこまでが、夢の中の女の子が成長した夢、女の人の記憶の様なの。それも、前世の私の記憶なのかな」
「不思議な青年、ラーストゥクルが出て来る夢とは、また別の夢なの?」
「どうなるのかなぁ。ハッキリとは、しないけれど、頭の中、心の中に、その様な思いの記憶が在るの。考えたりしていたら、頭の中がワケ解らなくなってきてしまうから、考えないようにしていたんだけど。ここへ来て、満月を見ていたら、急にその事が、頭を過って往ったから。やっぱり、何か関係しているのかなぁ、と、思ったの」
と、セルシアは、夢と前世の記憶の事を話す。
「意外と、当たっているかもしれないよ。前世のセルシアは、森を愛していたんでしょう。今のセルシアだって、自然とかについては、詳しいいし、好きだよね。ここに来てから、セルシア、何だか生き生きしているし、嬉しそうだよ。そんな感じのオーラが出ているもん」
「そうかなぁ。でも、そうだよね。都市は、息苦しさがあるけれど、ここには無いもん。ずっとここに居たいって、思うよ。私、都市より、ここのように、森とかが在る場所の方がいいなぁ」
セルシアは、湖の方へと視線を移す。
「何だろう。良く解らないけれど、前世の私と現世の私の魂と記憶が、同化した感じがするよ」
「前世と現世が、同化する? それって、どんな感じなの?」
オカルトオタクぶりを発揮して、ルミはセルシアを問い詰める。
「う~ん。そうだねぇ。例えて言うなら、なかなか思い出せなかった事を、ハッと思い出せた時の様な感じかなぁ」
セルシアは、困ったなぁという顔で答えた。
「なるほど。メモしておこう。やっぱり、魂に魂自体に、記憶が存在していたんだよ」
独りで頷いて、メモをとる。セルシアは、そんなルミを横目に、呟いた。
「この、満月のせいなのかもしれない。満月は、神秘的な、あの輝きを見ていたら、遠い昔を想ってしまって、それでなのかなぁ」
セルシアは、少しだけ悲しかった。それが、前世の自分を、思い出したからなのかは、解らなかった。
「月の光には、浄化作用とかあるからね。癒しの光だし。さっき、あげた、パワーストーンのクリスタル持っているなら、出して月の光にかざしてみると、いいよ。凄く綺麗に光るし、月の光の力が宿るから、石自体のパワーも増すんだよ」
ルミは、得意気に言った。
「え、そうなんだ。あー聞いた事はあるような、ないような」
言われて、セルシアは、ポケットの中から、布に包んでいる、クリスタルの珠を取り出した。布を取ると、クリスタルは、月の光を受けて輝きはじめた。透明な光というよりも、幽かに蒼みを含んでいる光だった。
「綺麗だね。太陽の光より、月の光の方が、石の輝きに神秘的なものがあるように、見えるね」
掌に乗せている、珠を見つめる。まるで、クリスタルの石自体が、自ら光を集めている様だった。
「みんなが、私の事をオカルトオタクと言うけれど、一度、パワーストーン、別にパワーストーンだけではないけれど、そのように、綺麗に輝いているのを見れば、誰だって好きになると、思うけどなぁ。宝石買うより、ずっと安いし、色々とヴァリエーションもあるから」
ルミは、ポーチの中から、色々な形や色をしている石を出して、白い布を広げた上に並べて置く。
「それ全部、パワーストーンなの?」
セルシアが問う。
「そうだよ。月光をあてると、石の力を高めて引き出すことが出来るの。電池の充電みたいな感じかな」
ルミは、パワーストーンに月の光が、良く当たるように何度も並べ替えていた。
「そのようなことって、科学万能の現在でも何かあるんだよね。あ、でも、パワーストーンじゃないけれど、宝石にも、何かの力、磁気かなにか、あるって聞いた事があるよ。石の相性って、よく聞くけれど、それなりに何か科学的に解明は関わっているのかな」
「まぁ。石も人間も、源なるものは同じだからね」
ルミは、月を見上げる。
「いい月だよ。空気も澄んでいるし、自然界に宿っているパワーもある。最高の場所かもしれない。パワーストーンに力を加えたり、力を引き出すには、ね」
言って、また、パワーストーンを並び替えた。パワーストーンは、月の光を受けて輝いていた。
「本当に好きだよね、ルミ。まぁ、少しは分ったけれどさぁ。私には、趣味と呼べる趣味は無いから、ハマちゃう人の心理は、いまいちよく分らないんだよね」
セルシアは、ルミの並べているパワーストーンを見つめて、溜息混じりに言った。
「ねぇ、セルシア。セルシアは、さあ、話聞いていると、自然の話とかよくしているよね。自然、森とか花とか、植物とかが好きでしょう? だったら、そうなのかもしれないよ。前世でも、森が好きで、森と共に生きていたんでしょう?」
ルミは、パワーストーンをいじりながら、言う。
「占いとか、お呪いって、オカルト的だけど、結構はげみになったりするの。その逆もあるけれどね。今みたいに、科学や医学が発展していなかった時代には、今でいうカウンセラー的な役割だったのかもしれないよ。占いは、一つの道標で選択肢。でも、決めるのは、自分自身なんだからね」
「オカルトって、いっても色々とあるんだね」
頷く、セルシア。
「そうだよ。オカルトと人間は、切り離せないんだよ」
と、ルミは諭すように言うと、また独りで頷いていた。セルシアは、クリスタルを見つめる。
「私、もう少し、頑張ってみようかな。前世とかに囚われずに。今の私として」
月の光をタップリ浴びたクリスタルは、まるで、クリスタル自体が自ら光を放っているように見え、セルシアは頷いた。
満月は、光煌と輝いていて、星々は小さな光を密やかに放っている。虫やカエルの声が聞える。風は、微かなる秋の香を運び伝える。
「本当に、綺麗な満月の夜だね」
セルシアは、クリスタルを布に包んでしまうと、また、夜空を見上げた。
湖や森の湿気と香りを含んだ、冷んやりとした夜風が吹き抜けて行く。
「あ、もう、十一時だよ。なんか、話し込んじゃったみたいだね」
セルシアが、時計を見て言った。
「そんな時間? あーそうか、来るのに一時間近く掛ったから。戻ったら、日付が代わっている頃だよ」
立ち上がりながら、ルミは言う。
「そんなところかな。それじゃあ、湖を一回り歩いてから、戻ろうか。なんだか、風も冷たくなって来て、寒くなったことだし」
セルシアも立ち上がる。
「また、何時か来ようね」
湖の辺の遊歩道を、セルシアは、ルミから少し遅れて歩く。特に会話もすることなく、其々が、景色などを見つめながら歩いていた。風が出て来たのか、樹木がざわめき葉をゆらす。湖面には、波が立ち波と波がぶつかり合って波紋がいくつも広がってゆき、移していた夜空と満月は、波に揺られて歪んで見えたり、幾つもの波の表面に映される。遥かな上空を渡って往く風の音が聞える。今までは、澄み渡っていて、雲さえ無かった空には、何処からか流されてきた、雲が風と共に流れていた。流れ往く雲が、満月を覆っては、また流れて往く。セルシアは、そんな空の様子を見つめる。強くなっていく風と共に、雲もスピードを上げて、上空を流れて往くのが分る。気流が、唸っている、大きな雲が流れてきて、満月をすっぽりと覆い隠してしまった。辺りは、月明かりを失って暗闇に閉ざされた。
セルシアは、ふと、視線を湖の方へ移した。暗闇の湖は、月を映して輝いていた時と違って、何か底知れないモノを秘めているかの様に見えた。その湖の中央に、セルシアは、揺らめく影を見つけた。それは、人影のようにも見えた。セルシアは、ギクっとして、振り返る。ルミは、先の方を独りで歩いている。生きている人間が、湖の真ん中の宙に立っているワケないか。そう思って、セルシアは、再び湖の真ん中を見つめた。
「ユーレイって、ヤツなのかな? それとも、湖の波の影なのかなぁ」
瞳を凝らして、湖の真ん中の宙に浮いている人影を見つめた。
強く吹いた風が、満月を覆っていた雲を流して往くと、再び。美しく輝いている満月が姿を見せた。蒼い月光が、辺りの景色を照らして浮かび上がらせる。月明かりの加減か、幻想的な景色に見えた。吹いていた風も凪、虫の音やカエルの声も止み、静寂につつまれている。蒼い月光は、湖の真ん中の宙に浮かぶ人影までをも、照らし出していた。人影は、湖の真ん中の宙に、立つように浮かんでいた。セルシアは、その人影をみるなり、全身が固まってしまい、思考や心までも、止ってしまったのではないかと感じてしまった。まるで、目には観えない衝撃を受けてしまったかのように。時間が止った、そんな感じにも似ていた。
「ラーストゥクル?」
セルシアは、自分自身の意思とは関係なく呟いていた。その事が、セルシアには理解できなかった。だけど、口を吐いて出て来る言葉の事は分っている。
「ラーストゥクル……」
何度も呟いてはみたものの、その人影を確かめる事は出来なかった。ただ、その場に立ち尽くして、湖の真ん中の宙に浮く人影を見つめていた。無意識に涙が、零れ落ちてゆく。
あれは、ラーストゥクルだ。何時も、夢の中に出て来る青年だ。
そう思う、だけど、現実感が無かった。
「セルシア、どうかしたのー?」
背後で、ルミが呼ぶ。セルシアは、ハッする。我に返り、無意識に流していた涙をぬぐって、振り返り答えた。
「なんでも、ないよ」
軽く頭を振る。きっと、見間違えよと、言い聞かせたものの、心の何処かでは信じていたかった。
再び、風が吹き抜けて往き、樹木の葉を夜空へと舞上げてゆく。
「セルシア。なんだか、雲行きが怪しいよ。それに、寒くなってきたし、早く戻ろうよ」
ルミが言う。セルシアは、
「うん、分っているよ、今行く」
振り返り、もう一度湖を見る。だけど、人影は何処にもなく、消え去ってしまっていた。
「やっぱり、幻だったのかな。でも、あれは、ラーストゥクル」
人影の在った辺りを見て、呟く。とても懐かしい気配が、漂っている気がして、セルシアはいたたまれなかった。
「どうして?」
あれは、あの影は、ラーストゥクル。間違いないよ。でも、どうして、ラーストゥクルがここに? 自分の中に在る、何かが言う。前世の記憶、その想いなのかな。セルシアは、じっと一点を見つめていた。
