山内容堂と坂本龍馬と岡田以蔵と武市半平太と、土佐藩の事情
時は、西暦1863年になっていた。
この年、イギリスでは、イングランドのサッカープレミアリーグの前身となるリーグが誕生した。
ここは南国、土佐藩。
土佐の高知の播磨屋橋で、という歌でも有名なところ。
もともとは長宗我部家が治めていたところで、戦国時代には四国全土を支配下に治めていた。
長宗我部元親が当主だった時代は、まさに最盛期といえた。
やがて元親の後を継いだのは、盛親だ。
羽柴秀吉の弟、小一郎によって1ヶ月余りで平定されるが、その後は豊臣家の重臣として貢献してきた。
関ヶ原の合戦で敗れた後に、土佐は山内家の領地となり、長宗我部家は改易となり、
その後長宗我部は、大阪夏の陣の時も豊臣方につき、
大阪城落城の際に、豊臣方の武将たちが軒並み討ち死にする中で、
なおも逃げ延び、再起を図ろうとしていたが、あえなく捕らえられ、
一族郎党、斬首の刑に処せられ、長宗我部家は断絶したという。
それからまもなく、それまでの長宗我部家の家臣は郷士と呼ばれるようになり、
新たに入ってきた山内家の家臣は、上士と呼ばれ、上士が郷士を支配下に置く、という体制になる。
その支配体制が長らく続いてきた。
坂本龍馬は、その郷士の出身。
郷士が上士に虐げられているのを、見るに見かねていたことだろう。
一方の、山内容堂はというと、代々土佐藩主として支配する側の山内家の現当主。
表向き、敵対しているように見えながら実は…。
「遅いぞ龍馬!この容堂に逐一報告をせよ。」
「殿、この龍馬は亀山社中を設立し、武器、弾薬などの取引を行いたいのでございますが、いかがでしょう。」
実は坂本龍馬は山内容堂の遣わした密偵であり、容堂の命令により動き回り、諸国を転々としていたとしたなら…。
「わしは土佐藩のいなか大名で終わるつもりなど毛頭ない。
慶喜様が政権を取り、新体制に移行した暁には、この容堂をしかるべき役職、地位に就かせてくださることであろう。
今はそのために、坂本龍馬を利用しておるだけのことだ。」
いろんな人物たちの思惑、野心が渦巻いているのが、幕末の時代。
その人物の立場によってもいろんな見方がある…。
土佐藩出身の『人斬り以蔵』こと、岡田以蔵は、もともとは郷士、つまり上士に虐げられる側の身分であった。
虐げられた恨みを晴らすという名目で、国元の土佐において、上士であり、山内容堂の重臣であった吉田東洋を暗殺し、そのまま脱藩し、逃げ失せた。
その後も京の都などで、天誅と称して、人斬りを繰り返していた。
「この以蔵を捕まえられるなら捕まえてみろ。
殺せるものなら殺してみろ。皆、この刀にて斬り捨ててやる。」
一方で、土佐の国元では、武市半平太らが率いる、『土佐勤王党』の動きが活発となり、容堂らを悩ませていた。
容堂は次第に、土佐勤王党の弾圧に明け暮れるようになる。
そしてそれを、後藤象二郎らに命ずる。
なお、後藤象二郎の義理の叔父は、岡田以蔵によって暗殺された吉田東洋である。
次はいよいよ、あの事件の当事者たちだ…。




