声
天上がまっ平らになった大岩の上には、大岩の底が見えないほどに大瓶が敷き詰められていた。
大岩の上にのせきれなくて、地面に置いてあるのも数多くある。
眉間に力が入ったのが分かった。
近くに伝言メモが置いてあった。
手にとって見る。
流れるような文字が一言書いてあった。
『我らも待ちます』
メモが歪んだ。手が強く握りしめていた。
視界に入った手は腐りかけのように赤紫色をしており、爪も鋭利に延びている。
握りしめた力で掌に爪が刺さらないのは、掌の皮がそれ以上に硬いからだろう。
何もない星のない空を見上げる、「馬鹿者」という言葉が口から漏れていた。
数多くの酒瓶を淡々と大きな手押し車に乗せてから、長く歩いた。
土に深い溝を残しながら、しかし足取りは軽く進む。
長く洞穴を通ると再び森の中にでた。
光が一つもない、濃密な闇が広がっている。
風もないのに森がざわざわと揺れた。
顔が苦笑いの形に歪む。
しばらく歩くと壁すらもない、粗末な小屋についた。
小屋には山のように物が積んであったが、手押し車に乗せられているような酒瓶は一つもない。
手押し車から酒瓶を下ろしていると、小さな影が一つ現れた。
耳がやっと腰に届く程度の大きさの、着物を着た灰色の鼠だった。
鼠は驚き、息を飲んだあと、意を決したように一言言った。
「お手伝い致します」
その鼠が言うや否や、十数匹の似たような鼠がどこからか現れた。
「私めもお手伝い致します」
鼠達は口々にそう言うと、数匹の鼠が寄ってきた。
「寄るな、手伝いもいらぬ」
素早く逃げたつもりだったが、遅かった。
酒瓶を受け取ろうとした鼠の手が触れる。瞬間、
「ぎぎぎっ」
触れた鼠が感電したように震えた。
「くそ…っ!」
鼠は磁石にくっついた鉄のように、震え苦しみながらも離れられずにいるようだった。
目に見えて、鼠の身体が膨張していく。
他の鼠が瞬時に怯え下がったのを横目で確認しながら、素早く反対の手で鼠の手を剥がしにかかる。
「ぎぎぎぎぎぎっ」
剥がしにかかった手を勢いに任せて素早く放す。しかし、放した手はやけに軽かった。
ガサッ
土の上に物が落ちたのに気がついて振り向くと、そこには醜く螺曲がった鼠の手が落ちていた。
「…遅かったか」
束縛を失った鼠は、千切れた腕を探すように、ふらふらと二つの眼球を顔の外で遊ばせながら歩いたあと、体内の物を撒き散らしながら倒れた。
しばらく余韻のように痙攣したあと、ゆっくりと静かになった。
闇が鼠だけでなく音も食べたように、静寂が広がったいた。
「あぁぁあ…!」
「恐ろしや!!」
周りにいた鼠は我に還ると口々に叫びながら去っていった。
寂しく鼠達の背中を見送った後、肉塊以下になってしまった鼠を見下ろす。
再び辺りを静寂が支配する。
「すまぬ…」
躊躇い、ややあってからゆっくりと血塗られた額であった場所を撫でた。
触れる度に鼠の身体が小さく動く。
触れたそばから鼠に妖気が行き、鼠の身体からその妖気が霧散していくのが分かった。
そっと手を離す。
手についた血も、鼠が撒き散らした物も、鼠自信もゆっくりと形をなくしていく。
しばらく見ていると、鼠が着ていた服以外は跡形もなく消えてしまった。
そこまで確認してやっと腰を上げる。
開いた掌からそっと紅の火が点った。掌から放れ、空でチロチロと燃える。
それが幾十も掌から生まれては旅立っていった。
しばらくすると、周りが温かな火で囲まれていた。
それは鼠に対する弔いの炎だった。
地に置いた酒瓶に、顔が映る。
上下の犬歯は指程に成長し、口が閉じられない。
大きく見開かれ続けた目は充血し、眼球も半分ほど瞼から飛び出している。
顔は激昂しすぎたように赤黒く、髪も何一つ手入れされないまま放置されたように、脂で束になったまま延びている。
そしてその顔は何かが欠如しているようにうかがえた。
「これで四度目か…もう寄り付く者もおらぬだろう…」
そう寂しく呟いた声すら、闇はゆくっくりと咀嚼していった。
******
弥生は目を見開いた。
瞬きをすると瞼の端から涙が一筋溢れた。
酷い寂寥感に、胸を押さえて身を小さくした。
ーーあれは…?
