「飛べない竜の世話係など、今日限りで解雇だ」と言われましたが、初飛行の儀まであと三日ですよね? どうぞ竜舎の鍵はお返しいたします 〜前世の整備士が、少年竜と空へ出る話〜
「飛べない竜の世話係など、今日限りで解雇だ」
解雇通知が、竜舎の床に叩きつけられました。
敷き藁の上を滑った羊皮紙が、埃を巻き上げて止まります。わたくしは膝をついて、それを拾い上げました。
(——はい出ました。朝の六時半に人を切るの、やめてもらっていいですか管理官。定時前ですよ、定時前)
内心の声だけが、前世の口調に戻ります。
日本の航空整備会社で十二年、点検記録一筋に生きて、翼を磨いている最中に足場から落ちて死んだ女の声です。
表向きのわたくしは、埃まみれの手を前掛けで拭い、静かに一礼しました。
「かしこまりました」
背後で、鎖が鳴りました。
「リネ。……リネ、いかない?」
舌足らずな声です。
セルフィ。五歳の少年竜。同年代の半分ほどの体躯で、鱗は本来の翠玉色を失って灰がかっています。
わたくしの前掛けの裾を、そっと甘噛みしました。噛む力はいつも加減されています。三年間、一度も破れたことがありません。
「ただ」
わたくしは顔を上げました。
「初飛行の儀まで、あと三日ですよね?」
ボルク・ダーレン男爵は、磨き上げた爪を眺めながら鼻で笑いました。
「あんな出来損ない、儀式に出すだけ国の恥だ。三年浮きもせん竜など竜ではない。荷だ」
「左様でございますか」
「わかったらさっさと荷物をまとめろ。鍵も置いていけ、掃除係」
足音が遠ざかります。肉のついた顎が、扉の向こうに消えました。
わたくしは腰の鍵束を外し、掌で重さを確かめます。
(三日。千九十五日分の記録に対して、残り三日)
足元で、セルフィが不安そうに喉を鳴らしました。胸骨が震えて、その振動がわたくしの膝に伝わってきます。
「リネ、わるいこ?」
「いいえ」
わたくしは無意識に、指先でセルフィの鱗の埃を拭っていました。前世からの癖です。機体に触れたら、まず埃を拭く。
「あなたは悪い子ではありません。——ただ、まだ誰も、あなたの記録を読んでいないだけです」
窓の外、助走場の方角。
セルフィは毎朝、誰よりも早くそちらを見つめています。三年間、一日も欠かさず。
それを記録していたのは、この世界でわたくし一人でした。
◇
竜騎士団長執務室の扉の前で、下働きのミラ・トッドが震えていました。十五歳、そばかす、乱れた赤毛。
「せ、先輩、無理ですって。氷の団長ですよ。掃除係が入ったら凍りますよ」
「凍るのは物理ではなく比喩ですね」
「そういう問題じゃないです!」
わたくしは三年分の記録簿を抱え直しました。表紙は擦り切れ、角は丸く潰れています。十一冊。重さにして、およそ四キロ。
(前世でも同じでした。誰も読まない点検記録を、それでも書く。書かない一日が事故になるからです)
扉を叩きます。
「竜舎掃除係、リネ・ハウゼルでございます」
「入れ」
短い声でした。
鉄灰色の髪。薄い青の目。ヴィクター・グレン団長は書類から顔を上げ、わたくしの服の埃と、腕の中の帳面の山を、順番に見ました。
追い返されるまで十秒、と踏んでいました。
団長は、何も言いませんでした。
わたくしは記録簿を執務机に置きます。
「本日付で解雇されました。ですので、これは部外者からの申し立てになります」
「内容は」
「五歳竜セルフィの飛行不適格判定は、誤りです」
部屋の空気が、わずかに沈みました。
「根拠は」
「三点ございます。ただ、その前に申し上げておくべきことが」
わたくしは顔を上げました。