「ねぇ。セルシア、如何したの。ぼーっと、一点見つめてさぁ、何か見たとか?」
先を行っていたルミが、戻って来て、セルシアの横に立って言った。
「え、何かって、何?」
セルシアは、一瞬戸惑ってしまったが、そのまま問い返した。
「何かって、決まっているじゃない、ユーレイとかだよ。ユーレイでもいたの? それとも、宇宙人?」
オカルト好きを丸出しにして、聞いて来る。そんなルミに、セルシアはクスっと笑って
「私の見間違いよ。湖の真ん中の所に人影が見えたの。何だろうって、思ってよく見たら、樹の影が波に映っていただけだったよ。光と闇の関係や、心理的なもので、樹の影でも、人の影の様に見える事があるんだなぁーって、思っていたの」
首を振って答えた。ルミには、知られたくなかった。ラーストゥクルだと思った、人影を見た事を。
「ふ~ん。なんだぁ、セルシアの見間違いかぁ。ユーレイかと思ったのに。もし、游^レイだったら、是非にその姿を実際にこの目で見たかったなぁー。私、オカルト好きなのに、霊感は無いみたいだから、残念だなー。もし、観れるモノだったら見てみたいよ」
ルミは、凄く残念そうに呟いた。
強い風が、唸るように吹き始めた。より激しく樹木を揺らし、葉を散らせてゆく。湖の水面には荒波が立ち、上空には雲が流れ集ってくる。
「荒れてきているよ。ヤバそうだね、曇ってしまわないうちに、街灯があるところまで、戻ろうよ」
ルミは言って、早足で歩き出した。
「そうだね、雨降りそうだよ」
と、セルシアもルミに続いた。 湖を離れて、公園まで戻る。小さな街灯には、虫達が集っていた。セルシアは足を止めて、公園の展望台から、もう一度、湖を見つめた。満月の空は、半分以上雲に覆われていた。雲間から、僅かに零れる月光が、湖に差し込んでいる。
きっと、あれは、満月のせい。月夜の幻だったんだ。蒼い月光が、創り出した幻影だったのかもしれない。もしかしたら、ルミから貰った、パワーストーン、クリスタルの力によるものだったのかもしれない。きっと、一夜の夢幻のようなものよ……。セルシアは、自分に幻影だったと、言い聞かせた。もし、あれが、ラーストゥクルだったのならば、どうして、自分の処へ来てくれなかったの? どうして、私の名を呼んでくれなかったの? それらの想いを、打ち消すかのように。
「きっと、また、逢えるよね。ラーストゥクル。姿形が、変わってしまっても、お互いきっと、解り合えるよね」
セルシアは、湖に向かって呟くと、ルミの後を追った。
セルシアとルミが、管理センターのある中央広場まで、戻って来た頃には、既に満月は雲の彼方に隠れてしまっていて、重たい雲に夜の空は覆われていて、じっとりとした湿気の風が、吹き付けていて、少し雨の臭いが風に乗り漂っていた。
「うわ、風が強いし、日付も変わっているよ」
ルミが、広場にある時計を見た。
「本当。遅くなったね。すごい、天気荒れて来たし。雨の臭いのする風だから、もすぐ降り出すかもしれないね。雲もヤバそうな感じだし」
セルシアは、空を見上げる。
「みたいだね。遠雷も聞えて来たし、ゴロゴロピッカーって、来ないうちに戻れるといいんだけど」
バンガローへと続く、森の中の遊歩道を急ぎ足で歩いて行く。両側の森の奥は、すっかり闇に消えていた。点々とある、街灯の灯りが、月光の消えた今には、ありがたく思えた。森の茂みの奥では、虫達に代わってカエル達の大合唱が響いていた。バンガロー郡が見え始める頃になると、遠雷は近づいて来て、すぐ近くで雷の音がする。低く重い音が、空気を震わすのが肌を通して感じとれる。
「あ、光ったよ」
ルミが、西の空を指した。
「これは、もう来るよね」
セルシアが言った時だった、凄まじい雷の音が、夜の森に響き渡った。
「うわっ」
セルシアとルミが、自分達のバンガローの軒下まで来た時、雨が降り始め、頭上で雷が鳴り響き、稲妻が空を走っていった。
「なんとか、降り始める前に戻れたね」
と、セルシア。
「そうだね。やれやれだよ」
ルミは言うと、冷蔵庫を開けて、ジュースのボトルを出して、グラスへと注ぐ。その時だった、眩い光と共に大きな雷の音がした。大きな音は空気を震わせ、バンガローやテーブルの上に置いていたジュースまでも、震わせるほどだった。
「凄い。耳痛いし、身体がビリビリするね。何処か近くに落ちたのかなぁ」
ジュースを飲みながら、ルミは窓の外を見つめる。雨は、音を立てて降り始め、大粒の雨は強い風と共に、バンガローに叩きつけられていた。
「本当、いい間に帰れたね。凄い降っているよ」
セルシアも、窓辺へと来て、夜の闇の向こうから打ち付けてくる、雨と風を見つめる。
「真上で、雷が鳴っているみたいだね。光たびに、凄い音するし。なんだか凄いよね。雷とか含めて、自然なんだよね。ここに降る雨も、酸性雨なのかなぁ」
ルミは、窓の外を見つめる。
「どうかな。空と海と一緒で、繋がっているから、汚染の度合いは変わっても、ここに古雨も、酸性雨には違いないよ。虚しい事だけどね」
「ふ~ん。そうかぁー」
ルミは呟いて、カーテンを閉じた。
相変わらず、雨風は激しくて雷と稲妻は続いていた。遠ざかったり近づいたりを繰り返しながら。カーテンの隙間から、稲妻の光が零れて、部屋の中を掠めてゆく。
「まだ、ゴロゴロピカピカしているね」
布団を頭まで被ったルミは、言う。
「そうだね。もう、夏も終ってしまうね。名残惜しいよ。ここ、人材集めしているんだったら、私、ここへ来たいな」
セルシアは、天井を見つめて呟いた。
夜半を過ぎると、嵐は去り、再び晴れた夜空が戻って来た。満月の光は、降った雨の粒までも、照らして輝かせている。虫達も鳴き始めていた。西へと傾きかけた満月が、また湖の水面に綺麗に映し出されていた。
「森の清々しい香りと、月光に誘われて来てみたが、どうしてだ? ここには、何故か、ナディアと似た気配が、感じられる。むしろ、ナディアその者の気配が……」
湖の真ん中の宙に、立つ様に浮いた影は、呟いた。
「ナディア。君は、ここにいるのか?」
その呟きは、折からの風に消えて行く。
荒涼とした大地が、広がっていた。空は、重くどんよりとした雲に覆われていた。半ば枯れ掛けた大樹の立つ丘から、見渡せる景色は、すべてが焼き尽くされたかの様で、余りにも淋しく、朽果てている。吹いている風は、鼻につく嫌な臭いを含んでいて、気分が悪くなりそうだった。 ああ、これは夢だ。また何時もの様に、前世の記憶を夢としてみているのかな? セルシアは、そう思いながら辺りを見回した。見回した景色は、どれも荒れ果てて、灰色や黒色の世界となっていた。
「どうしてしまったの? 美しく、生命に溢れていた森は、澄み渡っていた青空は? 何処へいってしまったの。世界は、どうなっているの。まるで、これだと、戦争の後みたいだよ」
丘から見渡せてた景色が、余りにも変わってしまっていることに、ショックを受けてしまう。
「本当に、世界で戦争が起こって、世界が壊れてしまったの?」
これらが、全て夢であることは、分っている。だけど、セルシアは、その夢の中の荒れ果て焼き尽くされてしまった世界の景色が、途方もなく悲しかった。
「これは、この世界の近い未来なのかもしれない」
愕然としながらも、何かを探すかのように、辺りを歩いてみる。すると、荒涼とした大地の中に、ポツンと佇んでいる人影を見つけた。その人影が、はっきりと、セルシアにも見えた。瞳に映った、その姿には、見覚えがあった。愛しき人。
「また、逢えたね。ラーストゥクル」
例え様のない想いと、懐かしい想い出が込みあがってきて、胸が熱くなってしまった。
「ああ、逢いたかったよ。私は、ずっと探し続けていたんだ。再び君に、ナディアにめぐり逢うために」
白く輝く姿では無く、漆黒の闇色であった。だけど、それは、ラーストゥクル本人に違いは無かった。セルシアは、ただ、懐かしい人を、愛しい人を見つめていた。ラーストゥクルもまた、見つめて優しく微笑んでいた。
「ああ、前世で私は、ナディアと呼ばれていたんだ。前世の私の名前」
夢の中での再会。私の名前ではなく、前世の名前で呼ばれたことが、現世のセルシアにとっては、ちょっぴり悲しかった。そう呟くと、セルシアは目が覚めてしまった。
カーテン越しに、朝の日差しが差し込んで来ている。
「昨夜の、あの湖の宙に浮いていた人影は、やっぱり、ラーストゥクルだったのかなぁ」
ふぅと、起き上がって、カーテンを開いた。外は、夜中の嵐が嘘の様に、青い空が広がっていて、眩しい膝氏が溢れていた。空は、高く澄み渡っている。
「もう、秋の始まりだね」
窓を開くと、雨上がりの朝の、爽やかな風が吹き込んでくる。セルシアは、大きく欠伸をした。
―きっと、あれは前世の世界よ。いくら、戦争だらけの現代でも、あそこまで、破壊さてしまう事は無いよ。人間は、そこまで愚かじゃないよね。再会の夢、何かに関係しているのかな。探しつづけていた、お互いの再会。夢は、前世の記憶なのかなぁ。
セルシアは、窓から空を見つめた。ボーっと考えていると、
「おはよー。セルシア。いい天気だね」
ルミも、起き上がってくる。
「うん。おはよう。風が凄い、爽やかだよ。気持ちのいい朝だね」
セルシアは振り返って、窓辺へと来る、ルミに答えた。
「早いね。う~ん、涼しいね。夜中過ぎ位まで、雨降っていたみたいだね。まだ、雨雫が残っているよ」
ルミは、樹木や草の葉に残っている、雨雫を差した。
「宝石みたいと、詠った、詩人がいたけれど、本当に、朝日を受けて輝く露は、宝石みたいだね」
と、セルシアは、窓から外を見つめる。
「寝不足? 何だか、疲れているように、見えるけれど。昨日は、よく歩き回ったから、疲れちゃっている?」
「いいや。そうじゃないけど。また、夢よ。夢を見たの。やっぱり、前世と関係しているのかなぁ」
晴れ渡った空を見上げて、セルシアは呟く。
「何時もの夢? どんな、夢見たの? 新しいパターンだったの?」
ルミは、相変わらずだった。
「今、見た夢は、再会をする夢だったんだけど……」
セルシアは、顔を曇らせた。
