泣いちゃった。
本はいい。
知識、思考、価値観、生き方、可能性。
紙面に綴られた文章を読むだけで、それら多くの事を教えてくれる。
カーティス家の書庫は、図書館かというぐらいに大きく、国宝並みの貴重な書物まで揃っているので大変楽しい。
しかもここ王都には、ルドア国最大の国立図書館もある。
しかもしかも、父様に頼めば一般人が読めないような重要書物まで、公爵家の権限で読み放題だとか。
当分は読む本が尽きる事はないだろう。むふふふふ。
思わず口元が緩む。
私はページを一枚捲ると、傍に置かれた紅茶を口に含んだ。
今日も私は、窓辺に寝そべる様に腰かけて、日がな一日読書をして過ごしている。
読み書きは、前世の記憶が戻る前から既に完璧だ。
大抵の事は一度見ただけで覚えてしまうのだから、天才って本当にいるんだねぇ。
……まぁ、私の事ですけどね!
女神の祝福に感謝である。
「ふあぁ……」
ふと集中が途切れると、欠伸と共に本から視線を外し、ベランダ越しに庭を見つめる。
風が運んでくる草花の香りに気を向けては、大きく伸びをした。
……優雅だ。
部屋を見渡せば、模様替えによって新たに置かれた、シンプル且つ最低限の家具と装飾品。
どこか物寂しいぐらいの部屋が丁度いい。
……はぁ、落ち着く。
前から使っていた可愛らしい家具などの品々は、捨てるのも勿体無いので隣の部屋に移動させ、そこをエルの私室として宛がっている。
最初にその部屋を見せた時、使用人の部屋とは思えない絢爛さに顔を引き攣らせていたが、少し経つと遠慮がちに天蓋付きベッドに腰かけて、口元を緩ませていた。
そして瞳を輝かせながら「お姫様みたいね!」と一言。
楽しそうで何よりである。
因みにエルは、私兵団に頼んで剣の稽古をつけてもらっていたり、侍女達に礼儀作法やらを叩き込まれていたりと、何やら毎日忙しそうだ。
今は私の部屋で、最近侍女たちに習った紅茶の淹れ方を実践しつつ、一服している。
「お茶の御代わり、いる?」
エルが期待を込めた瞳で見つめてきた。
「……貰おうかな」
「わかったわ!」
耳がピクリと動き、嬉しそうにティーポットを持って椅子から立ち上がる。
顔を緩ませながらこちらに早歩きで近づいてくる様は、まるで犬。
中腰になり、窓辺に置かれたカップに紅茶を注ぐと、エルは再び期待の眼差しを向けてきた。
私は「ありがとう」と礼を述べた後、すぐさま一口啜ってはこう返す。
「美味しいよ」
「……!!ふふ!」
それで漸くエルは椅子へと戻っていくのだ。
因みに、このやりとりは三回目である。
出来ることが増えるというのは、人間誰しも嬉しいものだ。
少々鬱陶しいが、今しばらくは付き合ってやろう。
私は小さく溜息を吐きながら、膝の上に乗せていたスーちゃんを撫でた。
膝上に乗せたスーちゃんの上に本を置くと、丁度良い高さになるのだ。
クッション代わりにもなる、有能で可愛い奴である。
ふふ、風が気持ちいい。今日もいい天気だな。
「……さて、エル」
「ん?どうしたの?」
私は一拍置いた後、微笑みながら短い髪を耳に掛け、窓辺から脚を下ろしてエルに向き直る。
そしてスーちゃんを膝から降ろすと、自分の影にゆっくりと身体を沈ませた。
「これ、どう思う?」
「……」
エルは笑顔のまま、その様子を無言で見つめていた。
私の身体が沈むのに合わせて、エルの視線も下がっていく。
身体が首元まで沈んだところで漸く止め、現在私は、窓辺に置かれた生首という絵面であろう。
「これ、どう思う?」
反応がないので、小首を傾げて再度問いかけた。
全く。人の話しかけに無言とは。
礼儀作法はまだまだの様だな。後で侍女たちに告げ口しておこう。
