5
人目につくように、お父さんくっさいセットを干してあるけれど、いつもいつも同じ服を同じように干しておくのも変だ。お父さんセットBと取り換えよう。
グビリとビールを流し込んだあと、ベランダにほろ酔い加減で出た。同じくほろ酔い加減のオバケちゃんも足元にふにょふにょついてくる。そういば、オバケちゃんの「服」も干しっぱなしだった。オバケちゃんは食べるときにいつも服を汚してしまう。
白いシーツの切れ端を洗濯バサミからはずしながら、ふとベランダの下を見て、一気に酔いが覚めた。暗い夜道にジャージを着た男が立っていた。しかも、その男はこちらを黙って見上げていたのだ。
背筋が寒くなった。ベランダから逃げ出して部屋に入りたいのに動けなかった。そして、上を見あげていたその男としっかり目があってしまった。その距離は思った以上に近かった。男が少し驚いたような顔をしているのが夜目にもわかる。
あ……れ? あの男はもしかして……。
思わずオバケちゃんの服を手放してしまい、それはひらひらと見あげていた男の方へ落ちていった。
男はオバケちゃんの服をひろいあげると、ふたたび私の方を見あげてちょっと笑った。
「そちらへこれを持って行ってもいいですか?」
良く通る声で男はそういって、オバケちゃんの服をひらひらと振ってみせると、私の答えを待たずに階段の方へ向かった。
私は不思議な気持ちで戸口に立った男を見あげた。
オバケちゃんの映像ほど大きな男ではないけれど、背はそこそこあるだろう。
オバケちゃんを見つめていたほど甘い笑顔ではないけれど、優しい笑顔だ。
「大家さんだっ」
オバケちゃんが勢いよく飛び出てきて、ぴょわんと男に飛びつくと、男は嬉しそうに胸に抱き止めた。あの、オバケちゃんの記憶通りの甘ったるい笑顔になる。
「ずっと、心配だったんです。九太郎、どうしているのかなって。僕、あなたの前にここに九太郎と住んでいたのですよ。九太郎が気になって、ジョギングの途中でここを通るのが日課になってしまって。ここに引っ越したのがあなたでよかったです。これ、あなたが作ってくれたのでしょう?」
そういって男はオバケちゃんの服を私にわたした。
怪しい下着ドロかと思った男はコイツだったのか。
「九太郎って?」
「僕はこいつのこと、九太郎ってよんでいますけれど、あなたは?」
「オバケちゃん」
私が即答すると男はちょっと笑った。
「やっぱりこいつ、オバケですよね」
何をいってるんだ。どこをどう見てもオバケにきまってるじゃないか。
「九太郎のやつ、オバケのくせに甘い物が大好きなんですよ」
男はオバケちゃんを抱っこしたままいう。
オバケちゃんも男に抱っこされたまま、すっかりくつろいでいる。なんだかちょっと腹がたつ。
「知ってますけど」
思った以上に苛立たしげな自分の声がマンションの廊下に響いた。そのとき、カツン、カツン、と誰かが階段を昇ってくる音がした。エレベーターではなく階段を使うということは、この2階の住人である可能性が高い。
男と私は顔を見合わせた。
「入って」
私は男を玄関の中に入れた。男を部屋に上げたかったわけではなく、男に抱っこされているオバケちゃんを早く部屋に入れたかったのだ。
「ただいま!」
オバケちゃんが間抜けな可愛い声でいって、男の腕から飛び下りて廊下に着地する。
「じゃあ、僕はこれで。九太郎、元気でやれよ。大家さんを困らせたらだめだよ」
柔らかな声だと思った。
「大家さんじゃなくて、玲ちゃんっていうんだよ。もう帰っちゃうの?」
オバケちゃんが振り返って不満そうに男にいう。
「玲ちゃんっていうんですか?」
男はオバケちゃんではなく、私に向っていった。
屈託のない笑顔。オバケちゃんの映像でみた、少し天然パーマの真っ黒な髪、どこか子供っぽい優しそうな目。
「僕は観月晃といいます」
狭い玄関に立ったまま男はいった。
男は―観月晃は、廊下に置いてあるビール6缶ケースをちらりとみた。
キッチンが狭く、冷蔵庫に入りきらない缶ビールを廊下に置きっぱなしだった。それだけで私のすさんだ? 生活がよくわかったようだった。その一瞬の視線に、料理も作らず毎晩晩酌しているのを咎められているような気分だった。もちろん、彼はそこまで考えてはいないのだろうけど。
「僕は駅前のケーキ屋で菓子職人をしていて、九太郎は甘い物が大好きなんです。今度、九太郎にケーキを差し入れに来ても良いですか?」
私が答える前に、オバケちゃんが飛び上がって喜んだ。
「うん! すごくいいよ!」
それだけで、私には断る事なんてできなかった。私はあんなケーキをオバケちゃんに食べさせることはできない。
「じゃあ、今度ケーキを差し入れにきますね。えーと、玲ちゃん……は好きなケーキはありますか?」
「私は……別に」
ケーキが嫌いなわけじゃない。
でも、私はこの男に奇妙な苛立ちを感じていた。
ケーキ屋が開いている時間に帰宅する事なんてないし、たまの休日は寝ているか、生活必需品プラスビールとつまみや弁当を買うとケーキなんて買う気力も体力も残っていなかった。ビールで一日の重い疲れを流しさって、また明日がくる。たぶん、ケーキを楽しむ余裕が無いのだ。それでも、ケーキがなくてもオバケちゃんがいれば、私は幸せなのに。オバケちゃんを横取りされるような不快な気分だった。
「じゃあ、夜も遅いので帰ります。九太郎をよろしくお願いしますね」
まるでオバケちゃんの保護者のような口ぶりでいい、憮然とした私を残して男は帰っていった。
いつケーキを持ってくるのかなあ、と呑気につぶやいているオバケちゃんをギュッと抱きしめた。