佐武郎との食事会から帰ると、すっかり疲れてしまっていた。
新陳代謝がないので、本来あまり入る必要はないのだが、リラックスするために風呂に入り、たっぷり湯に浸かると、待ってましたと言わんばかりに眠気が襲ってきた。
そのまま自室に行き、布団に倒れると何も考えない間に寝てしまったようだった。
弥生は両手で胸を強く押さえる。
そうでもしないと自我を保てそうになかった。
バタバタと部屋の外から音がした。
勢いよく扉が開き、潜っていた布団を剥がされる。
「大丈夫か?」
如月が血相を変えながら弥生の顔を覗きこむ。
「あ…」
降りあおいだ目から大粒の雫が溢れた。
弥生はすがり付くように如月に抱きついた。如月はそれを拒否するでもなく優しく包み込み、そっとあやすように弥生の背を言葉もなく撫でた。
ふと声が聞こえた。
始めは失った最愛の人を呼ぶように、酷く切な気に、それが段々と怒気を帯び、猛り狂った呼び声に変わる。
そして再び哀しみを帯び始め…を繰り返している。
時折、子供を甘く誘うように呼ぶこともあれば、脅すように呼ぶこともあった。
困惑する弥生に気がついたように、如月は両手で弥生の耳を押さえて顔を上げさせた。
「あの声は無視しろ」
「なんで? なんだか可哀想…」
それは哀しさのあまり気が狂ったかのような感じがした。
如月の顔が僅かに嫌悪感で歪む。
「あれはお前が慈悲をかけるようなものでもない」
冷たく言い放って、それでも優しく弥生の涙を拭った後、如月は弥生の部屋を出ていった。
「飯にするぞ」
弥生はとぼとぼと如月の後に続いた。
その声は一度聞こえてしまうと、延々と続いていたことに気がついた。
何かに集中していないときはその声が気になってしかたがない。
また、逆に集中したいときにその声が気になってしまい、集中できず如月に注意されることも何度もあった。
如月にその声の主について訊いても、碌な返事をしてくれない。
むしろ気にするなと怒られる始末だ。
『ーーーーどーじさま…』
『どーーわたーーとーろに…』
弥生は布団の中で耳を澄ませる。
不思議とどれだけ注意深くその声に耳を傾けても、言葉を全て聞き取ることができない。
何かのフィルターを一度通している思える。
ーーいったい誰を求めているんだろ?
呼び方からして酷く切迫しているように感じる。
その声を聴いていると、声の主の所にいって何か手助けしたい気分になってくる。
如月が居ないときに探しに行こうとなんとなく心の中で決めた。
如月に言うときっと呆れられ、そして止めろと怒られる気がしたからだ。
そして如月が一人で出掛ける日は意外と早くやってきた。
「なるべく早く帰るから、勝手に出掛けるなよ」
そう念押しして、如月は茨木の元に出掛けていった。
何やら茨木は色々と如月への相談事が溜まっていたらしい。
「よし」
弥生は如月が出掛けて、忘れもの等で帰ってくる気配がなくなってから出掛ける仕度を始めた。
仕度をといっても、部屋着から着替えて靴を履く程度だが…。
家を出るとまず耳を澄ませた。
声のする方向を探す。
なんとなく脳内に直接送られてきている気もしていたが、音の発信源を探すと、これまたなんとなく方向が分かった気がした。
足早にその方向に向かう。
向かい始めてしばらくしてから弥生は気がついた。
ーー地獄谷の方だ。
地獄谷に近づくにつれ声は段々と大きくなるが、やはり何故か何を言ってるかは聞き取ることができない。
また、何故か焦燥感も同時に膨らんできていた。
大切な何かが彼方にある気がする。
それが何かは全く検討が付かなかったが、近づくにつれそれがどんどん近くなるのがわかった。
身の内の感覚と声に集中しながら夢中になって歩いていると、紅黒い光が森の向こうから覗いているのに気がついた。
そうして、森の端にたどり着いた。
森の端から先は、乾いた荒れ地が数百メートル続いている。
そして、その先には禍々しい程の紅を放つ地の裂け目があった。
声はもう煩いほど聞こえる、が、やはり何を言っているか分からない。
声の小ささが原因で聞こえないのではなく、今度は呂律が回っていないため、何を言っているか分からない状態だ。
何か分からない言葉を延々と大声で発せられ続けるのは不快感しかない。
途中からずっと指で耳栓をしていたが、それももうほとんど効果がないように思われた。
また弥生の焦燥感も極限に達しようとしていた。
しかしここから先は踏み込んではいけないという、本能が弥生に二の足を踏ませる。
弥生が荒れ地に足を踏み出そうか悩んでいると、小麦色に光る炎がぽうと裂け目から上がり、弥生に向かって飛んできた。
「ーーっ」
弥生はそれを見た瞬間、今まで体験したことがない寒気を感じた。
逃げるべきか戸惑っている間にその炎は弥生の目の前までやってきた。
