3、手記として見た場合の「絶歌」には意義はあんまりない
正直わたし、「絶歌」にはある期待がありました。シリアルキラー特有の狂気であったり特殊な世界を覗いた人間の持つ魚眼レンズ的な視点。犯罪者の実録ものや手記を読むと、普通の人間が持っていない世界観を犯罪者が持っていることがわかります。その“歪み”を読みたい、と思いこの本を手にした方は多いのではないでしょうか(わたし自身、こういう読み方が下衆な読み方であるという自覚はありますが、他人の読書傾向や読み方にケチをつける人間は控えめに言って本の角に頭をぶつければいいと思っています)。
しかし、「絶歌」には、そういう本としての“魅力”に乏しいのです。
なぜなら、この本が回顧録だからです。
この本は、あの酒鬼薔薇聖斗14歳が書いたものではありません。32歳の元少年Aが書いたものです。その間彼は社会に復帰し曲がりなりにも日本の片隅で働いていました。その中で彼は彼なりに社会性を身に着けていたものと思われます。そんな彼の書いた「回顧録」である以上、わたしのような読者が求める歪さが文章に出てこないとしてもしょうがないことです。
また、彼自身、ショッキングな出来事があるとその出来事を忘れてしまう、と述懐していることも書いておきましょう。14歳当時の精神鑑定を見ると、彼には解離性障害(いわゆる多重人格)があり、また一度見た光景は忘れないという特殊な体質であったとされています。この精神鑑定については確度がかなり高いとみなすべきでしょう。この精神鑑定には「ショッキングな出来事があるとその出来事を忘れてしまう」という彼の自己申告を裏付けるものはありませんから留保が必要ですが、もし彼の自己申告を信じるとするならば、そもそも彼は犯罪行為すらもろくに覚えていないのではないかという恐れが出てきます。それならば、歪みが存在しないのも当然といえば当然です。
実は、この傍証となるものはいろいろあります。
「絶歌」出版に先立つこと数年前、文芸春秋社より彼の父母による手記が出版されています。この手記に関しては既に色々な人が評価をしているので内容には分け入りませんが、この本と「絶歌」を見比べるとあることに気づきます。
あまりに二者の情報が似通いすぎているのです。
普通、同じ事件を扱った手記であってもその立ち位置の違いによって内容に食い違いがあるのは当然のことです。しかし、『絶歌』と父母の手記はまるでパズルのピースのように一致します。それこそ、子供の頃に見ていた番組とか、当日の行動や会話、贈り物などの詳細に至るまで……。
わたしが何を言いたいのかと言えば、彼は父母の手記を読んでいる、ということです。
ではなぜ?
その答えが、彼の「忘却癖」にあるのではないでしょうか。彼はあまりにショッキングな出来事である14歳の頃の記憶を強く持っていない。それゆえに、父母の書いた本を参考にして記憶にない部分を埋めていった――。
少なくとも、彼の父母は(人を殺していないという意味で)普通の人です。その人の観察が紛れ込んでいるこの本には、そもそも「歪み」など生まれるはずがなかった、というのがわたしの感想です。
以上の結果から、わたしはこの本の手記としての価値をあまり認めていません。