「え、今までは、別れの夢だったのに? 今回は、再会する夢だったの。それだったら、もしかすると、再会できるのかもしれないって、事かもしれないよ。予知夢って事かも」
「う~ん。でも、再会は出来た夢なんだけど、再会を果たした世界は、凄く荒涼とした世界なの。まるで、全てが焼き尽くされてしまった跡のように。戦後の焼け野原みたいな世界だったよ。私は、再会できた事より、その様な世界の方が、気になっているの」
窓枠にもたれるようにして、セルシアは空を見つめ続ける。
「前世の記憶なのかもしれないし、来世の予兆なのかもしれない。焼け果てた世界かぁ。予知のひとつ。何時か、大きな戦争が起きてしまう。まぁ、今の世なの中だったら、ありえない話じゃあないけど。何か、他にはなかったの?」
「たぶん。前世の私の名前だと思うんだけど、ラーストゥクルは、私の事を、ナディアと呼んでいたよ」
「前世の名前を呼んだ。現世の名前じゃあなくて。う~ん。相手も、さあ、前世の記憶しか夢の中では、持って無いんじゃあないの? セルシアが、前世の夢を見るように、相手も前世の名前は覚えていても、現世にての名前は知らない。それと、同じ事かもしれないよ。夢同士が、シンクロしているのかもしれない。遠く離れているけれど、お互いの想いが夢を通じて、逢えているって感じで」
コーヒーを入れながら、ルミは言う。
「どこか、私の知らない場所で、ラーストゥクルの生まれ変りの人が、いるってことで、その人も同じ様に、前世の夢を見ているって事よね? それで、私達は夢を通じて、夢の中でお互い、再会した。そういう事なのかなぁ。だけど、ラーストゥクルの姿は、闇に堕ちてしまった時のままだったよ」
セルシアは、窓辺を離れて、テーブルにつく。
「だから、前世の記憶に基づいている夢だから、相手の姿や名前は、前世のままなんだよ」
煎れたてのコーヒーを、啜りながら、ルミは、
「やっぱりさぁ、運命とか定めだよ。あるんだよ、きっと。再会は出来るよ。現世で叶うかどうかは、分らないけれど、来世だってあるからさぁ。魂は廻るものだから、再会出来た時、その行き着く先までは、分らないけれどね」
「でも、もし再会出来たとしても、あれは現世じゃあないよ。余りにも、荒れ果ててしまっている世界だった。もし、再会が叶うとしても、それは、今ある、この世界が壊れてしまった後の世界だよ。夢の、あの景色がこの世界の未来で無い事を、祈るしかないよ」
セルシアは言って、窓辺で揺れるカーテンを見つめた。
「なんだか、夢のせいで、どっと疲れちゃったよ」
呟いて、コーヒーを一口飲んだ。
「私は、人間がそこまでバカじゃあないと、思いたいんだよ。今の世界が、ギリギリ状態にあるのは確かだけど、再会するのは、来世の私なのかもしれないけれど。世界は、壊れないでほしいよ」
と、セルシアは、コーヒーを飲み干した。
「あまり、悲観的に考えない方がいいよ。全ては、さだめらている事。絶対的に避けては通れないものがあるし、もし、世界戦争が起こって、世界が滅びてしまうのであるのなら、それは、避けられない事なのかもしれない。ひとつ滅びて、生まれてくる。それは、宇宙や万物の真理なのかもしれないって、何かの本に書いていたよ。真理の本だったかな、万物物理論の本だったかな」
うーんと、思い出すようにして、ルミは言う。
「オカルトは、いいよ。でも、満更そうでないとも云えないものが、あるよね。それが、オカルトなんだろうけろ」
「うん。そう云うものだよ。人間が科学を駆使しても、理解解明出来ない事は、オカルトによって、解けたり、結論付けたり出来るんだよ」
ルミは、うんうんと頷きながら、また、ウンチクを始めた。セルシアは、それに相鎚を打ちながら、夢に見た世界と、現の世界とのことを考えていた。
三 終焉の街
蒸し暑く重い空気と、くすんだ空。その空は、建ち並ぶ高層ビル群のためか、とても狭く低く見えてしまう。溢れる煌びやかな街の灯。雑踏は、絶える事なく、続いている。それらを見下ろすかのような、スカイスクレーパー。その一角にある、カフェテリア。
「いいなぁ。まだ、この国にも、そのような場所が残されているんだね。私も、行きたかったなぁ。でも、大会あったからな」
都市を一望できる、総ガラス張りのカフェテリアの、窓際の席に陣取って、何時ものように、時間を過ごしている。
「本当、すごく綺麗だったよ。なんていうのかな、清々しいって感じ。空気がさわやかだったよ。マーリ、また何時か、皆で行こうよ」
ルミが、写真を見せて、色々と話をする。
彼方の空を、旅客機が往来しているのが見える。霞んだ大都市の向こうには、最近オープンした空港がある。
「どこか遠い所を、旅してみたいなぁ」
セルシアは、カレーライスを食べる手を止めて、空を見つめた。
「テロとか色々あるのに、皆よく、海外旅行するよねー」
マーリが、テーブルに戻って来て言う。
「別にいいのじゃないの? テロに遭うのも、事故とかに遭うのも、人其々に決められている、運命の道筋だから、運がいいとか悪いとかと、同じだよ」
ルミは言って、残っていた、クラブサンドを全部、口に入れた。
「まぁ、そうなんだけどさぁ。でも、私も、何処か行ってみたいな」
マーリも、窓の外を飛んで行く、旅客機を見て言った。
「もう、九月なのに、かなり暑いよね。やっぱり、あの自然公園のある処の方が良いよ。エアコンなくても、涼しいし。空気も空も、綺麗だったから」
テーブルの上に並べている、写真の一枚、湖を映しているものを、手に取り言う。
「綺麗に写っているよね。満月と湖に映っている満月。すごい、ロマンチックな夜だったんだ。いいな、でも、こういう処は、やっぱり、カップル二人っきりで、行くべきだよ。あ、でも、彼氏がロマンチストな性格じゃあないと、ダメだね」
セルシアから、写真を受け取り、それを見つめて、マーリはうっとりとして言った。
「やっぱりね」
セルシアとルミは、顔を見合わせて、クスッと笑った。
「ん? どうしたの、二人とも?」
マーリは、不思議そうな顔をして、クスクスと笑っている、セルシアとルミを見て、首を傾げた。
「いや、なんでもないよ。マーリって、相変わらずロマンチストなんだねっと、思ってね~」
ルミは、笑いを堪えて言った。
「うん。そうだよ。ルミの言うと通りだよ。まあ、品の無い男よりかは、甘々ロマンチストの男の方が、マシかもね」
と、セルシアは、言うと、また、カレーライスを食べ始めた。
「へんなの」
と、マーリは呟き、何杯目かの、アイスコーヒーを、注ぎに席を立った。
残暑は、何時になく、長く厳しく続いていた。真夏に比べると幾分マシなのかもしれなかったが、うだるような暑さは、変わる事は無かった。深夜になっても、気温が下がらない日ばっかりだった。寝苦しい夜が続く。もはや、大都市からは、四季が消えてしまったのかもしれない。
世界が燃えていた。立ち尽くして、セルシアは、それを見つめている。立ち昇る炎と煙は、天を舐めていた。炎はまるで、嵐の様に唸っていた。
「ああ、世界は、やっぱり滅ぶのか。人間は、救い様が無いほど、愚かだったんだね。私が、思っている以上に」
涙を流して、セルシアは呟き、燃える空を見上げた。瞬間、世界は暗転してゆく。思わず瞳を閉じた。次に瞳を開くと、そこは、何時も夢に出て来る、丘だった。丘から見渡せれる景色は、荒涼としていた。
「これは、夢だけど。何時か、世界はこんな風景になってしまうのかもしれない。そんな世界になっても、ラーストゥクル、貴方に逢えるの?」
悲しげに呟く。
「また、きっと逢える」
荒涼とした景色を見つめている。セルシアに、何者かが、囁く声が聞えた。
「今の世界は、近いうちに滅びてしまうだろう。だけど、そこから、また創まるものがあるから」
見回してみても、辺りには人影すらない。ただ、焼け焦げた古の大樹が、淋しく立っているのみだった。不思議な懐かしさを感じて、セルシアは、古の大樹を見上げる。
「……生まれ変ってゆく世界。そこで、きっと、巡り逢えるから。文明の終焉を嘆いてはいけないことだよ」
「森の主?」
セルシアは、古の大樹に問う。
「ああ。魂だけは、何処にいても繋がっているものだな。ナディアの魂の転生体、現世での、そなたの名前は、何と申す」
森の主が、問う。
「私の名前は、セルシア」
セルシアが答え、名を告げると、森の主は、
「セルシア。きっと何時か、思い出すことであろう。ラーストゥクルの事を、君とラーストゥクルが、過ごした時を。そこにあるものを、越える事が出来たならば、きっと……」
森の主の言った、言葉の最後は上手く聞き取る事は、出来なかった。セルシアが、最後のところを、尋ねようとした時、彼方の空を、幾つもの光の帯が走っていった。眩い光が炸裂したかのように、真っ白い視界に包まれた。
ビックとして、セルシアは目を覚ました。タイマーセットしていた、エアコンが止っていて、セルシアは汗だくだった。
「ふぅ。暑さのせいか、夢見が良くなかったような気がするよ。ニュースとかのせいもあるのかな。前世の記憶の夢。それが、現世の夢となってきているの? そして、来世への夢? 焼き尽くされた世界。どうして、森の主は、今の世界が滅ぶと、言ったのだろう。どうして、一度滅びた世界が、生まれ変った時、再び、ラーストゥクルと巡り逢えると、言っていたのかなぁ。あの時、聞き取る事の出来なかった、森の主の言っていた言葉の先は……なんだったんだろか?」
セルシアは起き上がって、エアコンを入れ、冷やしておいたタオルで、汗を拭きながら考えていた。
「え、森の主? あの、焼け焦げた大木が、森の主。あの豊かだった森にいた、古の大樹は森の主は、この現世に時を越えて、存在しているってことなの? まだ、この世界の何処かで、生きているってことかな、縄文杉のように」
冷蔵庫から、お茶を出してグラスに注ぐと一気に飲み干して、ふぅと、息を吐いた。部屋の中が、冷やされて、暑さが和らいでくる。自分の部屋の、机の上に置いている、かつて、ルミから貰った、パワーストーンのクリスタルを手に取って見つめる。あの時と変わらない、輝きを放っている。
