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如月駅  作者: 小島もりたか
登り線
4/17

トンネルの向こう側

半楕円形の光が大きくなる。


弥生は一歩歩く毎に、痛みで大きく喘いだ。

しかし、求めていた光を目指して一心不乱に歩を進め続ける。


「あ…ぅ…」


やっと踏み出せた光の先、そこには木々を分断して一直線に伸びる線路が続いていた。


そこに向こうの景色がうっすらと見える。


「もう…むり…」


弥生は圧倒的な光景に、挫けた。

その場に座り込む。その振動でさえ痛くてまた喘いだ。


眼前には美しく伸びる一本の線路。

その向こうの向こうににうっすらと赤い割れ目が見えた。


そこまで行くことすら気が遠くなるようなことなのに、その赤いーー恐らく崖なのだろうーー割れ目を越えることなど不可能に思えた。


割れ目には線路用に橋が掛かっているのが見えたが、あの太鼓と鈴の音と同様に、弥生の本能があそこに近づいてはいけないと警鐘を激しく鳴らしている。


「う…」


痛む左腕を見た。


相変わらず二の腕は抉れたまま、血も僅かに滴っている。

片手で、しかもあまり止血方法の知識もないままにここまで止血できていることが奇跡に近いだろう。


そして弥生は左肩を見て妙に納得する。


左腕は肩なんてないように力なくぶら下がっていた。


ーー外れてたのか…。


弥生は怪我に触れない程度に左腕に触れた。


関節を元に戻そうとしてみたが、肩が外れた経験もなければ、そういったことを治す医学的な知識もなかったため、たださらに痛みを与えて終わるだけだった。


激痛に堪えかね、蹲る。

吐き気はあったが、吐ける胃液すらなかった。


ーーもう50メートルもあるけない…。


素直にそう思った。


少し休めば100メートル位は歩けるようになれるかもしれなかったが、とてもではないがあの赤い割れ目までは行けない。

肉眼では見えてはいるが、それはそこだけが光を発しているからであって、少なくとも5キロはあるだろう。


ーーとりあえず、休もう…。



辺りを見回す。


トンネルの外は特に線路と森との境はなく、難なく線路から降りられることが救いだった。


トンネルの出入口横に程よく開けた場所があったので、のろのろとそこに移動して外壁にもたれ掛かった。


「うぅ…」


もたれ掛かって直ぐは腕が悲鳴を上げたが、しばらくすると歩いていた時よりから痛みがましになっていく。


トンネルはよく音が響く。


あの太鼓と鈴が近づいてきたら、すぐに聞こえるし、背中が守られていることにも安心できた。



ーーうでが痛い。


何故、何もしていないのに腕がこんなことになってしまったのだろうか?