「わたくしのスキルは【精密点検】です。素手で十秒触れた対象の状態を、数値と履歴として読み取れます。それだけです。治癒はできません。強化もできません。戦闘力は皆無。鑑定の儀では『雑用向き』と判定されました」
「知っている」
「ですので——」
息を吸います。
「わたくしは、あの子を飛ばせることはできません。でも、飛べない理由なら、三年かけて数えました」
沈黙。
団長は椅子の背にもたれ、たった一つだけ問いました。
「君は何ができる?」
(ああ、この質問は)
前世でも、面接で同じことを訊かれました。わたくしは翼を作れません。エンジンも設計できません。飛ばすのは機体でもパイロットでもなく、記録だと信じてきました。
答えは、十二年前から変わっていません。
「点検です。それだけです」
長い沈黙がありました。
やがて団長は引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出し、羽根ペンを走らせました。押印の音が、部屋に一度だけ響きます。
「——ならやってみろ」
差し出されたのは、『臨時点検官任命書』。署名欄に、ヴィクター・グレンの名。
「期限は三日だ。儀式までに、君の数字で俺を納得させろ。納得できなければ、俺は君を二度と信用しない」
「十分でございます」
わたくしは一礼し、記録簿の一冊目を開きました。
「では、一件目から」
廊下でミラが「凍らなかった……」と腰を抜かしていたのは、後で聞いた話です。
◇
「一件目。敷き藁です」
わたくしは机に、小さなガラス瓶を置きました。中身は灰色の細砂。
「セルフィの左前脚、第二関節の鱗の隙間から回収したものです。三年間、毎朝計測しました。平均四十七粒。最多の日で六十三粒」
「砂?」
「鉱山由来の珪砂でございます。竜舎の敷き藁は三年前、通常の麦藁から『鉱山廃土混合の安価品』に切り替えられました。納品伝票がこちらに」
伝票の束を並べます。日付順。三十六枚。
「署名はボルク・ダーレン男爵。押印は各月末。単価は従来品の四割です」
「差額は」
「帳簿上、『管理費』に計上されております」
団長の指が、伝票の端を撫でました。
「砂が入ると、どうなる」
「関節に噛みます。竜の前脚関節は助走時に体重の三倍を受けます。砂粒が挟まれば痛みます。痛めば、庇います。庇えば、可動域が落ちます」
わたくしは記録簿を開きました。
「【精密点検】による実測値。セルフィの左前脚可動域、正常値の六割。三年前の配属時点では、九割五分ございました」
「……下がったのか」
「下げられたのです」
(はい、ここ重要です。経年劣化じゃありません。人災です)
「二件目。飼料です」
ミラが青い顔で前に出ました。
「わ、わたしが量りました。竜一頭あたりの規定配合、浮揚用魔力鉱石は一食につき二百グラムです。でも、セルフィの袋だけ、いつも軽くて……量り直したら」
震える指で、紙を差し出します。
「百グラムでした。ちょうど、半分です」
数字を読むときだけ、ミラの声は澄みます。
「一日三食、三年間で千九十五日。計三千二百八十五食。不足分、三百二十八キロ強。市場価格に換算して——」
わたくしが引き取りました。
「金貨百四十七枚。帳簿上の行き先は、やはり『管理費』でございます」
団長は無言で、額に手を当てました。
「魔力鉱石が半分だと、竜は」
「浮揚に必要な体内魔力が溜まりません。五歳児に、毎日半分の食事を与え続けて、走れと言うようなものです」
「……三年間」
「三年間です」
沈黙。
わたくしは十一冊目の記録簿を開きました。ここからが、本題です。
「三件目。訓練記録です」
「まだあるのか」
「これが一番、重うございます」
頁を開き、団長の前に置きます。
「初飛行前に必要な助走訓練は、規定で三百六十回。竜舎の訓練枠割当表がこちらです」
