4、文学作品として見た場合の「絶歌」にもあんまり価値がない
かつて酒鬼薔薇聖斗について、その高い文章力が一部で取り沙汰されていました。
彼の書いたとされる作文や脅迫状などが世に出回った時、これを読んだ一部の人がその文章に文学的な格調を感じ、そう指摘しました。
それから18年、「絶歌」を読んだ人の中には『かつて文学性が高いとまで評された彼の文章はどうなっているのだろう』と期待した方もいらっしゃるのではないでしょうか。さらに彼の文章は小説的であるという評価も一部で出ましたからね。
まず、フェアを期するために言及しておきますが、確かに『絶歌』第一部の叙述は相当うまいです。詳しくは報道などで引用される文章を見て頂ければと思うのですが、彼はレトリックを熟知しており、子供がおもちゃを振り回すように(←こういう文章が『レトリック』です)用いています。
ただ、小説におけるレトリックはあくまで技術分野に属するものなので、後天的に身につけることが可能です。ここは小説投稿サイトなのでこれをお読みの方の中には小説家志望者や小説を書いておられる方がいらっしゃると思いますが、他人の小説を参考にしたり、あるいはふとした瞬間にある人物や物事を文章に置き換える練習をしたりして腕を磨いておられるのではないでしょうか。
しかし。彼の用いているレトリックは『彼のレトリック』になっていません。
前に彼の文章は非常に引用が多い、という話をしました。『絶歌』によれば彼は数名の作家に私淑して読み漁っていたそうですが、結局彼はそれら数名の作家のレトリックしか知らないためにその作家さんのレトリックで自分の文章を書いてしまっています。
……実はこれ、新人文学賞で二番目くらいに弾かれてしまう作家志望者に見受けられる特徴です。ある文芸系の編集者によると、新人文学賞を開催すると、ある特定の作家に影響をうけまくった作品群が山ほど出てきてしまうといいます。村上春樹先生なんかはその代表格で、編集者さんや下読みさんはそれを発見すると「また村上春樹さん系のが来たよ」とぼやきながらその原稿を弾くそうです。ある作家さんの影響力から抜けきらないうちはオリジナリティなんて獲得できているはずもなく、村上春樹さんモドキの作品をデビューさせるくらいだったら最初から村上さんに新作の依頼をするわい、ということになってしまうのですね。(一応書いておきますが、村上春樹さんの影響を受けているとされる「村上春樹チルドレン」という作家も取りざたされていますが、そうやって指摘される作家さんたちだって村上春樹さんの影響を受けつつも独自の境地を築いているがゆえにプロ作家としてやっていけています)
しかし、それ以上に。
彼は、考えることさえ他人に委ねてしまっています。
彼の引用の仕方を見ると、ある作家の小説の一節を引いて、「そう思う」と寄り添うことで自分の意見としてしまっています。これ、手記ならまだしも小説として見たときにとんでもないアウトです。
もちろん著作権上の問題とか作家としての矜持の問題とかもありますが、他人の考えをそのまま自分の考えとしてしまうやり方は小説に求めるべき方法論ではありません。
小説家という存在は、自分の頭でものを考えなくてはなりません。
なぜなら、小説家に求められているものというのは常に「これまでの小説よりも新しい作品」だからです。既存の作家のレトリックや考えをなぞって頷いているだけの彼の“作品”はまるで価値がないといえます。もし『絶歌』を読んで感動した人がいたとしたら、それは彼がネタにしている作家が凄いからであって、彼がモノカキとして優れているわけではありません。むしろ、彼のモノカキとしての実力はトータルで見ても文学賞の一次選考ですぐに落とされるレベルだということです。
なぜわたしがこんなことを書くのかというと、一部報道で彼と版元が続編やフィクション本を計画しているという記事が飛んでいるからです。
きっと彼は「書くこと」に執着があるのでしょう。『絶歌』内でもそれを窺わせる描写はいくらでもあります。その彼に対する屈辱は、この『絶歌』というコラージュ本には何の文学的価値もなく、結局は見世物小屋的に消費されていくしかないという現実を突きつけることにございましょう。