朝日
毎夜明け方まで仲間と飲み騒ぎ、夕方まで暗闇の中で寝るという生活を繰り返していた。
それはとても愉快な毎日だったが、どこか満たされず、起きる度にそれを埋めるための何かを探していた。
時には山に迷い混んだ人間を、討伐に来た兵や陰陽師を捕まえては少しずつ削ったり、水に入れて煮えてみたりしたが、それらは一時的な愉しさを与えるだけで、物足りなさを埋めることは決してなかった。
いっそ人間の娘を拐って娶ってみようと、娶ってみたりもしたが、何も面白くなかった。
そんなある日、暇つぶしに逢魔が時に山を歩いていると変わった者がいた。
年の頃10歳程度の少女がいたのだ。
退治や迷い混んだ者以外で、この山に入ってくる者はいないに等しかったので、焦燥感もなく真っ直ぐな瞳で山に立つ少女はとても夕暮れの山に光って見えた。
目を細めて少女を見ていると、まっすぐこちらに向かって歩いてきた。
少女はこざっぱりとしているが、しかし十二分に高価そうな衣服を身に付けている。
こちらを睨み見上げる。
「そなたはこの山の鬼かえ?」
「如何にも。小さき者は我等に喰われにきたのか?」
「そうじゃ」
声を上げて笑った。久しぶりに心底面白いと思った。
すると少女は耳まで赤くして怒った。
「この期に及んで鬼にまで愚弄されるとは」
「愚弄はしておらぬ。小さき者よ、主は何故鬼に喰われたい?」
「言わぬ」
「なら喰わぬ」
彼が意地悪く笑うと、少女は
「そうか。ならば他をあたろう」
と冷たく頷いて素早く方向転換した。慌てて呼び止める。
「まてまて、我は鬼の頭だ。我が皆に言えば主を喰わぬぞ」
少女は振り向きじっとりと彼を睨んだ。
「意地の悪い」
「鬼だからのう」
近くに二つ並ぶ手頃な木を斬り倒して椅子にする。
片方に少女を座らせた。
少女はポツリポツリと経緯を話した。
自分は官位はあまり高くないが貴族の娘であること。
家族が叔父に殺されたこと。
自分はその叔父に引き取られ、嫌いな男と政略結婚させられること。
「大切な家族も死んだ。それだけでなく仇の道具になるならば、死のうと思った」
「仇討ちは考えぬのか?」
一瞬少女の顔があどけなくなったが、直ぐに元の顔に戻った。
「翁にそれはならぬと言われた」
「何故に?」
「人を殺さばその者は死んでもとれぬ業を背負うと」
「叔父は業を背負ったのか?」
少女は固い表情で首を横に振る。
「わからぬ」
「有りか無しか分からぬなら、問題なかろう」
少女は固い表情で首を横に振る。
「翁と約束した」
固い表情のまま、ポロポロと悔しさと哀しさを混ぜた涙を流す。
「それは、できぬ」
彼は淡々と頬から雫を溢す少女を見て戸惑った。
初めて見る種類の涙だったからだ。
今まで虐げてきた者が流してきた涙はもっと穢かった気がした。
その澄んだ涙を見て、彼は初めて人に心を動かされた。
「ならば我が仇を討つか?」
少女ははっとした表情を一瞬見せたが、すぐに苦笑いをした。
「まろがそなたに言い、そなたが殺せばそれはまろが殺したも同じであろ」
彼は頭を掻いた。そんな考え方をしたこともなかった。
「ならば主は怨みを晴らせぬではないか」
そう言うと少女は迷子になった子供のような顔をした。そして大粒の涙をヒタヒタと服に溢す。しかしその涙を拭おうとはせず、流れるまま、まっすぐな瞳で彼を見た。
思わずドキリとする。
「だからまろは死にたいのじゃ。このままではやがて気が狂う」
「まだ死に急ぐには早かろう…」
「ではどうすればよいのじゃ?」
彼は困った。このままこの少女を殺してしまうのは惜しいと思ってしまっていた。
そして彼は一つの嘘を思いついた。
「ならば我等と暮らせ。五年もすれば主も鬼になる。鬼は人ではない。叔父を殺しても業は背負わぬだろう」
少女の瞳が暗く輝いた。
*****
部屋のノック音で弥生は目を覚ました。
「なに?」
「飯だ」如月が短く告げる。
「ん」
リビングに行くと既に朝食が用意してあった。
テレビに写っている番組はバラエティなので、正確には恐らく夕食なのだろうが、弥生は起きて直ぐに食べるご飯は朝食と定義することにした。
ここでは時間の概念がないに等しいので、この頃は現世の時間に関係なく、眠くなったら寝るという生活になっている。
朝食のオムライスと謎の植物達を食べながらぼうっとテレビを眺める。
ーー夢に出てきた女の子、よくよく考えると凄く美人だったかも…。
アヒルの玩具のような実を噛む。噛む度にぽぴぽぴと音が鳴る。
「今日は久しぶりに出掛けるぞ」
如月がぶっきらぼうに言う。
「どこに?」
「出掛けるというか、仕事だな。トンネルに行く。出口付近」
「なんで?」
「久しぶりにキサラギ駅で人がおりたようだ。拾いに行って、場合によっては現世まで送る」
「如月そんなこともしてたの?」
「キサラギ駅は俺の管轄だからな」
「なんというか…やっぱり不条理感…」
改めて考えると弥生は殺しておいて、今日来てしまった人は助けるというのは、とても複雑な気分だった。
