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ケーキ屋は火曜日が定休日だ。
今日は九太郎の好きなプリンを土台にケーキを作ってみよう。
あの201号室に玲ちゃんという綺麗な女の人が住んでいたのには驚いた。てっきりオッサンが住んでいるものとばかり思っていた。女の子は家ではラフな格好をしているというし、ベランダに干してあったああいう格好もするのだろうか。いや、オッサンと玲ちゃんが一緒に住んでいるとか……でもあの狭いワンルームマンションは単身者用だ。
プリンをベースにした小さなケーキが完成した。
九太郎はワンホールまるごとペロリと食べる。
玲ちゃんが帰るのは夜九時半ごろらしい。ストーカーしているわけじゃないけれど、それぐらいの時間にジョギングしていると、それぐらいの時間を境にして部屋に灯りがついていることが多い。それよりちょっと前に行って玄関前に置いておこう。
プリンのケーキ、きっと九太郎は喜ぶだろう。ケーキをぶらさげてマンションに向かう。マンションといっても古いタイプなので玄関口にセキュリティ用のパネルもなくそのまま部屋の前まで辿り着く。戸口に置いておこうか、どうしようか迷っていると後ろから声がした。
「ケーキ持ってきたの? 本当にオバケちゃんが大事なんだね」
呆れたような声がして、玲ちゃんが立っていた。
黒のパンツスーツが当たり前に似合っていて、社会人としてのキャリアを感じさせた。僕は学生時代から上手く年をとれないでいる。菓子作りの毎日、小さなケーキ屋と家を往復するだけの毎日。本当にやっている事に変化がない。ささやかな目標はたくさんあるけれど、それしかできない狭い世界だ。そんな僕にとって、スーツで会社を泳いでいる人々は少しだけ眩しかった。
「オバケちゃんに会いたいんでしょ。入れば? オバケちゃんずーっとケーキはまだかなあってソワソワしていたんだから」
なげやりな感じでいって、玲ちゃんはドアの鍵を開けた。
「玲ちゃん、おかえりなさい!」
九太郎が飛び出してきて、玲ちゃんに飛びつく。
さっきまで、呆れ顔だった玲ちゃんの顔が急にふんわりと可愛くなった。
「オバケちゃん、ただいま」
そういって、玲ちゃんは小さなピンクの唇でちゅん、と九太郎の頭にキスをする。僕は自分がキスされたわけでもないのに、変に頬が熱くなるのを感じた。
玲ちゃんの部屋の中はどこも片付いていて綺麗で、静かで生活感が無かった。
キッチンもビールの空き缶以外ほとんど物がない。
小さなテーブルにドサリと袋を置いて、玲ちゃんはヤカンを火にかける。
久しぶりの僕のケーキが嬉しかったのだろう。
九太郎は僕にまとわりついて離れなかった。
あのね、玲ちゃんがね、服を作ってくれたの。ふちの破れたところはピンクの糸でぬってくれたの。
玲ちゃんはね、ビールが大好きなの。あわあわのところをちょこっとわけてくれるの。
玲ちゃんはね、ぶらじゃあはお外に干さないの。ひらひらがついててとっても綺麗なの。黒いのと白いのと、ぴんくと、いろいろあるの。頭にかぶると怒られるの。
ちーかまのちーのところだけちょうだい、っていうと、もうって怒るの。
玲ちゃんはね、ぷりん作ってくれるの。大きいどんぶりに入れてね、こまけえこたあいいんだよっ。どーんと食いな、っていうの。
九太郎の口から出てくるのは玲ちゃんの話ばかりだ。
九太郎の頭をなでてやりながら、よかったな、と思う。九太郎は玲ちゃんが大好きなんだろう。玲ちゃんもとてもいい子なんだなあと思う。玲ちゃんと九太郎のじゃれあう姿が目に浮かぶようだ。
玲ちゃんとお風呂に入ったの。九太郎のおしゃべりはまだ続いている。
玲ちゃんはすべすべで、白くてムニュってしていてね……。うんうん、と頷きながら玲ちゃんと九太郎のお風呂シーンを妄想しかけてあわてて九太郎の口をふさいだ。
えーと。
おそるおそる玲ちゃんの方をみたけれど、玲ちゃんはこちらの話は聞いていないようで、ふてくされたようにイスに座り、そっぽを向いたままだった。これは……もしかすると、拗ねていらっしゃる?
