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キミへ囁くしば桜  作者: いすみ 静江✿
第八章 春望
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第四十五話 二瀑の滝

 もう一つ、衝撃的なことを残している。滝が二瀑目ともなった。


『修行僧、打たれて久し、縦の水。 生原櫻絵』

「太田緑さん、貴女しか分からないことを訊きたいわ」


 さっとパパが私と緑さんの間に入って来た。


「ママ、もしかして緑さんのお相手なら詮索しない方がいいよ」

「でも、けじめだと思うわ。機会を逃すと分からなくなるかも」


 私は負けない。よしんばどんなに地位の高い相手だったとしても口をつぐんでいるのはよろしくないだろう。


「緑さんの愛した男性はどういった方なの? 社長風だったとか、軽い感じだったとか」


 梅芳の実の父を知りたいと心の奥で思っていた。黙して語らないとは彼女も相当肝が据わっている。


「分からないのなら、こちらでお調べすることもできるのよ。梅芳さんが耐えうる歳にまるまではと控えていたの」

「母上、僕にブラックのお代わりをください」


 梅芳から無機質的に紙コップを受け取る。口を一文字に結んでいた。


「僕はお姉さんだから、負けないからね」

「逞しいわね。でも、無理は駄目よ」


 コーヒーコーナーへと向かう。ブラックは、梅芳が十歳から飲み始め、二分の一成人式以降、文字通り少し大人の仲間入りをした。


「貴女が愛した男性の名を教えて欲しいわ。もう、あのときの赤ちゃん、梅芳さんも高校へ行くようになるのよ。知る権利があるわ」

「母上、僕に知る権利があるとは?」


 無駄な抵抗とは思っても主張する権利は持ち合わせている。だから、父親の名前だけでも。


「シドウ、シドウコウスケ……」


 今、シドウと、シドウコウスケと聞こえたけれども。


「もしかして、むらさきのおどう紫堂しどう航海こうかいこう丞相じょうしょうじょう航丞こうすけ、紫堂航丞と名乗ったの?」


 緑は、首を縦にも横にも振らなかった。


「太田緑の相手は、紫堂航丞だったのね……!」


 逆算すれば、当時で四十歳と三十四歳だろう。間違いない。誤って紙コップを手から落としてしまった。


「し、紫堂航丞? カメラに私の肌をおさめた悪魔が! くう……!」


 私に恥辱を働いたオトコだ。落とした紙コップを拾うと、握り潰してしまった。私の肩も震える。


「いつまでママを苦しめるのか!」


 パパが拳を掲げ、やり場のない怒りを斜めに空を切った。


「大丈夫? ママ、顔色悪いよ」

「美桜緒さん……」

「ごめんなさい。ちょっと嫌なことを思い出しただけなの」


 偏頭痛が堪らない。おでこに手を添える。


「ママ、しっかりしてね」

「僕も守るから……。母上の味方だよ」


 心強い二つのエールを貰った。


「二人の子ども達に言われたら、情けない顔などしていられないわね」

「ママは、いつも家族を照らしてくれているよ。微笑み一つで皆幸せだよ」

「パパまで」


 皆、私を応援してくれている。踏ん張らなければ。ママとして、常に子や夫の幸せを願っていた筈なのに、今は逆に気持ちを撫でられているようだ。使えなくなった紙コップをゴミ箱に捨てた。


 ◆◆


 紫堂航丞とはどこで出逢ったのか。太田氏の話による。

「あれは、平成十七年九月下旬のことだったよ」


 一つ一つ合言葉を探すように、ツンとした娘の顔を窺っていた。


「娘は、南野みなみのデパートまるうち店で催された、『青狼せいろう伝統工芸品展でんとうこうげいひんてん』に参加する為に、東京へ作品と共に赴いた。親切な男性と飲みに行くと、家で電話を受けた」


 紫堂航丞が就職したと自慢していたのに興味がなかったが、南野デパートか。


「要するに、緑さんはナンパされたのかしら」


 田舎を出た娘は、背伸びをした。オトコの匂いに当てられたのだろうか。


「宅飲みをすると言ったので、自分は心配して住所を訊いた。金町にあるポーラスター六〇三号室で、出窓からの景色がいいと明るく話していた。緑をギリシャ彫刻のように綺麗だと言われたとか。阻止すればよかったと悔やまれる」

「厚かましいわ! 紫堂は、私が空き部屋にした所へ入居していたのね」

「同じ紫の名だと声を掛けられて嬉しかったとも言っていた」

「あのオトコの常套句よ」


 太田氏が辛そうに吐く。


「もうもうと煙草が漂い、発泡酒のゴミ山からは鼻が曲がる思いをしたそうだ」


 デカダンスをよしとしたか。オトコの家へ誘われて、危機感を持たずに行ったのは悪い。けれども、彼女も赤ずきんちゃんだ。狼に食べられてしまって傷付いただろう。愚か者の繁殖力は恐ろしい。愚か者は孤立するとは限らない。仲間ができたり、恋人もできる。世の中に救いがあるのを憎らしむ。痛い目に遭えばと。


「緑さんは紫堂と親しくなりたかったの?」

「クッソ」


 もしかして暴力だったとすれば、話が異なって来る。


「ねえ、パパ。九月下旬なら私達がパリから帰宅した頃よね。オトコが茅葺きの家へ寄りに来たのよ。車中の花束をどうしたかったのか、全く分からないわ」


 緑が、ぴくりとする。


「ハナ?」

「緑さん、花束よ」


 口を開いたり閉じたりしている内に、彼女は言葉を見つけた。


「オハナ……。お花がほしいと電話した」

「え?」


 好きだったのだろうか。


「陶芸の特選をお祝いして。小さい頃、母がいないと揶揄われて来たから、祝福してほしかった」


 私は父親の太田氏を見つめる。相手が目を逸らさないので、妄想ではないと分かった。


「花束を貰えたのね」

「生原さん、娘はこんな状態になった上、雨の日に対物事故で足を悪くしてしまったのです。介助が必要なのですよ」


 太田氏の言葉に頷く。


「ご入居なさるのですね」


 話が詰まったとき、ノックの音が聞こえた。


「すみません、そろそろ所長とご面会できますでしょうか?」

「はい、お願いしますわ」


 私は母のことに気持ちを切り替えた。


「お母さん、お父さんがいてくれたらよかったのにね。でもしば桜が沢山いてくれる。きっと力になるわよ」


 外に目をやると、勿論虹は出ていない。けれども、舞い上がるしば桜の花々が、まるでレインボーシャワーツリーのようだった。ふわりと現れたのは、誰あろう、父の生原志朗だ。


『最愛の妻さくらと自分が、手塩に掛けて育てた娘が見事に綺麗な花を咲かせた。橘寧殿には感謝しかない』


 唇が風を切る。


「私の声が、向かい風に負けてしまう」


 お父さんと、口にしたいだけなのに。


『紫堂航丞殿には、悪さをしたらお仕置きするぞと警告したのだが、愚か者め! 鉄槌を下したぞ!』


 どんな罰かと訊きたかった。


『もう安心するがいい』


 父は、冗句も嘘もない生き方をして来た。


「信じていいのよね」


 ふるっと舞う花々の中、父は身を隠した。右頬を一滴の涙で焦がされる。今度こそ、お別れのような気がして。虹のようだったしば桜は、霧散した。


 ◆◆


 後に、あのオトコは飲酒運転で物損事故を起こし、自身も大きな怪我をしたとニュースで知った。

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