表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キミへ囁くしば桜  作者: いすみ 静江✿
第一章 難破
6/48

第六話 燦展受賞

『10690』

「テルクレだわ。こちらから電話しないと」


 玄関脇に黒電話、居間に子機もある青い電話がある。居間へ行き、指で覚えた番号を急ぐ。コールして気が付いたが、橘家は夜中だ。


「夜分遅くに失礼いたします。生原櫻絵と申します」

『僕だよ』

「寧くん」


 人の名を口にした日は危ない。母が聞き耳を立てているだろう。電話ごと部屋の隅に持って行き、囁きに変えた。


「父が危篤となり、急ぎ栃木に帰ったの」

『お父様が!』

「間に合わなかったけど、直ぐに葬儀になったわ」

『僕は言葉が見当たらなくて情けない。お悔やみ申し上げます』


 別れていた筈なのに。


「私、自分で寧くんから連絡を貰えるとまでは思わなかったわ」


 彼はやはり優しい。


『元気になれるニュースを持って来たよ』

「なあに」

燦展さんてんの入選及び受賞おめでとうございます』

「ええ?」

『櫻絵さんらしい油彩画だったよ。汗まで散っていそうな鯵の干物をモチーフにして、在学中より目が肥えたと思った』


 あの油彩画ですか。燦展とは初秋に応募したものだ。まさか受賞できるとは思わなかった。


「当の私でも知らないわ」

『ハガキが来てないかな。テレビのニュースでもあったよ』


 声を聴いただけで、懐かしさと私の胸の内にある裏切りが矛盾する。彼とは美大の頃にメトロで知り合った。うとうととして来たので、子機を持ってミミちゃん布団に包まった。


『栃木は雪らしいね』


 寒いから熱く抱いてほしいなど、純な彼に縋れない。


「寝落ちしたら、ごめんね」

『眠いときに寝た方がいいよ。僕は待てるから』

「寧くんは、いつも待ち続けてばかり。感謝をどれ程唱えたらいいのかしら」

『再びお別れとかはよしてな。参っているんだ』


 全面的に私が悪かったと思う。別れなど切り出さなければよかった。今日はもう疲れていたのだろう。泥のように眠った。遠くでおやすみと聞こえた気がする。


 ◆◆


 夢の中で想い出と奮闘している。彼と知り合って、十二月で一年になるのか。その頃、原因不明の下痢と便秘を繰り返していた。病院へ行くと、ストレス性の過敏性腸症候群かびんせいちょうしょうこうぐんと診断された。罹患したのは美大の人間関係だろう。七月のしぶとい暑さの中、また嫌な学生に取り囲まれた。よく、大学の同じ洋画科ようがかで冷やかさたものだ。


「また例の橘くんとお泊りなのよね。櫻絵さん」

「だって、男女の仲がないなんて、信じられない」

「櫻絵は、嘘を吐いているよ。誰だって我慢できないだろう」


 三森みもり高橋たかはしに紫堂は、おちょくってばかりだ。嫌気がして十三時に片付け始めた。


「背負って帰ろう。家の方が落ち着くわ」


 人の気持ちを踏みにじられた気がして、頬を膨らませて帰る。


「こんにちは。生原さん」


 寧くんはいつものように、美大からメトロに乗るまで送ってくれる所だった。風にのって若葉が舞い散って来る。チェックの半袖を着た彼が葉隠れの術から顔を出す。


「やあ」


 彼は待つ間に読んでいた文庫本を畳む。隣を歩いてくれた。二人とも黙って手も繋がない。不忍池しのばずのいけの畔で、私がお腹を壊してしまった。余計なことを口にしたのは私だ。


「どうして私の鞄を持ってくれないのかしら」


 すると、彼は自分の顔を指で示した。


「大切な作品でしょう。僕が持ってもいいのかな」


 私は苛立っていたのだろう。


「ててて、手を繋いでもいいと思うわ」


 重たい絵や絵の具を彼の反対側に掛け直した。空いた左手をそっと差し出す。


「皆、僕達を見ているからさ」

「誰が見ているのかしら」

「誰って、どこで見られているか分からないものだよ」


 とんだ赤恥だ。


「ごめんなさい。寧くんの心臓を掴む程、心得がないみたい」

「心臓とか大袈裟にしなくても」


 赤恥が燃えるように感じる。


「少しお腹が痛かっただけよ」

「大丈夫かな。お手洗いとか」

「駅にあるわ。一人で行けるわよ」


 私は鞄を左に背負い直して、駆け出した。


「待って、生原さん」

「櫻絵よ」

「生原さん、僕が悪かった」

「櫻絵だってば!」


 急いだだけあってメトロに着きそうになる。


「待ってよ、櫻絵さん――!」

「さ、櫻絵さん、よ……」


 一体どんな表情をしていたのだろうか。真っ赤だったに違いない。私の手を彼が握っていた。


「鞄は持たなくても大丈夫なの」

「ごめん。駅まで持たせて」

「もう一度呼んでくれないかしら」

「か、勘弁してよ」


 私のことを下の名で呼んでくれた。櫻絵さんと。


 ◆◆


「夢は選べないものね。『0833』オヤスミか」


 ポケベルへのメッセージを手に握っていた。寝落ちしていたようだ。もう一度、布団に包まって唱える。


「お父さん、お母さん。私は心を小さくしているようです。がんばりますから、見守っていてください」


 小さな鳥達が早朝会議を始めた。父は空で太陽のお仕事をしている気がする。ずっと皆を照らしてくれる筈だ。


「櫻絵や。偶にはあたしが腕を振るうよ」


 起き抜けなのに頼もしい言葉で、私も力を貰う。母とゆっくりご飯を食べて、家を後にした。


「櫻絵。櫻絵や――」


 いつまでも手を振っているのが分かった。ここで振り向いたら駄目だと目を瞑りたかったが、ルームミラーが母を捉える。広縁の傍に、背丈の低い枝が這っていた。一つも花がないのに、白や薄桃が見え隠れする。大切な『しば桜』ではないかと思うと、胸が締め付けられる思いがした。


「お母さん。また来ますから」


 母の手は千切れんばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