「前世、現世、来世かぁ」
セルシアは、呟く。
あの日、満月の湖で見た人影を思い出しながら、拡大した、満月の映る湖の写真を見る。
「ラーストゥクル、この世界が終った時に、私達は、再び巡り逢うことが出来るの? 夢には、前世の記憶だけではなく、来世の予知でもあるのかなぁ。私は、例え、夢であっても、貴方に、現世の名前で呼んで欲しいし、私も、貴方の事を、現世での名前で呼びたい。今、この世界の何処に、貴方は、いるの?」
写真を見つめる。澄み渡る夜空に、満月が輝いている。その満月は、湖の水面に映し出されている。その場所で見た、愛しい者の影。それは、今思っても、夏の終わり、一夜の幻のようだった。だけど、心のどこかでは、それを幻とは思いたくなかった。あの時、駆け寄って見るべきだった。湖の真ん中、せめて、近くまでに。湖に映っている満月の写真を見るたびに、それを思い後悔してしまう。幻であっても、あの人影の下へ、行ってみるべきだったと。
「前世の記憶を、現世の私が持っているように、来世の私は、この想いとかを記憶として、持っているのかなぁ」
セルシアは、クリスタルを布で磨きながら、写真を見つめていた。
セルシアは、寝付けず、なにげなくテレビをつけた。深夜を過ぎた頃にも関わらず、テレビ番組は、賑やかだった。どこも、くだらないバラエティ番組だったので、セルシアはテレビを消そうとした時だった、ニュース速報の、字幕が画面上を横切ったので、消すのを止めて、それを見た。セルシアは、血の気が引くのを感じた。
国と国、民族と民族の戦争の、調停を務めていた人物が、停戦宣言後に暗殺され、それにより、再び戦争が始まってしまったと、いうものだった。そのニュース速報は、それだけではなかった。その人物が、暗殺されてしまった事で、その人物によって歯止めとなっていた事までが、崩れてしまい、全面戦争の恐れもあると、流れていた。番組が中止となり、その臨時ニュースが報道され始める。セルシアは、色々とチャンネルを換える。どこのチャンネルも、番組を中止して、その調停役を務めていた人物が、暗殺されたニュースと、それに伴う、全面戦争かという話を伝えていた。
「どうして、戦争を止め様としている人が、殺されなければならないの。戦争で、お金儲けしている人が、裏で糸を引いているのかなぁ。正義を語りながら、無益な事を重ねる。力と金を本質とする国が、本当の平和なんてものを、創れる訳無いよ」
セルシアは、暗殺事件と全面戦争か? というニュースを見ながら、深い溜息を吐く。ニュースを見ていると、悲しくなってくる。映し出されているものは、飛び交う光、ミサイル。夜の闇に輝く線を引きながら、閃光を放つ。映像とともに、ニュースキャスターの、緊迫して舌が回らない原稿朗読が続いている。ニュースが報道されている間にも、画面上には、次々と、情報が入ってくるのか、字幕が流れていた。
『……国、新型兵器投入か?』
流れゆく字幕、きっと、最新兵器の為に、それを使用したい為に、己の生命を賭けて調停に動いていた人間を、殺したのだろう。と、セルシアは内心思うと、人間はやっぱり、愚かな生き物だと思えて仕方が無く、とても悲しく虚しかった。
「さっき、見た夢は、予知夢だったの? 森の主の言っていたことも、あの丘から見渡せる景色すらも、これから起こってしまう事を暗示していたの?」
セルシアは、考えていると、震えが止らなくなってしまった。涙が滲んでくる。どうしよう、そう思った時、携帯電話が鳴った。着信音はルミのもの。セルシアは、震える手で電話に出た。
「もしもし、セルシア、起きてた?」
電話の向こうから、慌てたようなルミの声がする。
「うん。ニュース速報の事?」
自分の声が震えているのが、分る。なんだか、上手く喋れない。
「見てた。大変だよ。びっくりだよ。ネットしてたら、入って来てさぁ。全面戦争だって」
「うん。でも、まだ、そうなった訳じゃあないんでしょう?」
セルシアは、ルミと話していても、震えは止らなかった。
「どうしたの、セルシア。また、何か夢でも、見たの? 夏休みに旅行に行った時に、焼け果てた世界の夢を見たって、話していたでしょう? また、そんな夢でも見たの?」
「うん。あの時も、予知かもしれないって、今回も同じ感じの夢だった。だけど、夢の中で、古の大樹、森の主が言うの。“この世界は滅ぶ、文明の終焉”だと。私は、壊れゆく世界を見つめていた」
言葉につまり、上手く喋れないけれど、ルミと話す。涙が出てきて、落ちてゆく。
「……そうかぁ。予知夢だったのかもしれないって、ところだね。セルシア、例え、それが予知であっても、私達には、世界を動かす力なんて無いよ。悲しいけれど、ひとつのサイクルだから、ね」
と、ルミ。
「そのことは、夢の中で、森の主にも言われたこと。“文明の終焉を嘆いてはいけない”と、来世があるんだなぁとは、思ったけど。何とも言えないよね」
ふぅと、セルシアは溜息を吐く。 ニュースは、慌しい、報道センターの様子までも映していた。
「歴史において、毎度の事だよ。あの国が戦争するのは、新型兵器を試したいからなの。私が思うには、あの国が、新型兵器を使ったならば、きっと自国民によるテロが起こるかもしれないよ。それでも、あの国の事だから、結局、使うんだろうね。やっぱり、人間愚かなんだよね」
ルミは、電話の向こうで、ネットをしている。
「それは、私も思うけれど」
と、セルシア。
「今は夜中だし、多分これ以上の情報とか流れないだろうね。朝からは、全てがこの暗殺事件と全面戦争についてのニュースに、なるんだろうね。何処かの専門家とか、出てきてさぁ。この先、起こるかもしれない事を回避出来なかったら、世界そのものを巻き込んでしまう、世界戦争となってしまうかもしれないね。そうなってしまえば、専門家とかの話も意味を持たなくなるよね。この世界には、逃げる場所さえなくなってしまうよ」
と、ルミは続けた。
繰り返し流れる、ニュース報道を見ながら、セルシアは、ルミと話す。
「私が、夢の事を話したから、現実になってしまったのかもしれない」
「セルシア、それは無いよ。私達、世間一般人が知らなかっただけで、きっと国の上部は少なからず知っていたのかもしれないよ」
「そう、だね。夢話さなくても、世界情勢見ていたら、予想は出来た事だよね。朝になったら、世界が消えてしまっていたら、嫌だよね」
力無く笑い、セルシアは言った。
「ははは。直ぐに直ぐ滅びたりはしないでしょう。まぁ、保有している核弾頭全て、放ってしまったら、地球ごと消えてしまうだろうけどね」
空笑いで、ルミが言う。
「森の主が、夢の中で言っていたように、この文明には、滅びが必要なのかもしれないね」
セルシアは、テレビを消した。
「情報は混乱しているみたいだね。ふあ、眠い。じゃあ、いいかな。話の続きは学校でしようよ」
ルミは、欠伸声で言う。
「うん。世界があれば、ね。おやすみ」
「そんな事、言わないでよ。じゃ、また学校で。おやすみ」
電話を切ると、既に三時を回っていた。セルシアは、大きく溜息を吐いて、ベッドに寝転がって、天井を見つめた。
「終焉と、生まれ変ってゆく世界かぁ」
呟いて、瞳を閉じた。
遥かなる天上神界、神皇宮。最高神を始めとした、神々は、地上人間世界について、話合っていた。白く輝く大広間の円卓を囲み、神々は、怒りを通り越し、半ば呆れて落胆していた。
「余りにも、愚かな事ではないか。我等が、導き育てた人間界における、人間の調停者が、全て殺められてしまうとは」
神々は、珍しく、深い溜息ばかり吐いては、首を振る。
「人間世界は、地上はおろか、万物世界そのものが、このままでは、滅びてしまうのではないでしょうか? もう、それを防ぐ手立ては、我々には無い。人間達は、自らその道を絶ってしまったのだから。国々の争いの調停をする者を、殺めてしまった時、既に、辿る道は決まってしまったのだ」
サフィローアは、力なく悲しげに言うと、席を立った。
「如何した、サフィローア」
向かいに座っていた、仙神が問う。
「人間が、愚かであるという事が証明された今、ここでの話し合いはなんてものは、意味が無い。己が欲望と共に、世界を壊し滅びてしまうのも、良かろう。それも、もしかすると、万物における一つのカタチなのかもしれない。それならば、如何する事も出来ぬ。全てが終わり、万物世界が地上世界が、それでもまだ、在り続けているのであるならば、私達は、再び、地上へと向おう。今はただ、人間達の行末を、見届ける事しか出来ないのだ」
淡々と答えて、サフィローアは、円卓の大広間を後にする。サフィローアの言葉に賛同した者は、相次いで席を立ち、大広間を去って行く。残された、最高神と仙神、他の神々は顔を見合わせ、お互い溜息を吐いた。
「もはや、人間世界が滅びるのを、待つしかないな」
最高神は、呟く。
「はい。サフィローアが言っていたように、それも、一つなのかもしれません。滅びなくして再生は、在り得ないものです。万物は、それの繰り返しで、成り立ってきたのですから」
仙神は、最高神に言い。ふぅと、お茶を啜った。
「全ては、進化を極めた人間の行なう事。我々の声は、もう届く事も聞き入れられる事も、無い事ですよ」
仙神は、呟いた。
「ここで、一度滅びてみるのも良いかもしれん。再び、生まれてくる為に」
最高神と仙神、残っている神々達は、頷いて、また深い溜息を吐いた。
流星の如く、幾つもの光が天空を横切ってゆく。至る所で、光が弾ける。弾けた光は、炎の嵐となって、天空を舐める。太陽は、黒煙の彼方に消えてしまい、炎の嵐は、ありとあらゆるものを破壊し、そして放射能は全ての生命を穢していった。沼底様の闇の深淵では、邪神コギュドースが、地上のその様を見て笑っていた。
「我等よりも、ずっと人間共の方が、欲望に忠実だな。その欲望の為に、滅びを望んでいるかのようだ。自らの力を示した挙句に、世界を生命を滅ぼしてしまうとはな。これでは、我等の出る幕すらないではないか。ふふふ、どのみち、我等は在り続ける。そして、再び巡ることとなるだろう。天上の神々もまた」