そうして、何かを待つように弥生の目の前でふよふよと前後に動きながら浮かぶ。
気がつくと煩いほどのあの声は止んでいた。
炎が目の前にあるというのに、全く熱さを感じない。むしろ熱を奪われている気がした。
弥生は暫く木の幹にしがみついて様子をみていたが、炎が何の行動を起こさないのをみて、やっと自分が動かなければ何も起こらないことに思い至る。
茂みから足を踏み出そうとしたが、それはなんとなく危険なように感じて止めた。
変わりにそっと炎に手を伸ばしてみる。
手を伸ばすと炎はやはり冷たかった。
何だろうと見ていると、炎が素早く動いて弥生の手に絡み付いた。
「?!」
ずずずずと弥生の腕に染み込んでくる。ドライアイスを無理矢理身体に押し込まれている感覚がした。
それと同時に自分とは異なる思念がノイズのように身体に入ってくる。
『ーーテンドウジシュテンドウジシュテンドウジシュテンドウジシュテンドウジシュテンドウジシューー』
それは狂おしいまでに誰かを想うものだった。
「弥生様!!」
「ーーいやっ!」
弥生は勢いよく腕を振り払った。その時弥生の身体が僅かに光ったが、弥生はそんな自分に全く気がつかなかった。
いっそスポンッという小気味良い音があって良いほど、勢いよく、しかし音はなく火の玉が腕から抜けた。
腕にはじんじんと冷気の余韻が、頭にはザラザラと思念の余韻が残り、弥生は不快さから首を激しく横に振った。
いつからかいた熊童子が慌てて弥生に駆け寄り、弥生を森の中に引き入れる。
何故ここに熊がいるのかすら気にならない程、弥生は余韻と闘うことに集中していた。
しばらくしてやっと熊が自分の背中を擦ってくれいていたことに気がついた。
「あ…あれ、熊さん…?」
「はい」
熊は緩やかに返事をする。
「…なんでここに?」
「如月様に仰せ受かりました」
弥生はばつが悪そうに顔を歪めた。
如月には最初かはお見通しだったのだ。
「あれは何でしょう?」
弥生は未だにふわふわと浮かぶ小麦色の炎を指差すと、熊は不愉快そうに眉間の皺を寄せた。
「あれは狐火です」
「狐火ーーあ、なんか聞いたことある」
「妖狐が発することができる炎ですね。それよりもうご気分は宜しいので?」
「はい、一応…」
「お腕は宜しいですか?」
そう言って熊は痛わしげに弥生の腕を確認する。
「あ…あの…」
熊は弥生の言葉を無視する。一通りみて、特に異常がないことを確認すると、安心したように腕を解放した。
「大切なお身体にお怪我があっては、皆が心配致しますので」
「…すいません」
「いえいえ、悪いのは私なのですから…」
熊はそう言って視線を逸らすと、一つ溜め息をついた。
「あの狐火は『玉藻』という妖狐のものです」
「あ、聞いたことある」
玉藻は色々な物語によく出てくるので、弥生もよく聞いたことがあった。
有名な登場人物の欠片が目の前にあるというのは不思議な気分だ。
「玉藻は今地獄谷にいるんですか?」
「そうです。あれは現世で罪を犯しすぎましたので」
「どんな罪ですか?」
「全てを口頭で説明するのに一苦労する程は」
「そうなんですか…」
熊と話している間もなお、玉藻の狐火は弥生を待つように森の外でふよふよと浮き続ける。
「テンドウジシュ? って何か知ってます?」
熊は「はて?」と首を傾げる。
「その言葉はどこで?」
「狐火が腕に付いた時に頭の中で誰かが呼んでいたんです」
むむと悩み、熊は黙った。
しばらくして思い出したかのように、弥生の腕を引いた。
「ここは長居する場所ではありません。ご自宅に戻りましょう」
熊に腕を引かれるまま、でも、と後ろ髪を引かれ弥生は狐火に振り返った。
変わらず浮かび続けている。
弥生はその炎の色に孤独を感じた。以前に見た夢のような強く激しい孤独。
しかし、それと同時に嫌悪感もあった。
あれにはこれ以上近づいてはいけないという、本能的なものだ。
だから弥生は大した反発もせず、熊に引かれるがまま歩いた。
しばらくしてから熊が徐に口を開いた。
「ーー何か思うところはありました?」
「なんのことですか?」
「その…地獄谷に近づいて、何か感じるものはありませんでしたか?」
弥生ははっと思い出し、駆け戻ろうとした所を熊に強く腕を引きかえされた。
バランスを崩し倒れてしまう。
「戻ってはいけません!」
「あ、でも、あっちに大事な何かが…」
「いけません」熊は何度もそう言って弥生を宥めた。
弥生が諦めたのを確認すると、熊は弥生の腕をやっと放した。
「向こうには何があるんですか?」
弥生の問いかけに、熊はゆっくりと言った。
「それを我らは言うことができません。しかし、弥生様のその感覚はとても大切なものです。よく覚えておいてください。そしてそれが分かるまで決して地獄谷に近づいてはいけません」
「分かったら近づいていいんですか?」
熊はその問いには曖昧に笑むだけで答えなかった。