「セルフィの実施回数は」
「ゼロ回です」
団長の目が、初めて大きく動きました。
「代わりに、セルフィに割り当てられていた枠には、別の竜の名が書き込まれております。三百十二回」
「誰の竜だ」
「アウレリア。ボルク・ダーレン男爵が、個人的に育成し、貴族に献上予定の竜でございます」
わたくしは頁の隅を指しました。
「セルフィは、飛べなかったのではありません」
言葉を、ひとつずつ置きます。
「飛ばせて、もらえなかったのです」
団長は立ち上がり、窓辺へ歩きました。
背を向けたまま、しばらく動きません。
やがて、小さく鼻を啜る音がしました。
ミラがぎょっとして、わたくしを見ます。わたくしは静かに首を振りました。古参兵の間では、公然の秘密だと聞いております。
「……リネ・ハウゼル」
「はい」
「明日、管理官を呼ぶ。同席しろ」
「かしこまりました」
「それと」
団長は振り返らずに言いました。
「三年も、誰にも読まれん帳面を書き続けて。——なぜやめなかった」
わたくしは少し考えて、答えました。
「書かなかった一日が、事故になるからです」
それだけです。前世から、それだけでした。
◇
「たかが掃除係が、何の権限があってそんなものを!」
ボルク・ダーレン男爵の声が、執務室に響きました。上位貴族の前でだけ半音高くなる、あの声です。
「本日付で、臨時点検官を拝命しております」
わたくしは任命書を示しました。
「団長閣下の署名がございます。ご確認を」
「……ふん。一日の肩書きだ」
「一日ございます」
(はい一歩目。逃げ道その一、権限否認。潰しました)
「では、敷き藁の件から」
「藁がどうした! 経費削減は管理官の裁量だ!」
「裁量の範囲は、飼育規則第十四条により『竜の健康に影響を及ぼさない範囲』と定められております。鉱山廃土は珪砂含有率が四割。関節に入ります」
「証拠は」
「三年分の毎朝の計測記録と、回収した砂の現物です」
「そんな帳面、貴様が後から書いたのだろう!」
ボルクは机を叩きました。
「記録は改竄できる!」
(来ました。逃げ道その二)
「仰る通りです」
わたくしは頷きました。
「わたくしの記録簿は、わたくしが書いたものですから、単独では証拠になりません」
「だったら——」
「ですので」
わたくしは、別の束を机に置きました。
「わたくしの複写ではなく、あなたが署名なさった原本の押印日をご覧ください」
ボルクの手が止まりました。
「納品伝票、三十六枚。すべて竜舎管理官印。押印日は各月末日。この印は、管理官本人しか保管庫から出せません」
「……」
「そして飼料払出簿。規定配合量の欄と、実際の払出量の欄が、セルフィの行だけ一致しておりません。こちらにも、月次確認印がございます。三十六個」
「そ、それは事務方の記載ミスで——」
「三十六回、同じ方向へ、同じ竜にだけ」
わたくしは頁をめくりました。
「偶然にしては、規則正しすぎます」
(逃げ道その三、ミス主張。潰しました)
ボルクの額に汗が浮きます。肉のついた顎が震えていました。
「訓練枠だ。訓練枠は、竜の適性を見て管理官が配分する。あれは飛べん竜だ、枠を与えても無駄だから——」
「では、最初の一回はなぜ与えなかったのです」
「……なに?」
「セルフィの助走訓練実施回数はゼロです。三百六十分のゼロ」
わたくしは顔を上げました。
「一度も走らせていない竜を、どうやって『飛べない』と判定なさったのですか」
沈黙。
「適性を見て、と仰いましたね。見ていないものを、どう見たのです」
「……っ」
「そして、空いたその枠に書かれた名前は、アウレリア。貴族献上用。三百十二回」