闇の深淵に、幾つもの笑い声が響いていた。
その日、世界の文明は終焉を迎えた。天までも届きそうだった、高層ビルも、人々の行交う大通りも、賑わう街も、全てが消え去ってしまった。世界の調停者が暗殺された、あの日、崩れかけていた均衡は、遂に崩れてしまったのだった。セルシアの想いも虚しく、瓦礫の世界に消えてしまった。 力と金を正義とする国が放った、新型兵器は、彼等の予想以上に凄まじい威力だった。放たれた国だけでなく、周辺の国々までも巻き込む程の威力だった。その国が、密かに保有していた、核兵器などまでも誘爆させてしまい、それは世界へと広がっていった。それを引き金に、新型兵器を放った国へと向けて、他国はそのスイッチを押した。お互い、スイッチを押し合う。飛び交う光と、炸裂してゆく光、その光は、ありとあらゆるものを飲み込んで焼き尽くしてしまった。それは、地球をも巻き込んで無理心中をするかのようであった。何も知らず知らされる事の無い、多くの人間をも、多くの生命あるものを、奪い去ったのだった。渦巻く炎の嵐と、広がってゆく放射能の気流によって、生命は次々に消えてゆく。
「愚かな事だ。何れ、人間はこの様になってしまうとは、思ってはいたが……」
森の主は、炎に包まれながら、彼方の空を見つめて呟いた。
「ここまで、穢れてしまったのなら、再生はままならないかもしれない。ナディア、いや、セルシア、この世界に再び生命が戻ってこれたなら、君の来世にて、生まれ変る世界で、再び、ラーストゥクルと巡り逢えることが、出来るといいな。その時が来る事を、ここで祈っているよ」
炎に包まれた森の主は、黒煙に覆われた天空へと、想いを翔かせた。
天上神界、神皇宮の円卓の大広間。
「地上は焼き尽くされて、生命あるものの、殆どが死に絶えました。その上、地上には、生き残った生命達には、大いなる穢れが残されてしまいました。それは、未来永劫、生命達は背負っていくことでしょう。例え、地上世界が生命達が、生き続け再生した世界においても」
生命を司る女神は、穏やかな瞳を何時になく悲しげに曇らせていた。
「そうか。分りきってはいたことだったが、未来の生命まで、この時代の人間が犯した大罪によって、その大いなる穢れまでを背負わねばならないとはな」
仙神は、力無く言うと、ふぅと、息を吐くと、円卓に集う者達を見回して、
「他に、何か無いか?」
と、言った。
「……人間は、愚かだ。それなのに、ラーストゥクルは、人間の娘に想いを心を寄せていた。それは、その娘が、穢れの欠片も無く、純粋無垢な心と魂を持っていたからだ。もし、まだ、地上世界の人間の中に、その様な人間がいて、世界と生命達の再生を願っているのならば、私は再び地上にて、万物なるものの均衡と調停を執り行って、再生を促す為に力を尽くそうではないか」
女神サフィローアは、神々達を見つめた。
「しかし、サフィローア。今の地上世界を、どうやって救うというのだ」
太陽の僕、クリサンセマムが眉をひそめて言う。
「太陽の光すらも、覆い尽くす穢れを撒き散らした人間達を、どうやって救うのだ。巻き添えを食らった生命達も。例え、穢れ無き純粋無垢な魂を持った人間がいたとしても、それは、無理があるだろう」
「それでも、私は、構わないさ」
サフィローアは、答える。円卓を囲む者達は、言葉なくサフィローアを見つめた。
「私は、サフィローア様の言う事に賛同いたします」
滋の女神ウィンギュ―ファが、立ち上がって言った。すると、静まり返っていた円卓の大広間に、ざわめきが起こった。
「滋の女神ウィンギュ―ファ。かつて、人間の男に想いを寄せて、地上に降りていたという者か」
「今は、私達には出来る事はないでしょう。ただ、見つめている事しか出来ない。あの大いなる穢れを背負ってしまった人間が、この先、生き続ける事を望み、生きて世界の再生を願うのであるのならば、そして再生が叶ったのならば、古き時の様に、我等と人間が共に在った頃の様な世界に、戻れるかもしれません」
場の雰囲気に、圧されそうになりながらも、ウィンギュ―ファは言った。
「それは、そなたが、かつて、人間の男に想いを抱いていたからか?」
最高神が問う。
「それでは、いけませんか? 私は、神族も人間も心というものは、同じものだと考えています」
その言葉を聞いた神々達の中には、お互いの顔を見合わせて苦笑する者もいた。
「ふふ、そうか。ならば、この先、人間がどのように在り続けて往くのかを、しかと見届け様ではないか。大いなる穢れと大罪の下で、それでも生きて往くのであるならば、地上世界も人間世界も、再生出来るであろう。そうであるならば、かつてのように、我等は、人間との接触を再開しようではないか。地上世界より、生命達より、大いなる穢れが消えた時、人間の大罪をも消える時として」
最高神が言う。万物なるものの彩りを織り込んだ衣を翻して。ざわめいていた、円卓の大広間は静まり返った。
「調停司高神サフィローア。滋の女神ウィンギュ―ファ。そなたらは、再び天上と地上tの間を往来する事とし、再生してゆく世界を支えてゆくのだ。他の者達も、二人の力をなり、再生してゆく世界と人間の行末を見届けるのだ。それでよいな、二人とも、そして皆も」
最高神の言葉に、サフィローアとウィンギュ―ファは頷く。
「はい。仰せのままに。……ありがとうございます」
と、答え。サフィローアとウィンギュ―ファは、顔を見合わせ頷きあった。
幻夢なるまでに、まほろばの神殿は、あらゆるものが透明なる輝きを放っている。これも、透明なる輝きを誇っている玉座。最高神は、そこに座り、側に控えていた仙神に言う。
「今は、我等にとっても、変革の時なのかもしれんな。ラーストゥクル、あれ程の者が、天上の全てを棄て、人間の女を想い、その者の魂までも追い求め続ける事が、その兆候だったのかもしれぬな」
「どうでございましょうか。私には、解りかねますが。ウィンギュ―ファが、申すように、神族も人間も、心は同じ様に在る、我等神族と人間は、相成れず交われない、共にすることすら不可能。それは、存在出来る時間が違うからだとされてきた、それは確かです。でも、心はだけは、そうでは無いと、ウィンギュ―ファは言いたかったのでしょう。我等が、人間を見下してたとも言えるのでしょう。だけど、ラーストゥクルは、人間の娘を想いつづけて、今も地上を探し続けているでは、ありませんか。かつては、その魂を求めるが余り、邪神コギュドースの手を取ったりもしていましたが、それもすでに過去。ウィンギュ―ファが、天上に連れ戻されても、まだ、人間の男を想いつつけていた事、転生先に幸在らんと祈り続けているように。共に過ごせる時が限られていても、お互いの心は永遠なるもの、なのかもしれませんね」
仙神は答えて、長く蓄えている白い顎ひげを、何度も指で梳いていた。
「うむ。今一度、人間という者を、見つめてみるのもよいかもしれぬな。破壊の限りを尽くし焼け果てた大地に、再び築きあげられるものが、あるのかを。大いなる穢れを背負、生命あるものとして、生き続けてゆく事が出来るのかを」
最高神は、虚空に映し出された、地上世界を見つめていた。
第三章リバース
全てが、破壊されていた。黒い天からは、黒雨が降っていて、吹き付ける風は、血の臭いと焼け焦げた腐臭を漂わせていた。カスタトロフィー、文明とされるものは、消えてしまっていた。かつては、天まで届くかのような、高層ビル郡も、今は大地に横たわる瓦礫と化してしまっていた。残され護られていた自然も、美しい森も湖も、撒き散らされた放射能によって、枯れ朽ちてしまっていた。
「ナディア。君が愛していた世界は、この様な死せる世界となってしまった。だけど、今でも君は、このような世界の何処かで、私を探し、待ち続けているのか」
瓦礫の街に立ち尽くし、ラーストゥクルは呟く。頬を涙がつたってゆく。
「必ず、見つける。約束はまだ、果たしてはいないんだ、ナディア」
嫌な風が、吹いてゆく。不気味で、もの悲しい風の唸りだけが、静まり返った世界を渡ってゆく。瓦礫の山を、通り抜ける風は、世界の現状を嘆いているかのように、ラーストゥクルの耳には聞えていた。
「まだ、全ての生命が人間が、息絶えてしまった訳ではまい。まだ何処かで、生きて生き続けているはずだ。この、大いなる穢れと大罪を背負いながら。私は、この先も、探し続けよう、この大地にて」
ラーストゥクルは、幾つもの瓦礫を越えて行く。魂との再会を求めて。
世界が崩壊して、数十年の歳月が流れた。焼き尽くされた筈の大地には、少しづつではあるけれど、緑の小さな生命が芽生えていた。嫌な臭いの風も今はなく、土の臭いの風が、荒涼とした大地や、瓦礫の山を吹き抜けてゆく。死に絶えてしまったと思われていた生命達も、なんとか、その生命の営みを繋いでいた。生き残る事の出来た人達は、世界各地で細々と暮していた。しかし、放射能の汚染は消えることなく、生き残った者から、生まれ来る者へと、呪いの如く纏わりついていて、その生命を貪り続けていた。
荒涼とした大地を、何処までも見渡す事の出来る丘。その丘には、一本の焼け焦げた大樹がたっていて、その丘の麓には小さな集落があった。この地方は、世界の中で最も被害が少なかった場所。しかし、人々は汚染の呪いを受けていて、生まれながらの病を抱く者が多かった。自然界の生命達は、人間達が立ち直るより早くに、回復していたけれど、それでもまだ弱く穢れを背負っていた。人々の生活は、自給自足でなんとか成立ってはいたが、呪われた病だけは、どうする事も出来ないでいた。科学も医療も、失われていたのだった。
「今日は、調子が良いみたいだね」
一人の娘が、部屋に入って来て、ベッドに横たわっている老婆に声をかけた。
「ああ。今日は、天気がいいからね。オセル、何時もすまないね。君だって、呪病を患っているのに。本当に、良くしてくれるよ、ありがとう」
ガリガリに痩せ土気色の肌の老婆は、言う。老婆は、自分の力では起き上がれないほど弱っていた。
「いいよ。私は、たいした事ないから。無理しなければ、大丈夫だよ」
