第7話
■まえがき:エルソード構造解析記録(断片)
【触覚フィードバック・プロトコル】
仕様:外部装甲が感知した圧力・振動は、装着者の脳へ「数値データ」として転送される。
制限事項:過剰な入力による脳への負荷を避けるため、一定以下の微細な振動——脈動、肌の質感、体温の揺らぎ——はカットされる。
設計思想:
「兵器に『柔らかさ』を感知する機能は不要である。鋼鉄の指先に必要なのは、トリガーを引く正確さと、敵の首を折る剛性のみ」
第7話:錆びた指先
右腕の装甲が、まだ黒ずんでいた。
自己修復が追いつかないのか、それともナノマシンの分解が深部まで届いているのか——剣にはわからなかった。銀色であるべき表面が、虫食いのような斑模様を晒したまま、光を反射しない。
国境付近の宿場町。帝国の追撃を振り切り、辿り着いた場所だ。
広場に面した建物の壁に、紙が貼ってあった。帝国の紋章と、銀色のシルエット。テロリスト、という文字が読めた。そのシルエットは——エルソードだった。剣は一秒だけ見て、目を逸らした。
変身を解くべきか、という考えが何度か頭を過った。しかしその度に、第5話の泥の感触が戻ってくる。生身の膝が地面を踏んだあの重さ。頬に走った痛み。スーツの外にある世界の、容赦のない質量。
エルソードという檻の中にいる限り、少なくとも「強い」という事実だけはある。
その時、爆発音が響いた。
広場の端で、古い時計塔が崩れ始めた。帝国の残党が放った自走爆弾だ。瓦礫が雨のように降り注ぐ中、甲高い声が聞こえた。
「お兄ちゃん!」
剣の体は、思考より先に動いた。
【加速:12.5m/s】
【出力:25%】
銀色の影が疾走した。数トンの石柱が少女を押し潰す直前、剣の左腕がそれを受け止めた。
【衝撃検知:1.2t。装甲ダメージ、軽微】
痛みはない。数値だけがある。剣は少女を抱え上げ、安全な場所へ飛び退いた。
少女は震えていた。五歳か、六歳か。膝を擦りむいているが、致命傷はない。
「……もう、大丈夫だ」
バイザー越しに声をかけた。少女に届いているかどうかわからない。剣は、彼女を安心させようと、その小さな肩に手を伸ばした。
右手を。黒ずんだ、虫食いのような傷跡を晒した、右手を。
カチ、と音がした。
少女が身をよじった。
「いや——! 来ないで!」
剣の右手が、少女の肩に触れた瞬間だった。
【対象の体温:36.5℃】
【心拍数:142bpm】
バイザーが数値を返した。温かい、という感覚はない。柔らかい、という感触もない。三十六度五分という数字と、百四十二という数字だけがある。
「化け物! 触らないで!」
少女が叫んで、走り去った。
剣は、右手を止めた。
宙に浮いたまま、右手がある。誰もいない空間に向かって、差し出されたまま、止まっている。
住人たちが広場に集まり始めた。剣を見る目が、感謝ではなく恐怖に変わっていく速さは、いつ見ても同じだ。壁に貼られた帝国のポスターと、目の前の銀色の怪物。住人たちは二つを照合して、答えを出す。
石が飛んできた。剣の装甲に当たって、乾いた音を立てた。
剣は動かなかった。
自分の右手を見ていた。
かつて、この指でアルヴィスの手を握った。森で葉を拾った。雨粒を受け止めようとして、手のひらに乗せた。それらの記憶は今も残っている。しかし指先は、あの時の感触を忘れている。いや——感触を「持っていない」のか。それとも感触はあるのに「伝えられない」のか。剣には、もうどちらかわからなかった。
【BATTERY: 15% / LIMIT: 90s】
警告音が響いた。
剣は背を向けた。
誰にも何も言わなかった。言える言葉がなかった。少女の泣き声が、まだ広場のどこかから聞こえていた。剣はその声から遠ざかるように、路地裏へ歩いた。
変身が解けた。
外気が皮膚に触れた。冷たい。右腕の低温火傷が、空気に晒されて痛んだ。剣はその痛みを確かめるように、左手で右腕を掴んだ。
痛い。
痛いということは、まだ感じている。感じているということは、まだここにいる。
それだけを確かめてから、剣は路地裏の壁に背を預けた。誰もいない。誰も見ていない。剣はゆっくりと、自分自身の両肩を、両腕で抱いた。
冷たかった。
エルソードの装甲はすでに消えている。今、自分の腕を抱いているのは、生身の腕だ。しかし剣には、その温もりが届かなかった。右腕の火傷が痛みを返すだけで、抱かれているという感触が、どこにもなかった。
路地裏に、雨が降り込んでいた。
剣は、動かなかった。




