第六話 燦展受賞
『10690』
「テルクレだわ。こちらから電話しないと」
玄関脇に黒電話、居間に子機もある青い電話がある。居間へ行き、指で覚えた番号を急ぐ。コールして気が付いたが、橘家は夜中だ。
「夜分遅くに失礼いたします。生原櫻絵と申します」
『僕だよ』
「寧くん」
人の名を口にした日は危ない。母が聞き耳を立てているだろう。電話ごと部屋の隅に持って行き、囁きに変えた。
「父が危篤となり、急ぎ栃木に帰ったの」
『お父様が!』
「間に合わなかったけど、直ぐに葬儀になったわ」
『僕は言葉が見当たらなくて情けない。お悔やみ申し上げます』
別れていた筈なのに。
「私、自分で寧くんから連絡を貰えるとまでは思わなかったわ」
彼はやはり優しい。
『元気になれるニュースを持って来たよ』
「なあに」
『燦展の入選及び受賞おめでとうございます』
「ええ?」
『櫻絵さんらしい油彩画だったよ。汗まで散っていそうな鯵の干物をモチーフにして、在学中より目が肥えたと思った』
あの油彩画ですか。燦展とは初秋に応募したものだ。まさか受賞できるとは思わなかった。
「当の私でも知らないわ」
『ハガキが来てないかな。テレビのニュースでもあったよ』
声を聴いただけで、懐かしさと私の胸の内にある裏切りが矛盾する。彼とは美大の頃にメトロで知り合った。うとうととして来たので、子機を持ってミミちゃん布団に包まった。
『栃木は雪らしいね』
寒いから熱く抱いてほしいなど、純な彼に縋れない。
「寝落ちしたら、ごめんね」
『眠いときに寝た方がいいよ。僕は待てるから』
「寧くんは、いつも待ち続けてばかり。感謝をどれ程唱えたらいいのかしら」
『再びお別れとかはよしてな。参っているんだ』
全面的に私が悪かったと思う。別れなど切り出さなければよかった。今日はもう疲れていたのだろう。泥のように眠った。遠くでおやすみと聞こえた気がする。
◆◆
夢の中で想い出と奮闘している。彼と知り合って、十二月で一年になるのか。その頃、原因不明の下痢と便秘を繰り返していた。病院へ行くと、ストレス性の過敏性腸症候群と診断された。罹患したのは美大の人間関係だろう。七月のしぶとい暑さの中、また嫌な学生に取り囲まれた。よく、大学の同じ洋画科で冷やかさたものだ。
「また例の橘くんとお泊りなのよね。櫻絵さん」
「だって、男女の仲がないなんて、信じられない」
「櫻絵は、嘘を吐いているよ。誰だって我慢できないだろう」
三森と高橋に紫堂は、おちょくってばかりだ。嫌気がして十三時に片付け始めた。
「背負って帰ろう。家の方が落ち着くわ」
人の気持ちを踏みにじられた気がして、頬を膨らませて帰る。
「こんにちは。生原さん」
寧くんはいつものように、美大からメトロに乗るまで送ってくれる所だった。風にのって若葉が舞い散って来る。チェックの半袖を着た彼が葉隠れの術から顔を出す。
「やあ」
彼は待つ間に読んでいた文庫本を畳む。隣を歩いてくれた。二人とも黙って手も繋がない。不忍池の畔で、私がお腹を壊してしまった。余計なことを口にしたのは私だ。
「どうして私の鞄を持ってくれないのかしら」
すると、彼は自分の顔を指で示した。
「大切な作品でしょう。僕が持ってもいいのかな」
私は苛立っていたのだろう。
「ててて、手を繋いでもいいと思うわ」
重たい絵や絵の具を彼の反対側に掛け直した。空いた左手をそっと差し出す。
「皆、僕達を見ているからさ」
「誰が見ているのかしら」
「誰って、どこで見られているか分からないものだよ」
とんだ赤恥だ。
「ごめんなさい。寧くんの心臓を掴む程、心得がないみたい」
「心臓とか大袈裟にしなくても」
赤恥が燃えるように感じる。
「少しお腹が痛かっただけよ」
「大丈夫かな。お手洗いとか」
「駅にあるわ。一人で行けるわよ」
私は鞄を左に背負い直して、駆け出した。
「待って、生原さん」
「櫻絵よ」
「生原さん、僕が悪かった」
「櫻絵だってば!」
急いだだけあってメトロに着きそうになる。
「待ってよ、櫻絵さん――!」
「さ、櫻絵さん、よ……」
一体どんな表情をしていたのだろうか。真っ赤だったに違いない。私の手を彼が握っていた。
「鞄は持たなくても大丈夫なの」
「ごめん。駅まで持たせて」
「もう一度呼んでくれないかしら」
「か、勘弁してよ」
私のことを下の名で呼んでくれた。櫻絵さんと。
◆◆
「夢は選べないものね。『0833』オヤスミか」
ポケベルへのメッセージを手に握っていた。寝落ちしていたようだ。もう一度、布団に包まって唱える。
「お父さん、お母さん。私は心を小さくしているようです。がんばりますから、見守っていてください」
小さな鳥達が早朝会議を始めた。父は空で太陽のお仕事をしている気がする。ずっと皆を照らしてくれる筈だ。
「櫻絵や。偶にはあたしが腕を振るうよ」
起き抜けなのに頼もしい言葉で、私も力を貰う。母とゆっくりご飯を食べて、家を後にした。
「櫻絵。櫻絵や――」
いつまでも手を振っているのが分かった。ここで振り向いたら駄目だと目を瞑りたかったが、ルームミラーが母を捉える。広縁の傍に、背丈の低い枝が這っていた。一つも花がないのに、白や薄桃が見え隠れする。大切な『しば桜』ではないかと思うと、胸が締め付けられる思いがした。
「お母さん。また来ますから」
母の手は千切れんばかりだった。




