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キミへ囁くしば桜  作者: いすみ 静江✿
第一章 難破
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第五話 箱の奥底

「お父さんとお母さんの愛は、パンドラのように開けないでね」

「その話、最後はいいことがあるんだろう」


 パンドラの箱は、幼い頃に読み聞かせて貰っていたお話だ。幾度となくせがんだのを覚えている。母の覚束ない記憶は齢の五十で片付けようと哀しんだ。


「災いの後に希望があるけれども、そもそも触れてはいけないものよ」

「折角、葛飾から宇都宮に来たんだ。志朗さんの為にもゆっくりできないか」


 母が出涸らしを益子焼に注ごうとしている。


「こちらも美味しいわよ」


 別のお湯呑み茶碗に深く澄んだ緑の煎茶を差し出した。夫婦湯呑みで、二つ合わせると淡い花模様が浮き出る。私が美大で焼いた物だ。


「お母さんのお茶は、私がいただくわ」


 二人きりの夜を染める雪もしば桜と戯れ、櫻絵ちゃんもお泊りしなさいよと誘った。広い茅葺に孤独な母を置いて行くのは忍びない。


「とんぼ返りも切ないわね」

「櫻絵の布団はあるんだから」


 しみじみとしていたが、俄然ミミちゃん布団を隠さなければ帰る訳には行かないと焦り出した。今夜にでもドライブしながら帰ると言う予定があっさり狂った。明日発つ前にミミちゃんを自宅へ連れて行こう。


「お風呂であたたまるといいわよ。私が火を入れるね」

「この頃は沸かせないんだ。土間に行けないから、専ら乗り合いバスで百円銭湯にお世話になっていてね」


 家の群青色の五右衛門風呂も健在だった。玄関前の柱時計は十二時五十分から動かない。子どもの頃は背丈程もあった振り子が、立派な鐘の音を忘れてしまった。変わりないと信じ込んでいた家に透明なほころびがある。


「任せてくださいね」


 土間へ行くとお風呂は全く使われていないのが分かった。でも、挫けたら駄目だ。


「よっし」


 お風呂への薪は、ストーブに使っているのを拝借する。着火剤を使って手抜きお風呂と決め込んでいたが、湿気があって上手く行かない。読まれていない新聞を巻いて切れ込みを入れる。内側から抜くように伸ばすと花弁が開き、薪を情熱的に燃やしてくれた。


「結構汗を搔くわ。ふうー」


 団扇で風を送る。土間で火守りをして七時にもなっていたことを知った。一段上の五右衛門風呂も沸いて来た。


「湯加減もいい塩梅よ。お母さん」

「もう入れるのかね。それにしても、櫻絵はいい顔じゃないか」


 軍手を外して額を触ると煤がある。お化粧も崩れてしまった。誰に見初められる訳でもないし構わない。母に付き添って北東の風呂場へ案内する。


「随分と痩せてしまったのね」

「そうかい」


 先程の威圧感がもうない。着替えなどはできるようだ。


「湯加減は如何かしら」

「ええよ」


 小波が寄せる音が優しい。お風呂が生きているようで嬉しかった。


「懐かしいね。志朗さんがいた頃のようだね」

「お父さんはいるわよ。夢に見た大きく架かる虹に」

「虹にか……」


 二人してぐしっと鼻をすする。湯船からは嗚咽が聞こえた。


「煙のせいだわ」


 私は涙を拭った。火を落とすと家が眠ったような感覚がする。


「私はシャワーをいただくね」

「青いのはホースらしいよ」


 ホースの手造りシャワーが懐かしい。ぐしゃぐしゃの顔をよく洗った。


「グレーの上下を持って来て正解だったわ。寛げるもの」


 湯上りに居間を覗くと、電灯の下に小さな母がいる。


「志朗さんが、先に眠ってしまったんだね」


 フクお祖母さんが入院するとき、着るようにと置いて行った手作りの半纏が畳にある。母が擦っていた。二年前に母の母は介護付有料老人ホーム『しばざくら』に越したと聞く。九十過ぎた実母が生きているのに、まだ五十の若い連れ合いを亡くすのは辛いだろう。


「羽織ってね。湯冷めしたらいけないわ」


 お茶も煎れ直した。


「志朗さんは目の癌が悪化してね。最期なんて、どこもかしこも癌、癌、癌だったよ」


「お母さんの気持ちは分かるわよ。楽しい想い出を大切にして、偲ぶのも遺された私達の権利だと思うわ」


 背中を擦ると、ぐんと丸くなったのを感じる。老け込むのが早い五十歳を背骨で感じた。


「楽しいか。思えば忙しい毎日で特段ないね」

「さっきはしば桜の縁だと教えてくれたのに、拒んでごめんなさい。聞かせてほしいわ」


 母が冷蔵庫から大根のらっきょう酢漬けを出して来た。しまった。お茶うけまで考えが及ばなかった。


「結婚を決めたのが、しば桜の綺麗なスナップとして残っている所なんだよ。話では美しさも感動も伝えられないと、湯に浸かりながら分かったけど」


 大根は薄い輪切りの食べ頃だ。二人でやわらかく甘い漬物とお茶を味わっていた。母はすっかりくたびれたのかと思っていたが、家事はまあまあ大丈夫なのかと安堵する。母からは父を褒めることが供養になるようだ。


「お母さんは、愛していらしたのね」

「どうだか」


 その言葉を置いて、彼女はほてほてと部屋を去った。


「ふう、お母さんも眠ったのね」


 奥の高校まで使っていた部屋へ入る。ミミちゃん布団が待っていた。母の様子が怪しかったから一泊する。お守りの為だ。


「誰かが東京で私の帰りを待つ訳ないわ。一泊位大丈夫よ」


 寒さで急ぎ布団を被った途端、ポケベルが鳴った。

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