疑問はいくらでも浮かぶが、そのどれもに明確な解答は浮かばなかった。



大きく空気を吸う。


僅かに湿り気がある。

土と緑の匂いがする。


こんなに木々があるのに、虫の声一つしないのがやけに寂しい。


風もなく、湿度もそれなりにある気はするが、それほど暑くは感じない。



痛みが落ち着いてくると、今度は再び孤独感が弥生を苛め始める。


寂しいが、かといって自分から電話を掛けようと思う体力が弥生にはなくなってしまっていた。


ーーけいた…。


恋人の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、


ぴーるるるる


とスマートフォンが鳴いた。


正確には、鳥の鳴き声の着信音が鳴った。


「慶太?!」


そして、その着信音は彼からの着信音だった。



残りの体力を振り絞って、電話に応答する。


「弥生?」


落ち着きのない声だった。

しかし、弥生は母の声を聴いた時より遥かに心が落ち着いた気がした。


「けいた…」


「よかった、無事だったんだ…」


どうやら彼も弥生の声を聞いて安心したらしい。

電話越しに深い安堵のため息が聞こえた。


「弥生がよく乗る電車で事故が起きたから、心配してたんだ。しかも、弥生から着信いっぱいきてたし、何があったん?」


「…キサラギ駅の話って、おぼえてる?」


彼は急な話で困惑したようだ、少し間があってから、肯定の返事がきた。


「覚えてるよ。…ごめん、まだバイトの合間でちょっとしか電話できない。それがどうしたん?」


「いま、そこにいるっぽい」


「…え?」


「さっきまでは何もなかったのに、トンネルこえてたら、急にうでが痛くなって、みたらケガしてた…まっくらで怖いし、うでは痛いし、もうイヤ…」


尚もぽつりぽつりと状況を説明しようとする弥生を、彼は慌てて止める。


「待って待って、最初からついていけない! 今、怪我してるの?」


「うん…いたい…」


「どんな怪我?」


「おっきく抉れてるのと、だっきゅう…?」


「え?! 大丈夫なのか、それは!? もしかして、治療もまだできてないの?!」


「止血はできたみたいだけど、かたは外れたままでいたい…」


「近くに人は?! 救急車は呼んだ?!」


「人はわたし以外、いない。きゅうきゅうしゃはよんでない」


「なんで呼んでないの! 俺が呼ぶからどこにいるか教えて! ぁ、すぃまーー」


向こうで彼が誰かと話しているのが聞こえた。

店の人に弥生のことを説明しているらしい。


「ごめん、弥生、それで今どこ? 救急車呼ぶから教えて」


「いさぬきってトンネルの出入口、むこうに大きい赤い谷みたいなのがみえる。えきはキサラギ駅でおりた」


「キサラギ駅って、都市伝説でしかない場所だろ? 冗談言ってないで、本当の場所言って」


「ウソじゃないよ…」


信じて貰えないのかと思った瞬間、涙が込み上がってきた。


信じてもらえるように、説明したいのに、そこらじゅうの配線が切れてしまっているかのように、頭が回らない。

思考に靄がかかっているみたいだ。


弥生の涙声に気がついたのだろう、彼の声音が優しさを帯びた。


「弥生、酔ってる? さっきから喋り方もちょっとおかしいし、大丈夫?」


「だいじょうぶじゃない…」



弥生は崩れかけていた体勢を直した。

本当はもう電話で腕を上げていることも辛かった。

頑張ってスマートフォンを耳に当てられているのは、単に彼の声を少しでも聴いていたかったからだ。


立て直した振動で、左腕が悲鳴を上げた。

つられて弥生も呻く。


「弥生、本当に今どこ? バイト抜けさせてもらって迎えに行くから」


「キサラギえき…」


「それ本当なの?」


「うん」


「本気で?」


「うん」


2度目に頷いた声に涙が混じった。

向こうで彼が絶句する声がした気がした。


「なあ、弥生。キサラギ駅に行ったってことは、電車に乗ってたってことだよな?」


「うん」


「弥生が乗った電車って、守井田駅何分発?」


「17時40分…?」


「ーーおいおい、冗談じゃないだろ?」


「なにが?」


「それって金丸駅何分着?」


彼は焦るように弥生の問いかけを無視してさらに弥生に問いかける。


そんな彼の様子になんとなく胸騒ぎがした。


「18時13時…」


「ちなみに松澤駅に何分に着くか覚えてる?」


「17時50分ぐらいじゃないかなぁ…」


「ーー」


弥生の答に、彼は本当に言葉を失ってしまったようだった。

