第2話 慶喜、明治の鉄道の旅
徳川慶喜は江戸無血開城の後、徳川の領地を保証するという約束を反故にされ、静岡の70万石の領地へと転封されるという処分を受け、徳川家に所縁のある駿府へと移り住み、そこで田畑や、茶畑などを耕しながら、気ままな隠居生活を始めていた。
この世界では歳月は驚くほどに早く過ぎる。それはいつの時代も変わらない。
西暦1872年、明治5年。
明るく治める、いや治まるめい【明】と表現された明治の時代も、はや5年目。
元土佐藩主、山内容堂の葬儀に参列した帰りの慶喜。
久々に足を踏み入れた、東京と名を変えた江戸の町は、大きく様変わりしていた。
「わしは幕府を守れなかったと、言い残しておった…。」
失意のうちに逝去した、山内容堂のことを思っていた慶喜。
そんな中、新橋~横浜間に鉄道が開通したという情報を聞いた慶喜。
「鉄道か、そのような乗り物が開通したのだな。
これぞまさに文明開化の象徴というもの。」
この時は東京の別邸を仮の住まいとしていた。
そしてその別邸から、鉄道に乗るために、まずは新橋駅に向かうことにした。
蟄居謹慎中の身であった慶喜は、
外出する時は、正体が慶喜だとバレないような扮装で、常に出歩いていた。
「もしかして、先の将軍様、徳川慶喜様なのでは?」
「いやいや、私は慶喜じゃないよ。
ただの一般人だよ。」
どうにかごまかしながら、やり過ごした。
いや本当に、幕府の将軍という肩書きが無くなったら、ただの一般人と同じだよ、と思った。
人力車に乗る。この時代は西洋の馬車とともに、人力車が走るようになっていた。
「新橋駅まで。」
「まいど。」
慶喜は鉄道の車両や駅の写真を撮ることが目的だった。
既に旗本屋敷や諸藩の大名の藩邸などは取り壊され、かわって西洋風の建物が立ち並び、
人々はちょんまげを切り、自由な髪型にすることもまた、1つの楽しみとなっていた。
ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする
という言葉も生まれたが、鉄道の走る音こそ、まさにその文明開化の音だった。
新橋駅の駅舎の写真を撮る慶喜。
駅のホームは、たった今から走り始めることになった鉄道に乗車する人々で、ごった返していた。
続いて到着した列車の写真を撮る。
すると、隣の乗客が話しかけてきた。
「あなた、ずいぶんと写真を撮るのがうまいですね。」
「いやいや、それほどでも…。」
「ところであなた、どこのどういうご身分のお方なのでしょう?」
「いやいや、そんなたいそうな身分の者ではありませんよ。
誰かとの見間違いでは?あるいは他人の空似というやつですかな?」
ここも、どうにかやり過ごしたが、もしも万が一、ここで慶喜だということがバレてしまったら、それこそ大変なことになってしまうと思ったからだ。
ここでもまた、自分が慶喜だとバレないように、お忍びでの旅ということで隠し通そうとする。
引き続き、何枚も列車の写真を撮った。
そして電車は走る。これが、日本で最初に鉄道が走った瞬間だった。
「おお!早い!なんという早さだ!」
一同、初めて乗る鉄道のその早さに驚きを隠せないでいた。
とはいっても、後の世の鉄道から比べれば、それほどの速度ではなかったのだが。
目指す目的地はもちろん、終点の横浜だ。
新橋から横浜への鉄道の旅をする慶喜。
「あのお方、見たところかなり高貴な身分のお方では、それもとびっきり高貴な身分の。
例えば、元の将軍様とか…。」
「ええっ!?もしかして、元の将軍様っていったら、徳川慶喜様とか!?」
「しっ!声が大きいぞ、だいたい元の将軍様は、現在蟄居謹慎中の身。
こんな、外なんか出歩くはずがない。」
他の乗客たちの噂話を聞きながら、ここはどうにか、バレないで済んだ。
「大変長らくのご乗車、まことにありがとうございました。
間もなく、終点の横浜となります。」
車内アナウンス。この時代から、定番だ。
そして横浜駅に到着した。
「横浜ー!横浜ー!」
横浜に到着した慶喜。さて何をしようかと考える。
「そうだ、せっかく西洋人の居留地に到着したのだから、西洋人たちが、どんな食事をしているか、どんな娯楽にいそしんでいるか、見てみるだけの価値はあるな。」
横浜には既に洋館が立ち並ぶ。まるで西洋の町に来たみたいだった。
幕府の将軍、武士の棟梁としての勤めを行ってきた慶喜にとっても、それは初めて見る光景だった。
「あくまでも忍び旅だが、いよいよ正体がバレた時は、まあ、仕方あるまい。」
それにしても、町の中はどこもかしこも西洋人だらけだ。
アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、それから、ロシアとか、あるいは、ドイツやイタリアからも、来ているか…?