「ど、どど、ど、え、……はぁ!?」
「落ち着け」
「どういう状況!?」
「何か出来ちゃった」
「出来ちゃったって、……ええ!?ゆ、夢って、」
「夢じゃなかったわ。やっぱり」
「やっぱりって言いやがった!」
いやー。私も夢だと思いたかったんだけどね。
実際、ふわふわとした感覚で現実感なかったし。夢遊病って、あんな感じなんかね?多分違うだろうが。
でもまぁ、仮面を付けた子供の幽霊の噂を兄様から聞いた時、何か色々察しちゃったわ。確信しちゃったわ。
現実逃避、そろそろ無理だったわ。うん。
兄様としては、私をビビらせようと怖い話をしたつもりだったんだろうけど、違う意味で冷や汗掻いてしまった。
兄様。その子供の幽霊、今あなたの目の前にいるよ?という、ちょっとしたリアルホラーである。
「……と、とりあえず、その遊びを止めて。お願いだから。切実に」
「そうかい?」
首だけだして、日が当たっていない部屋の床をふよふよと泳いで遊んでいたら、エルが懇願してきた。
うんしょと身体を影から出して、床に足を着ける。
「えーっと……、正直に言うわ。邸の人達から例の噂、――子供の霊が魔物の血肉と戯れているっていう噂を聞いた時、もしかしてとは思っていたの。思ってはいたのよ。思っていたんだけど、……やっぱりかっ!!」
エルは勢いよくテーブルに顔を突っ伏した。
ガンッ、という鈍い音と共に、頭が掠めたことで傾いたソーサーから、必然的にカップが倒れる。
まだ湯気の立つ紅茶がエルの顔面を濡らしているが、大丈夫だろうか。熱くないんだろうか。
いや。自傷癖のあるエルにとっては、この程度の痛みは大したことないのかもしれない。うん、エルは強い子である。
「とりあえず、夕食後に私の部屋に来て欲しい。夢の再現をしてみたい。どうやらコレは、影のない場所には移動できないみたいでね。長距離の移動には、夜の様に影が繋がった状況にならないと出来ないみたいなんだ。視認可能な影になら、影同士が繋がってなくても出来るようだけど。……こんな風に」
私は自分の影に潜り、エルの影から出てくるという芸を披露して見せた。
「……きゃっ!?」
態勢を崩し、椅子から転げ落ちそうになるエル。
咄嗟にテーブルの端を掴むが、小さいティーテーブルではエルの体重を支え切れず、やはり椅子から転げ落ちてしまった。
テーブルも引っ繰り返り、ポットに入った熱々の紅茶と共にエルの頭上に降り注ぐ。
床に頭を強打するエル。
テーブルが顔面にめり込むエル。
更には、紅茶も滴るいい女、エル。
中々に様になっている。
面白……いや、大丈夫だろうか。死んでないだろうか。
心配である。
「熱っっちゃぁぁぁっっ!!」
あ、生きてた。
流石にこれは熱かったらしい。
顔を覆いながら転げまわっているが、大丈夫だろうか。
いや、きっと大丈夫だろう。エルは強い子である。
でもちょっと可哀想だったので、何か顔を冷やすものをと周囲を見回してみた。
……あ、これなら。
私は床に落ちていたそれを拾うと、急いでエルに駆け寄り、声を掛ける。
「エル」
「……?」
エルは顔から両手を離し、涙目で私に視線を向けた。
可哀想に。すっかり赤くなってしまっている。
私はすぐさまテーブルと一緒に引っ繰り返って床に落ちてしまった、生クリームたっぷりのケーキを、エルの顔面に急ぎ叩き付けた。
緊急事態なのだ。多少荒っぽくても仕方あるまい。
「……もがっ!?」
どうやら落ち着いたらしい。
エルは静かになった。
「……」
うん。赤から一転、顔面真っ白である。
危機は去った。
「ふ、ふえ……」
笛?
笛が欲しいのか?
