第9話 何で一橋家!?
ある日、慶喜は父、斉昭に呼ばれた。
斉昭「お前には、一橋家に養子に行ってもらうことにした。」
いきなりそんなことを言われても、イマイチピンと来なかった。
何で、一橋家!?
慶喜「お待ちください。なにゆえそれがしが、一橋家に養子になど行かねばならないのです?」
そりゃそうだろうな。いきなりそんなことを言われて、ただちに納得できる者などは、いない。
斉昭「実は今、一橋家には嫡男としてふさわしいお子がおられぬのだ。
将軍職を継いだ家定もあの有り様。
かといって、もはや紀州にも、尾張にも、その器たる嫡男はおられぬ。」
家定は病弱で、万が一のことが無いとはいえない。
その万が一の事があった時のために、御三家の尾張、紀州、水戸、あるいは御三卿と呼ばれる一橋、田安、清水のいずれかの家から次期将軍を迎えるというのが、家康公の時代からの習わしだった。
その中でも、一橋家は御三卿の筆頭。対して水戸徳川家は、御三家の中では尾張や紀州から比べると、末席という扱われ方だった。
以前は館林藩主となっていた綱吉が5代将軍として迎えられたこともあった。
また、その次の6代将軍となった綱豊改め家宣は、甲府徳川家の綱重の嫡男であり、次期将軍争いに勝利して、6代将軍として迎えられた。
もしかしたら家定に万が一の事があり、またも次期将軍争いが起こるやもしれぬ、その時に備えて、次期将軍候補にふさわしい資質を身につけさせること、それが斉昭の狙いといえた。
またそれと同時に、御三卿筆頭の一橋家ということになれば、当然のことながら、それだけの箔が付くということになる、それもまた斉昭の狙いだったと、推察される。
こうして慶喜は、否も応もなく、一橋家の養子に入り、一橋慶喜と名乗ることになったのだった。
「ようこそ、一橋家へ。」
一橋家の者たちは、実に快く、慶喜を出迎えてくれた。
おまけに、贅の限りを尽くした豪華な食事まで振る舞われた。
「おお!これは!うまい!うまい!実にうまいぞ!」
それから、あっという間に1年が過ぎて、
翌年の西暦1854年、アメリカのペリーの黒船が、またやってきた。
しかも今度は7隻も、黒船がやってきた。
幕府は前回の老中、阿部正弘とともに、やはり老中の、堀田正睦を交渉役として差し向けたが、
司令長官ペリーはアメリカとの交易を強硬に迫った。
幕府はついにその要求に屈し、日米和親条約の締結へとつながった。