わたくしは頁を伏せました。
「男爵。あなたは、五歳の子どもの食事を半分にし、寝床に砂を敷き、走る機会を一度も与えず、そのすべてをご自分の竜に回しました」
声は、上げません。
「そのうえで、あの子を『出来損ない』とお呼びになった」
「た、たかが竜一頭だろうが! 成果を出す竜だけが竜だ! 飛べん竜は荷だ!」
「では」
わたくしは静かに言いました。
「成果を出す機会を三百六十回奪った人間は、何と呼ぶのでしょうか」
ボルクは、答えませんでした。
ヴィクター・グレン団長が、初めて口を開きます。
「ダーレン男爵。飼料費および藁購入費の差額、合計金貨百四十七枚。会計監査を入れる」
「団長、お待ちを——」
「待たん。三年待ったのはあの竜だ」
扉の外で、ミラが小さく拳を握っていたのを、わたくしは見ておりました。
◇
ですが、現実は甘くありませんでした。
儀式前日。竜舎に、第二王子アルベール・エルデガルド殿下がお越しになりました。
輝く金髪。整った所作。手には扇。
殿下はセルフィを一瞥なさいました。本当に、一瞥でした。二秒ほどです。
「……これか」
扇で口元を隠し、こう仰いました。
「儀式の見栄えを損なう不良品だ。当日は荷引き場に繋いでおけ」
セルフィが、わたくしの後ろに隠れました。五歳の竜が、十七の娘の背に。身体は向こうの方が大きいのに。
「恐れながら、殿下」
わたくしは一礼しました。
「この竜の不適格判定は、点検記録の不備により再審査中でございます」
「再審査?」
殿下は初めてわたくしを見ました。埃と油の匂いのする娘を。
「飛べぬものを飛べぬと言って、何が悪い?」
(悪意じゃない。この人、本気でわからないんだ)
殿下には、たぶん、悪意はありませんでした。
目の前の生き物に、三年分の朝があったことを、想像する回路がないだけです。扇の向こうで、世界はいつも美しいものだけで構成されている。
それが、どれほど残酷なことか。
「儀式は国家行事だ。王族と貴族が並ぶ。色褪せた小竜が地面を這う様を見せて、何になる」
「殿下」
「命令は撤回せん。以上だ」
扇が閉じ、足音が去りました。
◇
夜。
わたくしは荷引き場で、セルフィの左前脚を膝に抱えていました。
素手で十秒。【精密点検】。
——左前脚第二関節、異物混入五十一粒。可動域六割二分。
「五十一。今日は多いですね」
細いヘラで、一粒ずつ。ランプの灯りで、鱗の隙間を覗き込みます。
爪の間には、油と砂の匂いが染みついています。三年で落ちなくなりました。
セルフィの喉が鳴ります。胸骨の震えが、わたくしの額に伝わってきます。
温かい。草と、鉄と、少しだけ埃のにおい。
「リネ」
「はい」
「セルフィ、わるいこ、だから、とべない?」
手が、止まりました。
わたくしは顔を上げ、少年竜の目を見ました。灰がかった鱗。半分の体躯。三年間、誰にも数えられなかった朝。
「セルフィ」
「ん」
「あなたは毎朝、誰よりも早く助走場の方を見ていました。三年間、一日も欠かさず」
「……みてた」
「わたくしは、それを全部、書いています」
記録簿を開いて見せます。千九十五日分。びっしりと並んだ日付と、たった一行の観察記録。
『本日も助走場を注視。四時四十分。意志あり』
「怠けていたのではありません。飛びたくなかったのでもありません。あなたは、走らせてもらえなかっただけです」
セルフィが、わたくしの前掛けの裾を甘噛みしました。
今日も、力は加減されています。
「……リネの、におい」
「油と紙と砂ですね。ひどいものです」
「すき」
わたくしは、少しだけ笑いました。
前世の作業着も、同じ匂いでした。落ちない匂いです。
ヘラを動かします。四十九粒目。五十粒目。