明るく笑い答えると、老婆に食事を食べさせる。
「でも、オセル。無理しているみたいだよ。私達や子供達の面倒まで見てくれる、それって、大変でしょう?」
中年の女性は、ベッドに座り、お茶を啜りながら、オセルに言った。
「他にも、手伝ってくれる人いるし、助け合える事は、合わないとね」
老婆の食事を終えると、オセルは、小さな子供達の方へと行く。
「もとは、私達の時代がいけなかったんだ。いつも、世界の何処かで戦争をしていて、力と金しか、見ていなかったんだ。そんな時代の人間は愚かだったのさ。だから、未来までこの有り様。子供達に何と、謝ればいいのか、分らない」
老婆は、涙する。
小さな建物の一室。呪いの病・呪病の人々は、そこで療養していた。薬も何も無く、多くの人間が死んで行く、崩壊後の世界だった。
「ルミ婆さん、言わないで下さい。皆、分っている事ですよ。オセルも、まだ幼い子供達も、今は、贖罪の時代で在る事を、そのために生かされている事を、ね」
窓辺にもたれていた、オセルと歳の変わらない娘が、涙をながして詫びている老婆、ルミ婆に言った。
「だが、苦しみは、私のような、あの時代の生き残りだけで充分。もう、苦しみつづけるのは」
「あの時代、でも今は、苦しみながらも生きている。人間が生まれるのには、現世においての何らかの、宿命と運命が在るからだと、言っていたのは、ルミ婆さんでしょう?」
咳き込みながら、娘は言った。
「ルサイト。そうは言っても、やはり辛いものは辛かろう。何時か、私達人間は、許される時が来るといいけれど」
「ルミ婆。もうすぐ許される筈ですよ。だって、日々、大地には緑の生命が芽生えてきているし、空気も風も少しずつ、綺麗になっている感じがするもの。空だって昔は、綺麗な色をしていたのでしょう?」
オセルが戻って来て、なだめるように、ルミ婆に言った。
「この世界は、今どのようになっているのだろうか。この辺りは、昔の様に戻りつつあるけれど、かつての様に、遠くの情報が瞬時にして分らないから、他の土地の事がどうなっているのか、他に人間は生きているのかさえ、分らない。ここの土地だけが、今ある全てだ」
荒い息と深い溜息を、繰り返す。
「あれから、何十年過ぎたのだろう。あの日、世界の調停者が暗殺され、全面戦争になるかもと、危惧されていたけれど、それでもなんとか、保たれてはいた。私は、友人と二人で、よく世界の終わりの話とか、前世の話をしていたよ。このまま、全面戦争なんかにはならずに、また次の調停者が国と国を、だけど、やっぱりそれは、無かった。私達、一般人が知らなかっただけ、知らされなかっただけ。学校を卒業して、私がこの街へ来て、暫くすると、全面戦争となってしまった。私は、友人も家族も失ってしまい、独り残された。その様な人は何人もいただろうね。今でも、心残りだよ」
ルミ婆は、天井を見つめていた。涙が落ちて、枕を濡らしていた。
「もしまだ、許されないのであれば、私達はもっと苦しんでいる筈よ。だけど、少なくても、私達はここで生きている。また、何時か、ずっと遠い昔のように、世界は豊かな自然に包まれ、色々な生命が生きてゆける大地に戻る日が来るよ。どこまでも、澄み渡る空とともに」
オセルは、優しく笑い、励ますかのように言った。
「色々な生命達が、生きてゆける大地。何処までも、澄み渡る空。昔、私の友人がよく言っていたことだよ。彼女はセルシアと云って、前世の記憶の夢を観る事の出来る人だったよ」
ルミ婆は、呟く。昔を思い出すかのように。
「前世? それって、今生まれるより前の、人生ってことよね」
と、オセル。
「ああ、そうだよ。セルシアは、前世で死に別れた、愛する者と再会する約束を交わしていた。最後に話してくれた、夢の話は、再会の夢だった。世界が壊れて、再生してゆく世界にて、再び巡り逢えたと、話してくれたよ。今、セルシアの話していた夢は、現実となっている。この荒れ果てた世界の何処かで、セルシアの転生体は、再会の時を迎えているのかもしれないなぁ」
どこか、嬉しそうに、ルミ婆は呟いた。
「へー。前世の記憶の夢かぁ。死に別れた愛する人……」
オセルは、呟く。
「ルミ婆さんは、よく話しているよ。まぁ、それが本当だったら、もう少しすれば、この世界も、生まれ変ってゆくんだろうね」
ふふふと、笑って、窓辺にもたれていたルサイトは、自分のベッドに横になった。
「大丈夫? ルサイト」
オセルが、問う。
「うん。少し疲れただけ。横になっている方が、やっぱり楽だね」
答えて、また咳をする。
「そうだね。そうしている方がいいかもね」
オセルは、ルサイトにお茶を渡していった。
「うん」
苦しそうに答えて、ルサイトはお茶を飲んだ。少しだけ、咳が治まる。
「前世の記憶って、皆持っているの?」
オセルが問う。
「どうかな、やっぱり、人其々だよ。セルシアの場合、得に強かったみたいだったからね。現世において、何らかの事がある、そのための前世の記憶が現世に在るのかもしれないんだよ」
答える、ルミ婆。
「ふ~ん。それって、ラーストゥクルのことみたい」
呟く、オセル。
「え、今何と言った、オセル?」
驚いた様に、ルミ婆は問う。
「え、ラーストゥクルって。最近、夢に出て来る、若い男の人。上手く言えないけれど、ルミ婆の話みたいだったよ」
不思議だな、という顔をして、オセルはルミ婆を見つめた。
「ああ。もしかすると、セルシアの生まれ変りかもしれない」
再び涙をこぼした。枯木の様な腕を、オセルに伸ばした。
「え、そうなの? よく解らないんだけど、そう云うものなの? 前世って。それなら、夢の事とか、解るんだけれど、そういうものなんだ」
オセルは内心戸惑っていた。夢の中、実際の記憶のようでもあったから。ルミ婆の手を取る。
「もうすぐ、再び巡り逢う事が出来るんだね。良かったね、セルシア、いや、オセル。よかったね、セルシア、来世にて、叶うんだったんだね。よかったね……」
オセルを見つめて、何度も呟き微かに笑うと、ルミ婆は、その後に覚めることの無い眠りに就いた。
ルミ婆は、崩壊より前時代の、生き残りの一人だった。多くの生命が死に逝くなかでも、次世代の生命は生まれ来る。しかし、新たなる生命は、早くに死んでしまい、育ってゆく生命は、僅かだった。百人にも達しない小さな集落でも、呪病は生命と共に在り、人々はその呪われた病と共に暮して、生命を伝え継いでいた。例え、呪病を免れた者でも、長くは生きる事の出来ない時代だった。呪病は、常にそこにあったのだった。
雨が降っていた。数ヶ月に一人は、病にて死んで逝く。ルミ婆は、全時代崩壊前の少ない生き残りであり、核汚染を最も大きく受けながらも、生き長らえれていた、その生命を終えたのだった。ルミ婆が亡くなる数日前に聞いた、前世の話と友人の生まれ変わりであるかもしれないという事、その話とよく似ている夢を見ていることが、気に掛っていた。前世の記憶は、セルシアでもあったが、ナディアだった時の記憶方が、より強く在る事を、オセルは気付いていた。ルミ婆に言われてからは、さらに強くなっていた。それは、根拠の無い確信に近かった。
「もうすぐ、再会出来る。本当なのかなぁ」
窓越しに、降る雨を見つめる。最近は、雨は黒い色ではなくて、透明となって来ていた。この時代を生きる者にとって、雨は黒色とされていたが、透明になるに従って、これが本当の雨だったんだと、人々は思った。
「確かに、世界大地には、生命達の気配が芽吹き始めている。もうすぐ、この世界は、再び生まれてくるのかなぁ。新しい世界として」
オセルは、雨で霞んでいる丘を、見つめていた。
「私が、ナディアだった時は、ここは豊かな森だった」
瞳を閉じれば、前世に見ていた景色が広がる。あの頃は、豊かで平穏だった。今のこの世界も、何時かまた、あの頃のような世界になるのだろうか。オセルは、祈りにも似た気持ちで、この世界の未来を望んだ。ここ数ヶ月、体調が思わしくない。呪病が、その触手を伸ばしてきているのが分る。ルミ婆と、同い年のルサイトを、相次いで亡くしてしまったのが、辛く悲しかった。病は大なり小なり、皆抱えている。死期はわかっている、早からず遅からず、回復することなく死んで逝くことが。呪いの病、それが人間に科せられた、贖罪であることも。病は、オセルにも苦しみを与えていた。それは、オセルに限ったことではなかった。ベッドに横になっていると、ナディアで在った頃が、前世の記憶が、とても懐かしくて仕方がなかった。生命溢れる、豊かで平穏な世界が。
少しずつ戻ってきている生命達。かつての様な世界が、この地上に再生される事を、オセルは誰よりも、待ち望んでいた。
「立派だった大樹、生々とした葉を茂らせていた森の主も、焼け焦げた跡が痛々しいよ。人間が愚かだったから、世界はこの様になってしまった。だけど、これは、ひとつのカタチ」
ベッドから、窓の向こうに霞んで見える、森の主を見つめる。
「でも、何故だろう。もうすぐ、貴方に逢えるような気がするよ。ラーストゥクル」
呟くと、少しだけ、身体に生きる気力が沸いてきた。
数日間、降っていた雨が上がると、微かな青空が見え、随分と久しぶりに太陽が、地上を照らしていた。また少しずつ、大地に生命が芽吹いてゆく。うっすらと、緑色に変わってゆく丘を、オセルは見つめていた。世界に生命達が戻るにつれて、呪病は、オセルの身体を蝕んできていた。雨上がりの風が、吹いている。少しだけど、草の香りを含んでいた。オセルは、ベッドから起き上がると、着替えて、部屋を出る。
「オセル姉ちゃん、何処か行くの?」
建物を出ようとしていたところに、子供達が声をかけてきた。
「うん。少し、参歩に」
笑って、答える。
「そうなの。でもなんだか、しんどそうだよ」
子供達は心配そうに、オセルを見上げた。
「大丈夫よ。今日は、調子いいから。それに、ずっと遠い昔、私は、ここで生まれて育った事があるから、懐かしんだぁ」
