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前夜

作者: 呉島ネオサ


※本作には事実と異なる部分があり、また架空の人物も登場します。あくまでフィクションとしてお楽しみください。



 気づけば提出期限を過ぎていた。十一月二十一日午前零時三分。ノートパソコン画面のステータスバーに表示されているデジタル時計の時刻である。

 ひっきりなしに動かし続けていた五本指、その上で回っていたペンを置いてツイッターを開くと、募集を締め切った旨の告知がタイムラインの一番上にでかでかと降りてきていて、ああちくしょうと椅子にうなだれた。ウェブカメラのキャプチャ画面で、ベージュの机の上に佇むドクターグリップの中途半端な塗装ハゲがいびつに光っていた。

 結論、良い動画を撮ることはできなかった。厳密に言えば、一応提出はしているのだから、もっと良い動画である。もっと素晴らしい動画である。

 あの動画は果たして大丈夫だろうか。まるで試験が終わった直後のような心境だった。

 キャプチャ画面もツイッターも閉じて、インターネットから自分の動画置き場に行って、一つだけ他の動画たちから隔離されているとあるフォルダを開く。フォルダ名は、『提出』。そこには動画ファイルが一つ、ファイル名は『JapEn12th提出_Ziegler』。

 ダブルクリックしてみれば、見慣れた机で、見慣れたペンで、見慣れた手つきで不器用に回す誰かのフリースタイル動画が再生されて、紛れもなく自分ではあるのだが、どこか見知らぬ誰かの回しのよう。

 はて俺はこんな妙な指使いだっただろうかと首をひねっては、しばらく繰り返し観続けてあるときそこの自分が革新的に上手く思えてきてしまうような錯覚、ゲシュタルト崩壊を起こして、いや、ゲシュタルト崩壊していたのが元の感覚に戻っただけなのか。このペン回しは果たして上手いのか下手なのか、よくわからないがその後何かに取り憑かれて、再生ボタンが消えてなくなるかと思えるくらいにたった十四、五秒の、少し目を離せば終わるそれを延々と食い入るように観ていた。

 いつの間にかうつらうつらと舟を漕いでいて、はっと我に返ればまどろんだ視界も一瞬にしてHD画質にすり替わる。真っ黒な液晶から目を離しふと壁掛け時計を見るとあれからすでに二時間経過、どこまで起きていてどこから寝ていたのか全く覚えていない。同じくスリープしているパソコンをつつき起こすと、当然と言うべきなのか例の提出動画のサムネイルが未だにそこにあった。くっきりと焼き付けすぎたがために右端のバツをクリックしても動画の彼はまぶたの裏で回す回す、おもちゃの入ったショーケースの前で駄々をこね石のように動かない子どもと全く同じで、一向に消え去ってはくれなかった。

 ペン回しはもうペン回しを越えている。皆自分の好きなようにペンを継ぎ接ぎ延長している最中、その流行からドロップアウトしてただのペンであるドクターグリップを回し始めたのはかれこれ四年前のこと。

 周りと違うことがしたかったのだ。分解してはくっつけて回しやすいように品種改良されたペンではなく純粋で無添加な「ペン」を回すというぱっと見回帰主義的な自分に酔いしれたかったのだ。そんな不純な動機から、わざわざペン回しを始めて一年経ってそれまで周りと同じようにしていたのを、ドラッグストアの商品棚に五百円でぶら下がっていた黒のドクターグリップに鞍替えしたのだった。

 しかしながらあの時よりもずっと前、日本にフリースタイルが流入してきた十数年前から「これが『ペン回し』である」といったお約束ごとはすでに跡形もなく消し飛ばされてしまっているのだから、今さらただのペンを得意げに回して「ペン」回しなどとほざいたところで、無駄なのだ。たとえペンに銃弾――聞いたところによると、レプリカらしい――を植え込んで回すようなことがあっても、それもまた「ペン回し」なのである。

 当時そんな普遍的な事柄に気づくことは、残念ながらなかった。

 夕陽に懸かって赤らむホーム画面の富士山。どこかハイテクに荘厳なそれをぼんやり眺めながら――回していてたまに手からこぼれ落ちるペンを拾い上げながら――、特にすることもなくふと物思いにふけっている。もう一つ付け加えるならば、現時刻午前二時二十六分である。