「試作のケーキ、玲ちゃんも一緒に食べてくれませんか?」
ちょうどヤカンがピーと鳴りだした。
「あ、そうね、いただきます。紅茶淹れる」
玲ちゃんはすっくと立ち上がると、僕の方は見もせずにキッチンに立つ。あーあ、嫌われちゃったかな。
ポットを温めて熱湯を注ぐのを見ながら、ケーキを切り分ける。
九太郎2分の1ホール、僕と玲ちゃんが4分の1ホールづつ。もともと小さなケーキなのでそれほど量は無い。
玲ちゃんはお皿を取り出し、九太郎にわたす。九太郎はテーブルに乗ってお皿を並べている。僕がケーキを盛り付ける。
九太郎は玲ちゃんと僕に挟まれて、幸せそうだ。
九太郎はたいていいつも幸せそうなのだけれど。
「いただきまーす」
おいし。
玲ちゃんの小さなぴんくの唇から声が出た。
髪は綺麗に後ろで束ねられていて、スーツ姿のままだ。っていうか、夜にいきなり部屋まであがりこんで非常識で迷惑だっただろう。玲ちゃん残業して、晩御飯もまだなんじゃないのか? ようやく自分のしでかしたことに気が付き、ちょっと慌てた。
「ごめん。こんな夜にいきなり家にあがりこんで」
慌ててケーキを飲み込むと立ち上がった。九太郎はすでにケーキを食べ終わっている。九太郎はいつもケーキを大口でパクリと飲みこんでしまうから。玲ちゃんがフォークをもったまま顔を上げた。
「別に」
相変わらずそっけなく玲ちゃんはいった。
僕が立ち上がると、九太郎もぴょこんとイスから飛び下りて僕についてこようとした。
「ダメッ。オバケちゃんを連れていかないで」
玲ちゃんが悲鳴のような声をあげて立ち上がり、九太郎を抱き上げた。九太郎を連れて行くつもりは全くなかったけれど、玲ちゃんは怖い顔をしている。九太郎のヤツ、相当玲ちゃんに気に入られているようだ。うん、よかったよ。そして僕は嫌われているようだ……。
「ごめんね、連れて行かないよ。九太郎ばいばい。玲ちゃんもおやすみなさい」
九太郎は玲ちゃんに抱かれたまま、小さく手をふった。
・・・・・・・・・・・
ドアを閉じて鍵をかけた。
はああ、疲れた。
観月晃のいなくなった後、ドサリとベッドに腰を下ろす。
着替えなくちゃ……。それからお風呂。
オバケちゃんはまだ玄関に座ってぼんやりしている。
「オバケちゃん?」
「帰っちゃったね」
オバケちゃんはいった。
それは、何?
もっとあの男と一緒にいたかったってこと?
思わずムッとしてしまう。自分が嫉妬深い人間だと思ったことは一度もなかったけれど、ヤキモチ焼いた記憶もなかったけれど。観月晃に対するこの何ともいいがたい感情は嫉妬なんじゃないだろうか。
あれから、家に帰ると戸口にケーキの入った箱が置かれている事が度々あった。
「オバケちゃーん、ダーリンがケーキ持ってきたよー」
あの男、観月晃は気にくわないけれど、もういいや。オバケちゃん喜ぶし。
オバケちゃんの甘い人であるのは確かなので、オバケちゃんのダーリンと呼んでいる。あそこのケーキ、確かに絶品だけれど、買うとそれなりのお値段するし。
「ダーリン? ひゃっはー!」
オバケちゃんは最近変な言葉を使うようになった。つけっぱなしのテレビがいけないのかもしれない。近いうちにオバケちゃんは可愛くないオヤジオバケになってしまうかもしれない。
オバケちゃんはご機嫌でケーキをテーブルまで運ぶ。
「おいしい?」
「うん! 玲ちゃんも食べる?」
「……うん」
って、私まで食べてどうする。懐柔されてどうする!
でもケーキは美味しかった。今日はビールはお預けだ。
香りのよい紅茶を淹れて、ゆっくりと飲んだ。