それがさらに弥生を不安にさせる。


しばらくしても返答がない彼に弥生は呼び掛ける。


「けいた? けいた?」


返ってきた彼の声は酷く震えていた。


「弥生、その電車な、事故が起きたやつだ…」



ーーあぁ、なるほど。


弥生は妙に納得した。


ーーだから、だからだからだから、私はキサラギ駅に来てしまったのか。


ずっと思っていた、何故自分はキサラギ駅に来てしまったのだろうかと…。



ーー私は、でんしゃの事故にまきこまれたのね…。



遠くで彼が自分に話しかけている気がするのだが、何かが邪魔をして声を認識できない。


少しして、その音がスマートフォンの電池切れを知らせる音だったことに気がついた。


なんというタイミングなのだろう、弥生はトンネルを歩いているときにスマートフォンの充電をしなかった自分を恨んだ。


携帯用充電器は持っているのだ。

しかし今となってはもう、鞄から充電器を取り出してスマートフォンにアダプターを繋げることすら難しい話になってしまっている。



スマートフォンは無情に、音を発する。


ピーピッ、ピーピッ、ピーピッ


「ごめん、充電切れだ…」


もうあと5秒も残っていないだろう。


ピーピッ、ピーピッ、ピーピッ


弥生は最低限の言葉だけを伝えることにした。


「けいた、やくそく守れそうにない、ごめんね…」


「やよーー」


ピーーッ



弥生は無造作にスマートフォンを持った手を下ろした。


頭の中で彼の声を反芻する。



ーーごめん、けいた。もう私は、かえれそうにないよ…。


頭がぼうっとする。


弥生はなんとなく自分が浮いている気がしたーーいや、実際に浮いていたのだが、弥生本人は全く気がついていなかった。


自分の胸から、親指程度の太さの金色の綱が出ているように見えた。


その綱はふわりと宙に延び、赤い崖のそのまた向こうまで続いている。


弥生は自分がとうとう狂ってしまったのかと思った。



急に酷い睡魔が弥生を攻める。


ーーもう、いっそ寝てしまおう…。


そう思って、瞼を閉じた瞬間、


じゃり


とても近くで音がした。



弥生の覚醒は早かった。


浮遊していた感覚は地に戻り、しっかりと地を知覚する。


瞳を開けるとすぐに、音の発生源が分かった。

LEDライトの灯りが、線路の向こう側から近づいて来ている。



不思議と恐怖感はなかった。


ただ、ぼんやりと弟にトンネルの向こうで会った人に付いていってはダメだ、というようなことを言われたことを思い出していた。


ーーこの人なのかなぁ…。


やがて、灯りを持つ人物がトンネルの看板を照らす光の範囲に入ってきた。


お爺さんのような真っ白な髪を伸ばし、後ろで一つに括った若い男性だった。


男は弥生と目があった瞬間、男は僅かに驚いた表情を見せたが弥生は気がつかなかった。


「今晩は」


「ーーけほっ」


挨拶を返そうとして失敗する。


口の中が酸気付いているだけでなく、喉も酷く渇いていた。


男は弥生の惨状に特に驚きもせず、弥生に近づいて膝をついた。


自分でも自分が臭っているのは理解しており、正直に言うと近づいてほしくはなかったがどうしようもない。


男はどこからか新品の水のペットボトルを取り出し、それを開けて弥生の口にあてがった。


「飲みな」


弥生は小さく頷き、清潔な水を口に含んだ。


初めは口を濯ぎたかったが、当ててもらっている以上そんな我儘は言えなかった。


最初は酸っぱくて不味かった水が、口に含むうちに甘くなった。


ゴクッゴクッゴクッ


こ気味の良い音が喉から鳴る。


全ての水を飲みほすと、弥生の喉はやっと落ち着いた。


「ーーありがとう、ございます…」


目が合う。


弥生は直感的に目の前にいる男性が人間ではないと思ったが、不思議と恐ろしくは感じなかった。

久しぶりに見る人間だったからだろうか。

水を飲ませてくれたからだろうか。


「気にするな」


男は素っ気なく答えると、弥生の身体を改めて確認した。


「ーーよくここまで歩いてこれたな」


「とちゅうまでは、こんなんじゃなかったの」


男は一人納得したように頷く。


「あぁ、伊佐貫を抜けたからな…」


「いさぬき…?」


少し考えてそれが自分が通ったトンネルだということを思い出す。


「トンネルに何かあるんですか?」


「トンネルが二つ目の境界だからな」


「きょうかい?」


「そう、境界だーーお前、立てるか」


弥生は男の言葉に小さく首を振る。


腰から下に神経が通っていないように思えるほど足腰に力が入らなかった。


