昔話④【終わらぬ悪夢】
3話連続投稿です。
『――もう大丈夫ですよ』
そう言って、扉を見つめながら安堵の吐息を零すは、髪も肌も雪の様に真っ白な、美しき女。
その言葉と表情に、先程まで張り詰めていた空気が一気に和らいだ。
『では、成功したのですね。母上』
先程まで不安に顔を歪ませていた白い髪の少年が、女を見上げながらほっと胸を撫で下ろす。
『ええ。魔王デルガー様によって、化け物は永劫なる闇の中へと眠りに就きました。父を誇りなさい、バレット』
『はい』
少年は嬉しそうに頷いて、防御魔法の魔法陣が浮かび上がる目の前の扉を見つめた。
歴代の魔王が成し遂げられなかった事を、己が父が漸く果たしたのだと思うと、少年の心には自然と熱いものが込み上げる。
けれど、その想いは直ぐに別の感情によって砕け散ることとなった。
『そ、んな……』
『母上?』
扉を凝視したまま、急に顔を青くさせて震え出す女。
少年は不安に顔を曇らせて、再び張り詰め出す空気に息を呑んだ。
自分には分からないが、感知能力に長けた母の目には、何かが視えているのだろう。
それも、いつも毅然とし、感情を滅多に表に出さない母が震えるほどの出来事が。
『母上……。一体、何があったのですか?化け物は、封じたのでしょう?』
震える母の手を掴もうと、手を伸ばす。
母の瞳は、絶望に揺れていた。
『……バレット。奥へ行きなさい。……意味は分かりますね?』
『え……?』
子に手を掴まれて、我に返る女。
そして女は、苦悶の表情で唇を強く噛み締めると、何かを決意したかのように少年を見下ろし、部屋の奥の衣装棚を指差した。
『な、何故ですか母上!化け物は、化け物はもういないのでしょう!?』
『……』
我が子の悲鳴染みた声を聞きながらも、毅然として聞き流す女。
……否。顔には出さないものの、その胸の内は泣いていた。
無意識に、子の手を強く握り返していたのが、その証拠であろう。
『お待ちください、母上!……母上!!』
『……』
部屋の奥へと、嫌がる少年を引き摺るように連れて行き、魔力を込めた手で衣装棚に触れた。
すると、棚がゆっくりと開かれて、その先には通路が広がっている。
女は開かれた棚の向こうへと少年を投げ入れ、たった一言だけ口にした。
『いきなさい』
閉まりゆく扉の隙間から、最後に見た母の表情は、今まで見た事のないものだった。
少年は思わず言葉を失い、目を見開かせることしか出来ずにいた。
『母、上……』
扉が閉まり、通路に僅かな明かりが灯る。
少年は、完全に閉まった扉に縋りつく様に身体を寄せ、涙を流した。
何が起こったのか。父上は無事なのか。そして母上は、一体何をするつもりなのか。
それを知る事すら許されず、また、知る事すら出来ない己の無力さに、少年は奥歯を噛み締めた。
自分に、もっと力があったなら。
自分が、もっと大人であったなら。
『……く、っ、……あ゛ああぁぁぁぁぁあああああっっ!!!』
少年は悔しさに声を張り上げながら、扉を叩いた。
けれどその衝撃は、防御魔法によって虚しく霧散するだけ。
『……』
その場に力なくしゃがみ込み、通路に響く己の叫び声を聞く。
それは何とも無様で、非力に満ちた声だった。
自分が聞きたいのは、これではない。
母が、父が、城の皆が、今どうなっているのかを知りたいのに。
少年は、何も知らずに唯逃げる事が、どうしても許せなかった。
――知りたい。
今、何が起こっているのかを。
――知らなくてはいけない。
例え何が起こっていようとも。
『だって僕は、父上の……魔王の息子なのだから』
震える声で、呟いた。
――その瞬間。
少年の願いを叶えるかのように、それは起こる。
『……え?』
驚きに瞳を揺らせ、少年は顔を上げた。
全身を刺激するかのように、突如として広がる感覚。
声が聞こえ、視界が開け、魔力の波が肌を撫でる。
少年は急ぎ扉へと顔を向け、その先へと意識を向けた。
そこには、玉座へと続く扉を見つめながら、口元を押さえ、嗚咽を零す母の姿が。
涙を流す母の姿に胸を締め付けられながらも、少年は更に先へと意識を流す。
『ち、父上……!!』
そのあまりの出来事に、我が目を疑う。
『な、んで、こんな事に……』
ああ、一体誰が想像出来ようか。
かの誇り高き魔族の王が、片腕と片脚を失い、虫の様に床を這っているなどと。
魔王デルガーは必死に階段をよじ登り、白銀の髪の美しき女へと何やら叫ぶ。
恐らくあの女が化け物なのだろうと、少年は直ぐ様理解した。
二つの防御魔法壁を通している事もあり、彼らの声は上手く聞き取れなかったが、父の表情と身振りから、何かを懇願している様に感じられた。
『……っ』
それは、目を逸らしたくなる程に無様で、酷く痛々しいもので、少年は思わず母の傍へと意識を戻す。
母は、床に膝を付き、痛まし気な表情で扉に手を当てていた。
まるで、扉を挟んで直ぐ向こう側にいる、地を這う夫を見つめる様に。
それから、怒りを宿した瞳で静かに立ち上がる。
ボソボソと動かす口は、詠唱を唱えてのものだろう。
(その詠唱は、攻撃魔法の……?)
