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児童文学

コモン趣味

作者: 空見タイガ

 しんしんと冷え込む夜から朝に掛けて、ページに換算して一万ページほどの新しい趣味が積もった。もちろんそれは人々の処理能力に追いつかない数で、不必要なものと必要なものを自動的に分けることも限界に近づいていた。結局のところ、何が大切で何が大切でないかは個人の経歴によるもので、共通のロジックを持った機械にその分別が理解できるわけがなかった。そうはいっても無作為に抽出するといった方法は好ましくない。趣味に限りがなくとも人間の命には限りがある。粗雑なものを慈しむのは、人生の最適化に相応しくなかった。何よりも素晴らしく、時間に対する効果の大きいものだけを摂取しなければならない。現代ではどれだけ効率的に何かを得ることができたのか、それが人間の指標になる。僕はそういう仕事をしていた。そういう仕事というのは、つまるところ、価値のあるものを人々に供給する仕事だ。

 寝るのは損だということで人々が不健康な夜更かしを始めたために、僕たちは二人一組になって一日を半分ずつ片づけることになっていた。虫の鳴き声が綺麗だと言って相方が夜を好んだので、僕はお日様の出ている時間帯に人工の眩しすぎる照明の下、防波堤となるカウンターを挟んで人々の波を眺めていた。

 布をぶら下げて出来た仕切りの向こう側で、大きなくしゃみと非難の声が聞こえた。同僚が客に対して唾を掛けてしまったらしい。布の仕切りを揺らして同僚の腕がこちらに伸びてきた。何かを掴もうと必死にもがく同僚の手に僕のハンカチを掴ませると、そのまま腕はまた引っ込んで、布の仕切りは揺らぎながらも次第に平静を取り戻していった。「あのう」声の方を向いた。大人しそうな顔をした女性が、僕の顔を上目で見つめておそるおそるといったように唇を震わせていた。「私は何をしたらよいのでしょうか」

 常に最良を選択し続けることを誰も「義務」とは呼ばなかった。しかし誰もが薄々ながら、選択の余地がないということは義務と同じではないかと、空ろな目で互いの様子を窺っていた。僕は一万ページ/日を五十の一に縮小した、最終的に二百ページにもなる本日の最新を持ち上げて——それは本の形をしていた。ぱらぱらとめくる音を立てて、最新を追ったが、その数があまりにも多すぎ、ぎゅうぎゅうと小さく詰め込まれているために何も読めなかった――そのまま本をカウンターの上に置いて、肘をついた。

「羊の綿毛を編んで耳に飾ることが、現在で最も良い趣味になりますね」

「羊の綿毛を?」

 僕が頷くと彼女は眉間にしわを寄せてぐっとこちらの表情を探った。しかし僕も負けまいと強く見返したので、彼女の方から折れてそのまま俯いてしまった。

「馬鹿げたことだとお思いでしょう。でも、前の客も、前の前の客も、その前の客だって羊の綿毛を編んで耳に飾ることを愛好しています」

 実際にはこれから家に帰って愛好しはじめるのであったが、いずれ始まれば現在進行形なのか未来時制なのかはもはや関係がなかった。彼女は少しだけ顔を上げて、先ほどより少し優しくなった疑いのまなざしを僕にそっと被せた。

「ちょっと信じられないです。羊の綿毛というのは、その……きみょうで」

「だけどタンポポの葉を粉々にする趣味よりは洗練とされているでしょう」

「でも、他の方からそのことを薦められたこともあります」

「それはもう古いんですよ。もう終わったことなんです。タンポポの葉を粉々にする趣味は」

 彼女は曖昧に微笑んだが、その唇の端はびくびくと痙攣し不安定にも片側だけがつり上がっていた。彼女はもしかしたらタンポポの葉を粉々にする趣味を愛したことがあるのかもしれなかった。現在進行形で抱きしめているのかもしれなかった。僕は首を横に振った。本当に大切なものがあるとしたら、たとえそれが古びて誰からも忘れてしまったところで、手放すことはなかっただろう。もしそれが己の原点であるとするなら、決して譲ることができなかっただろう。

「ところで、あなたはどうして人類に趣味が必要なのだと考えますか?」

「息抜きになるから……ではないでしょうか。同じところだけに圧を掛けているとそこだけ圧に合わせた形にへこんでしまうように、決まりきったことだけで日常を過ごしていると、自然に人生が歪んでしまいます」

 この仕事をしているうちに、見えてくる。自分の人生を他者の推薦で埋めて満足しようとするのは、何もない証だ。彼女の唇が恐れと怒りで震えて見えるのは、細い枝が強い風を受けてしなるような、弾性力によるものだった。反発しようとしている。折れないために。そして僕は彼女を折ろうとしている。

「分かります。僕も半日を毎日こうした仕事に費やしていますから、自分の半身が歪んで、ほら、唇がいびつに片側だけ歪むのが分かるんです。ねえ、あなたとおそろいじゃありませんか」

 くつくつと笑う僕に、彼女が怯えたような声で「あのう」と言った。「私はもう帰りますので」

「おや、では知りたくないんですか。ええ? なぜ僕たちが一万ページの中から最も優れた趣味を抽出してあなた方に提供できるのか、その一切を?」

 本の厚みを測った指を彼女の前にちらつかせた。つばを飲み込み、椅子を引く音がした。彼女の背後では趣味を探す人々が増殖し続け、室内を、正常に機能を果たそうとする扉を、圧迫していた。

「洗練された趣味だけに没頭したいとわざわざ他者に尋ねるような人間に、いったい何の価値が分かるというのでしょう? あなた方が欲しがっているのは、素晴らしい趣味ではなくて他人が素晴らしいと思っている趣味なんです。あなたは他人に良い趣味をお持ちだと言われたいばかりに、他人の良いと思っているものを探るんです——そこまで分かっていながら、その願望を叶えるのに僕たちはたいへん苦労しました。機械は共感を判別できないし、共感のプロは素人に共感しかしてやることができないからです」

 隣からくしゃみの音が聞こえた。布の仕切りが激しく歪んだことから、こちらに向けて衝動をぶつけたのだと分かった。僕は布に遮られて見えない同僚に向けて咳払いをした。

「悩んだ末に僕たちは発想を逆転させました。人々が良いと承認する趣味を提供するのではなく、提供する趣味を良いものだと人々に思いこませる……」

「どうやって?」

 正面を向くと彼女の青白くおぼつかない表情が視界に入った。僕は欠伸をかみ殺しきれずに、大きく息を吸って、吐いた。

「羊の綿毛を編んで耳に飾ることが、現在で最も良い趣味になりますね」

 沈黙の中で、個性を確立しより良い人生を勝ち得ようとする人々の群れが扉を決壊させる音がした。群れは元々あった列をぐいぐいと前に押し出し、呆けながらもしっかりと腰を掛けていた彼女が後ろにいた誰かに退かされ尻もちをついた。

 いつ始めたところで同じものしか与えられないのに。バキバキと壊れた扉が踏み潰されて粉々になる悲鳴を聴きながら考える——どうせ壊れると分かっていながら扉を修理している人間がこの世で最も良い趣味をしている——見計らったように、今日一番のくしゃみが隣から響いた。

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