願い
「如月!」
弥生は瞳を絶望に染めた如月に叫ぶ。
如月は弥生を振り返らない。
しっかり如月の身体を掴んでいないと振り落とされてしまう。
重力なんて関係ないに等しいのに、弥生は確かに己の体に重力を感じた。
ロケットの外にしがみついているように思える。
如月は一足で天へ上り詰める。
弥生が一瞬目を閉じてしまった頃にはもう、彼岸の空に辿り着いていた。
下から上ってきたはずであるのに、彼岸の空の高みにいることが不思議だった。
辺りはほぼ全てが闇でできていた。
光は二人の降り立つ先にのみ。
蛇が這っているような、赤黒い光を放つ長い裂け目がある。
いや、赤黒い色をしているのは弥生達の足元だけだ。
ずっと先のーー蛇でいう頭部の辺りは深い藍色をしている。
あの辺りは如月が三途の川にあたると言っていた。三途の川の先が地獄谷なのだ。
弥生は始めて、三途の川から地獄谷が虹の断面になっていることを知った。
「如月、正気に戻って!」
自分達は今、地獄谷に向かって落ちている。
遠くの風景として見えていた地獄谷が、今や向かっている先としてはっきりと認識できた。
「あれは玉藻なの!」
「承知している。でも、かぐやでもある」
「そりゃかぐやさんの魂を取り込んだもんね! でも、如月までも玉藻に喰われても何の意味もないでしょ?」
「意味はある。玉藻の中で俺とかぐやは一つになれる」
「その考えは間違ってる!」
「間違ってない! 俺を呼んでいたあの声は、かぐやの声でもあったんだ! かぐやが俺を呼んでいたんだ!」
「待ち受けてるのは玉藻だけどね!」
「それでも構わない。玉藻はかぐやなんだから。やっとかぐやの願いを叶えてられるんだ。邪魔しないでくれ!」
如月の声に呼応したように、地獄谷から迎えの手がやってくる。
如月はその手を迎えるように両腕を広げた。
弥生は弓に矢をかける。
姿が転じた。切れ長の目の女が弓を放つ。
矢がーー破魔の矢が白い尾を引きながら全ての手を掻き消した。
ーー本体は外したか……。
「皆の願いを無にするつもりか、大馬鹿者!」
今度は紫雲が怒鳴る。
如月が平手打ちをされたような表情をすると、紫雲の姿は消え、弥生に戻っていた。
「やっとこっちを見た」
弥生は如月の頬を両手で掴む。
自由落下が続いていた。
破魔の矢がかなり効いたらしい。再び手が伸びてくる気配はまだない。
「茨木さんや、鬼達の願いと努力を無にするつもりなの?」
如月は何度も瞬きをする。
なかなか脳に言葉が届いていないらしい。
「早まっちゃだめ。私の前世達の努力も無駄になっちゃう」
如月がやっと機械のように頷いた。
子供のような仕草に、弥生はクスリと笑う。
「全部終わらせよう」
「ーーうん」
如月の瞳に意志を感じとると、弥生はやっと如月の顔を解放した。
自由落下は続いている。
「紫雲殿の生まれ変わりだったんだな」
「そう。私って、昔から如月と関係があったんだね」
「そうだな。少し嬉しい」
「私も。閻魔様の言うとおり、偶然なんかなかったんだ」
「神と恋をした前世は何て名前だったんだ?」
「朝雛」
「朝雛ーー良い名前だな」
「ありがとう」
とうとう彼岸の地平を越えた。
ここからは玉藻の支配する世界だ。
赤黒い光が目に刺さる。
目を細めている間に底に着いた。
地に衝突する寸前に如月が勢いを殺す。
「紅い……」
弥生は思わず呟いた。
谷の底は紅ので溢れていた。
辺りは全て底暗い紅の光を放つ岩でできている。
髪が上に巻き上がり続け、額が丸出しになる。
「上昇気流?」
「俺達が熱さを感じないだけで、ここは本来灼熱の地獄なんだ」
「地獄……」
弥生は何度もその単語を心の中で反芻する。
「用心しろよ、ここら一帯はさっきの矢で浄化されたみたいだが、どこから玉藻が現れるかはわからないからな」
「うん」
弥生はごくりと唾液を呑み込んだ。
辺りは気持ち悪い程静かで、恐ろしい程何の気配もない。
玉藻も恐らく来訪者があったことに気がついているはずだ。
ーーこっちから向かわなくても、やってくるはず……。
