お日様の匂い。
――ここは、どこだろうか。
目の前にいる、この人は誰?
顔が朧気で、よく分からない。
『ごめんね、ごめんね。……ごめんなさい』
涙を流しながら何度も謝るその人は、幼い私と兄を両手いっぱいに抱きしめる。
お日様の匂いが、した。
ああ、どうか、そんなに謝らないでくれ。
私は貴女が、たった一人で、頑張っていたのを知っている。
こんな、細い身体で、今まで耐えてくれたのだ。
向けられる理不尽を、その身一つで引き受けて、今まで必死に守ってくれた。
今度は、貴女自身が守られるべきだ。
手だってもう、荒れてボロボロじゃないか。
この手で、貴女は、どれだけの涙を拭ってきたのだろう。
部屋の隅で独り、顔を覆いながら、声を押し殺して泣いていたのを知っているよ。
頑張ったね。辛かったね。
幼すぎて、支えてあげられなかった私を、どうか許して。
私は、骨の感触が目立つ、今にも壊れそうな彼女の身体を、優しく抱きしめた。
もう顔も覚えていない貴女。
どうか、どうか、私たちの事など忘れて、せめて幸せになってくれ。
貴女だって人間なのだ。自分の幸せを求めて何が悪い?
貴女は何も悪くない。貴女だって被害者なのだ。
それを弱さだと、甘えだと、周りが貴女を責めるなら、私はそんな社会こそを憎んでやろう。
貴様らに何が分かるのかと。貴様らこそ、何も出来なかったではないかと。彼女がこんなに追い詰められ、ボロボロになっても尚、未だ気付くことすら出来なかったではないかと。
だから、頑張った貴女は悪くない。
だから、もう、逃げていいんだよ。
『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……』
その人は一頻り謝罪の言葉を口にした後、私と兄から体を離す。
そして涙を拭うと静かに立ち上がり、こちらを振り返ることなく去って行った。
その場に残されたのは、兄の泣きじゃくる声と、あの人の体温と、お日様の香り。
……さようなら。
もう、会う事はないけれど、伝える事も出来なかったけれど、今まで、ありがとう。
『――お母さん』
「……」
目を開けると、目の前には母様のお美しい寝顔があった。
時々、こういう事があるのだ。もう驚かなくなったが。
この人、時折私のベッドに入ってきては、私を抱き枕に二度寝をするのだ。
全く、……お陰で下らない夢を見てしまったではないか。
うんしょうんしょと、纏わりつく腕から抜け出そうとしていると、母様も目を覚ました。
おはよう、母様。今日も相変わらずお美しいですね。
「んー……。おはよう、ノーラ。……ふふ、起こしに来たのだけれど、よく眠っていたから悪いかと思って。暫く寝顔を見つめていたら、私も眠くなってしまったわ」
寝顔、見つめないでくれ、母様。
寝起きの柔らかい笑みを、至近距離から炸裂させないでくれ、母様。
「おはよう。もう起きるから、離してくれ」
「あら。もうちょっとイチャついていましょうよ。ロベルトにこれすると、照れて嫌がるの。もうそんなお年頃なのね……。母様は寂しいわ」
「母様、苦しい。マジ、苦しい」
悲しそうな表情で母様は私を力強く抱きしめた。
この細い腕のどこにそんな力があるのか。母様の腕力は凄まじい。
スーちゃんが私と母様の間で潰れかかっている。
救出を急がねば。
「あらら。ごめんね、ノーラ?」
母様は直ぐに腕の力を緩めると、私の頭を優しく撫で始めた。
……いい加減、解放して欲しいのだが。
「ふふ。それにしても、よく寝てたわねぇ。お腹空いたでしょう?」
「いや、あまり空いてないよ」
「そうなの?……ふふ、昨日の夜もいっぱい食べてたものねぇ。この小さなお腹の一体どこに、あれだけの量が入っていくのかしら?」
「ちょ、母様、やめ……!あは、あはははは!」
突如として、母様は私のお腹をくすぐりだす。
まじ、やめてくれ。
ちょっとした感情の昂りが、私にとっては洒落にならん。
「ふふふ。そういえば、ノーラ。昨晩は、エルちゃんに遊んでもらってたの?床にマントやら仮面やらが脱ぎ捨てたままだったわ。元気な事は良いことだけれど、ダメよ?遊んだ後はお片付けしなくちゃ。あと、寝るときはちゃんと着替えなさいね?……というか、どうせなら母様も混ぜてくれれば良かったのに。もう!」
母様は不機嫌そうに口を尖らせると、そのまま私の頬に唇を押し付けた。
……やめて下さい、母様。
「……ん、ごめんなさい」
「いいわ。でも、次は私も混ぜるのよ?」
そっちじゃないです、母様。
「さて、遅い朝食にしましょうか。ロベルトもきっと待ってるわ。エルちゃんもお腹を空かせてるんじゃないかしら?……そういえば、今朝からエルちゃんをみかけないわねぇ。お散歩でもしてるのかしら?」
「……」
……エル。
エル、エル、エル。
……。
あ、しまった。
「ごめん、母様。せっかく待っててくれたのに、朝食は要らない。エルとちょっと、……うん、ちょっと出かけてくる。夕食までには戻るよ」
「あらあら。また母様は仲間はずれなのね?分かったわ。別にいいわよ。このモヤモヤはロベルトにぶつけてやるんだから」
だそうだ、兄様。
悪いが頑張れ。
「本当にすまない。……その、次は、母様も一緒に遊んでくれると、嬉しい、かも」
くぅ……!
