常闇の入口
走って走って走って、音が聞こえなくなる所まで走り続けて、やっと安心した頃には周りは森になっていた。
線路が木々という崖の谷底のように一本延びている。
落ち着いて辺りを見てみると、目が慣れてくれたお陰か、光源がなくとも二メートル程先までなら見えるようになっていた。
空と森との境界が曖昧で、見える範囲より先はやはり鮮烈な闇しか存在しないように錯覚する。
ーーあ。
上を見上げて、なんとなく感じていた違和の理由に気がついた。
空に月も星も雲もないのだ。
空にも森と同じように、ただ全てを吸い込むような闇が広がるだけだ。
にわかに鳥肌が立った。
ーー本当にここはどこだろう?
弥生は鳥肌を治めるように、皮膚をさすりながらなおもキサラギ駅とは反対方向に歩き続ける。
あの音よりも、広がり続ける闇の方が今はまだ怖くなかった。
森が全ての音を食べてしまっているように、音がない。
辛うじてある音といえば、弥生が歩いたときに出る音と肌を擦る音だけだった。
弥生以外に生者がいないようにーーいや、実際にいないのだろうーー辺りは静寂を保っている。
キィィィィィィ
耳鳴りが痛いほど聞こえる。
弥生はスマートフォンを取り出すと、電話帳を開いた。
誰かと話さなければ気が狂いそうだった。
ちゃんと発信音が鳴り、呼び出し音に切り替わることに安心する。
2コール目で相手が出てくれた。
「弥生!?」
電話の向こうで騒ぐ声が聞こえる。
母の声は焦っていて、でもどこか弥生を安心させた。
「電話通じるの?!」
「おかぁさん…」
一言目から、涙が混じってしまい内心驚いたが、喉の震えは治まってくれそうになかった。
「大丈夫なの、弥生?」
「なんとか…なんか太鼓と鈴の音が聞こえて逃げてきた…」
「今駅にいないの?」
「うん、線路歩いてる。真っ暗だし、怖いし、早く帰りたい! もう嫌だ!! どうしたらいいの?!」
ここまで我慢していた感情が爆発した。
やり場のない怒りが弥生の身の内で激しく燃え、また一方ではどうしようもない寂しさが寒々と弥生の心を凍えさせている。
「弥生…」
母が言い淀んでいると、向こう口で弟の声がした。
雑音の後に弟の声に切り替わる。
「もしもし、姉ちゃん?」
弟の声は泣いている私が馬鹿に思えてくる程落ち着いていた。
「私、もう帰れないのかなぁ…」
誰にともなく発した言葉は、自分でも酷く乾いた声だと思った。
普段ならドラマ等を観て泣いている私を小馬鹿にしてくる弟は、今回は何も言ってこなかった。
弟はただ冷静な声を発する。
「姉ちゃん、煙出せなかった?」
「頑張ったけど、無理だった…」
「線路遡ってる?」
「うん…。なんか反対側から太鼓と鈴の音が近づいてきて…逃げてる。駅には戻れない…無理」
「トンネルは?」
「トンネル…? 通ってないよ?」
視界が届くギリギリの範囲を見ていた視線を上に向ける。
「あーー」
「何?」
緩やかに曲がっている線路、視界を遮る木々の向こうから薄く光が漏れていた。
「光が…駅以外に明かりなかったから…」
弥生はスマートフォンを耳に当てたまま小走りで光に向かった。
電車の可能性も考えたが、音がしない。恐らく違うだろう。
カーブを走り抜き、弥生は久しぶりの光に思わず視線を逸らした。
目が暗闇に慣れていたせいで、すぐに目が慣れない。
目を慣らしつつゆっくり視線を上げる。
「トンネルだ…」
「トンネル? 名前とか書いてある?」
探す必要もなかった。
そもそも光源はトンネルの名前を示す看板を照らすものだったからだ。
煌々といささか主張しすぎなのでは、と思うほど看板は明るく照らされている。
弥生は名前をそのまま呼んだ。
「いさぬき…?」
トンネルに声が反響した。深いトンネルなのかもしれない。
「それ、一人目の人が通ったトンネルと同じトンネルだと思う」
「え…」
弥生は思わず息を呑んだ。
自分がその人と同じ舞台にいるということもあるが、それ以上に彼女の勇敢さにだ。
トンネルの中は外の闇より闇が深くみえる。
きっと看板を照らす灯りのせいもあるのだろうが…。
灯りに照らされ、ぽっかりと開いた口は地の底に続く穴にも見えた。
光のない外を歩くことも怖かったが、暗闇のトンネルを歩く方が更に恐ろしく思えた。
トンネルで何かに襲われたら逃げる場所もない。
それに中を覗いても向こう側が窺えない。
トンネルの長さはどれくらいになるのだろう?