そうお互いに理解しあって、弥生と如月は何も言わずとも背を向けあった。
視線が何十キロも続くであろう谷の底をなぞる。
どれ程先まで見渡せているかは分からないが、見える範囲では何の姿も捉えられなかった。
「ーー酒呑童児様はどこかえ?」
その声は突然頭上から降ってきた。
上方を振り向く間もなく、二人は前のめりに転がる。
前転して素早く体勢を立て直すと、二人が立っていた場所に女らしきモノが立っていた。
弥生に正面を、如月に背中を向けている。
辛うじて女と判断できたのは、それが鮮やかな十二単を身に付けていたからだ。
顔は認識できない。
全ての肌が墨のように黒い。
長すぎる髪までも墨のように黒いので、木炭の人形に綺麗な着物を着せているようだ。
そして背中には肌の色には不釣り合いな程の美しい小麦色の尾がついている。
それが口を開く。
口の中はやたらと赤く、いっそう不気味さを醸し出す。
「ーー酒呑童児様はどこかえ?」
壊れた人形のように、それは同じ言葉を繰り返した。
空気の匂いを嗅ぐ。
気がつくと回りは幾百もの同じ姿のそれに囲まれていた。
「我が君の匂い」
「我が君の匂い」
「我が君の匂い」
それらが勢いよく如月に振り向く。
それの顔を見た如月が動揺したのが見て取れた。
如月に歩みを進める。
「主はなんぞや?」
如月の顔を覗きこみ、首を傾げた。
「お前こそ、誰だ?」
「吾は玉藻なり」
「吾はかぐや」
「吾は玉藻」
「吾はかぐやなり」
「吾はかぐや」
「吾は玉藻なり」
それぞれの個体が口々に言った。
「主はなんぞや?」
最後に如月の前のそれがまた問いかける。
「俺は……」
如月の瞳が揺れた。
「如月、避けろ!」
如月は咄嗟に前に倒れた。
次の瞬間、背中をおぞましい程の清浄が通りすぎていく。
如月の背後にいたそれの群れは一掃された。
しかし目の前にいたそれは飛翔することで矢を免れていた。
朝雛は玉藻が避けられることは分かっていた。
最初から如月の背後に控える危険因子を取り除くつもりで矢を射ていた。
ーーあと一本……。
それだけで玉藻の本体から如月の角を取り返し、射止めて浄化しなければならない。
ーー恐らく玉藻の本体は今射止め損ねたあれだ。
今の矢で少しでも本体の力を損ねられていたら良かったが、それは求めすぎだろうと弥生は無理矢理納得する。
弥生が上空を睨むと、玉藻も弥生を睨んでいた。
「そなたは吾の邪魔をする気かえ?」
その言葉を皮切りに、背後に控えていた群れが一斉に弥生に飛びかかる。
弥生は間一髪でそれを避けた。
元いた場所に木炭人形の山ができる。
それらはのろのろと蠢き、弥生に手を延ばす。
弥生は必死で矢を放つことを我慢した。
「弥生!」
如月の絶叫に振り向こうとした瞬間、首に手が掛かっていた。
ーーしまった!
キリキリと首を締め上げられる。
血流も呼吸もないはずなのに、何故か苦しい。
爛れるように熱く、泥々としたものがそれに触れている首から流れてきていた。
足が浮く。
抵抗しようにも流れ込んできている穢れのせいで上手く身体が動かせない。
「弥生!」
身体が浮く感じがしてから、首一点に力が掛かった。
ーー苦しい。
やっと細目を開けて回りを窺うと、瞳を紅に染め、両腕を地に埋めた如月の姿が見えた。
如月の姿がみるみる膨れ上がる。
地から出した腕の先には刀のような爪がついていた。
玉藻が如月の攻撃を避けたらしい。
如月は幾重にも爪を振りかざすが、その度に避けられ、時には弥生を盾にされ、全くもって攻撃になっていなかった。
目に見えて弱り始めている弥生見て、如月は焦っていた。
ーーもう、いしきが……。
弥生の意識が途切れかけた瞬間、急に目の前の玉藻の姿が鈍い音と共に消えた。
訳も分からない間に腕から解放され、地に転げ落ちていた。
「かはっ」
弥生は地に転げ伏し、ぜえぜえと言いながら体勢を整える。
新たな影が弥生の前に立ち勇んでいた。
焦点がなかなか合わない。
しかしその背中の大きさ、姿勢で誰かは察することができた。
ーー茨木さん?
