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1 「絶歌は彼の著作であるという“蓋然性が高い”」

 まず、「絶歌」を論じるにあたって、一つの問題があることを告白しなくてはなりません。

 ジャーナリストで編集者の今一生氏による、「絶歌が100%酒鬼薔薇聖斗の著作であるという証拠はない」という指摘です。

 確かにこの指摘には一理あります。版元である太田出版はこの本の著者があの忌まわしい殺人事件を起こした酒鬼薔薇聖斗であるという確かな証拠を出していません。また、彼本人のコメントは一切なく、またこの稿を書いている6/26現在の段階ではあまり周辺取材も為されていない状態です。確かに、版元の申告を信じないとするのならこの本の著者が酒鬼薔薇聖斗であるという証拠は皆無です。

 しかし、あえて私は主張します。

 「絶歌の作者は酒鬼薔薇聖斗の手によるものである蓋然性が高い」と。


 今一生氏の指摘をまとめると以下のようになります。

1、版元は作者が酒鬼薔薇聖斗であるという明確な証拠を提示していない

2、週刊文春の6月25日記事『少年A「手記」出版禁断の全真相』によれば、最初にこの企画を持ち込まれた幻冬舎の見城氏は作者が酒鬼薔薇聖斗であるという確認をしていない、さらには太田出版の担当編集者も法的な方法での確認をしていないと証言している

3、週刊誌の記事はフリーのライターが書いているものであり参考に値するものである

 以上の結果から、「絶歌作者が酒鬼薔薇聖斗であるという証拠はない」という指摘をなさっておいでです。

 しかしながら、わたしは今氏の指摘は杞憂であると考えます。

 というのも、今氏の引く文春記事を読めば、絶歌作者が酒鬼薔薇聖斗であるという傍証があるからです。

 確かに今氏が言うように、この文春記事には見城氏のコメントが載っており彼の身分証の確認をしていない(それどころか「酒鬼薔薇でなくとも構わない」と述べていると記事にはある)という記述があります。しかし、全体を読むと絶歌作者が酒鬼薔薇聖斗であるという傍証が出てきます。

 それは、医療少年院入院の頃から酒鬼薔薇聖斗を見つめ続け、出所後も彼を見守り続けたとされるB女史の記事です。文春記事によれば、B女史は「絶歌」出版の動きがあることを事前に知り、連絡先を知っていた酒鬼薔薇聖斗に叱責の電話をしたとされています。そして彼は最初B女史の意見を容れて出版を諦めたものの、結局独断で出版を決めたという記述が存在します。

 この文春の記事が真実だと仮定するのなら、『絶歌』の出版を進め、最後に刊行までこぎつけたのはやはり酒鬼薔薇聖斗であるということになります。もし別人だとすればその時点でB女史が気づいていたはずですし『絶歌』著者が別人だと気づくはずです。

 ――まあ、正直なことを言いますと、週刊文春は無実の罪をでっちあげて高名な考古学者を自殺にまで追い込んだという前科がある上、裁判所の命令で記事の訂正と謝罪を掲載した号で『謝罪広告を国家権力が強制するのは報道の自由に反する』などと世迷言を吐いて世間を呆れさせた週刊誌なので(参考:聖嶽遺跡発掘捏造疑惑)、元考古学徒のわたしとしてはまったく信用ならないメディアの一つです。なので、週刊文春の記事は話半分に聞いておいた方がいいという判断をしています。


 では、他のところで絶歌作者が酒鬼薔薇聖斗であるという根拠はあるでしょうか。

 わたしの熱烈な読者(んなもんいないか)の中には「じゃあ、文章の計量分析をやればいいんじゃないの?」とお思いの方もいるかもしれません。ご存じない方のために説明しておくと、計量分析というのは文章に頻出する単語や接続詞、はたまた句読点の位置などといった情報を統計的に集計して文章の実作者を同定しようというものです。

 しかし、本件において計量分析は使えません。

 というのも、彼が世に放っている文章、たとえば少年時代の作文だったり脅迫文だったりがほとんど他人の文章の切り貼りであることが判明しているからです。他人の文章を切り貼りして己の文体としていた少年時代の文章と「絶歌」を比べても意味はほとんどないでしょう。

