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公爵家の男装令嬢は、  作者: とりふく朗
第二章 旅立ち編
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幕間 『青い空と、セミの声。』

※鬱展開です。苦手な方ご注意を。

 俺が、7つの時だった。母が家を出て行ったのは。

 その時、妹はまだ3つで、幼いが故に事の理解が出来ていなかったのか、隣でいつまでも泣き喚く俺の姿を、唯黙って、無表情で見つめていたのを覚えている。


 妹は、あまり泣かない子だった。

 あまり笑わない子だった。

 表情少なく、物静かで、聞き分けの良い子だった。

 いつも、父に殴られる母の姿を、隅の方で固まって、唯黙って見ている子だった。


 それは、当時の俺の目から見ても、――物凄く不気味だった。

 

 だから俺は、妹があまり好きではなかった。

 唯々、気持ち悪かった。


 幼い頃から、大人び過ぎていた妹。

 母が去ってからは、父の暴力は俺達に向けられて、それはまだ幼児だった妹も例外ではない。

 けれど、妹は泣かなかった。

 情けなくも泣きながら父に許しを請う俺の隣で、妹は唯々、無言で痛みを受け続けていた。

 その様子はやはり、不気味だった。

 兄として妹を守らなければだとか、そんな使命感、これっぽちも沸いてはこない。

 それどころか俺は、父から向けられる暴力が、無反応でいるだけの不気味な妹にのみ向けられればいいのにとさえ思った。

 更には、ストレスの発散にと、俺自身が妹を殴りつけた事だって何度もあった。

 

 屑だと思う。

 でも、それでも妹は何も言わなくて、唯、無言で、無表情で、蹲るだけだった。

 見ていて、無性にイラついた。


 俺だって最初は、努力はしたんだ。

 兄らしいことをしようと、思っていた。

 妹が幼い間は、家事は全て俺の仕事で、下手糞と父に殴られながらも料理だって頑張った。

 まだ3つだった妹の世話だって、頑張らないとと思っていた。


 けれど、俺が世話をしなくても、妹は何でも出来る子で。

 物覚えが異常なまでに早い子で。

 そしてやはり、泣かない子で。

 全くと言っていい程に、手が掛からなかった。

 5つになる頃には、俺に代わって、ほとんどの家事までこなしていたぐらいだ。

 気が付けば、いつの間にか家事は全て妹の仕事になっていて、俺は、放課後に友達と遊ぶ時間まで作れるようになっていた。

 可愛げのない、妹だった。


 遊びに出かける俺を見ても、文句を言わず、甘えも言わず、弱音も吐かず、助けも求めず、……唯、「行ってらっしゃい」とだけ言う妹。

 何でも出来て、頭も良くて、手先も器用で、優秀すぎる妹。

 見ていて本当に、気持ち悪かった。


 父に殴られた日は、妹を腹いせに殴った。

 俺はこんなに苦しんでいるのに、平然と澄まし顔でいる妹が、腹立たしかったのだ。

 何故お前はそんなに余裕なんだと、この糞みたいな家に生まれて、どうしてお前はそんなに平気な顔をしていられるのかと。


 それを繰り返している内に、暴力はエスカレートしていった。

 何かイラついた事がある度に、妹を殴る様になっていた。

 こうなってしまっては、もう駄目だ。

 けれど妹は、何も言わない。


 弱い俺。

 強い妹。


 ――兄とは一体何なのか。

 俺は、惨めだった。


 頼むから、泣けよ。怒れよ。

 文句を言えよ。

 弱音を吐けよ。

 助けを求めて、甘えろよ。 

 ……何か、言ってくれよ。


 妹は黙って、全てを悟った様に、唯々理不尽に耐えていた。



 俺は、中学卒業と同時に家を出た。

 逃げ出したのだ。

 もう、全てが嫌だった。

 これ以上屑にはなりたくなかった。

 顔が良かったのは、唯一の幸運だったと思う。

 この容姿のお陰もあって、俺の境遇に同情する女は大勢いたから。

 その当時付き合っていた年上の女の家に転がり込んだ。

 

 俺が家を出れば、父の理不尽をその身全てで背負う事になるであろう妹の事が、全く心配ではなかったと言えば嘘になる。

 けれど、あの妹の事だから、きっと大丈夫なのだろうとも思った。

 だって、俺の助けなど必要としない妹で、逆に、俺がいれば負担が増える。

 屑が一人減った方が、妹としても喜ばしい事ではないか。

 平然とした顔を浮かべる妹の姿を思い浮かべながら、俺は本気でそう思った。



 ――そんな筈、ないのに。


 