 いつからかはよく覚えていないが、ここ数ヶ月、あるいはここ数年。すべて納得した動画というものが存在していない。いつもどこかしこりを抱えたまま提出期限が過ぎる。手抜きではない。いつも本気で撮影している。なのにどこか腑に落ちてくれない。

 単なる技術不足なのか? 名前も覚えられるようになり、フリースタイル批評を頂戴することも昔より遙かに多くなった。受け取ったそれらの数々からはまるで蛆虫かのごとく永遠に自分のボロ、欠陥が滲み出てきて目を覆いたくなる。身体じゅう、心じゅうにでき上がった腫れ物を鏡を通して眺めているような気持ちに苛まれている。

 果てには「君も僕たちと同じように改造ペンを回した方が良いよ」という感じの身も蓋もないド直球なことまでぶつけられて、プライドもずたずたである。

 もしも。もしもドクターグリップに目覚めていなければどうなっていただろう。平行世界の自分の妄想を膨らませたところで現実世界では何の得にもならない。まあ、かと言って損することもないのだが、どうしても気になってしまう。こんなに後ろ髪を引かれる思いを抱かなくて済んだだろうか。

 何の気なしにマウスに手を置いて、動くカーソルに視線を集中させて、クリックの小切れ良い音で開かれたのはユーチューブ。自分の動画一覧を限界まで画面下にスクロールさせてゆくと、ペン回しを始めて間もない頃の遺跡たちが発掘される。トレジャーハンターの気分で一番下から再生してゆく。

 撮影環境も、ただ上から見下ろしているだけのアングルも画質も。すべてにおいて雑だ。フリースタイルの構成は短絡的で安定感もなく指が確実に無理をしている。端的に言って、下手くそである。よくもまあこんなものを躍起になってユーチューブに投稿していたものだ。餌でぶくぶくに肥えた家畜のような汚いだみ声で技紹介なんてのもやっていて、顔から火が出てしまいそうだった。過去を振り返ったことに少し後悔を覚えた。

 投稿日は画面上に登るにつれあっと言う間に一ヶ月、半年、一年と流れてゆく。始めたてからドクターグリップにシフトチェンジするまでの一年あまりの歳月、まあすべて平等に下手くそなものだった。

 観ると同時に、郷愁がわき起こってくる。あんなに悪戦苦闘して撮影していたあのとき。滲む手汗に苦しんだ夏、悴む指先を無理矢理に稼働させた冬。まとわりつく指の痛みに耐え、失敗の苦しみを凌ぎ、黙々と回していた。撮影という行為が苦行であることは昔も今も変わらない。

 しかし画面の向こうの浅黒い指はどこか、幸せそうに見える。動画撮影を労役としてではなく、趣味の愉しみとして優雅にしているような、潤いのある情熱的なものが目の前に広がっている。なぜ?

 踊り子が右手から転げ落ちたのはその瞬間だった。それは床で一度無残に弾んで、拾い上げる間もなくベッドの下の暗闇に転がっていった。



 十二月に入った。二日後あたりから本格的な冬の到来とニュースは告げて、少し肌寒い程度のペン回し的に快適な季節もあと少し。ハンドクリームはどこだストーブはどこだとあちこちから引っ張り出して冬に備えるのだ。

 とは言っても今月はクリスマスまで動画を撮って公開するつもりはなかった。

 十二月二十五日。世間がサンタさんムードに浮き足立っているその日の午前零時にJapEnは公開される。数多くのスピナーから提出された数多くの動画をきめの細かいふるいにかけ、それを通った動画だけを一つのコラボレーション・ビデオとして纏め、日本ペン回し史において最も重要で、最も注目され、最も由緒ある名を冠して世に出される。

 ペン回しから離れていった過去の人々でさえ、観る者がいる。周りの関心の強さは他のCVの追随を許していない。

 それに動画を提出した。カウントダウンを待つ心持ちは大きく変容してしまった。過去これほどまでに落ち着かない十二月があっただろうか。

 まだまだ発展途中の段階にある者にとっては、それは一つの登竜門。それに合格することで初めて、格上スピナーたちの背中が見えてくる。

 さっさと折り合いをつけたい気持ちと頑固なプライドが身体の内でせめぎ合っている。納得できる動画では決してないからこんなものは落選が上等。だがしかしJapEnという魅惑の前に揺らぐ心。この激しい相克。