 なので、ここからは印象論に毛が生えた程度の根拠の積み重ねとなってしまいます。

 

 まず、「絶歌」は極めて引用が多いことが話題となりました。他人の文章を切り貼りし、その文章のあとに自分の考えを寄り添わせる。そういう形で彼は文章を書き連ねていきます。このやり方は、少年時代に好きだった漫画家の科白や地の文を切り貼りして脅迫状を作った酒鬼薔薇聖斗を彷彿とさせます。むしろ、少年時代と同じやり方を(引用元を明示するという意味で)洗練化させたともいえましょう。

 また、「絶歌」においては当時彼を取り巻いていた様々なものに溢れています。聞いていた曲だったり見ていた漫画やテレビだったり、はたまた友人が真似していた漫画のキャラクターなどなど……。それらについてわたしが時空列に従いプロットしてみたところ、全く矛盾がないことが判明しました。唯一ちょっと疑問があるとすればPUFFYの「渚にまつわるエトセトラ」で、彼は逮捕後にラジオから流れてくるのを聞いたと書いているのですが(逮捕が六月なのに対し、同曲の発売は同年四月)、あの曲はそもそも夏っぽい曲で今でも夏に流れることの多い曲なので問題はないと判断しています。

 しかし、そんなことよりも何よりも、わたしがこの本が彼の真筆だと思うのは、『絶歌』の文章の中にヘタクソな箇所があることです。

 報道にもあるとおり、絶歌の文章はよく言えば文学的な修辞に溢れており、全体に修飾過多な面が見受けられます。正直このごてごてしい感じは読んでいて気分のいいものではないのですが、そんなごてごてしい文章の合間合間に、ヘタクソな言葉たちが見え隠れします。

 たとえば。

「少しパニクっていたようだ。(P,130)」

「僕は内心、動揺しまくった。(P,133)」

 この二つは、彼が犯行を犯して判決を受けるまでの第一部に出てきた言葉です。わたしの読んだ感じでは、社会に戻ってからの日々を描いた第二部と比べて第一部のほうがごてごてしい文体なのですが、その中でこれらの言葉は猛烈に浮いています。

 これは、彼の生の文体なのだと思われます。

 これ、もしもゴーストが書いたとすれば混入しにくいはずです。

 誰かに成りすまそうとする人間は、本物以上に本物らしく振舞うものです。もしも「自意識過剰でごてごてとした文章を書くであろう元少年A」という像を想定してゴーストが文章を書けば、このような稚拙な言葉は意識的に弾かれてしまうはずです。これらの稚拙で場違いな言葉は書いた人間が自然体に筆を執っているから(もっと言えば、編集が全体のバランスを無視してそれらの言葉を見逃したから)こうして残ったと思われるのです(※)。

 以上の結果から、わたしは「絶歌」は酒鬼薔薇聖斗の真筆(ただし編集の手がかなり入っているのは前提)と判断しました。もちろん、これはあくまで蓋然性の積み重ねであり、百パーセントを保証するものでは決してありません。あくまでこれは、わたしが「絶歌」を読む際の前提として真筆である可能性が高いと判断しているということをご理解の上、お付き合いくださると幸いです。

(実を言うと、この「絶歌」が真筆であるという大きな傍証は他にあるのですが、本作の評価に関わる重大なものなので、後でねちっこく説明しようと思います)


追記

 週刊文春2015/7/2号に「少年A“母親代わり”女医激怒」と題された追跡記事が記載された。その内容も、『絶歌』作者別人説を否定する内容となっている。筆者としては論拠に採用するには慎重な姿勢を取りたいところだが念のため記す。



(※)こういうことを書くと、「いや、あんたみたいな性格悪い読者を欺くためにあえてああいう幼稚な言葉を混ぜたんじゃないの?」というご意見も出てくるはずです。しかしながら、詐欺師というのは10人中1人を騙すようなやり方より、10人中9人を騙すやり方を取るのが普通です。わたしのようなひねくれ者を騙そうと努力する暇があったら、ごくごく真っ当な読み方をする読者を騙したほうが効率もいいというものです。


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