昔話②【憎悪の連鎖】
めっちゃ長くなりました。
最初に聞こえた音は、攻撃魔法による爆裂音。
それから、罵倒と、悲鳴と、断末魔の声が、後に続いた。
徐々に、徐々に。
けれど、そう時間を置かずして。
戦いの激化を知らせるかのように、それらの音は大きくなっていった。
徐々に、徐々に。
けれど、そう時間を置かずして。
戦いの収束を知らせるかのように、それらの音は小さくなっていった。
徐々に、徐々に。
けれど、そう時間を置かずして。
我が軍の敗北を知らせるかのように、それらの音は、近付いてきた。
そして、音が――止んだ。
最後に聞こえたのは、扉越しに聞こえた、たった二つの断末魔。
――魔王城、玉座の間。
僅かな静寂の後に、その扉はゆっくりと開かれた。
現れたのは、白銀の髪と簡素なワンピースとを血に染めた、息を呑むほどに美しい女。
……否。
薄気味悪く、悍ましく、吐き気が込み上げる程の狂気を身に纏った、美しき化け物。
その白磁の様な綺麗な手には、先程の声の主であろう兵士の頭部が掴まれており、その者の胸より下は欠落していた。
「――はぁあっ!!」
扉の傍に控えていた兵士が、化け物の到来と共に、その剣を勢いよく振り下ろす。
化け物の手に掴まれた、既に亡き友を想いながら、兵士の顔は憎悪と悲哀とで歪んでいた。
「きゃっ!?」
可愛らしい、女の甲高い声が耳に響く。
攻撃は見事に当たり、化け物の肩から腹にかけ、深い傷が刻まれた。
「ああぁぁぁあああああっっ!!!死ね!死ね!!死ねっ!!死ねぇぇええっ!!!!」
化け物が怯んだ隙を逃すことなく、兵士は間髪入れずに斬撃の嵐を化け物へと浴びせる。
およそ数秒間、兵士の怒声と化け物の小さな嗚咽とが、絶え間なく広間に響き続けた。
腹を割き、脚を貫き、腕を斬り落とす。
ベチャリと、友の上半身と共に、化け物の腕が床へと落ちた。
無残な友の亡骸を横目で捉えながら、兵士は涙を流して最後の一撃を繰り出す。
――化け物の首が、宙を飛んだ。
「はぁ……、はぁ……」
魔王軍、壊滅。
されど、敵は今、討ち取られたり。
戦いは終わり、多大過ぎる犠牲を払いながらも、勝者は――、
「酷いわ……」
「……!?」
化け物の首が、喋った。
眉は悲し気に顰められ、目からは一筋の涙が零れていた。
それから息を引き取るかのように目を閉じて、その首は灰となって消えていった。
今度こそやったか。
兵士はそこで漸く安堵の吐息を零すと、傍に横たわる化け物の身体へと目を向ける。
そしてその直後、彼は化け物という本当の意味について、その身を以って知る事となった。
「――ひっ!?」
力なく横たわる、化け物の身体。――否。
悲し気に横たわる、化け物。
……その首からは、斬り落とし、消滅した筈の頭が繋がっていた。
「どうしてみんな、こんな酷い事をするの……?」
兵士が驚愕で言葉を失う中、化け物は天を仰ぎ見て、涙を流しながら呟いた。
それから静かに立ち上がり、悲哀の籠った瞳で兵士を見つめたかと思うと、次の瞬きの内には、兵士が床に倒れていた。
「ば、……け、もの……」
兵士は血を吐き、耳や目、体の至る所から血を溢れさせながらも、最後の力を振り絞って玉座に座る己が主へと手を伸ばす。
「ま、おう、さま……。お逃げを――」
その言葉を最後に、兵士は唯の肉塊へと成り果てた。
細切れにされた兵士の肉が、ビシャリと音を立てて床へと落ちる。
それでも魔王は、未だ玉座から動こうとせず。
不快気に眉を顰め、吐息を零すその様からは、余裕さえ見て取れた。