 この動画は他人にどう見えているだろうかとふと疑問が芽生えて、たった今仲の良い同世代の友人に持ち込みをした。数行のメッセージとともに動画ファイルが送信される。その相手は自分より一足先にペン回し界の第一線に上り詰めているのだった。

 返信はすぐに来た。

「技術はあるよな。ドクターグリップでこんなに回せるのはすごいと思う。何かCVに出すのか?」

「ありがとう」

 実はJapEnに提出するんだよというたった一行の文を送ろうとして指に制止がかかる。絶対合格する自信も無いくせに合格した時のネタバレだけは一丁前に気にする小心者、彼に送りつけたのはあえての没動画だったのである。

 ちっぽけな勇気を振り絞って、エンターキーを打ちこんだ。

 その返信までには少しばかり間が置かれた。

「……本当なのか? そうなると技術不足だと思うが」

「やっぱりそうかなあ」

「だって、お前。正直思うけどドクターグリップの回し、そんなに見栄え良いとは思えない」

「ええ……」

「三秒のところの技とか指が汚いし基本的な繋ぎ技が中途半端。〆もあまり締め切れてない。

 提出取り下げた方が良いんじゃないか?」

「そんなに言わなくても……」

 彼のズバズバ心を引き裂いてくる物言いは昔から知っているのだが、その矛先が自分に向いた瞬間冷静でいられなくなる。人は図星を突かれると正気を失うらしい。

 同時に何だかぐちゃぐちゃに絡まったひもがすっきりと一本線に伸ばされた感覚が心の中にあった。本命の動画は誰にも見せてはいないはずなのだが。

 良い気持ちはしない。落選の確率は非常に高まっている。いや、もともと落選なのかもしれない。あの動画も彼に送った動画も所詮自分の気にするところなど他人からすればどうでも良くて、それで他人の気にするようなところには気づいていなかった。

 彼は追い打ちをかけるように続ける。

「そもそも、ドクターグリップってやっぱりtwelvyさん以外全部その人の二番煎じにしか見えないよ。お前も最近頑張って個性出してるようだけど」

 もはや言われ慣れたその言葉だったのに、改めてぶつけられるそれは深くプライドに突き刺さって、返す言葉も見つからない。ただ既読するだけ、流ちょうなタイピングは何処。

 ごもっともな意見である。現役でドクターグリップを回しているのはおおよそ三、四人。その中でtwelvyというハンドルネームで一世を風靡し世界大会でベスト八にまで上り詰めたあの人を越えられそうな人材は今のところ存在していない。

 夢見心地で飛び込んだ世界はどうしようも無く閉ざされていた。こちら側からすればその三、四人全員が同じペンで全く別の方角を向いているように思えるのだが、外界から見れば誰しもtwelvyの名を先頭に直線トラックを走り続けているかのような絵面なのかもしれない。滑稽なものだ。

 おい見てるなら返信しやがれ、とトーク画面のフキダシでまくし立てる彼をほっぽり出して、すっかり打ちのめされた気分に心を委ねていた。

 期せずして走馬灯が視界を駆け抜けた。周りと違うことをして名声を浴びたいといういやらしい意図とともに、そこにはドクターグリップを回すものとして次世代を担ってやると意気込んでいた自分がいたことを思い出した。初めてその短く太いペン回しに抱いた感動を、パトスを、次の世代にもぶつけたいと新参者ながらに志したことを思い出した。徐々に剥げてゆくペンの塗装を見て憧れに一歩二歩と近づけていることの高揚感を思い出した。

 四年という月日はペン回し人生の平均としてはまだまだ短い。しかし何となく総決算が出てしまったような気がする。この虚しさは何だ。この悲しさは。

「まあお前がどう思ってるか知らないけどな」

 全てはしばし沈黙していた彼が語ってくれたのだった。

「お前やっぱり改造ペンが似合うよ」



 十二月も終わりに近づいていた。ネットサーフィンの傍ら右手で回すペンはドクターグリップではない。

 どうしても細く長いペンは慣れない。申し訳程度にペン立てに刺さっていた黄色のサンバースト。波模様が鮮やかな円の残像を作り上げている。時々それは楕円になったり、扇形になったり、直線になったりと忙しい。