「ああ……」


 俺は、テレビで映し出される映像を、呆然と見つめていた。

 涙は、不思議と出なかった。

 精神的に、疲れ果てていたというのもある。

 生きる気力を、失っていたというのもある。

 けれど、そんな状態であっても、胸にポッカリと穴が開いた様な喪失感を感じていた。

 今まで妹のことなんて忘れていたのに、喪失感だとか笑える。


「く、はは、ははは……」


 乾いた笑いが、零れた。

 俺はそのままベッドに座り込み、遅れてじんわりと胸に込み上げてくる“何か”に、そっと意識を向けた。


 ――妹が、死んだ。


 悲しくはなかった。

 「そっか、死んだのか」と、唯、そんな感想だけが浮かんできただけだった。

 けれど、そう思ったら、何だか俺も、無性に死にたくなった。

 ふと、窓へと視線を向けた。

 ここから飛び降りれば、死ねるだろうか。


「何かもう、……疲れたわ」


 ――屑は結局、屑のままだったよ。

 なのに、お前の方が先に死ぬんだな。


「……」


 涙が、一滴だけ零れた。

 たった、それだけ。


「何の為に生まれたんだろうな。……俺も、お前も」


 糞みたいな場所で、糞みたいな家族を持って、糞みたいに生きて。

 お前の家族、みんな糞だったな。

 お前の人生、全部糞だったな。

 ……なぁ、お前一体、何に耐えてたんだよ。

 何で、そんなに耐えてたんだよ。


「……ああ、そっか。……そう、だよな。お前……、耐えて、たんだよなぁ……」


 涙が、もう一滴、零れた。


 ――ああ、本当に俺、馬鹿だわ。屑だわ。死んどけよ。

 平気な訳、ねぇだろうが。

 余裕な訳、ねぇだろうが。

 耐えられる訳、ねぇだろうが。


 母が出ていった日。

 妹は、泣かなかった。

 理解していなかったから?……違う。

 俺が、俺が、……泣いてたからだ。

 だから、妹は泣かなかったんだ。

 あの時妹が、涙を零すまいと唇を噛み締めて、じっと、俺を見守る様に見つめていた事を、本当は気付いていた。

 でも俺は、そんな妹を気遣う程の余裕がなくて、悲しい感情のままに泣き喚く事しか出来なくて、……気付かぬ振りをした。


 妹は、優秀だった。

 でも、本当は違う。

 無能な兄の代わりに、優秀であらねばならなかっただけ。


 妹は、強かった。

 でも、本当は違う。

 弱い兄に頼るまいと、強くあらねばならなかっただけ。


 弱音など、吐ける筈がない。

 甘える事など、出来る筈がない。

 泣く事など、出来る筈がない。


 だから妹は、逃げられなかった。

 俺の様に。

 俺の所為で。


 本当は全て知っていた。

 家事をこなし始めたのも、俺を気遣ってのことで。

 その器用さも、物覚えの良さも、強さも全て、俺を想っての事で。


 ――ああ、何て、優しい妹だろう。

 自分だって辛いのに、他人の事ばかり思い遣るのだから。

 自分を犠牲にして、押し殺して、他人の事ばかり庇うのだから。

 だからこそ俺は、その優しさから……逃げた。

 屑で、屑で、弱くて、醜い自分を思い知るのが、嫌だった。


 でも、さ。

 それでも、何か、出来たんだろうか。こんな俺でも。

 

 もう、遅過ぎるけれど。


 今更こんな綺麗ごと……、本当に汚ねぇ。

 今まで忘れていた癖に、屑過ぎんだろうが。


 ……それでも。

 それでも、思ってしまう。

 死んでから、漸くだ。


 甘えて来ないなら、甘やかせば良かったと。

 助けを求めて来なくても、助ければ良かったと。

 もしかしたらあいつも、言わないだけで、それを望んでいたのかもしれない。

 ……だってあいつは、我慢しかしない子だから。


「そ、れを、俺は、分かってたのになぁ……」


 俯いて、いつの間にか床を濡らしていた涙の跡をじっと見つめる。

 テレビからの、妹の死を報せる雑音が、耳に木霊す。


 痛かったろう。

 苦しかったろう。

 辛かったろう。

 恐かったろう。

 悲しかったろう。

 

 最後の最後まで、我慢して、何も報われる事無く、唯死ぬだけの人生だった。

 何か、夢はあったのだろうか。

 耐えた先に、何か、希望はあったのだろうか。

 未来を、想い描いた事はあったのだろうか。

 ……もう、聞く事も、叶う事もないけれど。


 何て、残酷な世界だろうか。

 何て、不平等な世界だろうか。


 死ぬなら、屑の俺が死ねば良かったのに。


 立ち上がり、一歩、一歩と窓へと向かう。

 窓を開けると、朝の風が酷く心地よかった。

 そこで、ふと思い出す。


 ――ああ。

 そういえば、一昨日は妹の誕生日じゃないか……。


 そんな事さえ忘れていて、……いや、そんな事をまだ覚えていた自分に、何だか笑えた。


「はは……。本当、お前、不幸だなぁ……」


 ベランダに出て、手すりを掴む。

 青い空と、セミの声。


「俺も――」


 せめて、死んでやるよ。

 俺は地獄で、お前とは会えないだろうけど。

 楽な死に方で、ごめんなぁ……。

 でも、代わりに地獄で、苦しむからさ。


 ……なぁ、だから。

 今度はお前、天国で、幸せになれるといいなぁ。


 空が遠くなっていく。

 セミの声が、近くなっていく。

 そして俺は――。


「ご、め……、優美……」


 全身を走る激痛に、妹の、……優美の苦痛の、片鱗を感じれた気がした。

 それから、地獄の様な長い長い数秒間を経た後、俺の意識は、完全に消えた。


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