「五十一」
最後の一粒を、掌に乗せました。
「——これで、ゼロです」
荷引き場の上に、星が出ていました。
わたくしの手には、明日の朝のための、二枚の紙がありました。
返却したはずの、竜舎の鍵。
そして、臨時点検官任命書。
◇
初飛行の儀、当日。
王城前の大祭壇。観覧席には王族と貴族が並び、竜騎士団が整列しています。
三頭の五歳竜が、祝福の詠唱を受けて次々と空へ上がりました。歓声。楽の音。完璧な国家行事です。
そして——荷引き場では、一頭の小さな竜が鎖に繋がれていました。
「本日の点検官として、申し上げます」
わたくしの声は、大きくありません。
ですが、拡声の魔道具の前に立てば、それで十分でした。
祭壇の空気が凍ります。
埃まみれの前掛け。括った栗色の髪。節くれ立った手。貴族の誰よりも不格好な娘が、任命書を掲げていました。
「竜騎士団長ヴィクター・グレン閣下の署名による、臨時点検官リネ・ハウゼルでございます」
「何事だ」「掃除係ではないか」「無礼者を——」
「五歳竜セルフィに対する飛行不適格の判定は」
ざわめきの上に、言葉を置きます。
「点検記録の不備により、無効です」
静寂。
「根拠を三点、申し上げます」
わたくしは記録簿を開きました。
「第一。寝床の敷き藁に鉱山廃土が混入し、当該竜の左前脚関節に平均四十七粒の珪砂が入り込んでおりました。納品伝票三十六枚、管理官押印済み。関節可動域は本来の六割まで低下しておりました」
「第二。飼料。浮揚用魔力鉱石の配合が、当該竜にのみ規定の半分。三年間、三千二百八十五食。不足分は金貨百四十七枚相当。差額は帳簿上『管理費』として処理されております」
一呼吸。
「第三」
頁をめくります。
「初飛行前の助走訓練、規定三百六十回。当該竜の実施回数——ゼロ回」
観覧席が、ざわりと揺れました。
「空いた訓練枠には、管理官個人の献上用竜の名が三百十二回記載されております」
わたくしは顔を上げ、玉座の隣の席を見ました。
扇を持った、第二王子殿下を。
「殿下」
扇が、わずかに動きます。
「この竜は、飛べないのではありません。三年間、一度も走らせてもらえなかったのです」
「……」
「飛べぬものを飛べぬと言って何が悪い、と仰いました。ごもっともです」
わたくしは一礼しました。
「ですが、飛べるかどうかを、まだ誰も試しておりません」
「——団長」
王が、静かに口を開きました。
「この者の言は事実か」
ヴィクター・グレンが進み出て、深く頭を下げます。
「事実であります。証拠原本は監査部へ提出済み。竜舎管理官ボルク・ダーレン男爵は、本日付で職務停止といたしました」
観覧席から引き立てられていくボルクの、顔面蒼白の横顔が見えました。
王が頷きます。
「では、儀を続けよ。——荷引き場の竜を、連れてまいれ」
扇が、ゆっくりと下ろされました。
アルベール殿下が、初めて素顔で、荷引き場の方角を見ていました。
◇
鎖が外され、セルフィが助走路に立ちました。
小さい。同年代の半分。灰がかった鱗。数千の視線の中で、少年竜は震えていました。
祭司が規定の詠唱を上げます。
『五歳の翼よ、天を知れ』
——動きません。
ざわめき。「やはりな」という誰かの声。
「リネ」
小さな声が漏れました。
「リネ、こわい」
わたくしは、ゆっくりと助走路へ歩きました。
誰も止めませんでした。
少年竜の首に、額を寄せます。
温かい。草と鉄のにおい。喉の奥が震えている。三年間、毎朝触れてきた振動です。
(ここは、急がせちゃいけない)
「セルフィ」
「ん……」
「三年間、あなたは怠けていたのではありません」
掌を、灰色の鱗に当てます。素手で。十秒。