 動画を何本か撮ってみて、やはりというか些か納得できない。ドクターグリップを回していたときよりも心の中の齟齬は存在感を強めている。もしかすると長い間放置されていたことへの恨みから、こちらの指の制御に抵抗しているのかもしれない。

 ネット上のあちらこちらにも赤やら白やら緑やら、やけに季節感のある色が強調されるようになって、クリスマスムードは本格的に日本国を席巻していた。

 ペン回し界では年一回のJapEnムードが形作られている。運命のクリスマスまですでに一週間を切ったある日のこと。

 納得のいかない改造ペンを手放し、馴染みあるドクターグリップを回してみれば、やっぱりこっちのほうがしっくり来る、と明らかな手応えとともに黒の円軌道。改造ペンへのリターンを勧めてきた仲の良い同世代の友人は、サンバースト回しを推しに推して聞かない。

  スリープ状態になったパソコンには見向きもせずにドクターグリップの回っている様子を眺めながらため息をつく。もっと上手く回すことができれば。twelvyさんのように。奴らも口出しできないだろうに。

 刹那のことだった。手の中にアイデアが広がる。背筋に電流が走って、肺の中をスカッと何かが巡った。その感覚を今一度再現しようと手の中のペンを再び転がす。さっき自分の指はどう動いていた……?

 ぎこちなく指を動かしては、描かれた円の軌跡をたどる。……見いつけた! このコンボ!

 ひらめきを拾い上げた瞬間に引き出しからウェブカメラを取ってパソコンに繋ぎ、明るくなった画面にキャプチャソフトのサムネイルが浮かび上がる。アングルを少し調節し、そのまま手持ちで録画開始。先ほどのコンボを繰り返す。

 ついにデータとしてパソコンに収められたそのひらめきはまだまだ実用レベルにはほど遠いものだった。慣れない手つきが磨き余地を物語っている。しかしこれは素晴らしい発見だった。気づけば次々とそのコンボを軸に技の世界が広がり始めて、ビッグバンの瞬間を知ったような全能感とともにドクターグリップは喜びに舞っていた。ああ何と素晴らしい。

 この感触は改造ペンでは絶対に味わうことのできないだろう。何となく、そう思える。あの細長いものを操ることはやはり無理だ。自分にはこのくらいの太さと長さがちょうど丸く収まってくれる。そしてその太くて短いそれにさまざまな感情がわき上がっては爆発する。決して無駄な四年では無かった。ペンの塗装ハゲの白と黒のグラデーションはそれを示してくれる。

 結局、そういうことだ。一つ確信した。

 似合ってなかろうが、下手であろうが、ドクターグリップこそが自分のペンスピナーとしての主軸で、核なのである。誰がそれを間違いだと否定しようが、自分の中ではそれこそが何ものにも替え難い正しさなのである。

 決意は固まった。例の友人に連絡を取る。

「俺、やっぱりドクターグリップ回すよ。改造ペンはどうにも合わないんだ」

 友人は数分で返事をよこした。残念だな、とただ淡々とつぶやいたのみだった。



 クリスマスイブも終わろうとしている十二月二十四日午後十一時五十分。

 フリースタイルは完成しつつあった。練習がてらに撮った動画もなかなかのでき栄えで、今までとは打って変わってすこぶる好調だった。

 今までの自分をはるかに超えるような、開明的なものが花開かせようとしている。来る年の飛躍に思いを馳せながら、JapEn12thの公開をじっと待つ。パソコンでツイッターに常駐し、画面から目を離さない。

 受かるか否かはすでに自分から遠のいた存在となっていた。ただJapEn12thという存在自体を必要としている。公開されることによって、次のステージに上がることができるような気がする。その発破をかける第一号のフリースタイルは、きっとここを通り抜けることによって完成するのだ。

 どの境地にまで達することができるのかはわからない。ただ今は、JapEnを待ち続けることのみ。


 日付が変わって、ツイッターに流れてきたURLを見逃さなかった。クリックすればユーチューブに飛び、パソコンはある動画のローディングを始めた。

 黒い画面の中央を描く円。固唾を呑んで見守っている。

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