第6話 慶喜のこれまでの歩みを振り返る(3) 海外の情勢
日本は実は鎖国をしてはいなかったというが、ここからは作者なりの解釈。
当時はオランダ、清国、朝鮮とは長崎の平戸で交易を行っていた。
その時点で、『完全には』鎖国をしていなかったという解釈になる。
ただし、それ以外の国々との交易は行っていなかった。
外国からの情報は、オランダから、幕府の一部のお偉いさん、長崎奉行などのごく限られた人々に伝えられ、それ以外の一般庶民には、詳細を伝えられてはいなかった。
1844年、オランダ国王からの親書が届く。
「親愛なる日本国王へ。今後はぜひ、オランダ以外との国々との交易を行っていただきたい。」
それでもなお、幕府は方針を決めかねていた。
慶喜の父、斉昭も江戸に登城し、陳情を行っていた。
「アヘン戦争で清国がイギリスに負けた時のことを、よもやお忘れではないか?
この時イギリス軍は蒸気軍船を使用していた。
また、清軍の大砲は敵の軍艦まで届かなかったのに、イギリス軍の大砲は、楽々都市の真ん中まで届いたという。
この際、我が国はイギリスなどとも交易を開始するべきではないか?」
しかしそれでも陳情はなかなか受け入れられなかった。
一般庶民の中には閉塞感が渦巻いていた。
天保の改革の失敗もあり、どうせ誰が将軍や老中になっても庶民の生活は変わらない、といった閉塞感。
そんな中で、庶民に人気があったのは、北町奉行から南町奉行となっていた、遠山金四郎、名奉行遠山の金さんとして名高い人物だ。
天保から弘化に元号が変わった頃、江戸は大火に見舞われる。
江戸はほとんど焼け野原になってしまったが、この時の遠山金四郎の尽力により、わずか1年余りで復興を遂げる。
松平時男「遠山金四郎、時代劇で見たことあるが、まさかこちらの時代に来て、その実物にお目にかかることになろうとは…。
いや、それにしてもさすがは名奉行遠山の金さんだ。見事な手腕だ。」
そんな中、松平時男=若君の松平七郎麻呂は、父、斉昭に連れられて、江戸城に登城する。
12代将軍、家慶に謁見する。これが12代将軍と15代将軍との、初の顔合わせとなった。
家慶「斉昭公、こたびは七男となる男子を連れてこられたな。」
斉昭「ははーっ、これなるは、松平七郎麻呂にございます。」
家慶「うむ。では松平七郎麻呂とやら、そなたに名を与える。
この家慶の『慶』の字に『喜ぶ』と書いて『慶喜』とする。
松平七郎麻呂、本日よりそなたは、『慶喜』と名乗るがよい。」
七郎麻呂「ははーっ。ありがたきしあわせ。」
武士の習わしとして、成人したり出世したりすると、主君の片諱をとって、新たに名前を授かるというものがある。
その習わしの通りに『慶喜』という名前を授かった。これが、徳川慶喜の『慶喜』という名前の由来の話である。
その一方で、フランスでは1848年にまたもや革命が起こり、国王ルイ・フィリップが追放され、
ここにフランスではついに王政が廃止され、大統領制となる。
しかしその後、ナポレオン3世という、ナポレオン・ボナパルトの甥にあたるという人物が、新たにフランスの皇帝に即位し、またもやナポレオンの帝政になるという経緯があった。
そして、フランスと並ぶもう1つの大統領の国、アメリカが、この後浦賀沖にペリーの艦隊を派遣してきたことから、いよいよ幕末の歴史は動き始めるというもの。
フランスでは既に新聞が読まれていた。ナポレオン3世の即位も、新聞で伝えられていた。