第8話
戦術演算システム《サピエンス》
【意思決定支援:論理優先モード】
概要:装着者が極限状態において「情動」に流され、救護効率を低下させることを防ぐための安全装置。
機能:生存可能性、救助対象の数、および周辺状況を瞬時に計算し、最適な行動順序を装着者の四肢へ強制介入させる。
設計思想:
「感情はエラーの源である。一人の愛する者を救うために百人の見知らぬ者を死なせるのは、兵器として『敗北』と同義である」
備考:本システムは装着者への事前通知なしに起動する。設計者の判断による。
第8話:正義のアルゴリズム
橋が、死にかけていた。
マケドニア帝国の無差別空爆によって主塔の一つが崩壊し、大河に架かる吊り橋は今、断末魔のように軋み続けていた。ワイヤーが一本ずつ千切れるたびに、橋全体が数センチずつ沈んでいく。
剣は橋の中央に立ち、二つの方向を交互に見た。
東側。観光バスが、千切れかけのワイヤー一本で宙吊りになっていた。バスの中から、叫び声と泣き声が聞こえた。三十人。老人、子供、観光客。
西側。崩落した鉄骨の間に、一人の男が挟まれていた。作業着を着ていた。胸のポケットから、折り畳まれた紙が覗いていた。子供の描いた絵のように見えた。男は剣と目が合うと、腕を伸ばした。声が聞こえた。
「頼む——死にたくない。娘が待ってるんだ」
剣はバイザーを起動させた。
【状況分析:完了】
【選択肢A:観光バス救出。生存数:30。成功率:92%】
【選択肢B:整備士救出。生存数:1。成功率:98%】
【同時救済の可能性:0.004%】
「動け。両方助けるんだ」
地を蹴ろうとした。
体が、動かなかった。
【戦術演算システム《サピエンス》:起動】
【論理優先モード:四肢制御を移譲。目標:観光バス】
「何だ——? 俺は、俺が——」
剣の脚が、意志とは無関係に加速した。東へ。バスへ。三十という数字に向かって。
剣は叫んだ。声だけが自分のものだった。「やめろ! あっちに——あっちに人がいる!」
しかし装甲は聞かなかった。父・大地が設計したシステムは、剣の叫びを「計算に含まれない変数」として処理し、最適解へ向かって走り続けた。
剣はバスのワイヤーを掴んだ。三トンの剛腕で、軋む鉄骨ごと引き上げた。
その瞬間、背後で音がした。
爆発ではなかった。崩落だった。西側の区画が、音もなく、ただ重力に従って川へ落ちていった。鉄骨と、コンクリートと、作業着を着た男が、水面に消えた。
娘が待ってるんだ、という声が、まだ耳の中にあった。
【救出完了:生存数30。論理優先モード:解除】
バスのドアが開き、人々が出てきた。泣きながら剣にすがる者がいた。「ありがとう」と繰り返す声がいくつも重なった。子供が剣の装甲に抱きついた。
剣は答えられなかった。
システムが解除され、四肢の制御が戻ってきた。しかし剣は動かなかった。三十人の声の中で、ただ立っていた。
自分の手を見た。
三十人を救った、銀色の手だ。汚れていない。傷もない。しかし——この手は、剣の手だったのか。
システムが走らせた。システムが掴ませた。システムが引き上げさせた。剣は、自分の体の中で、ただ叫んでいるだけだった。
それを「救った」と呼んでいいのか。
バスから降りた老人が、剣の手を両手で包んだ。「あなたは命の恩人だ」と言った。剣はその手の温もりを、数値として受け取った。【体温:36.2℃】。
剣は、老人の手を静かに外した。
橋の端まで歩いた。欄干から、川を見下ろした。水面は穏やかだった。さっきまで何かが落ちた場所と、そうでない場所の区別が、もうつかなかった。
【BATTERY: 40% / LIMIT: 240s】
警告音が響いた。
剣は、川から目を離さなかった。
「……俺は、救ったのか」
風が吹いた。
「それとも——選別したのか」
返事はなかった。川も、風も、答えなかった。三十人の「ありがとう」の声が、橋の向こうからまだ聞こえていた。