弥生がたてる音が一々中で反響するのも、また怖い。
「姉ちゃん?」
弥生が黙っていたからだろう、弟が心配そうに弥生を呼んだ。
「ごめん、大丈夫じゃないけど、大丈夫ーーじゃない…」
やせ我慢しようとしたが、無理だった。
「何かあった?」
「トンネルの中が真っ暗で…入らなきゃ音に追い付かれるし、でも中は外の比じゃないくらい怖いし…」
「でも他に方法はないんだろ?」
「ーーうん…」
弥生には線路を歩いて帰るしか方法は思い付かなかった。
線路を外れて歩いてみるという手もあるにはあるが、恐らく生存率は遥かに劣るだろう。
「踏ん張りどころ、頑張れ」
「何よそれ」
弟らしくない言葉に弥生は少し微笑む。
「あと先に言っとくけど、トンネルの向こう側で人に会って、車に乗せてってくれるって言われても、ついてったらダメだからな」
「あ…」
思い出した。
一人目は車に乗ってしばらくしてから、音信が途絶えたのだ。
「わかった」
弥生は恐る恐る、トンネルの暗闇に一歩踏み出す。
「怖いから、電波途切れるまで何か楽しい話してて」
「わりと無茶振りだな」一歩踏み出す毎にその音がトンネル内に反響する。
電話の向こう側は普段道理なのに、何故私だけこんなところにいるのだろう? そんな疑問が頭から浮かんでは消えていく。
「ちなみに今テレビは晴トークのスペシャルやってる」
「え、何それずるい!」
晴トークは私の家族が毎週欠かさず観ているバラエティー番組である。
そういえば今週はスペシャルだった。
「しかもパクってちゃいたい芸人」
「録画してるよね?!」
「してるしてる」
「帰ったら絶対観てやる!」
弥生の意気込みが反響した。
トンネルはどうやら緩やかな上り坂になっているらしく、振り返った入口が小さなかまぼこのように見えた。
出口はまだ見えない。
少なくとも入口の高さ一つ分以上は上ることになるらしい。
入口の電気が煌々と戻っておいでと誘うが、弥生は何とか前に向きなおした。
「本当に真っ暗。自分の足下しか見えない」
「足下は見えるんだ」
「目が慣れるとなんとか見えるよ」
「スマホ、ライト替わりにしねぇの?」
「それより独りの恐怖のが耐え難い」
「慶太さんに電話すりゃいいじゃん」
「今バイト中」
「あー…ドンマイ」
「あー、なんでこんなことになっちゃったかなぁ…」
「日頃の行いじゃね?」
「それなら寧ろいいほうですよーっだ」
弟と他愛もない話をしながら闇を歩く。
ずいぶん歩いた気がするが、未だに出口は見えない。
弥生が電波の心配をし始めた頃、ちょうど電波が途切れた。
ツーツーツー
虚ろな音がスマートフォンから響く。
弥生は再び一人になった。
否、今度は誰かと連絡を取りたくてもとることはできない。
本当に独りだ。
「もー!! 出口まだなのー?!」
叫んだ言葉は弥生以外の誰にも届かなかった。
ただ虚しく反響するだけだ。
しばらく歩くが、まだ出口は見えてこない。
本当に出口があるのだろうか? という疑問が浮かんだが、電車が駅に到着する前にトンネルを通った記憶はあるので、確かに出口と入口は存在するはずだ。
辛うじて見える線路のお陰で、自分が前に向かって歩いているのだけは分かるが、それ以外は見ることができない。
線路を外れてトンネルの壁に沿って歩くことも考えたが、線路の外は何があるか分からず、恐ろしい。
試しに壁際に行くのも怖くて嫌だった。
「うー、ううーうー…」
頑張って鼻歌を歌ってみようとするが、歌が思い浮かばない上に、適当に出してみた音は誰かの呻き声にしか聞こえなかった。
じゃり…じゃり…
自分の発する音の一つ一つが、風呂場の何倍以上にも反響して、他人の音になって返ってくる。
「出口はまだなの…?」
気分的にはもう二時間は歩いている気がしたが、耐えかねてスマートフォンの時刻を確認するとまだ電話を終えてから五分程しか経っていなかった。
疲れから弥生の歩行速度は平均より遅いということを計算に入れても、まだ電話を終えてから一キロも歩いていないことになる。
「嘘…」
あまりの経過時間の少なさに、弥生は愕然とした。
苦痛な時間はこれ程までに時間が経たないものだったろうか?
弥生は僅かに歩行速度を上げた。
トンネルを入る前から足の裏が痛くなっている。
つきつきと魚の目が暴れているが我慢するしかなかった。
スニーカーを履いてきたことに感謝する。
きっとヒールならば半分も持たなかっただろう。
まだ自分は幸せな方だと思った時、
「ーー痛っ」
急に左腕が痛んだ。
その痛みは脚を踏み出す毎に増していき、終いには歩いた振動ですら酷い痛みを催すようになった。
「ーーなんで、なんで?」
とうとう左手の指一本も動かせなくなった。
余りの痛みから力が入らないーーいや、これはむしろ左手の動かしかたを忘れたようだった。
立ち止まってスマートフォンの光で左腕を照らす。
「ーー嘘…」
弥生は時間を見たとき以上に言葉を失った。
二の腕の肉が大きく削げ落ちていた。
ぴちゃ
静寂に一つ、音が響く。
「なんでなんでなんでなんでーーうっ」
弥生は余りの衝撃に嘔吐した。
胃液だけが口から流れ落ちる。
一通り吐き尽くすと、弥生は鞄から残り僅かになったお茶を取りだし、口を濯いだ。
吐き気が退いていくと、今度はまた痛みが還ってくる。
ーー痛い痛い痛い痛い痛い痛い……
意識が朦朧としてきた気がした。
そんな自分に気がつき、弥生は慌てて首を激しく横に振った。
「いったぁぁ…」
その振動でまた腕が痛み、意識が朦朧とする。
ーーこのままじゃ、ダメだ。とにかく、進まないと…。
薄い記憶から簡易的な止血処置を施すと、弥生は亡霊のように立ち上がり、ゆらりゆらりと歩を進め始めた。
途中、何度も躓いては転び嘔吐するのを繰り返した。
服は血と胃液にまみれ、濯ぐお茶すらなくなってからは、ずっと口が酸っぱいままだった。
もう後五分もしたら、自分は発狂してしまうだろうと思った時、前方に細い長方形が見えた。
「でぐちっ!? ーー痛っ!」
今すぐ走って出口に向かいたかったが、痛みが許してくれない。
弥生は精一杯の早歩きで出口に向かった。