——左前脚第二関節、異物混入ゼロ。可動域、九割一分。
「わたくしがそれを、全部数えていました。千九十五日分」
「……かぞえて、た?」
「はい。誰も読まなくても、書いていました」
セルフィが、わたくしの前掛けの裾を、そっと噛みました。
油と紙と砂の匂い。三年で落ちなくなった、点検の匂い。
それだけが、この子の世界で唯一、安心できる場所でした。
「大丈夫です」
わたくしは、はっきりと言いました。
「左前脚の砂は、今朝わたくしが全部取りました。五十一粒。数えました。ゼロです」
裾から、口が離れます。
「関節可動域、九割一分。飼料は昨夜から規定量。あなたの翼は、正常です」
わたくしは一歩下がり、深く一礼しました。
「——点検、完了。異常なし」
(あとは、あなたの番です)
(わたくしには、飛ばすことはできません。できたことなんて、一度もありませんでした)
(数えることしか、できませんでした)
少年竜が、助走路の先を見ました。
三年間、毎朝四時四十分に見つめていた、その方角を。
一歩。
二歩。
観覧席が静まりかえります。
三歩。
四歩——速い。
左前脚が、痛みを庇わずに地を蹴りました。生まれて初めて、全体重で。
翼が、開きます。
小さな、灰色の翼。
風を噛んだ瞬間、色褪せた鱗の縁が、日を受けて、ほんの少しだけ翠に光りました。
——そして。
少年竜は、初めて自分の影を、地面から引き剥がしました。
沈黙。
数千人の、完全な沈黙。
それから。
「竜騎士団——礼!」
ヴィクター・グレン団長の号令が、空気を割りました。
鎧の音が一斉に鳴ります。騎士団全員が、空を飛ぶ小さな竜に、頭を垂れました。
歓声が、遅れて爆発します。
団長だけが、顔を上げたまま、堂々と泣いていました。隠しもしませんでした。
わたくしは空を見上げます。
セルフィが、旋回して、こちらを見ました。
「リネ——! リネ、とんでる——!」
「はい」
喉が、うまく動きません。
「はい。記録します」
わたくしは記録簿を開き、震える手で、一行を書きました。
『第千九十六日。初飛行。四時四十分に見ていた空へ、到達』
前世で、翼を磨きながら落ちて死んだ日のことを、少しだけ思い出しました。
あのとき磨いていた機体も、翌朝ちゃんと飛んだのでしょうか。
——たぶん、飛んだのでしょう。
誰かが、記録していたはずですから。
◇
ボルク・ダーレン男爵は、飼料費横領および訓練枠の職権濫用により解任。爵位は返上となりました。
引き渡しの日、竜舎の門で、わたくしは一度だけ顔を合わせました。
男は、磨いていたはずの爪を、噛んで潰していました。
「……掃除係」
「点検官でございます」
「そうか」
彼は空を見ました。セルフィが、新人騎士の指導のもと、低空で旋回しています。
「……俺は」
声が、かすれました。
「一度も、竜に選ばれなかった」
それだけでした。
弁解でも、謝罪でもありません。ただ、四十六年分の何かが、一行だけこぼれたのだと思います。
わたくしは答えませんでした。
(選ばれなかった人が、選ばせない人になった)
(それは、本当に、よくある話です)
背中が門を出ていきます。
わたくしは記録簿を開き、日付と、たった一行を書き足しました。
『竜舎管理官、離任。以後、当該職務は記録制とする』
◇
第二王子アルベール・エルデガルド殿下は、三日後、公式声明を出されました。
『先の発言を撤回する。当該竜に対する不適格の認識は、記録の不備によるものであった』
謝罪ではありません。撤回です。
あの方は、制度の子なのだと思います。頭を下げる形式を、撤回という書式でしか持っていない。
ですが、撤回は記録に残ります。
記録に残れば、次の誰かが読めます。