魔王含め、何人もの魔族の手によって、防御魔法の術式が組み込まれた扉。
決まった方法でなければ開かず、ましてや力技で破壊するなど、例え魔王自身であろうとも不可能。
(何を、するつもり?)
そう、疑問に首を傾げた時だった。
パリン、というガラスが割れた様な音と共に、扉が切り刻まれて破壊される。
その信じられない光景に、少年は絶句した。
『――貫け。ダークショット』
詠唱を終えた、母の声が響く。
切り刻まれた扉の破片が宙を舞う中、母の魔法が発動した。
全身穴だらけになる化け物の姿を見て、少年は吐き気を感じながらも歓喜する。
けれど、喜びも束の間。
化け物の身体は、直ぐに再生していった。
『そんな、馬鹿な……』
恐怖で、声が震えた。
少年はあまりの動揺から、意識を自分へと戻してしまう。
これが、化け物。
これが、原初の時代より生きる、本物の――。
身体が震え出し、本能が叫んだ。
――逃げろ。
けれど、時は既に遅く。……いや、最初から、既に手遅れだったのかもしれない。
それこそ、化け物が魔族領に現れた時点で。
なぜなら、彼女は災厄。
そこにある全ての命を喰らう、災厄の化け物なのだから……。
『――見ぃつけた♡』
「……っ!!?」
バレットは、勢いよく目を開けた。
激しく脈打つ心臓の鼓動と共に、荒い呼吸を繰り返す。
動揺で焦点の定まらない眼を、それでも何とか彷徨わせ、ここはどこだと周囲を見回す。
そうしている内に、意識が徐々に明確なものとなってきて、落ち着きが戻り出す。
「はぁ……。また、あの夢か……」
バレットは大きく息を吐きだすと、頭を押さえながらベッドから起き上がった。
あれから、数百年も経ったというのに、未だ悪夢に魘される。
これはもう重症だなと、バレットは呆れた様に、汗で湿った頭を掻いた。
時計を見遣ると、まだ日も昇らぬ時間帯。
けれど、二度寝をするにも目はすっかり冴えてしまった。
仕方なしにバレットは立ち上がり、外の空気を吸おうとベランダへ。
早朝の風はひんやりと心地よく、汗ばんだバレットの身体を優しく乾かす。
「ふぅ……」
手擦りを掴み、大きく深呼吸。
それから暫く、ボーっと庭を見下ろした後、部屋の中へと戻った。……先代魔王、父デルガーの部屋へ。
「……」
口元を引き締め、ソファに腰を下ろす。
対面するソファには、静かに寄り添い合う父と母の姿を見た。
「……父上。……母上」
そう呼びかけると、二人は静かに微笑んで、その姿を消す。
バレットは目を閉じ、悲し気に笑った。
(我ながら、何と女々しい……)
ソファに沈む様に深く凭れ掛かり、バレットは天井を見つめる。
私のこんな姿を見たら、父は、母は、何を思うだろう。
呆れるだろうか。
笑うだろうか。
怒るだろうか。
悲しむだろうか
幻滅するだろうか。
……いや、そもそもの話、
「――何も、思わんよ。思えぬさ。彼らは、死んだのだから……」
片手で顔を覆いながら、「はっ」という乾いた笑いを零す。
厳しい父だった。厳しい母だった。
そのことに、全くの息苦しさが無かったと言えば嘘になる。
もっと話しがしたかった。
もっと遊んで欲しかった。
もっと笑いかけて欲しかった。
もっと抱きしめて欲しかった。
大人になった今でも、そんな欲求を抱いてしまう程に、彼らはバレットに厳しかった。
愛されていないのではと、そう思っていた時期も確かにあった。
