4
残業を終え、電車に乗り、駅の改札口を出る頃にはたいてい夜の9時半ぐらいになる。まだ人通りはあるけれど、最近物騒な話が多い。足早に夜道を駆け、マンションまで約十分。これでも前住んでいた場所に比べれば随分と通勤時間が短縮された。
マンションの前まできてホッとしたところでハッとした。暗闇の中に怪しげな男が佇んでいる。
暗くてよく見えないけれど、ジャージ姿で上を見あげているようだ。しかも、男の見あげている位置にはちょうど私の部屋がある。気味が悪い。下着ドロとか? いや私の部屋は2階だし大丈夫か。男はまた何事もなかったかのように走り去った。
怪しい男だ。
か弱い乙女の一人暮らしなのだから、用心するにこしたことはない。金属バットかスタンガンを用意した方がいいだろうか。そういえば、一人暮らしの女性は、男性物の服や下着をベランダに干しておくと良い、と聞いたことがある。
「お母さん、お父さんのくっさい靴下とか、いらなくなったヨレヨレズボンやパンツを送って!」
速攻で実家に電話した。
『突然どうしたの、玲ちゃん』
驚く母に、かくかく云々説明する。
『何い? ウチの可愛い玲子が危ない? ゆるさん。靴下でもパンツでも何でも送ってやる。お父さん泊まっていった方がいいか? いや、玲子、もうウチに帰ってきなさい!』
『早く警察に電話しなさい!!』
わあわあ騒ぎ出す父と母をようやくなだめて、電話を切った。こんなことなら、わざわざ送ってもらわなくても、自分でそれっぽいのを見繕って買えばよかった。
かくして、父のよれよれパンツにズボンに靴下のむさいセットが届いた。3セットも送ってくれたところに溢れる親の愛を感じる。靴下の下にはお米や海苔の缶まで入っていた。父よ、ありがとう。でも、できれば父の靴下と米は別便で送ってほしかった。よし、とりあえずこれを目につくところに干して、自分の下着は浴室乾燥機で乾かすとしよう。
・・・・・・・・・・・・・
今日はジョギングをしていて嬉しい発見があった。
以前僕が九太郎と住んでいたワンルームマンション201号室のベランダに九太郎の「服」が干してあったのだ。
丸い穴が三つ開いた白い布。九太郎はなぜか古いバスタオルを頭からすっぽりとかぶるのが好きだった。目の部分と口の部分に自分で器用に穴を開けたバスタオルをかぶっていた。ケーキを食べるときにいつもベタベタに汚すので、バスタオルをかぶるのは早々に禁止したけれど、あの白い布は間違いなく九太郎の「服」だろう。新しい住人が九太郎のために用意してくれたのに違いない。洗濯物として干してあるところをみると、九太郎との仲は悪くないのだろう。
九太郎の服の横にはヨレヨレのズボンやらパンツがぶら下がっていた。なんとなく、くたびれた独身のおっさんを連想する。おっさんと一緒にツマミで晩酌する九太郎を思い描いて、ちょっと切なくなってしまった。本当は九太郎は甘い物が一番好きなんだけれどな。
九太郎、元気でやれよ。おっさんと仲良くな。
・・・・・・・・・・・・
今日は怪しいヤツはいないかな?
右見て、左見て、家に戻りキッチリ鍵をかける。
「玲ちゃん、お帰りなさい!」
オバケちゃんがぴょわん、と飛びついてくるので抱っこする。大家さんと呼ばれるのも味気ないので、最近は名前で呼ばせているのだ。
ああ、このムニッとした弾力、癒されるぅ。
オバケちゃんは特に食べなくても死なない体質らしいけれど、食べる事は大好きなようだ。
ベッドに腰掛けてぷしっと缶ビールを開けると、膝の上に飛び乗ってソワソワしている。
「あわあわのところ、もらってよい?」
「ん、いいよ」
ビールをコップについで泡を舐めさせると、満足そうにプフーッと息を吐いた。
………オバケちゃん、もしかして私の影響で、オヤジ化してる?