けれどその内心は、悲しみに唇を噛み締めて、怒りで腸は煮えていた。
王は、何時如何なる時も、敵に付け入られる隙を与えてはならない。
敵の多い魔族の王ならば、それは尚更だろう。
故に魔王は、あらゆる敵に打ち勝つ、絶対的な強者で在らねばならなかった。
「……」
魔王は、沈黙する。
感情を押し殺し、目の前の化け物を、唯々静観した。
「酷い……。酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い。酷いわ。悲しい。苦しい。……寂しい」
顔を覆い、涙声で呟きを発する化け物。
それから床へと寝そべると、先程殺した兵士の肉塊の上に自身の体を転がした。
そして今度は、濡れた瞳を優し気に細めると、頬を紅潮させて幸せそうに言葉を零す。
「――ああ。……温かい」
ぐちゃぐちゃと血肉に身を包みながら、手に取った肉塊から血を妖艶に舐め取るその様は、見る者に吐き気と恐怖を与えるもので。
それは魔王と言えども、例外ではなかった。
魔王は、冷や汗が頬を伝うのを感じながらも、吐き気と共に唾を飲み込むことで、冷静さを何とか保つ。
「化け物が。ここまで来た褒美として、この我自らが相手をしてやろう」
楽しそうに、ふふふと笑みを零していた化け物は、魔王の言葉に顔を上げると、目を数回瞬かせた。
それから少しの沈黙の後に、化け物は唇を震わせて、涙を流しながら微笑む。
「……嬉しい。私の相手をしてくれるだなんて。……誰かと、たくさんお喋りをしてみたいなって、ずっと、ずーっと、思っていたの」
化け物は、ぐちゃぐちゃと悍ましい水音を鳴らしながら立ち上がると、怪訝そうに顔を顰める魔王のもとへと、その足を進めた。
「みんな、酷いのよ?でも、温かいの。だから好きよ?……でも、でもね?温かいのは一瞬で、直ぐに冷めてしまうの。そしたらまた、……寒いわ」
血の足跡を付けながら、化け物は言葉を話す。
ゆっくりゆっくり歩を進めながら、化け物は血に染まった自身の体を抱きしめて、悲しそうに顔を歪ませる。
人語を解していても、人の姿をしていても、あれは化け物。
人の常識も理も全てが通じない、狂いに狂った、悍ましい化け物だ。
「寒いし、悲しいし、寂しい。――けれどみーんな、ここに……ね。いるのよ」
化け物は、一歩、また一歩と魔王へと歩み寄りながら、我が子を慈しむ母の様な顔で、愛おし気に腹を擦った。
魔王は悍ましさと憎悪とで思わず顔を歪ませて、奥歯を強く噛みしめる。
もう少し。あと、もう少しだ。
耳障りな化け物の言葉に、己が耳を切り落としたい衝動に駆られながらも、魔王は唯々耐え忍び、その時を待つ。
そして、化け物が広間の中央へと足を踏み入れた瞬間、――その時は漸く訪れた。
「陰に潜む偉大なる闇の精霊よ。この身に宿る闇を喰え。我の闇は汝なりて。汝の闇は我なりて。今ここに同調し、我らが敵を滅ぼさん。――母なる闇よ、愚かなる御子に、永劫なる黒き眠りを」
魔王の詠唱が進むにつれて、床に巨大な魔法陣が青黒く浮かび上がり、中央にいた者の足を闇が捕らえる。
そしてその闇は徐々に全身へと浸食していくと、対象者を完全に包み込んだ。
幾重にも幾重にも、闇のベールは化け物へと纏わりつき、そして遂には球体に。
魔王は手の平をその球体へと向けた後、それを握り潰すかのように、勢いよく握りしめた。
その動作に沿って、球体は急速に収縮していき、闇へと消える。
