第四十七話 パンドラ
私はお集まりの方々から離れて、一人窓際から母を見つめていた。
「次の面会を楽しみにしてほしいわ。だって、お母さんは娘だって分かるのよね? 本当は」
母が自分が音痴だからと歌わなかった分、父の背中で私は歌を覚えて行った。風流の好きな父らしい子守歌。
「ふんふん……」
秋荒ぶ
枯葉の吐息
真昼の迷宮
忘れじの恋
嵐の間に間に
見えぬ明日を
彷徨いて求めし
君の面影
『秋の面影』
作詞、作曲、生原志朗。
「とても子守唄にはならないけれども、今の私には、感じ入る所があるわ」
この歌を聴かせても母に反応がなかった。物侘しさが沁みて来る。
◆◆
ポーラスターでパパが銀幕に流した。確か、『ヒトミ物語』だった。主人公のヒトミが国境なき医師団を取材する中で、治療に当たっていたテントに駆け込む影が映る。身籠った女が役名だ。予期せぬ妊娠を強いられ、体と心に傷を負った女性が宣言する。
『私にも人権があります! 人権があります……!』
容易に人権を侵害される社会に、私は迂闊にも涙を堪えていた。自分が主張したいことは、人権なのだろうか。私の瞳に、ヒトミさんが映る中で、考え込んでいた。
「ママがショックだったのは分かるけれども、梅芳さんも美桜緒さんも心配しているよ。考え事かな」
「うん……。私に人権ってあるのかしら」
「当然、心配しないで」
項垂れていたら肩をとんと叩かれた。動物のひっかき傷のある細い指は美桜緒さんに違いない。梅芳さんはピアノで鍛えられているから、十本の指が大きく開くし節も発達している。
「ジンケンってどんなこと?」
美桜緒さんは動植物が好きな優しい子だが、学校では漢字や用語が苦手だ。
「仕方ないな、美桜っちは。僕が教えてあげるよ」
「姉ちゃ、大好き。やっぱり美桜っちの姉ちゃだわ」
感涙しそうだった。姉妹で教え合うとは美しく優しいから。
「人が持つ権利ってこと。してもいいとされることだよ」
「流石、姉ちゃなだけあるね。尊敬の眼差しビームしちゃう」
「いやいや、僕もこれ位なら」
中学三年生と一年生か。大きくなったわね。梅芳さんの一人称、『僕』は現在進行形だけれども。本当は私と呼んで欲しい。
「姉妹で私達の子なのね」
「はは。ママが、どうして人権について悩むんだい」
「あのオトコに蹂躙されたからよ。それに、梅芳さんにも人としての権利があるわ」
パパは私の髪を優しく抱いた。
「あのね、お父さんが現れて鉄槌を下してくれたようよ」
「確かに人を人とも思わない行為だ。僕も憎らしくて毒蛇の餌食になればいいとも思ったよ。口にしたら家庭を混乱させるから、胸の奥へ隠していただけな」
「あにゃ、珍しいわね」
腰で拳を握りしめていたパパの力が肩から抜けて行く。決意した顔をこちらに向けた。
「生原櫻絵さんは、幸せかい?」
大切なことだからと、もう一度訊かれた。
「生原櫻絵さんは、幸せではないのかとの話」
「――私、生原櫻絵と言う一個人がかしら」
後ろで口ごもる音がする。気に掛けていると、唐突に意識の水風船が破裂した。
「櫻絵や……」
振り向くと小さくなった母がいた。
「お母さん! 私の名前を呼んだのかしら?」
私は、母の膝に掛かったブランケットに縋る。母はまだらに呆けていて、正気なときもあるに違いないと信じているから。
「ね? お母さん、もう一度呼んで」
彼女は黙していた。
「私はね、生原櫻絵です」
母の肩に私の白いストールを掛けた。車椅子を回転させて、しば桜がよく見える大きな窓へ母を連れて行く。
「渡瀬志朗お父さんと生原さくらお母さんは、しば桜の綺麗な所で出逢ったと聞きます。二人の間に生まれた女の子、櫻絵と申します」
今日は、風が強いのかも知れない。外で、しば桜が舞い続けていたから。後ろから、母を痛い程に抱き締めた。
「私――。櫻絵ちゃんなのよ? ミミちゃん大好き櫻絵ちゃんよ。時折、四季を問わずに必ず会いに来ます……。寂しかったらしば桜に囁いてね。絵手紙も持ってくるから」
ホームに預けたままにはしない。母が快適に暮らせると思っての苦渋の決断だった。
「ママ、僕だよ」
「母上、僕も」
「美桜っちもいるよ。ママ」
家族四人が集まって、蒸すように母を囲んだ。しば桜は囁こうとはしなかった。ただ、真実のみを花散る嵐の中に映す。私にも感じられた。しば桜の中に佇む男性。シルエットは母が思い描く志朗お父さんでもない。母が勘違いした太田総一郎氏でもない。
「私にとって、広大なしば桜の中で木を背に物静かに本を読む姿が見えるの。誰あろう、貴方よ」
ウインクを同封して届けた。
「ぼ、僕? まるでママの王子様みたいだな」
「やーだー! パパしかいませんって。もうもうもう」
辛かったことは過ぎ去ったことだ。私には現在がある。パンドラの箱を開けてみると、未来の明るい展望は子ども達に姿を変えていた。