オバケちゃんは甘えん坊で可愛い。でも、私と暮らすうちにどんどんオヤジ化して、最後には私みたいに可愛げの無いオバケになってしまうかもしれない。
あーあ。
昔は私ももう少し可愛げのある女だった気がするんだけどな。
でも、もう思い出せない。たぶん「可愛げ」は有限で、どんどんすり減って無くなってしまう消耗品なのだろう。
製薬会社の研究職は自分で希望して得た仕事だ。理系科目が好きだった事ももちろんあるけれど、研究職を目指した本当の理由は、他人とかかわるのが面倒くさかったからだ。がさつで気がきかない私には、接客業をはじめどの職業も酷く難しく思えた。研究職なら誰ともしゃべらず、研究室にこもって自分の研究のみに没頭していればいいと思いこんでいたのだ。でも、他人とコミュニケーションをとらなくてよい仕事なんて、この世に無い。
研究職というのは、納期はしっかりあるけれど、仕事は無限にあるアリジゴクのようなものだ。どれだけ頑張っても終わりは見えず、しかも頑張る事に意味はなく、成果を出し続けることにのみ意味がある。黙って研究だけしていればいいはずもなく、情報戦争を行い、研究内容、研究費用をぶんどりあい、研究成果を死守し、さらなる研究開発に持ち込む。黙っていれば喰われる。「我儘で変人で常識知らずだが頭はいい人」というのがここの研究職のスタンダードなので、パワハラな人が多いが、いても全く目立たないし、それが当たり前。頭がそうよくもない自分は肩身が狭いけれど、そんなことをいっても始まらない。自分の精神も立場も自分で守らなければならず、いつの間にか口も悪くなったし、強くもなった。研究仲間はライバルであって付き合う対象ではなく(付き合ってみたこともあるけれど、デートも話題も仕事の延長になってしまい、余計つかれるだけで速攻で別れた)出会いもなく。しかも最近は部門毎に平気で会社同士で売り買いするので、いつリストラされるかもわからない。これで可愛げのある女のままでいられたら奇跡だ。
いったい、前の住人はどういう可愛いげのある生活をしていたのだろう? 毎日お菓子を作ってきゃっきゃうふふと生活していたのだろうか。
「プリンの他にはどんなものを食べていたの? やっぱり甘い物の方が好き?」
シュークリームやケーキなんかもコンビニにおいてあったような気がする。
「えーとね、いろいろ好きなの」
オバケちゃんはちょっと思い出をたぐるように上を向いた後、壁の方を向いた。
ぽわーっとオバケちゃんの目が明るくなり、映写機のように白い壁に画像が現われた。
オバケちゃんの記憶が壁に映し出されているようだ。オバケちゃんすごい。
これは……イチゴのババロア?
こっちは、オレンジのムース。
フルーツのタルトにチョコレートケーキ。
メレンゲの焼き菓子にクッキーにシャーベット。
美しくデコレートされたスイーツが次々と映し出される。
私は絶句した。
これは、趣味のお菓子作りのレベルではない。
プロだ。プロのパティシエが作っている。
映像はまだ続いていた。
お菓子の向こうに広い背中があった。
………男の人、だったの?
若い男が大きな手に小さな銀のスプーンを持って振り返り、微笑んでいた。
恋人でも見るような、甘い優しい笑顔だった。
ふつりと映像が途切れ、オバケちゃんの目から明かりが消えた。
オバケちゃんはじっと固まっている。
ちょっと首をかしげたまま、じっと動かないオバケちゃんは、前の住人のことを思い出しているようだった。そして、オバケちゃんは前の住人のことが大好きなのだ。
今でも、まだ。
確かに微かに胸の奥が苦かった。
知らない優しい笑顔の男。
少し癖毛の真っ黒な髪、柔らかな品のいい笑顔、長い指とよく磨かれた銀のスプーン、オバケちゃんから見た広くて大きな背中。
その夜は目をつぶるとあの笑顔が浮かんで、なかなか寝付けなかった。