言いたくはないが、仕方ない!
俯きながらも小声で言う私の言葉に、母様の機嫌は、ほらこの通り。
めっちゃご機嫌だ。
「もう!可愛いんだから!えい、ゴロゴロゴロー!」
「わわ!?」
母様は、私を抱きしめたままベッドを転げ回る。
激しいです、母様。
何往復か転がった後、母様は漸く私を解放し、ベッドから下りてくれた。
安堵に息が零れる。
「ふふ。久しぶりにノーラを補給出来たわ。……さて、次はロベルトね」
補給って何だ。
そして兄様、次は貴方の番らしい。
「それじゃ、気を付けていってらっしゃい。エルちゃんにもよろしくね」
母様は私に笑顔で手を振ると、ドアを開けて部屋から出て行った。
……嵐の様な人である。
「さて、……うん。迎えに行くか」
エル、生きてるかなぁ。
強姦やら強盗やらに襲われていないだろうか。
無事に一晩、乗り切れただろうか。
心配である。
「……あ」
というか、夜じゃないけど影移動って出来るのかな。
エルの影を目印にすれば、出来……ると信じよう。うん。
母様か侍女が置いてくれたのだろう、テーブルの上に綺麗に畳まれたマントを羽織ると、仮面を装着。
スーちゃんを抱きしめながら、私は影へと潜っていった。
――そして案の定、エルの影から出てくることに成功。
思ったとおりである。
場所が分かっていれば、影が繋がってなくても移動可能なようだ。
「エル」
「……」
エルは路地裏で膝を抱えていた。
こちらをチラリと見た後、再び膝に顔を埋めて無言である。
「すまない、エル。眠気のあまり、エルを置いて邸に戻ってしまった。……ごめんね?無事で良かったよ」
「……」
私は苦笑すると、エルの隣に寄り添うように腰かけた。
暫く無言が続く。
そして、長い沈黙の後、漸くエルが口を開いた。
「……私を、置いていった」
「うん」
「一人に、した」
「うん」
「私の事、忘れてたでしょ」
「うん」
「そこは否定してよっ!」
エルは勢いよく顔を上げ、私を睨み付けた。
はて。正直に答えただけなのだが。
それにしても――、
「ふふ、あはは!ごめんごめん」
涙目で怒るエルの顔が面白くて、つい破顔してしまう。
いや、悪いとは思ってるんだけどね?
そんな私を見て、エルは脱力したように俯きだすと、力ない声で言葉を続け出した。
「私がいなくても、レオは、大丈夫なの?弱い私は、要らない?」
「……それは、有り得ないよ。エルがいなければ、私は今頃、狂気に飲まれていた。破壊衝動のままに周りを壊し、殺し、そしてそれは、自分に対しても例外じゃない。狂気に狂喜し、笑いながら自分を殺していたことだろう」
「……なら、置いてかないでよ」
「うん。ごめんね?」
私は困った様に笑いながら、エルの手を繋ぎ、頭を撫でた。
可哀想に。すっかり冷えてしまっている。
エルの手を自分のマントの中に引き入れて、温めてやる。
するとエルは、膝に顔を埋めながら、昨晩の事を語り始めた。
後半は涙声であったが。
「……心配、したんだからね。暫くしても戻らないから、荒野に戻って探したのよ?でも、魔物の死骸ばかりで、あなた、いないんだもの。入れ違いかと思って、い、急いで、街に戻ったけれど、やっぱりいないし。……う、ひっく。……ど、どこに行っちゃったのかなって、ひっく、私、私、心配、したのに……!」
ぐはっ。
流石に良心が痛んだ。
「そうか。……心配してくれて、ありがとう。心細い思いをさせて、ごめんね」
「うっ、……ひっく。ぐすっ」
とりあえず、エルが泣き止むまで、私はエルの頭を撫で続けたのだった。
普通、絵面的に逆じゃね?というツッコミは、この際置いておこう。
……そういえばエルも、母様と同じお日様の匂いがするよなぁ。
あと、森?みたいな匂い。
エルフって森に住む種族らしいし、その所為だろうか。
何となく、空を見上げる。
路地裏の薄汚い建物の間からは、青空にまん丸と浮かぶ太陽が。
日陰の中から見るそれは、眩しさだけが欠けた、どこか優しい色をしていた。
ああ、本当、今日もいい天気だ。




