属領になどならぬ!
徳川慶喜はついに15代将軍になった。
真っ先に出迎えたのが、フランス公使のロッシュであった。
慶喜「ロッシュ公使!」
ロッシュ「これはこれは、慶喜さん、ついに慶喜さんが将軍になりましたね。」
そこで、欧米列強が日本を属領にしようとしているという噂が市中で流布しているということを話した。
慶喜「ロッシュ公使、我が国はいかなる国の属領にも、なるつもりは毛頭ございません。」
ロッシュ「すると、慶喜さん、あなたの国日本と我がフランスが、対等な関係でのお付き合いをしたいと。」
フランスと対等になれるだけの国力と民度を確保できるという見込みがあると悟ったのだろう。
とりわけ『民度』ね。
じゃなきゃ日本なんかに目をつけんわ。
松平時男「いやいや、突然こんなことを言い出してすみません。
そもそも『民度』という言葉の定義自体が曖昧で、たとえば、『民度』の高い者が『民度』の低い者をバカにするというようなこともあり、
『民度』という言葉だけが一人歩きしているといいますかねえ。
まずはそういうところから叩き込んでいこうというのが、慶喜公の考えでもあるんですよ。
まあかくいう自分=松平時男もまた、『虎の威を借る狐』ということに、なりましょうが…。」
公教育の充実は必須。子供だけでなく、年齢ばかり上になってるような大人も、もう一回学校行って出直してこい!
実際そういう大人どももいるよな、お互いに悪口の応酬ばかりの、もうたくさんだ、もううんざりだ。
最近は『ネット』という、幕末の時代から見ると約150年ほど後の時代の、
『文明の利器』として発明されたはずが、不健全社会の温床のようになってしまっている、
その頃からかな、
『民度が低い』とか、
『悪口の応酬』とか、
『昔の日本人はもっとまともだった』
つまり江戸時代以前とかの日本人と比べてという意味のようだ。
いつからだろう、そんなふうに言われるようになったのは…。
これはこっちの話として…。
そういう大人たちのための『社会人学校』も設立したいという。
あと、フリースクールとかも充実させたいという考えもあったが、それすら行きたくないという場合はどうするか、さすがにそこまでは考えが及ばなかったな…。
以上、ここまでは慶喜=現代人の松平時男の考えたことを、フランス公使のロッシュに伝えたという話。
こちらは京都御所の中。
朝廷側の代表者は、岩倉具視。
睦仁親王=後の明治天皇の後見人となっていた岩倉具視。
イギリス側の代表者は、パークス公使。
岩倉具視「パークス公使、我が日本は、貴国の属領になるつもりなど毛頭無いということを、あらかじめ伝えておきまする。」
パークス「あなたさまが日本国の代表者なのですかな?岩倉どの。」
岩倉具視「いやいや、私めは、こちらの睦仁親王の後見人。
日本国の次期国王となられるお方の、私めは後見人にございまする。」
パークス「では、日本国はイギリスと対等な関係での交易をしたいと、そういうことですかな?」
岩倉具視「さよう、そういうことにございまする。」
日本から見れば別にイギリスでも、フランスでも、どこの国でもよかったんだけどね…。
ただ時流がそういう時流だから、その時流に合わせたまでだ。
『超党派連合政府』と合わせて、実はさらにもう1つの提案もあった。
これも松平時男が勝手に持ち込んだものだ。
それは、『分割統治案』。
考え方の一致する者同士で別々に国をつくり、分割統治するという案だ。
佐幕派は佐幕派で国をつくり、対して倒幕派は倒幕派で佐幕派とはまた別に国をつくり、それぞれ分割統治するという案だ。
そして両国の境目には、国境の壁を建設し、お互いに行き来するにはパスポートが必要になるという。
考え方の相違、そのたびに壁を建設していたら、いくら壁を建設しても足りないし、費用も足りない。
物理的にそれは不可能なことになる。
もしも徳川慶喜が戊辰戦争に勝っていたら、
150年後の日本は今よりも良くなっていたのか、それはわからない。
ただ、どんな結果になろうとも、とにかくこのIF(イフ=もしも)シナリオを試してみたかった。
それが、現代人の松平時男が、徳川慶喜に帰依した、本当の目的だったのだ。
『昔の日本人はもっとまともだった』
このようなことがネットの掲示板に書かれてあった。
実は、いつかその昔の日本人の実像を見てみたいという思いもあった。
そして本当にそうなった。当時の日本人たちの実像を目の当たりにした。
『今の時代は幕末の江戸幕府よりもグダグダだ』
これもネットの掲示板に実際に書かれてあったこと。どこの掲示板だったかまでは覚えていない。
14代将軍、家茂の葬儀も済ませ、家茂の位牌は歴代の徳川将軍の位牌とともにまつられた。
その歴代の徳川将軍の位牌、一番大きな真ん中にある位牌が、徳川幕府の祖である、家康公の位牌である。
脇をかためるように、他の歴代将軍の位牌が安置してある。
こうして1866年、慶応2年も過ぎていった…。
時はついに1867年、慶応3年を迎えていた…。