「そうか…なら、立てるまで待とう」


そう言って男は弥生から一歩離れた所に座った。



座ってから男は黙ったまま、赤い崖の方をぼうっと眺めている。


男は気にしていないようだったが、弥生は沈黙に堪えかねて口を開いた。


「あなたは、ここの人なんですか?」


「そうだな」


短く男は頷く。


「ここはどこですか?」


「言えない。心配するな、戻れば忘れる」


「私を、くるまにのせて、どこへ行くつもりですか?」


男は弥生の言葉に僅かに驚いたようだ。

崖に向けていた視線を弥生に向ける。


「なんで車に乗るってわかったんだ?」


訊いてしまってから失敗してしまったことに気がつく。


都市伝説の話からだと、この目の前にいる男が弥生を死に誘っていく男のはずだからだ。


しかし、弥生には隣に座る寡黙な男がそのようなことをするようには思えなかった。


「あ…いえ、その…」


弥生が言い淀んでいると、男は一人で勝手に納得した。


「あぁ、確かネットに載っていたな。お前はあの怪談を読んでたんだな」


男の言い方は他人事のようだった。


本人らしき人に訊くのも馬鹿らしい話だが、弥生は訊かずにはいられず、ついつい問いかけてしまう。


「ここは、あのキサラギ駅なんですか?」


「キサラギ駅はこのトンネルの向こうだな」


男の答えはもっともだったが、弥生の欲しい答えにはなっていなかった。


「本当は眠いのだろ? 寝てしまえばいい。そっちの方が早道だ」



確かに弥生は眠たかった。

しかし、隣に知らない男性がいる以上、そう易々とは寝ていられない。


「はやみちって、どういうこと?」


「そのままの意味だ。早く帰りたいのだろ?」


「そうですけど…」



寝れば早く帰れるとはどういうことなのだろう?


ぼんやりとそう考えている間に、また眠気の波がやってき始めた。


浮遊感の後に、また金色の綱が見えはじめる。


ーーそのまま綱を辿ればいい。


男の声が小さく聞こえた気がした。



薄く目を開く。


寂しそうな目をさせながら、薄く皮肉っぽく笑う男の姿が見えた気がした。


ーーこの人は、ずっとここに独りでいるのだろうか?


あの暗闇の道を、独りで歩いた時の寂しさを思い出す。


「ーーなっ?!」


気がつくと男の腕を掴んでいた。


男の腕は氷のように冷たくて気持ちよく感じたが、命のなさを証明された気がして少し心が痛んだ。


男が心底驚いたように目を見開いている。


男は咄嗟に弥生の腕を振り切ろうともがいたが、弥生は離さなかった。


「あなたはここにいるの?」



寝惚け半分で問い掛けた瞬間、弥生は地に叩きつけられた感覚で目を覚ました。


左腕に激痛が走り、呻き悶える。


痛みがほんの僅かに落ち着いて、男の顔を見上げるとそこに先程の男はいなかった。


肌の冷たさがそのまま瞳に凝縮されたのかと思うほど、男の瞳が冷酷に輝いていた。


逃げなければと思ったが、左腕の痛みがそれを許してくれない。



しゃり…


男が弥生の胸の上を跨ぎ膝をついた。


逃げることができない弥生の首もとにゆっくりと手を伸ばす。


「な…なにを…」


「気が変わった。お前はここに残れ」


「いや…」


弥生は力なく地面を蹴って抵抗するが、無駄だった。


手の力は緩に強められ、弥生の生気を奪っていく。



蛇口につけて水を入れられる風船のように、自分の頭も膨らんでいる気がする。


「うぅ…」


苦しさで目が開けられなくなる。

閉じた目の向こうで見たものはーー瓦礫の世界だった。


硝子の破片があちらこちらで煌めいている。

外からの微妙な光で煌めきを変える硝子は、いっそ美しかった。


あちらこちらで、おーいと誰かを呼ぶ声男性のが聞こえた。

濃い血の臭いがする。


一筋の光が弥生の傍で踊り、やがて弥生の顔を照らした。


「おい、こっちに女性がいるぞ!」


「ーー」


ーーここはどこ?


息が苦しい。

頭が痛い。今にも破裂してしまいそうだ。


橙色の服を着た男性が弥生の顔を覗く。


「あと少しで助けますので! ーー腕が挟まれてる、人手をくれ!」


『ーー凄い生命力だな』


ふと耳元から別の男の声が聞こえた。


「…?」


さらに首が苦しくなる。


「ーー」


助けてと橙色の男性に向けて発したはずの言葉は、吐息にすらならなかった。


弥生の意識はそこで途絶えた。

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