今まで見てきた姿よりも二回り程大きい。
肌の色も今までと異なる。
深い紫色をしている。
ごわごわに広がった髪からは空に向け1本の角が直立していた。
茨木は擬態を解いていた。
自身の背丈程もある青銅のこん棒を玉藻に向けて更に振り下ろす。
更に鈍い音が谷に響いた。
弥生が呆気に取られて見ていると、誰かに急に腕を引っ張り上げられた。
「大丈夫ですか、弥生様?」
「ーー熊童子さん?」
さらに熊童子の後ろでは、金熊童子らしき鬼がこん棒で木炭人形を凪ぎ払っている。
二鬼も擬態を解いていたが、普段からの雰囲気でなんとなく検討がついた。
熊が笑むと同時に茨木が叫んだ。
「お頭ぁ! 助太刀に参りました!」
同じく放心していた如月が、我に還り叫び返す。
「馬鹿野郎! お前らどうやって上に戻るつもりだ!」
「覚悟の上です!!」
玉藻が振り下ろされたこん棒の下から頭を出す。
発芽するように地から出てきた玉藻が茨木のこん棒を掴む。
そして粘土のように容易く歪められた。
「ーーちっ」
茨木はこん棒あっさりと諦めると、指笛を二度吹いた。
小気味の良い音が谷に響いたかと思うと、そらから二本のこん棒が落ちてきて、地に刺さった。
一本は鉄の、もう一本は鋼のこん棒で、青銅のこん棒より遥かに大きいものだった。
「お頭のこん棒です!」
「おう!」
如月は鋼のこん棒を軽々引き抜き、木刀でも振り回すように玉藻に振り抜く。
「それは酒呑童子様の物え?」
玉藻は衝撃で壁にめり込んだが、全く意に介さないように壁から抜け出た。
「何故ぬしが使こうとる?」
玉藻の雰囲気が変わった。
弥生は玉藻の周りから黒いオーラが発せられているように感じた。
玉藻の側頭部の髪が盛り上がった。
奇怪な音を発しながら、二本の角が表れる。
その場にいた鬼達や弥生は思わず息を呑んだ。
「ーー黒い」
玉藻に生えた角は、かつて酒呑童子の頭に付いていた、芸術品の様に美しい琥珀色の姿は面影はなく、玉藻と同じ様に木炭のように黒いものだった。
「うあぁぁあ!!」
あまりの変わりように茨木、熊、金熊の三鬼は涙を流し、雄叫びを上げながらこん棒を振り回す。
木炭人形は次々とこん棒に薙ぎ倒され、崩れていくが、茨木が振りかぶった玉藻だけは倒れなかった。
「邪魔をするでない」
玉藻の瞳が赤く光り、掴んだこん棒ごと茨木を小枝を捨てるように横に投げ飛ばす。
壁に沿って投げられ、茨木の姿が一瞬で紅い霞の向こうに消えた。
鬼のような何かが如月を見下ろす。
「主はなんぞや?」
「俺は如月だ」
「何故、酒呑童子様の物を使う?」
「これは俺の物だ」
「否、酒呑童子様の物なり」
如月が茨木よりさらに速くこん棒を振り抜く。
鋼が紅く煌めいた瞬間には玉藻は壁にめり込んでいた。
「返せ……」
玉藻がゆらりと壁から抜け出る。
にびた小麦色の炎が口から漏れ出た。
「返すのじゃ!」
鈍い陰を引きながら如月に飛び掛かる。
長い爪をくい込ませ、如月の首を締める。
「返すのはあなたの方でしょ!」
弥生はその瞬間を逃さなかった。
如月に襲い掛かる玉藻に飛び掛かる。
両手で左右それぞれの角を掴んだ。
ーー熱っ
掴んだ両の掌が焼ける感覚がした。
実際、焼ける音も弥生の耳には届いていた。
「返せ!」
「何をーー」
焼ける感覚にも、玉藻にも構わず力任せに後ろに引っ張ると
「ーーきゃっ!」
枯れ木の枝をもぐように、思いの外簡単に取れて、弥生は尻餅をついた。
「あぁぁあぁぁぁぁっ!!」
角の根元を中心に、玉藻の頭から黒い障気が噴出する。
弥生がもたもたしていると、如月が抱えて距離をおいた。
残っている木炭人形も本体の玉藻同様、側頭部を中心に黒い霧を噴出させる。
それぞれがそれぞれ絶叫し、まさに地獄のような光景に弥生は思わず息を呑んだ。
「返せぇぇえええ!!」
覚束ない足取りで玉藻は弥生に迫る。
「これは如月のものなんだから!」
弥生も負けじと叫び返す。
角を持った手が熱かった。
霊力を送ると僅かずつではあるが、黒みが薄くなっている。
それを見て弥生は安心した。