オセルの言った言葉の意味を、理解出来ず、不思議そうに首を傾げた。子供達はそれ以上問う事はなく、出て行くオセルを見送った。 瓦礫の中から、使えそうな物を、集めて造られた家や、先時代の建物が残っている物を、利用して居住を造っている。畑と呼ぶには、余りにも粗末だったが、少しばかりの作物を作ることが出来ていたので、ここは食料に困る事はなかった。かつて、古の時代には、最も豊かだった森があった土地。今は、その面影すらも無く、荒涼とした大地が続いた。だけど、その大地にも、新しい生命が芽吹き始めていた。
集落を出て、少し歩けば丘に至る。なだらかな丘を登れば、景色を一望できる。オセルは、息を切らしながら、時折眩暈に襲われながらも、丘の上を目指した。丘の上に立つ、焼け焦げた跡の残る大樹、森の主の下を。
「今、森の主の下へ行かなければならない」
オセルの中に存在している、何かが告げている、それが、オセルの背を押していた。
丘を登る。何度か来た事がある。あの頃は、さほど身体は悪くなかったので、ずっと楽に登る事が出来たけれど、今は辛く苦しかった。足が、ふらついているのが分る。
「はぁ、やっぱり、日々に悪くなってきているよ。げほっ」
咳をすると、血が混じっていた。
「いかに、人間が愚かであっても、その贖罪だとしても、苦しく辛いよ。もう、あまり生きられないけれど、私は、まだ、死ねないのよ」
口元に付いた血を拭うと、オセルは自分自身を奮いたたせて、また歩き始めた。丘の上の、焼け焦げた跡が残る森の主が、見えて来る。今でも、太くがっちりとした幹と、天まで届きそうな姿だけは、留めている。オセルは休み休み、丘を登った。ふと、森の主の陰に佇む人影が、オセルの視界に入った。
「誰だろう。今日は、天気がいいから、誰か来ているのかな」
呟きながら、オセルは、森の主の下へと来た。呼吸が整うのを待って、もう一度、その人影を見る。丁度、森の主の枝の影になっていて、誰だか顔は、わからない。だけど、オセルの胸は、疼く程高鳴っていた。
「ラーストゥクル?」
オセルは、思わず、そう言ってしまった。自分でも、その事に驚いてしまった。その声に、驚いたのか、人影は一瞬、ビックとする。そして、ゆっくりと振り返り、森の主の陰から、その姿を現して、
「ナディア?」
オセルを見て、呟いたのは、漆黒の闇色をした青年だった。オセルは、じっと見つめる。青年もまた、オセルの事を見つめる。
「ら、ラーストゥクルでしょう? やっと、逢えたね」
懐かしそうに微笑み、オセルは言った。深い森の色にも似た瞳と髪。瞳に宿っている無垢な輝きは、あの時のまま。まるで、ナディアの生き映しの様だった。ラーストゥクルは、言葉を失ってしまった。熱いものが、込上げてくる。
「あ、ああ。君は、ナディアの……」
懐かしそうに自分を見つめて、微笑んでいる娘は、自分の名前を呼んでいる。ラーストゥクルの瞳から、涙が零れ落ちた。
「私は、オセル。現世での名前よ」
「オセル……。ナディアの魂の転生体。君は、私の事を、知っているのかい? 憶えていくれたのかい?」
ラーストゥクルは震える声で、オセルに問う。
「なんて、いうのかなぁ。もう、何度も夢の中で、貴方と逢っているから。前世、ナディアだった時の記憶を、私は、夢として見ていたの、ずっと遠い昔、世界にはまだ、あらゆる生命達が息づいて、豊かで平穏だった頃、ここは、美しい豊かな森だった時に、ここは、美しく豊かな森だった頃に、この森の主の処で、私達は出逢ったよね」
オセルは言って、黒く焼け焦げた跡が生々しく残っている、森の主を見上げた。
「ああ、そうだね。こうして、再び巡り逢えるとは……」
ラーストゥクルは、愛しそうにオセルを見つめる。
「こんな姿になってしまった私を、それでも、見つけてくれたんだね」
風が、漆黒の闇色の長髪を揺らす。
「ラーストゥクルは、ラーストゥクルだよ。私の為に、貴方に、邪悪の手を取らせてしまった事も、全て、前世の私、セルシアという名の少女だった時に、夢で見たの。その時は、凄く悲しかった。だけど、少しうれしかったな。そこまでして、私の事を想っていてくれているんだって事が。確かに、悲しかったんだけれどね」
オセルは言うと、息を吐いて、森の主の根元に腰を降ろした。
「前世、セルシアだった時に、その時、多分、来世の夢を見たの。再会する夢だったよ」
腰を降ろしたまま、ラーストゥクルを見上げていると、ラーストゥクルは、オセルの隣に座る。
「そうか。君は、夢の中、夢を通じて、私を探していてくれたんだね」
微笑み、オセルに言った。
「あ、そうなるのかなぁ。森の主も出て来ていたよ。そして、最後に見た夢が、崩壊してゆく世界。世界が終ってしまった後に、再会している夢だった。そんな夢だったから、嬉しいのか悲しいのか、分らなかった。だけど、予知夢は現実のものとなって、世界は壊れてしまった。ここから見渡せる、荒涼とした世界は、夢と同じ。そして、ここで再会する事も、夢で見ていたんだよ」
オセルは、複雑な顔で、ラーストゥクルを見つめる。
「生まれ変る世界で、再会出来る。夢の中で、森の主が言っていたの。それは、今ここで、叶っているよね」
オセルは、ラーストゥクルを見つめる。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「ああ。ようやく、約束を果たす事が出来たよ。ナディア、いや、オセル」
ラーストゥクルは、ギュッと、オセルを抱きしめた。
「ずっと、待っていたんだよ、ラーストゥクル」
呟いて、オセルは、ラーストゥクルの胸の中で、泣き続けた。
穏やかな風が、開け放った窓から吹き込んできている。ラーストゥクルとの、運命の再会を果たして以来、オセルの病は、一気に進行してきていた。まるで、再会を果たすまでの間は、病が進行を止めていたかの様であった。
「大丈夫かい、オセル」
付きっきりで、ラーストゥクルは、オセルの看病をしていた。直ぐそこに、死という別れが在る事は、すでに知っている。もう長くはないということも。ここで、オセルと過ごせる時間は、あと僅かだということも。
「うん。少しはいいみたい。ねぇ、世界の事、話して欲しいな」
ベッドに横になったまま。オセルは、側に座っていた、ラーストゥクルに言った。
「ああ、いいよ。私が、見てきた限りのことだけど。……あの日、世界が焼き尽くされてから、世界は地獄と化してしまった。このまま、全ての生命が死に絶えて、消えてしまうのではと思う程に。だけど、生きる事を諦めなかった者や、生き続ける事を望んだ者達は、その地獄から立ち直ろうと、這い上がって来たんだ。苦しみながらも、彼等は世界の再生を望み願った。愚かな人間だけでは、無かったんだ。もう、随分と人間は、頑張ってきた。ようやく今の世界まで、辿り着いたんだ。世界は、広いよ。私は、色々と世界を見て北から、少しは人間の事を理解出来たと思う。この様な集落は、世界のあちらこちらに、あったよ。どこの集落の人間も、呪いの病と穢れを背負っていた。だけど、皆、輝いて見えた。あれが、生命の輝きだというものだと、思ったよ。焼け果てた大地にも、少しずつ生命が、生まれてきているよ」
オセルを気遣う様にして、ラーストゥクルは語った。あまり、疲れさせてはいけないと、考えて。
「そうなの? ここだけでは、なかったんだね。生き残っていた人間達が、暮しているのは。他の処は、どうたったの? 人がたくさん、住んでいたりして、動物や森とかもあるの?」
オセルの問いに、ラーストゥクルは、
「何処も、似たようなものだよ」
と、答えた。
「そうなんだ。この世界に残されていたのは、私達だけでは、なかったんだね。だったら、また何時か、世界は生命に溢れて賑やかになるんだね」
微かに笑って、オセルは呟いた。
「ああ、何時か、世界は再び生まれ変って、ゆくことになるよ」
「その時には、きっと、私達に架せられた呪いの病も癒されて、贖罪を終れるのかなぁ。この先、生まれてくる生命が、清らかであると、いいよね」
身体全体で、荒い呼吸を繰り返しながら、言って、オセルは身体を起こす。ラーストゥクルに、支えてもらわなければ、もう自力で身体を起こしていることさえ、ままならない程、オセルの身体は弱りきっていた。やつれてしまった顔からは、生気が失われていた。だけど、瞳に秘められている、無垢で穢れの無い輝きは、今でも残されていた。
開け放たれた窓からは、丘の上の森の主が見える。
「その日が来たのならば、また、森の主の頂から、世界を見つめよう」
ラーストゥクルは言って、優しくオセルを抱きしめる。
「そうだね。何時か、その日が来たらまた、あの頃の様な、豊かで美しい森となったのなら、また一緒に行きたいね。白く輝く小さな花を咲かせる、森の主の下へ」
オセルは、ラーストゥクルの胸に顔を埋めた。抱きしめると、日々に痩せ衰えてゆくのが、分る。そのことが、ラーストゥクルは、辛く悲しかった。そして、邪悪の手を取ってしまった時から、見えてしまうようになった、死。オセルの死が、生命の期限が迫り来ることが、堪らなく悲しかった。
季節が巡り始める。季節を失っていた世界に、再び四季が戻り来た。数年ぶりの雪。人々は、その冬を耐え忍んだ。雪の冬の中、呪病で亡くなる者が多かったけれど、雪が消える頃になると、新しい生命も生まれて来た。 やがて、吹く風の向きが変わり、穏やかな風が吹き始めた。オセルは、なんとか冬を越していた。眠っている時間の方が多かったけれど、何時もラーストゥクルが側にいて、オセルを気遣い励ましていた。そのことは、オセルにとって、何よりも嬉しい事だった。それは、ナディアであった頃よりも、ずっと。近づく死、別れの影で。
「ありがとう、ラーストゥクル」
オセルは、ベッドに横たわったまま、ラーストゥクルの手を握った。
「私の方こそ」
ラーストゥクルは、その手を優しく握り返す。
「再び、君と巡り逢えたことを、あの時の約束を果たせた事を、私は嬉しく想うよ」
ラーストゥクルの言葉に、オセルは無邪気に笑う。
「神族である貴方は、その座を棄ててまで、私の事を想い続けてくれた。私は、貴方を探す術を持っていなかったけれど、魂の記憶、前世の想いが、蘇った時から、貴方を求めていた……。そして、ここで、巡り逢うことが出来た。本当に、ありがとう、ラーストゥクル……」