けれど、時折。
ほんの僅かに向けられた微笑みは、本物だと分かる程に慈愛に満ちたもので。
バレットは目を瞑り、あの日の事を思い出す。
『いきなさい』
そう言って、悲痛に顔を歪めながら、涙で滲む瞳で優しく微笑む母の顔。
何かの衝動を抑え込む様に、己の手を、強く握りしめていた。
『誰よりも、何よりも、愛しくて大切な!!我の宝なのだ……!!』
化け物の脚にしがみ付きながら、懇願する父。
誰よりも誇り高く、歴代最強とさえ謳われたあの父が、よもや子である自分の為に惨めな行動に出るなんて、バレットは今でも信じられない思いであった。
ギルーラと共に逃げ延び、再び戻って来た城内は酷い有り様で。
急ぎ玉座へと駆け付ければ、そこにはやはり、既に息を引き取った後の父と母の亡骸が。
互いに手を重ね合わせながら、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
その姿は仲睦まじく、普段の両親の姿からはおよそ似付かわしくないものだった。
両親が寄り添い合う姿など見たことは無く、愛を囁き合う姿など以ての外で。
幼い頃バレットは、『父様の事、好いてはいないのですか?』と、一度だけ母に尋ねた事があった。
その時母は、可笑しそうに笑いながら、『息の仕方を尋ねる人はいませんし、説明する人もまたいませんよ』と答えた。
その意味が分からず首を傾げていると、母は更に笑いを零し、『当たり前のことを聞く人なんて、いないでしょう?それに、……愛してるだの何だの、言えば言う程重さが減るわ』と付け加えた。
そしてその日は珍しく、母はよく喋った。
普段言わない代わりに、ここぞという時に、互いに言い合う約束をしているのだと。
(まさか、その時が“死ぬ間際”の事だとは思わなかったが……)
バレットは頬を緩め、手を重ねる両親の亡骸を思い出しながら、くつくつと笑った。
今なら分かる。
きっと彼らはあの時、互いにその言葉を言い合ったに違いないと。
――ああ。確かに、重すぎる愛だ。
「おはようございます。御起床でしょうか」
「ああ、起きている」
不意に響いたノック音とメイドの呼びかけに、バレットは外を見る。
魔族領は日があまり当たらず、いつも薄暗いままではあるが、それでも先程よりかは明るさが増し、朝になったのであろう事が分かった。
「失礼致します。朝食の御用意が整いましたので、お持ち致しました」
「ありがとう」
扉を開け、優雅に頭を垂れるメイド。
それから、食事の載ったワゴンを部屋へと入れ、テーブルに朝食を並べ始めた。
バレットはその様子を見届けた後、優しい声色でメイドに声を掛ける。
「君」
「はい、何でしょうか」
「言伝を頼みたいのだが、いいか?」
「もちろんで御座います」
「今より二時間後、玉座に集えと。ギルーラに」
「……!!それは、つまり……」
目を見開くメイドに、バレットは意味深に微笑んで返す。
メイドは、口元に歪んだ笑みを浮かべると、恭しく頭を垂れた。
「畏まりました。必ずや、お伝え致します。――魔王バレット様」
そう言って、メイドは慌ただしく、けれどどこか嬉しそうに、部屋を後にした。
魔王は、閉まりゆく部屋の扉を見つめながら、静かに、楽し気に、笑いを零す。
けれど、ピタリと笑いが止まったかと思うと、今度は声色低く呟いた。
「――さぁ。狩りの始まりだ。……化け物共が」




