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キミへ囁くしば桜  作者: いすみ 静江✿
第八章 春望
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第四十二話 凪の波紋

 しば桜の間に道がうねっていた。薄桃色の花びらが頬を打つ。先程まで母を背負っては苛立っていた気持ちも凪いだ。


「壮観ね。お母さん」


 持田の伯父さん夫婦が手入れをしていた公園を思い出す。しば桜の中に一本のトチノキがあったからだ。一本の木を背に本を読む紳士は、しば桜によく似合う。


「特にどなたも佇んでいないけれどもね」


 介護付有料老人ホーム『しばざくら』のポーチに到着した。張り出した屋根の下に、車椅子用昇降機が付いた白い車に赤いしば桜の文様が散っているホームの専用車があった。寧くんとホーム『しばざくら』に決めたのは、祖母がお世話になって印象が悪くなかったからもあるが、母の好きなしば桜も沢山咲いていてメンタルにいいだろうと思ったからだった。


「初めまして。窓口からご紹介いただきました、生原さくらと家族です」

「ようこそいらっしゃいました。所長を呼んで参ります」


 インターフォンより先に、五十代位の女性が迎えてくれた。フレアースカート捌きの優雅なご婦人だ。ポーチから左手の面会室へ通され、母には車椅子を私達には椅子を勧められた。


「移りますよ。お義母さん、よっこいせ」


 パパが母に負担がないように座らせてくれて助かる。私も持って来たブランケットで、母の足腰が冷えないようにした。


「――志朗さんがいたよ」

「お母さん!」


 私は吃驚した。とんと、まともなことを話さなくなったからだ。


「志朗さん、いい男だったね」

「そうね。お父さんにも、二人の孫を見せたかったわよね」

「いつでも志朗さんは傍にいるよ」


 どこまで本気で話しているのか、もう窺い知る術はない。


「お祖母さんは十数年前倒れて入院したとき、窓の外を眺めていたわよね。昨年の夏も病室で窓に気を取られていた風だったわ。ホームではポーチ脇にあるカーテンウォール工法のガラスに目を奪われているわ」


 母の気持ちが父を裏切っていないのか心配で、パパに話し掛けた。


「うーん、動物でも現れたかな? 山の中だしね」


 はてさて、狸かも知れない。


「姉ちゃ! 美桜っち、見に行くね」

「美桜緒さん、危ないことは止めてほしいわ」

「僕も一緒に行くよ」

「あらあら、ならばママもよ」


 皆でパパに母を預けて、窓辺へ駆け寄った。


「皆して、お祖母さんの入居の日だって覚えてるかな。暫くはお別れだよ」

「うん。お祖母ちゃんのね」

「僕も分かるよ」

「美桜っちもね」


 パパに窘められてしまった。


「幻覚でもないか確かめなくては。本当に紳士がいるかは興味深いわ」


 いい訳をパパは好きではないのを知ってはいた。苦い思いをする。


「ああ! ママ、誰かいるわ」

「うーんっと、見えないわね」


 美桜緒さんには見える。全く、立木に読書家なんているのだろうか。


「うねっていた道を辿って青い車椅子を押しているわ」

「へー。変わった色をしているのね」


 見れば、女性を男性が押している。


「ほら、木に差し掛かったよ。ママ」

「僕にも見えるようになったかな。母上」

「うん……。見覚えがあるわね。どなただったかしら」


 子ども達の案内通り、人影が動いているのが分かる。とうとう、正面のポーチから入って来た。


「外は疲れたろうよ。でも、お日様に当たるのはいいと思うよ」

「……ありがとう」


 車椅子を押していたのは、八十代に見える男性で、老け込んだ五十代と思しき女性が腰掛けている。しば桜の花吹雪と共に入って来た。


「お帰りなさいまし、太田おおた様。明日のワゴンでの遠出について、後でご相談いたしましょう」


 入口の女性が迎える。彼女の口から、確かに聞いた覚えのある名が放たれた。


「太田?」

「太田氏?」


 夫婦で見つめ合う。記憶はテレビのチャンネルを合わせるようだった。


「朱の炎の店長ではないですか?」

「作陶家の紫香さんね?」


 パパに続いて私も訊いた。どうなさったのだろう。車椅子でホームにいるだなんて。


「これは、お久し振りでございますな。えーと」

「生原ですわ」


 私の心臓が跳ね上がった。蚤の心臓みたいに鼓動が走っている。


「お加減が優れないのですか? 紫香さんは」

「雨の日にスリップ事故を起こしてしまって、脚を圧迫されたのですよ。手術もしたのですが、リハビリも暗い気持ちでやる気が出なかったようでして」


 私は、雨と言う呪文に唇が渇いた。


「雨……。いつの事故になるのでしょうか?」

「カンケーねえよ」


 紫香さんは、私を下から睨み上げて来る。


「カンケーねえヤツは、帰れよ!」

「紫香さん、僕達は義母の入居をお願いしに来ているんだ。関係なくはない。それに、貴女の体についても心配している」


 いつでもパパは冷静だ。


「世話焼きかよ。クッソが」

みどり、口を慎むんだ」


 後ろからシルバーグレーが囁く。


「緑?」

「緑さん?」


 店長が、紫香さんから視線を外した。


「七月生まれなのですよ。緑の綺麗な時期に生まれてくれたので、緑と私が名付けました」

「店長さんのお子さんなのですか?」


 大きな窓の外で、散り散りにしば桜が舞っている。


『櫻絵ちゃん、〝忍耐〟で私から応援するよ』

『私からは、〝誠実な愛〟よ。きっと心から結ばれる人がいると思うの』


 さわさわとなびく風から、漏れ聞こえる。


「あ――! しば桜ちゃん! お陰様でね、誠実に愛してくれる寧くんと結ばれて、梅芳さんに美桜緒さんにも恵まれたの。大きく育ってくれたわ」


 いつか報告したいと願っていた。けれども、家の庭にあったしば桜は、母が上がり口で転倒して病院へ行った日から、次第に囁きを失ってしまった。本体も危険になっている。この時期になっても花がつかず、手入れをしても二度と根付かなくなってしまった。低い声が聞こえるが、店長の話だろう。


「ええ。この娘は太田緑と申します」


 店長が車椅子の女性を紹介する。


「私は太田総一郎です。一人親をしておりまして」


 店長は私達を覚えていないようだ。


「お父様とお嬢様でいらっしゃいましたか」


 私は鎌をかけてみた。


「緑さん、初めまして」

「ああ?」


 どうにも判断のつかない返事だ。パパが店長に尋ねる。


「差し支えなければ、いつ御御足おみあしにお怪我をなさったのですか?」

「もう十五年程前になります」


 平成十八年のことではないか。パパの横顔を見て、私の頬は鈍い汗を掻いていた。愛する人の手を求めて握る。安心させてくれるあたたかさで、彼の掌をじんと感じた。

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