第三十五話 母さくら
帰宅すると、大変なことになっていた。玄関脇のしば桜が一日で引き戸の入り口まで広がっていた。まるで絨毯だ。
「お母さん!」
白と薄桃の小枝が刺さるように、母が倒れていた。梅芳ちゃんを抱っこ紐で胸に埋めながら駆け寄る。
「しっかりして」
頭を打ち付けたりしていないだろうか。揺り動かして悪化してもいけない。
「ママ、救急車を呼んだから」
「私、付き添うわ」
「いや。妊娠初期の母体が大切だ。僕が行くよ」
ひやっとする記憶が過った。母が父の危篤を知らせる架電の前だ。優しい父が、悪夢を払拭するように虹を渡って会いに来てくれたこと。
『――さくらと自分が、手塩に掛けて育てた娘だ。綺麗な花を咲かせるのはもう暫し後になるかの。紫堂殿、悪さをしたらお仕置きするぞ』
父の言葉は一言一句忘れもしない。燦展受賞後の悲劇まで、全て父のお見通しだった訳だ。紫堂には鉄槌が落ちるといい。しかし、人を呪わば穴二つとも言う。私もこんな考えはよそう。母の無事を祈る方が大切だ。
「ばあば、ねんねん、めっ。ばあば、ねんねん、めっ」
「梅芳ちゃん。ばあばはね、お昼寝しているのよ……」
私は梅芳ちゃんを抱いて、母とパパを乗せた救急車のサイレンに向かって叫んだ。
「転ばないのよ――!」
「ばあば、パッパ」
救急車が砂利を踏みながら茶の垣根から消えて行く。サイレンは母とパパの道程を教えてくれていたが、聞こえなくなってしまった。
「ばあば、パッパ」
「優しいわね。梅芳ちゃん」
頭をよしよしして、茅葺の家に入る。
「ばあば、ばあばー」
「お母さん、よくお世話のお手伝いをしてくれたから。梅芳ちゃん、懐いていたのよね」
「パッパ」
「パパから、後で連絡があると思うわ」
私はしば桜を避けて入れないかと通り道を探していた。けれども、息を呑むことになる。
「はっ……。赤がぽつぽつと」
「ぱぴっぷ」
先程の母が倒れていた所に、血が流れていたことを知る。
『薄桃よ』
『白よ』
久し振りにしば桜の声が聞こえた。花は咲いてなくても意思があるらしい。
『私のような薄桃は、花言葉で〝臆病な心〟と言われるよ。大丈夫かしら』
『では、白い私の〝忍耐〟で根絶を避けたいと願うわ』
秋風が荒ぶ中、しば桜は木霊するように囁きを繰り返した。まるで合唱のように。
「ごめんなさいね。今の私は、白も薄桃もしば桜を恨んでいるわ……。どうして助けてくれなかったのよ!」
血を浴びた荒んだしば桜を睨み付けた。
「正直、母の無事に対して〝臆病な心〟だわ。母の回復を待つのに〝忍耐〟が必要なの。しば桜には縁の心があると思っていたけれども、私が愚かだったわ」
自身の頭を掻きむしる。
「ん、ばあば! ばあば、いないいない」
梅芳ちゃんの声で目覚め、私は携帯電話を見る。午後三時二十一分現在、着信はなかったようだ。やっとメールが届いた。
『救急治療室に入った。救急車で既に意識障害があったようで、僕も懸命に呼びかけたが、反応がなかった。 パパ』
父危篤の連絡が背筋を凍らせたことを思い出した。
『母の命が危なくなる前に、病院で面会したいわ。 ママ』
『ママは妊娠しているし梅芳ちゃんは小さいから、中々厳しいな。 パパ』
『間に合うように、連絡をしてね。 ママ』
時代は移り行き、通話よりもメールの場合が増えたのが少し寂しい。寧くんの直筆の文字でもない。電送されたドットの塊が、鬼のようだ。
「まんま、まんま」
「うん、お昼だったかな。納豆ごはんにしようかしらね」
ベビー椅子に座らせて、柔らかいご飯に甘い出汁の効いたタレを掛けて準備万端だ。さあ、歌おう。
「なーっと、混ぜ混ぜ、混ぜ混ぜ、納豆ちゃん」
ナットソングを歌いながらよく混ぜると、美味しそうだな、食べたいなと思うのだろう。
「うまうま」
「はーい。納豆ちゃん、あーん」
梅芳ちゃんには空腹のふりかけも掛かっている。
「よく食べまちゅね」
「まー」
「納豆ご飯でちゅよ」
赤ちゃんだから無心なのも分かる。頬に納豆一つとご飯粒二つがあるから、ちょんと摘まむ。
「まーまん」
「召し上がれ」
宝物だから食べたいらしい。梅芳ちゃん、可愛い。
「まんま。マッマ、マッマ」
「あら、私ったら」
いつの間にか、膝に哀しみを落としていた。いくらでも雫が落ちそうだ。笑顔をお届けしないと。
「大丈夫よ。ママはいつでも元気だから」
すっかり納豆ご飯を平らげてしまった。細やかに気を配って拵えた離乳食よりも、こっちの方が楽でよく食べてくれるとの矛盾がどうにも不思議だ。
「ただいま」
「まだ六時よ。お帰りが早くないかしら。お母さんはどうだったの」
「パッパ、パッパ」
ただいまの代わりに、二人は頭をくしゃりとされた。
「一つ一つ答えて行くよ。お母さんは意識を回復して入院した」
「入院の方が万全ね」
覚悟していた。とにかく命に別条がないのに安堵する。
「着るものなどは病衣を借りるし、売店で下着などを買ったよ。ご飯は無論のこと水分も上手く取れないので点滴だね」
「お母さんには、いつ会いに行けるのかしら」
「僕は、今日と明日の分、仕事をするよ」
「明日もお見舞いに行くのね」
「飲み込みが早いね」
留守中に描いた葉書を封筒に入れて渡す。
「花とかダメだろうから、この絵手紙を持って行って欲しいわ」
「了解だよ。見てもいいかな。芸術家としての生原櫻絵ファンとしてね」
葉書に青墨で描いた絵は、白と薄桃のおしゃぶり二つだ。そこに、添え書きがある。
『豊の秋、恙身ながら、子を宿す。 櫻絵』
私の中の祈りを知って、母にも喜んで欲しいと思った。けれども、直球過ぎる表現はしたくない。奥ゆかしい方がいいと思った。
「随分と思い切ったね。絵手紙でお義母さんはひっくり返るよ。本当に」
「ああ見えて、勘が鋭いのよね」
◆◆
翌日、絵手紙を携えてパパがお見舞いに行った。