細い腕を伸ばし、ラーストゥクルの頬に触れる。その腕から、力が抜けてゆく。
「オセル?」
崩れ落ちてゆく腕を握り、ラーストゥクルは、オセルの名を呼び続けた。それは、叫びに近かった。溢れる大粒の涙が、オセルの青白くなってゆく頬の上に、幾つも落ちてゆく。オセルは、その声に答える事も、再び瞳を開く事もなかった。
森の主の処へと、埋葬して欲しいという、オセルの願いで、亡骸は集落の墓地ではなく、丘の上、森の主の処に葬られた。
「ナディアの転生体は、ここへと還りつくさだめだったのだね。ナディアの器は、既に土へと還っている。オセルの器が、土へと還る頃には、世界が再生していると、よいなぁ」
今でも、多くの生命が、呪いの病を背負うように、オセルも、それによって生命を奪われた。この先も、まだ人間はソレを背負ってゆくのだろうか。ラーストゥクルは、その事を思いながら、丘の上から、穏やかな曲線が織り成している、天空と大地の狭間を見つめていた。うっすらと緑に覆われた、瓦礫の群の彼方を。
ここは、一番初めに、ナディアと出逢った場所。だけど、あの豊かで美しい森は、今は無く、黒く焼け焦げた肌を残した、古の大樹が淋しく立っているだけだった。
「愚かな人間。だけども、それだけでは、なかったから、こうして世界は再生しつつあるのじゃな。ラーストゥクル殿、この先は、如何なさられるのじゃ? もはや、愛する者の魂すら存在しない。探し求める者も、還る場所さえも、無いでしょうに?」
森の主は目を覚まして、丘に佇んでいる、ラーストゥクルに語り掛けた。
「そなたが、心配するような事ではないさ。すでに、天上神界を出た時、邪神の手を取った時、この手を汚してしまった時から、天上神界を棄て去った。それ以前から、棄てていたんだ。それも、既に過去の事。それに始から、天上神界に戻るつもりは、無かったさ」
淋しそうに笑って、ラーストゥクルは答えた。
「あの女神、調停司高神サフィローア様は、悲しむであろうな」
「サフィローアの想いは、知っていたさ。でも、違うんだ」
ラーストゥクルは、天空を見上げた。
「神族は、永遠に近い時間を存在出来る。だけど、地上の生命達は人間には、短く限りがある。それに、あの無垢なる魂の輝きを映した瞳が、何よりも、代え難かった。故に、はかなく、愛しく想えたのだよ」
「だけど、その人間。まして、魂さえも無い。あの魂は、輪廻を終えて昇華してしまったのだからな。もう、神族であっても、何者であっても、手の届かぬ処へとね」
ラーストゥクルの背後で、聞き覚えのある声がする。
「サフィローア」
振り返り、言う。
「知っているさ。今際の際に、昇華してゆく魂が見えた。止めることも留めておくことも、出来なかった、さ」
ラーストゥクルは、悲しみを露わにする。そんな、ラーストゥクルに、
「戻らないか? 天上に」
サフィローアは、愛しき者を見つめて言った。持ち続けていた想いを込めて。気が強く、男神顔負けの強さを誇る女神は。ずっと自分の想いを告げられずにいた。何時か、人間の娘など諦めて、自分の隣に戻って来てくれると、思っていた。だけど、それは叶わなかった。視線すらも、合わせることは無かった。ラーストゥクルは、その言葉にチラリと、サフィローアの顔を見る。それでも、視線は合わすことは無かった。沈黙が続く。
微かに春の香を含んだ風が、芽吹いたばかりの草を揺らしていた。ラーストゥクルの漆黒の闇色の髪を、サフィローアの輝く白銀の髪を、なびかせる。二人の影は、重なる事は無かった。
「戻りはしない。私は、天上神界を棄てた。魂を求める為に、邪神の手をも借りた。そして、大罪を重ねて罪に穢れた身だ。この姿が、其れを示しているだろう」
サフィローアに背を向けて、答える。
「だけど、こんな変わり果てた姿を、彼女は、オセルは見つけてくれた。それは、真実だ。私は、自分の選び信じた道を歩いただけだ。例え、天上の神族が何と言おうとも、私は間違っていたとは、思わない」
「ラーストゥクル。貴方を責めている訳でも、人間の娘を責めているつもりもない。今なら、今なら再び、天上へと戻れるから」
サフィローアは、ラーストゥクルの正面へと、胸元へと回り込んで言った。その行動に、ラーストゥクルは、一瞬たじろいでしまった。今まで、自分の想いを曝け出すことなど、なかったから。
「すまない、サフィローア。もう、いいんだ。もう」
そっと、女神の手を返すと、ラーストゥクルは、丘の前方へと歩いてゆく。
「どうして? 最高神は、お許しになられたのよ」
涙を浮かべて、サフィローアは問い詰めた。
「わからない、だけど、もう、いいのだよ」
ラーストゥクルの答えに、サフィローアは涙をこぼした。
「その様な、解らない事を言わないで。また、あの穏やかで美しい、天上の庭園で過ごしましょうよ」
想うべき相手に、懇願する。美しさなら他の女神達よりも、ずっと称えられている。他の男神達に見初められ求められる事も、多かった。だけど、サフィローアの心を占めていたのは、生まれた時より共にあった、ラーストゥクルのみであった。ラーストゥクルが、人間の娘を想い愛し続けたように。
「サフィローアには、私より、相応しい男神がいる。司高神である君に、堕ちてしまった私など、相応しくない。私が、想い愛する者は、ナディア、オセル、その魂だ。だから、もう、私の事は放っておいてくれ。君をはじめ、天上の神族も、もう、忘れてくれ」
振り返る事もなく答えると、ラーストゥクルは、静かに丘を去って往く。
「もう、その魂すら存在しないのよ。解っているの? ラーストゥクル」
去り往く、ラーストゥクルに、サフィローアは声の限り叫んだ。すると、ラーストゥクルは、立ち止まり、
「再び、ここで、彼女と巡り逢えたのだから、もう、いいんだ。以前みたいに魂を狩る事も、その様な真似もしない。もう、本当に、良かったんだ。もう……」
ラーストゥクルは、天空を仰ぎ、呟くと、そのまま立去って往く。
世界は少しずつ、生命の輝きを取り戻していた。小鳥達が、囀りながら、空を舞っている。
「サフィローア様、もう、よいではありませんか」
慈の女神ウィンギュ―ファが、丘に降立ち、涙を流しているサフィローアに、言った。かつて、人間の男に心寄せていた女神は、優しく諭すように接する。報われない想いが、どれほど悲しく辛いものかを、識者として。
「だけど、私の想いは・・・・・・」
サフィローアは、ウィンギュ―ファの言葉に思わず泣き崩れてしまった。ウィンギュ―ファは、そっと、サフィローアの肩を抱いた。
「戻りましょう、サフィローア様。再生してゆく世界の為に、万物の調停を取り行いう為に」
ウィンギュ―ファは、励ますかのように言う。
「それが、よろしいでしょう。サフィローア様」
森の主は、その言葉を後押しするかのように言った。
「ラーストゥクル殿は、きっと、未来永劫、地上人間世界を彷徨い続けるつもりでしょう。それは、何れ来る、万物の終焉までも」
と。
「もしも、そうであるのならば、私も万物の終焉なる時には、地上へと降りよう。私の心のラーストゥクルへの想いが、変わらぬモノだとするのならば、もう一度、私は、ラーストゥクルに逢い、想いを告げよう」
涙を拭き顔を上げて、森の主に言った。
「よろしいのですか? 調停司高神であられる、貴女様は、他の高位神と神産を、新たなる髪を産み出さなければならないでように」
と、森の主。
「神産と、ラーストゥクルへの想いは、関係ない。例え、この想う心が相手となる男神へと、変わったとしても、万物の終焉には、ラーストゥクルに逢うさ」
何時もの、強気のサフィローアに戻っていた。
「そうですか。まぁ、それもよろしかろう。では、万物の終焉には、この場所で、お逢いになられるがよろしいでしょう」
ふっ、と笑って、森の主は言った。
「そうだな。それもいいかもしれんな」
微笑み、サフィローアは、手にしていた錫杖をかざした。
「少しばかりの、心づくしだ、森の主」
かざされた錫杖から、小さな光の雫が幾つも流れ出して、黒く焼け焦げた森の主を包み込んだ。
「おお」
すると、古の大樹に、青々とした葉が戻り、焼け焦げていた幹も、綺麗に癒えていた。田樹は、生々と輝き始めた。
「もう数百年もすれば、ここはかつてのような森となるだろう。何故だか、殊のほか、ここの土地の生命力は強いようだからな。……万物の終焉、きっと、ラーストゥクルはここへと来る、そして、私も、また」
サフィローアは、丘から見渡せる景色を見つめる。まだ、荒涼とした大地が目立つ。瓦礫と前時代の名残がある。その大地にも、薄っすらと淡い緑のベールが覆い始めていた。黒雲に覆われていた天空に、青い空と太陽が顔を出している。地平線が見える、瓦礫の彼方に、天空と大地の堺が何処までも広がっていた。
「その時まで、しばしの別れだ。ラーストゥクル」
呟いた、サフィローアの背中に純白に輝く翼が広がる。
「戻るか。ウィンギュ―ファ、天上へ」
ウィンギュ―ファも、彼方を見つめていたが、サフィローアの言葉に頷いて、白い翼を広げた。二人の女神は、天空へ更にその先へと、翔いて往く。
「先ほどの事は、秘密にしておいてくれ」
サフィローアは、顔を赤くして、ぶっきらぼうに言った。
「はい」
クスっと笑って、ウィンギュ―ファは答えた。
遥か遠い大地より、天上へと戻ってゆく二人の女神を見つめる、ラーストゥクル。
「ナディアであり、セルシアであり、オセルであった、ひとつの魂。その魂が、愛していた世界。それを何時までも、私は見つめていこう」
その呟きは、折からの風に掻き消された。
古の大樹は、生まれ変りゆく世界を見つめていた。豊かで美しい森へと、なりながら。静かな森には、優しい風と花の香が流れていた。白く輝く小さな花と共に。
青く澄み渡った天空へと、花びらは舞い上がってゆく。まるで、生まれ変った世界を祝福しているかのようであった。
生まれ変った世界を、白銀の青年が流離っていた。彼は、地上世界に残った、最初で最後の神であった。
了