「玉藻ぉぉおお!」
茨木が凄まじい形相と勢いで玉藻の元に帰ってくる。
そして勢いもそのままにこん棒を振るった。
玉藻が壁にめり込む。
しかし今度はなかなか抜け出てこない。
「急に妖力が減った歪みがきてるんだ」
如月が呟く。
「返せぇぇえええ……」
壁に埋め込まれたまま、玉藻は弥生の持つ角に弱々しくも手を延ばす。
皮を墨色に染めた妖怪は、玉藻の姿をしたもので、まともな形を留めているものは玉藻本人だけになっていた。
「お前はとうとう俺が誰だか分からなかったんだな」
如月が哀れみを含んだ声で玉藻に語りかける。
「返せぇぇ……」
「玉藻。お前にも、俺みたいに救われる機会があればよかったんだけどな……」
「返すのじゃ……」
如月が弥生に視線を送る。
射てということなのは直ぐに理解できた。
弥生はーー朝雛は弓に矢をかける。
他の鬼達が息を呑んだ音が聞こえた気がした。
「かぐや、楽になれ」
如月の呟きと同時に、朝雛は矢を放った。
白い光線が玉藻を射抜いた瞬間、声が聞こえた気がした。
「ーーお頭、有難う」
白光は拡がり続ける。
弥生はあまりの眩しさに目を開けていられなかった。
弥生を崖を全て包み込み、弥生がおそるおそる目を開けた頃には、全てが白一色の世界になっていた。
「ここはーー」
見覚えがあった。
隣には人の姿に戻った如月が立っていたが、茨木達はいない。
泳がせていた視線を正面に戻すと、見覚えのある顔があった。
「ーー閻魔様」
閻魔は仏のような笑みを浮かべながら、弥生の手を掴む。
あ、と思い足元を探すと、曇りを残した琥珀の角が二本転がっていた。
「ありがとうございました」
「いえ、私はーー」
弥生は頭を振る。
頭が今に追い付いていなかった。
「茨木達は?」
如月が頭痛を抑えるように頭を押さえながら閻魔に問う。
「昇華しましたよ。それ以外にあそこを出る方法がありませんでしたから。これでやっと古株の鬼達が全員昇華しましたね」
「そうか……」
如月は脱力したように大の字に寝転がる。
「終わったんだな……」
「そうですね」
閻魔は落ちている角を拾う。
「弥生さん。最後にもう一踏ん張り浄化してあげてください」
弥生は言われた通り、角を手に取り霊力を送って浄化した。
角はみるみる澄んでいき、とうとう元の美しさを取り戻した。
弥生は二本の角を掲げて覗き見る。
「ーー綺麗」
鼈甲細工にさえ見える二本の角は、澄んだ妖力を湛え煌々と光を放つ。
自慢気に如月が笑った。
「そうだろ。俺の自慢の角だ」
「こんなに綺麗だったのに、玉藻についてただけであんなに汚れるもんなんだね」
「妖力が上手く結び付かなくて拒絶反応が出ていたようですね。だから容易くもげたんです」
「こっちとしては助かりましたけど、玉藻としては悲しい話ですね……」
「自業自得ですがね」
閻魔が苦笑いする。
「かぐやの魂はどうなったんですか?」
「玉藻に食われていた魂は皆無事にこちらに来ることができましたよ」
「良かった……」
弥生は心底安心して胸を撫で下ろす。
ふと二本の角を見つめる。
「……角ってどうやってもとに戻すの?」
「とりあえず刺してみるとか?」
弥生が言われた通り如月の頭に角を突き立てると、如月が慌ててそれを避けた。
「馬鹿! いや、俺の説明不足だけど! 本当に刺そうとするな!」
「弥生さん、根元に充てる感じですよ!」
「あ、そういうこと」
慌てて角の向きを変え、如月の側頭部ーーかつて角があった箇所に角を充てた。
瞬間、如月の身体が琥珀色に光った。
それと同時に自分の中に温かい塊が飛び込んでくる。
衝撃と眩しさで閉じた目を開けた時には、美しい角を天に伸ばした鬼が目の前に座っていた。
「ーーありがとう」
心からの笑みを浮かべながら如月が言った。
「これでお前は自由の身だ」
太い腕と厚い胸で、強く弥生を抱き締める。
「痛いよ、如月」
「すまん、すまん」
慌てて弥生を解放して頭を掻いた。
惚けた表情が弥生の笑いを誘う。
「あんまり笑うなよ、久しぶりだから力加減が難しいんだ」
改めて如月を見る。
