第八話 暦の熱情
あれから年の瀬となる。夜を重ねる度に後悔にうなされて来た。ヌードを撮られた。寧くんの知らない痣も知られてしまった。あの日がなければ、油断しなければと自責の念が強い。楽しいクリスマスイベントも小さなホットケーキに苺を飾って独りぼっちで過ごす。
「もう、売れ残りのケーキだわ」
白い部屋でぼうっとテレビを見ているとブザーが鳴った。あのオトコかも知れない。ドアチェーンを掛けてインターフォンに出る。
「はい」
敢えて名前を言わない。教える必要もないから。
『僕だよ。櫻絵さん』
「寧くん!」
私はスリッパ叩きながら急いで玄関から迎えた。本当なら胸に飛び込みたい。けれども、肌を見られた穢れた身を預けるには、寧くんは眩し過ぎた。拘っていないで、優しい寧くんとあたたかい関係になっていればよかったと悔いるばかりだ。後悔先に立たずとはこのことか。
「連絡もなく訪問してごめん。燦展に一緒に行きたかったけれども、連絡がつかなくて」
「ごめんね、ポケベルはちょっとお休みしていて。お電話もちょっとね……」
久し振りに仔犬の澄んだ瞳にやられた。寧くんが靴を揃えていた手を止める。
「どうかしたの。目を逸らして」
「お母さんと夜八時にお電話するのよ。櫻絵や、櫻絵やと話相手もいないようで。だから、他のコールは疲れるのよね」
寧くんがよく着るベージュのコートを預かり、ハンガーに袖を通して玄関のフックに掛けた。ぱりっとコートが凍えている。
「外は寒かったようね」
「東京の世知辛さには参るよ。床暖が恋しいな」
白い扉の先は秘密の館だ。闇と靄の世界が広がっているが、覚悟を決めて居間へと通す。
「櫻絵さんのお母さんもお寂しいだろうに」
「二人住まいから独居老人だもの。父の存在って大きかったとつくづく思うわ」
「出窓にあるのは、前に話してくれたしば桜かな」
「……お花は冬越しをしているの」
あの日の忍耐を思い出す。寧くんは、私の顔色を窺ってそれ以上は詮索しなかった。嫌な想い出は全て洗い流したい。
「モカがお好きよね。寧くんの好きなチーズタルトがなくてごめんね」
「ありがとう。気を遣わないで」
遊びに来てくれたときの揃いのマグカップが好き。一緒に動物園を堪能したとき、うさぎ柄をじっくり選んで贈ってくれたから。コーヒーメーカーに呼ばれ、ゆっくりとモカを淹れた。寧くんは香りを褒めたり味わったりして、上品に召し上がってくれる。こうした時間が私には大切に思える。癒しの天使だ。あの日の件をどう切り出そうか、黙っているべきなのか。
「丸めてあるうさぎさんの布団はどうしたの」
困った話題を振られた。
「ミミちゃんと言うの。葬儀の帰りに持ち帰ったのだけれども、恥ずかしくて部屋の隅に追いやってしまったわ」
「可愛い柄だよ」
ミミちゃんには一つも罪がないのに。あの愚か者のせいだ。
「でも、もうゴミにするわ」
「物を大切にする櫻絵さんらしくないな。どうかしたのかい」
「黄泉に行っても伝えられない」
カップに唇が触れたとき、モカに嫌悪感を覚えて眉根を寄せた。
「櫻絵さんをご予約していいかな。年が明けたら初詣はどう」
縋りついて泣きたいとき、この瞳に参ってしまう。
◆◆
年も明けた。
「あのオトコがいなくても、目の前にちらついて仕方がないわ」
普通の生活ができなくなっている。写真を第三者に見せられたら寧くんへの操が消える。震えながら過ごしていた。頭の中にテープレコーダーがあるように、繰り返し聞かされる。
『櫻絵、ヘソの上に変な痣があるんだな。いいこと知ったよ。今度彼氏に教えといてやる』
