近付く音
「嘘…」
無意識に声が出て、慌てて口を押さえる。
しかし静寂な車内に響く唐突な声にも、誰も目が覚めることはない。
今の弥生には、今の声で目覚めて貰えた方が嬉しい程だったが…。
電車の駆動音がくぐもったものに変わる。
今度はトンネルに入ったらしかった。
心臓を冷気が撫でたような気がした。
孤独感が身の内を食らい始める。
「嫌だ、嘘だ、キサラギ駅なんてただの都市伝説でしょ」
凍りついた車内に抗うように弥生は声を上げる。
「テレビか何かのドッキリでしょ? ねえ?」
弥生は隣の席で寝ている中年男性の肩を揺すった。
「すいません、ドッキリなんですよね?」
男性は骨がないように弥生の思うままに揺さぶられる。
起きる気配がない。
「あ…あ……」
今度は立ち上がり、立ったまま寝ている人に声をかけていくが、一通りの人が本当に寝てしまっていることの確認が取れただけだった。
「やめて、本当に、やめて…」
蹲って顔を手で覆う。
しかしそうやって現実逃避したところで、現状はなにも変わらなかった。
音が静かになっている。
どうやらトンネルを抜けたらしい。
現状を更に悪化させるように、車内放送が流れた。
『まもなく、キサラギ駅、キサラギ駅。キサラギ駅の次は終点、ホウテイマエになります』
ありがちな男性の車掌の声だった。
身体が僅かに前に引っ張られる。
電車が緩やかに減速を始めていた。
真っ白な頭で座り込んでいると、唐突に大切なことを思い出した。
「ライター!!」
確か煙を出すとあちらに戻れるとネットには書いてあったはずだ。
弥生は煙草を吸わないので、ライターは常備していない。
申し訳ないが車内にいる誰かから拝借するしかない。
慌てて立ち上がり、車内にいる人の荷物を確認する。
「 ーー嘘!」
電車の減速が増し、思わずよろめいた。
弥生以外誰も荷物を持っていなかった。
おかしいとは思ったが、脇目もふらず、立って寝ている人のポケットを上から叩く。
しかしどのポケットを叩いても空振りに終わった。
そうこうしている間に電車が止まった。
静寂を切り開くように電車のドアが開く。
「あぁぁぁあぁ…」
弥生はまだライターを探すか迷いに迷ってから、慌てて電車を下りた。
ここで下りそびれてしまったから、完全にあの世に逝ってしまう。
弥生が下りるのを待っていたのか、それとも弥生が幸運だったのか、電車は弥生が下りた途端あちこちある口をバタリと閉じた。
改めて電車を確認すると、不思議なことに車両が3つしかなかった。
弥生が乗った時は6両あったはずだ。
ーーあ、危なかった…。
闇に音と光を吸い込ませながら、弥生の乗っていた電車は耳が痛い程の静寂を残して行ってしまった。
そして弥生も残されてしまった。
キサラギ駅はネットで見た通り、無人の駅だった。
ホームにある線路は一筋しかなく、ホームも片側しかない。
屋根は一応あるが、ホームの端までは続いていない。
裸電球が一つだけホームの屋根からぶら下がり、それがホームの壁につけられた看板を薄暗く照らしていた。
「ーーキサラギ駅」
周りが静か過ぎて、自分の声がやけに大きく聞こえた。
「どうしよう…」
弥生は蹲った。
頬を涙が伝う。
幸か不幸か、誰もいないことで枷が外れた。
久しぶりに声を上げて、子供のように泣いた。
ひとしきり泣き終わると今度は一度は大人しくなっていた孤独感が再び胸の内で暴れ始める。
酷く慶太の声が聴きたくなった。
慶太は弥生が中学二年生の頃から付き合っている恋人である。
今、慶太はアルバイトで電話に出られないことは分かっていたが、それでも、と電話を掛けずにはいられなかった。
お馴染みの発信音が鳴り、やがて留守番電話サービスに繋がる。
弥生は発信履歴が慶太の名前で一杯になるまでそれを繰り返した。
やっと諦めた後、放心状態でホームの天井を見上げた。
ホームは全体的に埃っぽく、天井にある蜘蛛の巣にまで大きな埃が垂れ下がっている。
壁に貼り付けられた掲示物は、インクが飛んでしまっているものが殆どで、元の紙の色ばかりが目立ち、印字された内容は陽炎のようにぼやけてしまっている。
一体何年前から貼ってあるのだろうか?
それにしてもここのホームはずいぶんと昔から無人駅で、誰にも管理されていないように見える。
どこか遠くで鈴が鳴った気がした。
ホームの外は清々しい程の闇が広がり、何もうかがうことができない。
弥生は再びチャットを開いた。
何件も母と弟からメッセージが入っていたが、無視して書き込む。
弥生〉キサラギ駅に着いた。
弥生のメッセージは直ぐに既読になった。
弟〉あー、やっぱり下りちゃったか…。
弥生〉ダメだったの?
弟〉さっき調べてたら、下りなくて助かったケースもあるみたいだけど…。
弟〉どこまで本当か分からないしな…。
弥生〉そうなんだ…。
後悔がじわりと胸から滲む。
弥生〉次はホウテイマエ?とか言ってたよ。
母〉何それ怖い
母〉下りなくて正解だったんじゃない?
弟〉それよりライター持ってる?