弥生が軽く睨んでも如月は「すまんな」と澄まし顔で謝ってくるだけで対して反省している様子はない。
食事をとってから少しして家を出た。
車に乗ってトンネルに向かう。
トンネルについてから暫くすると、小さいものと大きいものの影が二つ、寄り添いながら走り出てきた。
外の光目掛け走ってきたのだろう。
明るい所に出ると二人して座り込んだ。
そして落ち着いて辺りを見回して落ち込む。
「行くぞ」という如月の言葉と共に、トンネルの灯り目掛けて歩き出た。
二人と弥生が大きく目を見開いた。
「…萌木ちゃん?」
「月並先生?」
萌木は弥生に抱き付くと、弥生も反射的に萌木を抱き締め返した。
弥生の腕の中で萌木は泣きじゃくる。萌木の隣にいた小さい女の子が心配そうな顔で萌木を見上げていた。
「先生、先生、怖かった…周りに何もないし、真っ暗だし…」
「うんうん、怖かったね…」
弥生は優しく萌木の背中を撫でる。
萌木は弥生が生前に個別塾の講師をしていた際の生徒の一人だった。
数学が苦手で英語が得意な中学二年の彼女は、理数系担当の弥生によく質問をしてきていた。
ーーまさか萌木ちゃんが…。
下唇を噛み締めていると、ふと萌木が涙に濡れた頬を上げた。
「先生、そういえば何でここにいるの?」
何かしらの影響で記憶があやふやになっているのだろうと思った。
そしてその事実に気がついてくれなくて、弥生は心の内で安堵した。
弥生が質問に答えないでいると、萌木はさらに質問を重ねる。
「先生ここどこ?」
ーー何て答えたらいいのだろう?
戸惑っていると如月が口を開いた。
「ヒガン市だ」
「何県ですか?」
「家に帰ってから調べればいい」
萌木は困ったように弥生を見たが、弥生はそれ以上に良い答えがわからなかったので何も言えない。
「おねぇちゃん…」
幼い女の子が萌木のスカートの裾を引く。
「あ、ごめんね。先生がいたから、もう帰れるよ」
「はやくかえりたいよ…」
「もうちょっとの我慢だからね」
今にも泣き出しそうな女の子の頭を、萌木は優しく撫でる。
「先生、ここからどうやったら帰れますか?」
「終電も終わったから、乗せてってやるよ」
弥生が答える前に如月が言った。
瞬時に萌木の顔に色が増すが、萌木は再び暗い表情になった。
気持ちを察したように如月は続ける。
「安心しろ、『先生』も一緒だ」
「先生ホント?」
「あ、うん。もちろん。心配だもん」
心配だもんのところで如月を睨む。如月は口をへの字に曲げた。
「じゃあ行くから車に乗れ」
言われるがまま、二人は如月の車の後部座席に腰をおろした。
女の子が萌木の手をきつく握っているのが印象の残った。
不安を断ち切るように萌木はやたらと明るい声を上げる。
「水曜日の数学の小テスト、先生のお陰で満点とれたんだよ」
「…いつの?」
「今週の連立方程式の小テスト! 先生もう忘れちゃった?」
弥生は訳が分からず目を白黒させる。
萌木に連立方程式の授業をした覚えも、解き方を教えた記憶もなかった。
なので弥生はこれもこちらに来たせいで萌木の記憶が混雑しているのだと思った。
他の新しい講師が教えたものを弥生が教えたと思っているのだろうと。
ーー触れない方がいいよね。
そっと悲しい気持ちで自分に蓋をする。
「あ、そういえば、そうだったかー。やったじゃん」
「先生大事な教え子の小テストのことを忘れるなんて酷いよー」
「ごめん、ごめん。そういえばーー」
萌木の近況や他の生徒の近況を訊いていると、萌木は眠たそうによく欠伸をするようになった。
女の子は既に萌木に寄りかかるようにして寝ている。
「先生、あとどれくらいで着く?」
「どれくらい?」そのまま如月に訊く。
「あと一時間はいるな」
外を見るとまだ街灯一つない森の中を走っている。
「うわぁ…。私らめっちゃ遠くまで行ってたんだ」
「寝てていいからね?」半分如月に訊きながら言と、如月は「おう」と頷いた。
「はーい」
萌木は大きな欠伸をする。
「そういえば、どうやってあそこまで行ったの?」
「んー、なんか気がついたら知らない電車に乗ってて、降りようにもなかなか停まらないし、困ってたらユメちゃんーーこの女の子が泣いてるの見つけて、二人でやっと停まった駅に降りたら何にもないし、じっと電車が来るの待ってたら変な音が聞こえてきて、怖くなって線路を逆に歩いていった感じ」
「そうなんだ。怖かったよね、電気もないし」
「そうっ、そうっ! 何で街灯もないの? みたいな。ってか、トンネル何で真っ暗なの? 本当に怖かったんだけど」
「だよねぇ…」
弥生は深く頷く。
「先生はあそこに何しに行ってたの?」
「うーんと…」
「明日は部活があるんじゃないのか? 寝といた方がいいぞ」
「あ…」
如月の言葉に萌木はしまったと頭を掻いた。
本当に寝ていいの? と萌木が目配せするので弥生はいいよと頷いた。
「すいませんが…」
「うん、お休み」
「お休みなさい」
心底眠かったようで、萌木は一度目を瞑るとそこから一息で寝息に変わった。
彼女達にはいったい何が起こったのだろう?