魔王はそれを見届けた後、漸く息を吐き、どっと汗が噴き出し始める正直な自分の体に苦笑した。
「やりましたね、魔王様」
「ああ……」
玉座の隣に控えていた側近が、恐怖の余韻に顔を顰ませながらも笑みを向けた。
――殺せないなら、封印してしまえば良い。
突如として魔王城へと現れた不死の化け物相手に、魔王は即座に決断した。
未知の化け物相手に、油断は出来ない。
よって魔王は、万全を期す為に、神位魔法にある最高難度の封印術式を使う事を選んだ。
けれどその術式を組むには、多くの時間を費やす。
それはつまり、多大なる犠牲を払っての時間稼ぎを意味していた。
断腸の想いでの、苦しい決断であった。
「皆も、これで報われるでしょう」
「……生存者を捜索し、死した者は、……手厚く弔ってやれ。弱者が死ぬのは世の常だが、今回ばかりは責められぬ。アレの前では、全てが等しく弱者であろう」
「はっ」
魔王の言葉に、側近は恭しく頭を垂れると、命令を実行すべく足を踏み出した。
だが――。
「ぐ、……ふ、……!?」
玉座へと続く階段を数歩下りたところで、側近は低い唸り声を上げると、何が起きたのか理解する間もなく崩れ落ち、階段を転がっていった。
魔王は驚愕で目を見開かせるも、直ぐに状況を理解。
そして、絶望する。
これだけの犠牲を払っても尚、化け物を封じる事さえ出来なかったという現実に。
「……なぁに?」
どこからともなく、声が響いた。
「さっきの、なぁに?」
闇を纏いながら、先程と変わらない広間の中央で、化け物が姿を現した。
平静さを装いながらも、魔王は緊張と恐怖とで、ごくりと息を呑み込んだ。
「ねぇ。何をしたの?」
「……」
本当に、何をされたのか分からないといった顔で、小首を傾げる化け物。
闇を扱う化け物に、魔族以上に闇に愛された化け物に、闇の封印術は全くの意味を為さなかった。
されど、そんな事を魔王が知る訳もなく。
当然だ。化け物が能力を使って生命を殺めだしたのは、つい最近の事なのだから。
情報が、あまりに不足していた。
今まで大人しかった化け物が、何故突然牙を向けだしたのか。
化け物を化け物としか認めずに、その生を否定し、虐げ続けてきた彼らには、その理由が愚かにも理解出来なかった。
化け物が殺戮を始めたという噂が世界に広まる中、彼らが思った事、それは。
――やはり化け物。
その、一言であった。
そして、遥か昔から彼女を虐げ続けてきたことは正しかったのだと、人々は恐怖に脅えながらも頷いた。
「それが、貴様の本性か。……化け物が」
「……酷い。私の、相手をしてくれるって言ったのに。……嘘つきね、あなた」
化け物は傷付いた様な顔を浮かべて俯くと、闇へと沈んだ。
そして、魔王の直ぐ隣へと一瞬で移動する。
「……っ!?……うぐっ!!」
突然の化け物の転移に、魔王は驚きに目を見開くも、それは直ぐに激痛によって歪められた。
隣に立つ化け物を見遣ると、その手に持たれているものは、――腕。
そこで漸く、自身の左腕が無くなっていることに気付く。
最早、ここまで。
魔王は大きく息を吐くと、せめて少しでもこの化け物に苦痛を与えて死んでやろうと、玉座より立ち上がって剣を抜いた。
「……あはっ♪」
けれど化け物は、楽しそうに顔を酷く歪ませて、笑みを零すだけだった。
その後、魔王の死闘はおよそ数分の間続き、化け物に斬撃を幾度も浴びせる事が出来た。
――が、まるで児戯。
それらの斬撃は、化け物が敢えて瞬殺を用いなかったが為に浴びせ得たものだった。
他は、一方的な蹂躙劇。