弟もどうやら同じことを考えていたらしい。
少し笑んだ。
弥生〉持ってない。
弥生〉持ってる人探したけど、誰も、バックすら持ってる人がいなかった…。
弟〉なんとかして、煙出して
弥生〉分かってる
母〉戻ってきて…
弥生〉私も戻りたい
弥生はチャットを閉じると奥歯を噛み締めた。
夜の空気を感じる。
湿気を帯びた土の臭いがする。
空気は湿ってはいるが、露点までは大丈夫だろう。そう頷くと、弥生は掲示物の紙を数枚外した。
紙についた粉が指について不快だが、仕方ない。
どこか遠くで太鼓が鳴った気がした。
ーー何か火花がでそうなもの…。
弥生は辺りを見回す。
火花と言えば電気系統だが、スマートフォンは使えないし、予備の充電器もこれからのことを考えると使うべきではないだろう。
他に電気を使っている物と言えば…。
弥生はホームの天井を見上げた。
暗いといえばとても暗いがホームには一つだけ電球がある。
ーーあれの配線を使えば…。
立ち上がって裸電球から延びる配線を辿る。
配線は電球のお尻から延び、黒い身体に濃い白埃を着けながら天井に延びーー天井のコンセントに刺さっていた。
「ーーマジで?」
天井まで手を届かせるにはあともう一人自分が必要そうである。
これは非常に困った。
目の前に火花の元があるのに届かない。
動物実験でガラス張りの箱に餌を入れられた犬を思い出した。
なるほど、あの動物たちはこんな気持ちだったのかもしれないと思ったが、よくよく考えてみると、置かれている状況にかなり差異があった。
せめてもの抵抗で跳んでみるが、当たり前の話だが、届かない。
しかも届いたところで必要なのはコンセントの方だ。
欲しいものは電球ではない。
せめてもと、コンセントの元を探してみるがそれも見当たらない。
きっと他にコンセントがあるはずだと、構内の探索を始めると、ふと鈴の音が気になった。
ーー近くなってる?
よく耳を澄ませてみると、太鼓の音も聞こえた。
太鼓が一定のリズムで叩かれ、合いの手のように鈴が鳴る。
「ーー」
脚に百足が登ってくるように、弥生は足下から恐怖が登ってきた気がした。
電車が向かった方から、音がだんだんと近づいてきている。
そういえば、ネットで太鼓と鈴の音が近づいてきてるということを言っていなかったか?
あれはいったい誰が鳴らしているのだ?
ここは本当に人が住んでいるのか?
恐怖が焦りに変わる。
ここから早く離れなければ。
きっと私はあの音を鳴らしているモノたちに喰われてしまう。
そう錯覚させるものを、その音色は持っている。
ーー早くしなきゃ、早くしなきゃ、早くしなきゃ…。
足早に駅構内を歩く。
改札にはいかにも無人駅とでもいうべきか、無賃乗車をしてくれと言わんばかりに切符を入れるための箱が一つ置いてあるだけだった。
最近ではいくら無人とはいえ自動改札機かICカードを認証させる機械ぐらい置いてあるはずだろうが、ここの駅は20年程前から文明が進んでいないようだった。
改札を出て、券売機も探してみたが、券売機すら置いていない。
ざっと見た感じだと、本当にホームの電球以外に電気を使っているものはないようである。
焦る気持ちを押さえつけ、弥生は精一杯打開策を考える。
音がまた近くなった気がした。
ホームの天井に手を届かせようにも、天井が高い上に高さを補完する物が見当たらない。
天井のコンセントの元もなさそうだ。
そしてそこ以外にコンセントも見当たらない。
ーーイチか八か試すしかないか…。
弥生は徐に線路に降りると、ホームの光が辛うじて届く場所まで線路を 歩いた。
少しホームを離れるだけで、一気に周りの暗さが際立った。
闇が弥生の身を襲おうと今にも飛びてできそうな錯覚に陥る。
ホームがオアシスのように見えた。
戻りたい気持ちを抑えて弥生は線路の横に屈んだ。
更に音が近づいた気がした。
バックからポケットティッシュを1枚取りだし、それをできるだけ細かく千切る。
千切ったティッシュの一部で線路の鉄の部分ーー軌条を拭き、更に残りの一部をそこに置いた。
ついでに筆箱からシャー芯を一本取りだし、粉に成るまで砕き、千切ったティッシュにまぶす。
音はもう気のせいとは言えない程大きくなっている。
ーーでろ!
そして、線路の大きめの石の角と軌条を勢いよく擦り当てる。
火花はーー出なかった。
ーーでろ!
何度も、何度も弥生は震える手軌条に石を擦り当てる。
しかし何度行っても火花が散ることはなかった。
ーーくそ!
もう音が無視できない程近くになっていた。
打ち付ける面にシャー芯の粉を着けて行っても、ダメだった。
ーーもうダメ!! 無理!!
弥生は涙目になって駆け出した。
きっと後ろを振り返れば音を鳴らしていたモノの正体が分かっただろうが、振り返ってもし真後ろにそれがいたらと思うと、それすら怖くてできなかった。
人間で弥生を助けてくれる人達という可能性もあったが、弥生の勘は、身体は、それを真っ向的に否定する。
あれに追い付かれてはいけない。
あれはイケナイものだ。
全ての力をもって、キサラギ駅から逃げ出した。