二人の身に起こったことを考えると胸が痛んだ。
弥生もまだ十分に若かったが、二人はーー特にユメちゃんというこの女の子は死ぬにはまだ幼過ぎるだろう。
萌木もあのトンネルまでよく頑張ったと思う。
弥生の場合は、トンネルの中は完全に独りだったが、部分部分で電話で誰かに相談にのれていた。
萌木の場合は頼る相手もおらず、むしろ知らない小さな女の子に頼られる立場にあったのだ。
ーーお疲れ様。
心の内でそっと労う。
弥生の場合は違ったが、本来なら如月に出会ってしまえば、後は生き返ることができるはずだ。
ーーよかった。
後ろの二人の寝顔を改めて見ていると、二人の胸からふんわりと金色の糸が延びていることに気がついた。
ユメは木綿糸、萌木は蜘蛛の糸のような太さだ。
「教え子の方はかなり危ういな」
如月が突然そう呟き、弥生は勢いよく振り向いた。
「なにが?」
「肉体に戻れるか」
淡白に言いつつ、弥生は車の速度がいつもよりかなり早いことに気がついた。
「なんで?」
「胸から出てる糸があるだろ? それは身体と魂を繋いでいるんだが、教え子の方はかなり細い。切れかかってる」
「切れると戻れないってこと?」
「そうだ。戻れなくなって、死ぬ」
「そんな…なんで?」
「恐らく体力がなくなってきてるんだ」
「体力って、身体の?」
それ以外にないだろ、と如月の視線が告げる。
「もっと急げないの?」
「善処は尽くす」
当たり前かのように頷いてから、如月は更にアクセルを踏んだ。
「あとどれぐらい大丈夫そうなの?」
「一時間ぐらいだな」
「着く時間と一緒ぐらい…」
弥生は焦燥感に駆られる。
自分には何ができるかと考えていると、急に萌木の糸の輝きがなくなった。
「如月、萌木の糸が薄くなった、どういこと?」
如月は小さく舌打ちする。
「何色に見える?」
弥生はその細い糸によく目を凝らす。細くなりすぎて目にとらえるだけでも一苦労するする程だ。
「ーー銀」
「ならあと30分程度だな」
どうしよう、と如月に訴えかけようとして思いとどまる。
振り返った如月の表情が険しかったからだ。
少しして一瞬如月が弥生に目を合わせる。
「本当は使いたくないが、近道を使う。弥生は俺の言うとおりに動いてくれ」
そう言うと如月は何かぶつぶつと呟いてから急にハンドルをきった。
弥生は遠心力でドアにぶつかったが、後ろの二人は何事もなかったのように微動だにしない。
近道とはどういことだろうと、フロントガラスの向こうを確認する。
紅い光が見えた。
ーー地獄谷…。
弥生の中で近付きたいと思う気持ちと、そこを怖れる気持ちが揺らめく。
地から沸き出る紅い光はみるみる間に大きくなる。
あと一分も経たない間に地獄谷に達するだろう。
如月が口早に説明する。
「地獄谷の上を渡る。橋はない。車は、俺が翔ばす。弥生はハンドルを真っ直ぐ握っていてくれればいい」
「ハンドルを真っ直ぐね! もう握っとく?」
訊くと如月は神妙に頷いた。弥生は前方を真っ直ぐ見て、車の進行方向が真っ直ぐになるようにハンドルを握った。
「何があっても真っ直ぐだ。前だけ見てろ」
やけに風景が早く進むと思っていたら、車の速度計は200を示していた。
前方には地がない。
代わりに紅蓮の光が煌々と空へ沸きだしている。
あと数秒で車が走る地がなくなる。そう思った瞬間、赤黒い腕が幾重も車に向かって伸びてきた。
「え、なーー」
「行くぞ」
車が地を離れた。
しかし特段浮遊感も、地がなくなった振動もないまま車は猛スピードで前進を進める。
ただ、前方が見えなくなるほどの腕が車に襲いかかってくる。
憎悪でできたようなその腕は、地獄谷の底から手を伸ばし車を地獄谷に引き入れようとするが、車はなんとかそれに逆らい前進を進める。