既に封印魔法で魔力は枯渇していたが、例え万全の状態であっても、元より魔王に勝ち目はない。
「ぐふっ!!……殺せ。……我を、恨んで、いるのだろう?」
床に倒れ伏し、自身の周囲に溜まる血の池に、魔王は己の死を悟った。
左腕の他に、右脚も失った。
けれどそれでも踏ん張って、喘ぎ、化け物に喰らい付いていた。
絶対的強者である筈の魔王にとって、それは屈辱的な戦い。
必死に戦う弱者と、それを笑いながら弄ぶ強者の構図。
普段ならば、その強者の位置に座するのは自身であった筈なのに。
魔王は、すっかり血の気が失せた唇を噛み締めて、最後の抵抗として化け物を睨み付ける。
「……恨む?何を?」
「貴様を殺す為、魔族を遣わしていたのは我ぞ。貴様は、それを恨んでいるのだろう?だが、何故今なのだ。殺そうと思えば、我らを殺せたはずなのに、何故今になって怒りを向ける。我が王となる遥か昔より、貴様は虐げられてきた。だが貴様は、それらに抵抗しなかった。……何を企んでいる。今になって本性を現したのは、何故なのだ」
失われていく血液により、魔王の身体は小刻みに震え出す。
意識も朦朧としてきたが、それでも必死に睨む事をやめなかった。
「……?ごめんなさい。あなたの言ってる事がよく分からないわ……。私が虐げられるのは当たり前の事でしょ?なのに何故それを恨むのかしら。……みんな酷いの。だから私は、とても悲しかった。けれど、耐えたわ。耐え続けたの。だって、仕方が無いでしょ?私は、……化け物なんだもの」
首を傾げて答えながら、最後に化け物は歪んだ顔で微笑んだ。
魔王は、絶句した。
もしその言葉が本当なのだとしたら、この化け物は、唯耐えていただけという事になる。
耐えて耐えて、そして、発狂したのだ。
今になって、ではない。
気の遠くなる程の時を経て、今になって漸く力に目覚めた。
そんな事、一体誰が想像出来ようか。
誰も知らない程の遥か昔から、絶え間ない悪意と迫害の中で、今の今まで力を抑え込んでいたなどと。
今の今まで他者を恨むことなく、化け物の自分を責め続けながら生きていたなどと。
……化け物に、手を出してはいけなかった。
そんな後悔が脳裏を過ぎったが、直ぐに考えを改める。
手を出そうが出すまいが、化け物の力は本物。
如何に精神力が超人染みていようとも、時の長さに耐えられず、遅かれ早かれ壊れていただろう。
ならば、この化け物は殺さなければならない。
それこそが、長きに渡り受け継がれ続けた、世界の意志。
化け物の脅威は今、世界に知れ渡った。
今が無理でも、何れ。
必ずや化け物を殺す方法を、或いは、化け物を封印出来るだけの更に強力な封印魔法を、未来の誰かが、必ずや見つけてくれる。
魔王が勇者に討たれ、それでもまた魔王が生まれてくる様に。
魔王と勇者という存在が、遥か昔から存在し続けている様に。
あの化け物を滅ぼそうとする世界の意志は、もはや理である。
「い、つか。貴様は、滅ぶだろう。……それが、貴様の、うん、めい」
寒さでまともに動かなくなった唇を必死に動かして、声を震わす。
世界がこの化け物に滅ぼされるのが先か。
世界がこの化け物を滅ぼすのが先か。
「――そ、れを、見届け、られないのが、……ざん、ねんだ。くく……」
精一杯の皮肉を込めて、魔王は笑った。
けれど化け物は、変わらずの笑みを張り付かせたまま魔王より顔を背け、玉座の奥の壁へと首を向ける。
「あらぁ?」
「……!!」
突然、玉座へ続く階段へと歩を進める化け物。