そんなもの部屋にはないんだが……。
困った。よく分らんが、とりあえず棒状の笛っぽい物でもいいだろうか。
周りを見渡してみる。
……あ。
「すまない、エル。笛の代わりにこれでもいいだろうか」
「……むぐっ!?」
私はエルの腰に下げられていた短剣を取り外すと、勢いよく口へと捻じ込んでやった。
多少荒っぽいが、緊急事態だ。仕方ない。
しかし、エルは一体何がしたかったんだろうか。
顔の凹凸が不明な程にクリームが厚塗りされた顔面で、短剣を鞘ごと口に咥えるエルを一瞥。
……うむ。全くもってよく分からない。
少しして、エルの口から短剣がポロリと落ちた。
カーティス家の紋章が刻まれた、真新しい短剣。
毎朝、短剣を微笑みながら暫く見つめた後、満足げに腰に差すエルの姿を何度も見てきた。
新たに長剣と弓も貰ってはいたが、エルにとって、あの夕食での出来事は特別だったのだろう。
左手中指に嵌められた黒の指輪と同じく、この短剣も、間違いなくエルの宝物といってもいい品だ。
それが今では、見事にクリームでべたべたである。
「ふ、ふえーーーーーん……」
両手で顔を覆いながら喚く、エルの悲痛な声が木霊した。
――暫くして。
「ひっく、……うぐ、ひっく……」
現在。
体を丸め、床に顔を伏せながら、エルはすすり泣いている。
「すまない。良かれと思ってやったんだが、逆に泣かせてしまった」
「うぐっ、……ひっく」
私はエルに寄り添い、背中を擦り続けていた。
それから少しした後、エルは小さく顔を上げるが、目の前に転がるべたべたの短剣が視界に入り、再び「うわーーーんっ!!」と号泣し始める。
しまった。とりあえず短剣をどうにかせねば。
スーちゃぁぁぁぁんっ!!
私は窓辺で大人しくしているスーちゃんのもとへ短剣を持って走った。
「スーちゃん。この短剣のクリームだけ食べて、綺麗にしてくれるかい?短剣は溶かさないで欲しいんだが、……出来るだろうか?」
スーちゃんはぷるぷると震えた後、ゆっくりと短剣へと身体を摺り寄せる。
そして、形態が変わったかと思うと、短剣をスーちゃんの身体が包み込んだ。
……すごい。
短剣にスーちゃんの身体が薄らと張り付いて、ジェル状の膜が張られたズルリとした短剣の出来上がりである。
スーちゃんはもごもごと動いた後、短剣から離れ、元の楕円形へと戻っていった。
短剣もほら、ピカピカである。
素晴らしい。スーちゃん、有能過ぎて素晴らしい。
「ありがとう」
スーちゃんを抱きしめ、頬擦りをしながらエルのもとに戻った。
「ごめんね、エル。短剣、スーちゃんが綺麗にしてくれたよ?」
「ひっぐ。うっ、ひっぐ」
そろりと、こちらを見遣るエル。
クリームと涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃである。
「ほら、そろそろ泣き止んでくれなか?……ふふ、せっかくの美人が台無しだよ」
私は苦笑しながら、袖でエルの顔を拭いてやった。
袖が汚れたが、後でスーちゃんに綺麗にしてもらうので問題ない。
「レ、レオ……」
「本当にすまなかった。ちょっとした悪戯のつもりが、あんなに驚くとは思わなくて……。顔にケーキを投げつけたのも、急ぎ火傷を冷やそうと思っただけなんだ。短剣は……、うん、唯の勘違い、かな」
あはは、と苦笑い。
「だから、ごめんね?」
「う、うぐ、……えぐ。……レ、レオぉぉぉぉぉぅぅぅ」
涙腺が再び崩壊し、幼児の胸でおいおい泣き出すエル。
よしよし。
「レオの馬鹿ぁぁぁぁっ!!ひっく、ひっく」
「ごめんごめん」
小さく溜息を吐きながら、私はしばらくの間、エルの頭を撫で続けた。
……というより、幼児に慰められるって、エルにプライドというものはないのだろうか?
君、100歳過ぎてるんだよね?
退行してないかい?
そんな疑問がふと脳裏を過ぎったが、まぁ、とりあえず今は置いておこう。
部屋を見回す。
……うん。片付け、大変だなぁ。
絨毯、新しくしたばかりだったんだが……。
遊びが過ぎた……いや、何でもない。
エルの頭を抱えながら、ちょっと反省した今日この頃である。
絨毯に落ちた紅茶とケーキは、スーちゃんが美味しく頂きました。