それで、十分でございました。
◇
三ヶ月後。
エルデガルド王国竜騎士団の全竜に、『点検記録簿』制度が導入されました。
一頭につき一冊。毎朝の関節可動域、飼料配合量、訓練実施回数。すべて記入、すべて押印。
制度書類の末尾には、こう署名されています。
『竜騎士団付 点検官長 リネ・ハウゼル』
ミラ・トッドが、最初の実務担当になりました。そばかすの下働きは、今や十六歳の記録官です。
竜舎の隅で、若い騎士が新人にこう語っているのを聞きました。
「初飛行の合格率、去年の四割から九割八分だぞ」
「九割八分!? 竜の質が上がったんですか?」
「違う」
騎士は笑いました。
「飛べない竜なんて、最初からいなかったんだよ。——誰も数えてなかっただけだ」
隣で、ミラが黙って記録簿の頁をめくっていました。
数字を読むときだけ澄む声で、小さく呟きながら。
「……三百六十回。実施、三百六十回。異常なし」
◇
「リネ・ハウゼル」
竜舎の入口に、ヴィクター・グレン団長が立っていました。
相変わらず無駄口を叩かず、相変わらず何を考えているかわからない薄い青の目で。
「はい」
「これを」
差し出されたのは、二枚目の羊皮紙でした。
『正式配属:竜騎士団付 点検官(兼・セルフィ専属騎乗者候補)』
わたくしは、二度読みました。
「……団長。後半の括弧が、多いように思うのですが」
「誤記ではない」
「わたくしは戦闘力が皆無です。【精密点検】は触れて十秒、読み取るだけのスキルです。治癒も強化もできません」
「知っている」
団長は視線を逸らしました。わずかに。
「三年前、君は『雑用向き』と判定された。あの判定を出した鑑定官に、俺は先日、記録簿を十一冊送りつけた」
「……それは」
「返事はない。だが、今年の鑑定の儀から、【精密点検】は『整備適性』に分類が変わった」
(分類が、変わった)
(誰かの人生の入口が、一行、書き換わった)
喉の奥が、少し熱くなりました。
「賞賛の言葉は、不得手なのでな」
団長は任命書を押しつけるように差し出しました。
「代わりに、紙をやる」
「……十分でございます」
わたくしは受け取り、深く一礼しました。
紙で褒める人。紙で戦う女。案外、悪くない組み合わせかもしれません。
「次は君が空へ出る番だ」
団長は、そっぽを向いたまま言いました。
「……いいか、俺の背に乗る話じゃないぞ。あいつの背だ」
「どちらも想定しておりませんでした」
「——想定しろ」
耳が、ほんの少し赤かったように見えましたが、記録には残しません。
(残しませんが、覚えてはおきます)
そのとき。
前掛けの裾が、そっと引かれました。
振り返ると、セルフィがいました。
三ヶ月前より、ひとまわり大きくなっています。飼料は規定量。敷き藁は麦藁。訓練は三百六十回、実施済み。
鱗は、翠玉色を取り戻しつつあります。
それでも、噛み癖だけは治りません。今日も、加減された力で、わたくしの裾を甘噛みしています。
油と、紙と、砂の匂い。
「リネ、のる?」
「よろしいのですか」
「のる!」
わたくしは記録簿を閉じ、腰に鍵束を提げ直しました。
返却したはずの、竜舎の鍵。あの日、団長が黙ってわたくしに返してきた鍵です。
掌を、少年竜の首に当てます。素手で、十秒。
——関節可動域、九割六分。魔力充填、規定値。翼膜、損傷なし。
異常、なし。
指先で、鱗の上の埃を、そっと拭いました。前世からの、癖です。
助走路の向こうに、空がありました。
三年間、毎朝四時四十分に、この子が見つめていた方角です。
わたくしは背に手をかけ、静かに息を吸いました。
「では、初飛行の点検を始めます。——今度は、わたくしの番ですね」