しかしやはり一番多いのは、アメリカ人とイギリス人のようだ。
オランダ語はオランダ人しか通じないようなので、アメリカ人、イギリス人には共に英語で話すことに。
アメリカもイギリスも英語の国なのだが、アメリカの英語とイギリスの英語では、また多少違いがあるようだ。
「ハロー!」
慶喜は声をかけてみる。が、やはり西洋人たちの話している内容はイマイチ理解できない。
そして、西洋人のよく行くレストランに、慶喜は入る。
「いらっしゃいませ。私日本語ペラペラです。」
日本語のわかる西洋人の店員が、注文を聞きに来る。どうやらここはサンドイッチの店らしい。
「サンドイッチですね。」
「それでは、サンドイッチをいただこう。」
「サンドイッチといいましても、いろんな種類がありますが、何か?」
「それでは、ハムサンドに、野菜サンド、ツナサンドをいただこう。」
ここでも元将軍だとは気づかれない慶喜。
そして注文のサンドイッチが来た。西洋人が食べるものは、日本人が食べるものと比べるとサイズが大きい。
「これが西洋人のサイズか。」
慶喜はさっそく口にした。周りはやはり西洋人が多く、会話の内容をうかがい知ることはできない。
「うまい!西洋人はこのようなものを日々食しておるのか!」
そして次は、ビスケットが来た。西洋の『せんべい』だという。
日本にもせんべいというのはあるが、西洋のせんべいであるビスケットは、とても甘い味がする。
西洋の文化は何もかもが初体験だった。
そしてそれは同時に、幕末の政争に明け暮れ、疲弊していた慶喜の心をも癒してくれていた。
そこに、旧幕臣の者たちが慶喜の近くの席にやってきた。
「しかし、五箇条の御誓文が制定されたといっても、一般の人々の生活は変わりませんな。
明治新政府は欧米に追い付け追い越せとばかりに様々な政策を打ち出しておりますが、
我らのような旧幕臣や、不平士族と呼ばれる者たちの中には、明治新政府の政策に失望し、旧幕府の時代を、懐かしむような者たちもいる。」
「四民平等で平民も名字を名乗ることができるようになり、
さらには廃刀令によって帯刀の特権もなくなり、もともと下級武士だった士族の中には、不平士族となり反乱を企てる者たちも、ちらほら。」
いろいろと話をしていたが、慶喜はひととおり食事を終えると、店をあとにした。
このサンドイッチのレストランに来ているのは、主にイギリス人のようだ。
慶喜はサンドイッチを食べ終えると、外に出てみた。
すると、また別のレストランがある。そこにもやはり、外国人たちが食事をしながら談笑していた。
イギリス人と同じような紳士服やドレスなどを着ていて一見イギリス人のようにも見えたが、よく見てみると、食べているものが多少異なるようだ。
「もし、そなたたちの食している、それは何かな?」
「ああ、見たところ日本人の高貴なお方のようだけど、
こっちはハンバーガーといって、バンズというパンに、パティと呼ばれるハンバーグと、あとは、チーズやピクルスなどのお好みの食材をはさんで食べるんだ。
それと、こっちはドーナツというんだ。
これはオールドファッションという種類のドーナツだ。」
アメリカ人というのはなぜか、ハンバーガーやドーナツのようなものを、よく食べると聞いていたが、見たところどうやら本当の話のようだ。
そんなわけでさっそく、慶喜もハンバーガーとドーナツを注文して食べることにした。
「うまい!これはうまいぞ!世の中にこんなにうまい食べ物があるとはな!
