長州の動き もしも吉田松陰が生きていたとしたら
ここは長州へと向かう道。一人の男が行き倒れになっていた。
そして、気がついたその男の名は…。
「はっ!?ここはどこだ…?
この道は見覚えがある、もしや、黄泉の国、いや、黄泉の国へと通じる道か…。」
この男こそ、吉田松陰。
しかし、吉田松陰は確か、安政の大獄において、井伊直弼の命令により首をはねられ、処刑されたはず…。
「その首も、しっかり胴体についている、これはいったい…。」
処刑されて死んだはずなのに、なぜかこの場所にいる。
松陰は頬をつねってみた。
「…痛い…。ということは、まさか、俺はこの世に再び甦ったというのか!?
しかし、なぜ…。もしや、誰かが俺を甦らせたとでもいうのか…!?
だとしたらいったい、誰がそのような力を…。」
松陰は今だに自分の身に何が起こったのか、実感がわかなかった。
しかし、自分は確かに、一度処刑された後、再びこの世に甦った。
「なぜ…?何のために…?
待てよ…?俺には今一度、この世にて成し遂げなければならないことがある、それゆえに…?」
そして、その道をまっすぐ歩くと、松陰の生まれ育った家があった。
「松陰様!?松陰様ではありませんか!?
もしやとは思いましたが、生きておられたのですね!?」
松下村塾の門下生たちがいた。
「兄上!兄上!」
妹の杉文も、松陰を出迎えた。
松下村塾に吉田松陰が戻ってきた!という知らせは、たちまち長州藩の隅々まで広まった。
毛利家が治める長州もまた、薩摩と同様、西国の大大名で、関ヶ原の合戦では石田三成率いる西軍についた。
関ヶ原の合戦で敗れた後、改易こそ免れたものの、外様大名という扱いを受け、長らく苦汁をなめさせられ続けてきた。
倒幕を決意したのは、実はそのような背景もあったといわれる。
まもなく松下村塾の塾生たちが集う。その中には、後の初代総理大臣となる伊藤博文の若き日の姿もあった。
当時は伊藤俊輔と名乗っていたという、伊藤博文。
『博文』という名前は、明治維新以降に用いるようになった名前だという。
この『俊輔』という名前は、吉田松陰の本名である『俊英』から一字をとり『俊輔』と名乗るようになったという。
また、『春輔』とも名乗り、場面に応じて使い分けていたともいう。
その伊藤俊輔から、吉田松陰に対して忠告があった。
「松陰様、お気をつけなされませ。
幕府は力が衰えたとはいっても、まだまだその威光は失われてはおりません。
中でも、此度、将軍後見職に就任した、徳川慶喜は、底知れぬ力を秘めているとも言われます。
放っておけば、幕府は慶喜の力添えによって、かつての権威を取り戻すまでに至り、そしていずれは我らの前に立ちはだかることになりましょう。」
「俊輔、俊輔よ、そなたらはまさか、幕府と戦をし、ゆくゆくは幕府を倒すつもりではあるまいな。」
「いずれは幕府に代わる政治体制を築き、西洋に対抗できるような国づくりを行いたいと…。」
「要するに、旧態依然の幕府を倒しにいくということだな。」
吉田松陰の妹の杉文も、一連の話の内容を聞いていた。そして彼女もまた、兄たちのこの考えに賛同していた。
「兄上!この文も、兄上たちの大義のため、微力ながら尽力してまいります!
フレー!フレー!兄上!」
「文…。」
なお、慶喜はその時、吉田松陰が実は生きているということに関しては、まだ知らなかった。
その時、慶喜は落日を眺めていた。落日は、あたかも約260年間続いてきた、徳川幕府そのもののようでもあった。