下降と上昇、横転と反転、衝突、横揺れを車は繰り返す。
腕が車に当たる度に血らしき赤い液体が付着した。フロントガラスがほとんどそれに覆い尽くされる前に、慌ててワイパーをかける。
色んなものに酔いそうになりながらも弥生は懸命にハンドルを固定した。
突然急激な落下感があった。車に大きな欠伸を錆びた小麦色の指が掛かっている。
「…なに?」
不安がすっと口から漏れる。如月が小さく毒づいたのが聞こえた。
下降感は続く。
車を追ってとてつもない勢いで腕達が降りてくるのが見えて、弥生はかなりの勢いで車が底に引かれていることを察した。
「前だけ見てろ」
瞬時に視界が白銀一色に染まった。それと同時に急激な上昇感がある。
下の方から穢い悲鳴が聞こえた。
腕の攻撃が増す。
これがいつまで続くのだろうと思ったところで、急に前方が拓けた。
「あれーー?」
前方には見覚えのある荒れ地。
弥生は咄嗟にハンドルを間違えて知らない間に戻ってきてしまったのかと思った。
追い縋る腕を振り払い、車は地に降り立つ。
それでも腕は追ってきたが、車が草原らしき場所に入るとピタリと追ってくるのを止めた。
如月がハンドルを握る。
「もう大丈夫だ」
「ちゃんと渡りきれた?」
「ああ」
如月が安心したように頷くので、弥生は安堵の溜め息を吐いた。
振り向くと如月は珠のような汗を掻いていた。
シャツも肩まで濡れ、髪からは何滴か滴が零れる程だ。
「さっきのは何?」
「地獄谷に落とされた妖怪の仕業だ」
弥生は納得して頷く。
つまりは道連れにしようとしたのだ。
「安心しろ、もうすぐで現世だ」
「現世…」
外を覗く。
草原がグラデーションのように薄くなり、やがて夜空に変わった。
明け方が近く、東の方が薄い橙に染まりつつある。
そしてその下には銀河の様な街が広がる。
所々が海岸線沿いに縁取られているのが面白かった。
それがみるみるうちに大きくなる。
「間に合ったな」
如月が後ろを振り向くので、弥生もつられて振り向く。
体がふわりとシートから浮き上がり、胸から延びる糸に引かれるように二人の体が傾いていた。
朝日が登る。
二人の体を橙に染めた。
二人は目を瞑ったまま、糸を辿るように車を通り抜けて地に降りていった。
ーー元気でね。
もう二度と会うことはないだろう萌木に弥生は心の内でそっと別れを告げた。
久しぶりに見た太陽が眩しくて、嬉しくて、知らずのうちに涙を流していた。
「ありがとう」
弥生が小さく言うと、「おう」と如月が小さく返した。
ーーーー
身体中が痛くて目が覚めた。
起き上がろうとして、あまりの痛みに小さく悲鳴を漏らす。
「ーー萌木?」
母の声になんとか振り向くと、青白い顔をした母が泣きそうな顔で自分の手を握っていた。
萌木は驚いた。
「お母さん?」
「萌木!」
力強く手を握られる。
そしてやっと気がつく、寝ている場所はどこかの病院であることに。
母が慌ててナースコールボタンを押す。
萌木はそれをどこか遠くの風景を見るような感覚で見ていた。
慌てて看護師がやってくる。
萌木が起きたことを見るなり、慌てて出ていった。
「私、どうしたんだっけ…?」
「友達とスノーボードに行って、遭難してたのよ」
ーーあれ、そうだっけ?
最近のことを思い出そうにも頭が真っ白で何も思い出せない。
記憶を引き出す以前に引き出しがない感覚がした。
「助けようとした女の子は無事だって」
「女の子?」
「コースからはぐれた女の子を追いかけて遭難したみたいよ」
「そうなんだ…」
どこか他人事のように頷く萌木を母は睨む。
「そうなんだって、塾の先生が偶然見つけてくれなかったら死んでたところなんだから! 先生に感謝してよ!!」
母に声を荒げられても、萌木は上の空だ。
ーーあ、そうだ。先生にお礼言わないと…。