なんという絶妙な組み合わせなんだ!このハンバーガーというのと、ドーナツというのは!」
初めてハンバーガーとドーナツを食べた慶喜は、いたく感激した。
さてそろそろ屋敷に帰るとしよう。
慶喜は再び、横浜駅から列車に乗り、新橋駅まで乗っていく。
「これが鉄道という乗り物か。実に便利な乗り物だな。
これは、鉄道に乗ること自体を趣味とする者たちが現れるやもしれぬ。
今はまだ新橋から横浜までしか走っておらぬが、早く全国どこでも、日本中のありとあらゆるところで鉄道が走るような世が来ぬものかのう。」
そう思いながら鉄道に乗っていくと、あっという間に新橋駅に到着する。
新橋駅からは、またまた人力車。
せっかくだからここいらで寄り道でもしていこうと考えた慶喜だった。
「どちらに立ち寄っていかれますか?」
「そうだな…。」
立ち寄った先は、料理屋が集う一角。
古くから料理屋が集い、相撲の番付のように料理屋の番付が作られ、その料理屋番付の常連に入るような店が軒を連ねる一角。
このあたりはまだ、江戸の名残りがあり、洋館が次第に建ち並ぶようになる中で、江戸期からの和風の家が多い。
そんな中で、江戸前寿司の屋台が並んでいる一角を見つけた慶喜。
当時、江戸前寿司は屋台で食べるのが主流だったという。
慶喜はその中の一軒に立ち寄る。
ついさっき、横浜でサンドイッチと、ハンバーガーと、ドーナツを食べたばかりなのに…。
「へい!らっしゃい!」
威勢のいい掛け声が、江戸前寿司の職人の特徴。
江戸前寿司にはどんなものがあるかな…。
隣の客が声をかけてくる。この屋台の常連らしい。
「おや?あんたこのあたりじゃ、見かけない顔だね。
どこかの高貴なお方かな?」
「…さようだが。」
「やっぱりね、おいらにはすぐわかったよ。
いかにもどこかの藩のお殿様、いや今じゃ元お殿様といった感じの身なりで。
しかしそれにしても、こんな高貴なご身分のお方が、わざわざおいらたち庶民の食べ物を食べに来るなんて。
ちなみにお偉いさんは、猫舌だというのは本当らしいな。」
「いやいや、今や蟄居、謹慎の身でして。
殿様の時はいつも毒味役が毒味をしてから持って来るから、いつも冷めた料理ばかり持って来るのだよ。
だから、殿様とかのお偉いさんは猫舌だということらしい。」
何があるか、さっそく注文してみよう。
ウニ、甘エビ、大エビ、イカ、イクラの軍艦巻きというのもある。
ニシンの卵の、カズノコとか、卵焼きの寿司もあるし、
しかしなんといっても、サーモン、マグロ、中トロ、大トロかな。
のり巻きは、かんぴょう巻き、かっぱ巻き、それから…。
「いや、いろいろと注文しておりますな。」
そこに現れたのは、後に日本の郵便の父と呼ばれるようになる、前島密だった。
前島密「慶喜殿。私は日本に郵便というものを広めたくてね。
郵便というのはもともとお偉いさんが使っていたらしいです。日本にも飛脚というものがありましたが、西洋の郵便の制度を取り入れれば、手紙のやりとりも活発になりますぞ。
例えば、恋文とか…。」
慶喜「恋文?」
前島密「それは後ほどゆっくり話すとして、
まずはこれなる切手というものをご覧あれ。」
それこそ、明治初期の切手というものであった。
前島密「ほいほい、後の世には、このような切手を収集することを趣味とする者たちが、現れるやもしれないな…。」
これ以上この人の話を聞いていると、話が長くなるばかりだと思った慶喜は、こっそりその場を離れた。
そうだ、恋文といえば…。
そこで偶然にも、あの2人を見かける。
いや、こんな偶然があろうか。あれは明らかに、篤姫と和宮ではないか。
慶喜が、この2人に全く恋心などいだいていなかったかと言われれば、もしかしたら、嘘になるかもしれない。
「篤姫…、和宮…。」
慶喜が初めて、篤姫に出会ったのは江戸城。
13代将軍、家定の御台所として迎えられた篤姫。
本当は西郷隆盛や小松帯刀らも、篤姫に恋心をいだいていたというに、
ただ単に13代の将軍という肩書きが無ければ何の取り柄もないような、あのような者のところに、嫁がされることになろうとは…。
結局は世継ぎもできないまま家定は死に、次の14代将軍となったのは、家茂だった。
その家茂のところに嫁いできたのが、和宮だった。
篤姫といい、和宮といい、その美しさには慶喜も、心ひかれた。
そのことを家臣に話したこともあったが、
「けしからんことですよ。
いかに慶喜様といえど、篤姫様は先々代の上様、家定様の御台所、
また、和宮様は、先代の上様、家茂様の御台所に、ございまするぞ。」
それはわかっている。
そんなことは言われなくてもわかっている!
されど、それでも、この恋心をおさえることは、容易ではない。
それからまもなく、家茂も死に、慶喜が15代将軍となり、大政奉還を行った、という成り行きだ。
慶喜はふと、これまで歩んできた道のりを思い出した。
そしてこれを後の世に残すために、執筆活動を行うことにした。
それと同時に、水戸藩2代藩主、光圀公の時代から編纂を続けている、
『大日本史』の編纂も、並行して行っていくということを、改めて決意した慶喜だった。
慶喜「しかし、この『大日本史』の編纂というのは、いったいいつになったら終わるのだろうな。」
そう心の中で思いながら、慶喜は『大日本史』の編纂の様子を、少し手伝いながらも、見届けていた。