鬼という恐ろしい姿をしているはずなのに、これっぽっちも恐くない。
ーーどんな姿をしていても如月は如月なんだ。
そう思うと、その恐ろしいはずの姿さえ愛おしく思える。
「如月はこれからどうするの?」
「昇華するには徳が足りないから、また暫くは鬼の里で修行だな」
「直ぐには現世に行けないの?」
「そうだな……」
如月が顔をしかめたのを見て、弥生もつられて眉間に皺を深く刻んだ。
「さて弥生さん。貴女は私の願いを叶えてくれました」
閻魔が微笑みながら言う。
「今度は私が貴女の願いを叶える番です。三つ、心に決めましたか?」
「ーーはい」
「一つ目は何でしょう?」
答えが分かっているかのように閻魔は微笑み続ける。
「死んだあの日から、現世でやり直したい」
閻魔は頷くと弥生を手招きした。
移動するらしい。
他人事のように聞いていた如月の腕を引き、ついていく。
法廷の建物に入る。
廊下まで白い、いりくんだ建物の中をぐねぐねと進み、閻魔は一つの部屋へ弥生達を招いた。
壁、床、天井が全て純白でできた部屋の真ん中に、古ぼけた井戸か穴を開けている。
井戸の中を除く。
「ーー白い。これは何ですか?」
「時空の穴と言ったら分かりやすいかな? 彼岸で過ごしている間にも現世では同じだけ時間が進んでいるからね。過去に戻らないと」
弥生は何度も目を瞬かせる。
確かに理屈的にはそうなのかもしれないが、まさか本当にタイムトラベルするとは思ってもいなかった。
そもそも、死んだあの日に戻ってやり直すというのもダメ元で言ったことだ。
「ここに飛び込んだら、あの日に戻れるんですか?」
「そうだね。でも、条件がある」
条件という言葉に胸がどきりと跳ねる。
「なんですか……?」
「こちらで起きたことは全て忘れる。もちろん、前世の記憶も」
「え、それって、茨木さん達のことも全部忘れるってことですか?」
「そういうことになるね」
「何で……?」
弥生は心にすきま風が吹いた気がした。
如月や他の鬼達と暮らした記憶や前世の記憶があまりに鮮烈で、そしてその記憶は今の弥生になくてはならないものになっていた。
「今の“弥生”の魂に悪影響なんだ」
如月がぶっきらぼうに説明する。
「忘れるのが嫌ならずっとここに居ればいい。どちらにしろ、前世の記憶は忘れさせられるけどな」
弥生は如月を睨む。
「私は、帰る」
閻魔が微笑む。
「さぁ、それなら早く飛び込むといいよ。残りの願い事はあちらの私に言ってくれればいいから」
「だそうだぞ。良かったな、弥生」
隣で如月が少し意地悪くしながらも笑む。
「閻魔様。“私”があの日に戻るのなら、閻魔様は“私”が死んだ日に、生き返る“私”と会ったことになりますよね?」
「そうだね」
「なら私の今考えてる願いは全部大丈夫ということですね?」
「そうだね。でもあえて言うなら、二つ目の願いは、今後の転生しても永遠に続くことになるよ。魂が繋がるから。その覚悟ができているなら、願うといい」
「それはむしろ好都合です!」
弥生は如月の太い腕を掴むと、井戸に身を投げた。
如月も道連れに落ちてくる。
「なーーっ、お前?!」
「閻魔様! ありがとうございました!!」
弥生が頭上に向かって叫ぶと「こちらこそーー」という閻魔の声が小さく聞こえた。
周りが白すぎて自分達が今落ちているのかすら分からない。
しかし衣服や髪は上に残ろうとしている。それが弥生に落ちている証拠を示す。
「何してるんだよ!」
如月が目を血走らせながら怒鳴る。
弥生は如月の逞しい身体を抱きしめた。
「もう独りにしないって決めた」
弥生の微笑みに如月が押し黙る。
照れたような如月の顔に弥生はさらに笑みを深くした。
「ーー皆にさよならを言いそびれちゃった」
「また輪廻の先で逢えるさ」
頭を落下の方向に落とす。
遥か彼方に小さな染みが見えた。
それは急速に大きくなり、すぐに二人を吸い込んだ。
白い空間に二つの染みが躍り出る。
弥生はその先で自分達を見上げる閻魔とその傍らで横たわっている自分の姿をしっかりと捉えた。