魔王の胸を早鐘が打つ。
「ま、て……!き、さま、どこへ、行く……!!我は、まだ、死んで、……ぐふっ、……おらぬぞ!!」
軽快に上る化け物の後に続いて、魔王はずりずりと床を這いながら、玉座への階段をよじ登る。
地を這う虫の様に、右手と左足を必死に動かすその様からは、もはや強者としての威厳はない。
空っぽの玉座が、みすぼらしく床を這う己が主を、無機質に見つめていた。
「んー?これ、どうやって開けるのかしら?」
「待て!!待ってくれ!!頼むから!!」
惨めにも、懇願。
けれど、そんなプライドなどどうでもいい。
この先には、この先だけは、何としても入れてはいけない。
「面白い扉ねぇ。ここかしら?それとも、これかしら?」
壁をペタペタ触って、玩具で遊ぶ子供の様な、無邪気な笑みを浮かべる化け物。
けれどその扉は、決められた術式を組んで初めて開くもので、いくら壁を触ったところで開く筈もなく。
いくら調べても開かない扉に、化け物は次第に飽きて、「ま、壊せばいっかな?」と不満げに小首を傾げた。
「やめろぉぉぉおおお!!!」
片腕で化け物の脚にしがみ付き、必死に抵抗していた魔王だったが、その程度の足掻きに意味など無く。
闇より伸ばされた蔦の様な刃物によって、壁は止めどない斬撃を受ける。
そして僅かな時間の後に、防御魔法ごと容易く切り刻まれた。
「……あら?」
直後に飛ぶは、化け物の首。
「――貫け。ダークショット」
直後に響くは、凛とした美しき声。
「ぐ……!?」
壊された壁から放たれた、何発もの攻撃魔法。
それらは黒い軌道を描きながら、化け物の身体を、頭を、休む事なく撃ち続けた。
その時間、およそ十数秒。
化け物は全身を穴だらけにして、床へと倒れた。
「よ、くも。……よくも私の夫に!!貴様!!楽に死ねると思うなよ!!」
土煙の中姿を見せたのは、白い髪を靡かせた、美しき女。
女は怒りで顔を歪ませながら、涙を零していた。
「よ、せ……。逃げよ」
「どうせ逃げられる筈もありません。私もここで、貴方と共に死にましょう。それが、魔王の妻となった我が使命。……御立派で御座いました」
片腕と片脚を無くし、惨めに床を這い蹲る事しか出来ない夫の姿を真っ直ぐに見つめると、女は頭を垂れた。
そして膝を折って夫の傍へと寄り添うと、残った右手を握りしめ、「愛しておりますわ」と囁いた。
魔王は顔をくしゃりと歪めて涙を零すと、痙攣する手に力を込めて握り返す。
「わ、れも、愛、して――」
魔王が言葉を紡ぐ最中、女は口から突如として血を溢れさせると、床へと倒れた。
妻のその異変に、魔王は目を見開きながらも後ろへと顔を向ける。
化け物が倒れていた、その場所へ。
「あ、ああ、……酷い。酷いわ」
そこには、早くも再生し終えた化け物が、悲しそうに顔を覆いながら立っていた。
それから虚ろになった目で顔を上げると、ひたひたと歩を進め、倒れる魔王と女の傍を通り過ぎていく。
「も、もう、そこには、誰も、おらぬ!!」
動かなくなった愛する妻の手を解いて、魔王は化け物の脚にしがみ付いた。
けれど、それでも止まらない化け物の脚。
「かくれんぼかしら。一度、やってみたかったのよね」
虚ろな瞳で微笑むと、化け物は部屋にあった衣装棚の扉を静かに開けた。
「……!!」
「あら?違ったわ。……でも、この奥ね?」
「き、さまぁぁぁああああ!!!!」
魔王の叫びを気にも留めず、化け物は棚の奥の壁を再び切り刻む。
パリン、という防御魔法が破られた音と共に、壁の奥には長い通路が現れた。