電源があるのならテープを止めたい。
「手を動かしていた方がいいわね」
どうしても払拭できないとき、キャンバスに絵具を叩き付ける。下絵なんか要らない。直感の心が全てだ。未完成だけれども、寧くんに見て貰おう。九時には初詣に行くとの約束があった。丁度チャイムが鳴った。
「明けましておめでとうございます」
「ちょっとお願いがあるの」
床にシートを敷いた上にイーゼルがある。
「ふむむ……。キュビズムの鮭かな」
仔犬の澄んだ瞳に胸を射抜かれた。
「具象画が急に抽象画になったので、心配しているよ」
「パブロ・ピカソの『アヴィニョンの娘たち』が素敵に思えてね。鮭もいい線だったわ。スルメイカと鶏を描いていたの」
「気分転換しに神社に行こう」
寒い元日を並んで歩く。肩をぽんと触れられた瞬間、あたたかい風が胸を過る。ときめく感覚を確かめながら神社に着いた。いつもは遠くにあるのに。
「お賽銭、僕が出すからゲン担ぎしよう」
「あら、五円玉でご縁とか」
「五万円だよ」
私は、顔面蒼白で手を振る。
「いけないわ。遠慮させてください」
「大丈夫。きっと運気が向くよ」
暫く話し合っていたが、素直に感謝することにした。
「次は和装でおめかししますわ。お振袖よ」
「櫻絵さんの着物姿、美しいだろうね」
成人式以来着ていなかった。
「白地に薄桃色のしば桜が刺繍されていて綺麗なのよ。祖母が仕立た大切なお着物だから、生原家の女子には一度は袖を通してほしいわね」
「……もしも、願いが叶ったら。櫻絵さんと僕との子どもに着てほしいな」
寧くんは頭を掻きながら後ろを向く。
「おみくじっていいよね。櫻絵さん、お先にどうぞ」
「てやっ」
振って出た番号に従って、交換して貰った。
「寧くんも」
「てやって言うものなのかな」
「勢いも大切なの」
お互いに見せ合う。
「僕は大凶だったから、もう落ちないみたいだね。いいことしかないな」
「寧くんは前向きね。私のは大吉なの。山の頂にあっては、あとは下るしかないわ」
『櫻絵ちゃん、幸せになって』
『幸せ探しは大切なのよ』
薄桃と白の囁きではっとした。 あたたかいひとときを寧くんにお返ししたい。
◆◆
もう、バレンタインデーになってしまった。
『櫻絵や。体は大丈夫か』
母が独り身になってから、同じ内容の電話が多くなって来た。私にも悩みがあるが、打ち明けられない。メンスが二カ月も来ないだなんて。
「元気よ。心配しないで」
未来の電話でなくてよかった。テレビ電話だと青白い顔を心配される。
『志朗さんの座右の銘に、「愛してもその悪を知り、憎みてもその善を知る」があるけれども、櫻絵にはそんな方いないのかい』
ズバリ寧くんのことだろう。汗を掻きつつ無言になってしまった。
『ハガキが届いたよ。鯵の干物で賞を取ったって、本当かい』
「アハハ。お腹が空いて描いたからよかったのかも知れないわ」
話に花を咲かせていたが、体に嫌な寒気を覚える。
「ごめんね、お手洗い。掛け直すから」
お腹もしくしくと痛いまま回復しない。ぞくりと背筋が凍る。
「いつもより経血が多いわ。最終月経は十二月三日だったし」
突然、居間の電話が唸る。
「お母さん、寧くん。助けて」
随分長くコールをしてくれたが、切れてしまった。脳内のカセットテープが際限なく回って聞こえた。
『櫻絵、ヘソの上に変な痣があるんだな。いいこと知ったよ。今度彼氏に教えといてやる』
「嫌――!」
ストレスが背後から大きな波のように押し寄せる。