……恐怖で顔を歪ませた、幼い少年の姿と共に。
「あ、……見ぃつけた♡」
「ひっ!?」
怯え切った少年の短い悲鳴が、小さく響いた。
「なっ!?……バレットぉぉおお!!貴様、何故逃げなかった!!」
「ち、父上……。だって、だって……!」
カタカタと身体を震わす幼い息子に、魔王は苛立ちを顕わに叫ぶ。
それから、しがみ付く化け物の脚をよじ登り、腰へと手を掛けると、魔王は再び懇願した。
そこにいるのはもう、魔王ではなく、唯の父であった。
「た、頼む……!!この子だけは!!この子だけは見逃してくれ……!!我が子なのだ!!誰よりも、何よりも、愛しくて大切な!!我の宝なのだ……!!」
「宝……?」
「そうだ!宝だ!!だから頼む……!この子だけは!!」
「子供……。愛しい、宝……」
化け物は魔王の言葉を反芻する様に呟くと、子供を見つめて瞬く。
けれど、言葉の意味が理解出来なかったのか、化け物は小首を傾げると、闇より鋭利な蔦を伸ばし、少年へと矛先を向けた。
「や、やめ……!!」
魔王の制止を待たずして。
その蔦は、少年へと一気に襲い掛かった。
――が。
「う、……ぐっ!」
「は、母上……」
それを全身に浴びたのは、最後の力を振り絞って転移を果たし、息子の前へと立った女であった。
「あら?」
「……ごふっ。……こ、この子、だけは、……ころ、させない」
化け物はその光景に目を瞬かせると、女から蔦を抜いた。
その拍子に、女は人形の様にその場に崩れ落ちる。
「魔王様!!!」
女が倒れ伏したのとほぼ同時。
玉座の間より、全身ボロボロのとある男が駆け付けた。
「ギルーラ。……生きて、いたか」
「はい。……申し訳御座いません。侵入を止められなかったどころか、私だけが、……生き延びてしまいました」
「よい。それより、……分かるな?」
「……承知、致しております」
ギルーラと呼ばれたその男は、苦悶に満ちた顔で唇を噛み締める。
そして、「ブースト」と呟いた後、目にも止まらぬ速さで化け物の横を通り過ぎると、少年を瞬時に抱きかかえ、通路の奥へと走り去っていった。
「あらまぁ。……速いのねぇ?」
ふふふと笑いを零すと、化け物は踵を返して通路に背を向ける。
魔王は、もう姿が見えなくなった逃げ行く息子に安堵の吐息を零すと、ずるりと化け物の脚から剥がれ落ちた。
「子供……、か」
考え込む様に数歩進んだ後、化け物はそう小さく呟いて、狂気的な笑みと共に闇へと消えていった。
それは、何の気紛れか。
果たして、本当に見逃してくれたのか。
もしそうなら、何故なのか。
その真実を知る者は、当人以外に誰もいない。
「オ……リア……」
ずりずりと床を這い、倒れ伏す妻のもとへと身体を寄せる。
そして精一杯手を伸ばし、その手を掴んだ。
「オフィーリア。……我が、妻よ。……愛、して、……いるぞ」
「……私も、ですわ。……愛して、おります。デルガー様……」
涙を零しながら微笑んで、オフィーリアは「おさらば、ですわ」と最後に呟くと、静かに息を引き取った。
そしてそれを愛おし気に見送った後、魔王デルガーは顔をくしゃりと歪ませて、「さらばだ」と、後を追う様に意識を手放す。
逃げ延びた子は生き残り、その後何を思うのか。
はてさて。
壮絶なる憎しみの連鎖は、続いて行く。
後に辿り着く、悲劇という終幕に向けて――。
アルファが生まれるのは、それから暫くしてからです。
原初の吸血鬼が、家族という存在に興味を持ったきっかけのお話でした。




