第三十三話 初の命名
大雨の日から三日目。私達は養子をお迎えすることに決めた。赤ちゃんの一生を幸せにしたい一心で。寧くんも動いてくれた。
「色々と調べてみたけれども、先ずは児童相談所に訊いてみようか」
「捨て子だからって、一時預かりとか保護とかは嫌よ。可愛い子を手放したくないわ」
「赤ちゃんは人生の始まり。人間の始まり。僕達は最期まで付き合えないかも知れないけれども、寄り添って伴走したいと思っているよ」
もう情が移ってしまったのは私だけではない筈だと思っていたけれども、寧くんは深い思慮の中であたためていたのにはっとした。
「先ず、捨て子を発見したことを届けなければならないそうだ」
寧くんは全体の流れを私に噛み砕いて教えてくれる。
「赤ちゃんは児童相談所の管理下に置かれるらしい。体の状態によって、病院、乳児院、里親などに養育を委託するか、一時保護される場合もあるそうだよ」
「私は里親を希望するわ」
待て待て。一時的な話なのか。
「児童相談所の所長は、産みの親を探すことに尽力するようだね」
「本当のお母さん、紫香さんが名乗り出たらお終いなのか」
実の親は知らないで通すのか。私は嘘吐きになる。
「実の親との連絡がある程度の期間取れない場合に、初めて児童相談所の所長は自治体の長に対して、氏名の作成と戸籍の編製を要請して戸籍ができるとあるよ」
「戸籍のない子は、学校へも行けないしね。大切だわ」
「本当の親が中々見付からないだろうとされると、赤ちゃんは養子縁組候補児として、里親に紹介してくれる制度になっているみたいだ」
「私、里親になるから。ねえ、赤ちゃん」
ベビーベッドからご機嫌を窺う。
「里親になる研修は受けていてよかったね。僕達のような養親希望者が現れると、委託前研修など受けて児童の養育委託を判断されるようだ」
「んっぱっぱ。ほんぎゃ」
あやしたら逆に泣かれてしまった。里親の前に母としての資質は努力で補おう。赤ちゃんは泣くのがお仕事だ。
「家庭裁判所に養子縁組申請をするのだけれども、特別養子縁組を望む場合には、六か月間の養育状況観察をされる。例えば、養親の素行、犯歴、近隣などの調査があるらしい」
「あやしい人ではないわよ。ねえ、赤ちゃん」
両手を開いて自分の耳の横で動かす。
「んぱあ」
ご機嫌がよくなるツボが分からない。努力だ努力。
「観察を踏まえて、家庭裁判所審判官は養子縁組申請が通るか決めるようだ。連絡は書面で来るようだから、養親はそれを戸籍窓口に提示して養親の戸籍に入れることが初めてできる訳だよ」
「やったわ。この赤ちゃんと親子になれるのね」
寧くんの頬にキスをする。彼は絶望的になる話を普段からしない。
「僕達で特別養子縁組をしようか」
「夫婦でがんばりましょう」
「んぱんぱ」
◆◆
私達は決心をしたものの手続きは煩雑だった。がんばろうと自分を励ますことは少なくない。恐れていた実母の紫香さんは、とうとう名乗り出なかった。事情があるのだろう。
「櫻絵さん、本当に曲げることなく信念を突き通して来たね」
「法律は私達も保護してくれるわ」
いよいよ養子をお迎えする日となった。法律が守るのは子の権利だろう。けれども、紫香さんのことを知っているのに嘘を吐いてしまった。赤ちゃんの本当のお母さんがいるのに。私は眠れないまま朝を迎えてヘロヘロだ。
「雲一つなくいい日ね。だからか、虹を渡ってお父さんは来られないみたい」
「櫻絵や、今までがんばったのをあたしは知っているからね」
「お母さん。がんばれたのは寧くんのお陰なの」
嘘を隠すことに戸惑いつつも赤ちゃんを戸籍に入れる。籍はとても大切なことだ。
「お義母さんもご一緒に行かれますか」
「いいよ、あたしはおまけで」
「一緒に暮らしているのだもの。行きましょう」
「寧くんに櫻絵まで、嬉しいお誘いだね。後ろで見守らせてほしい」
車に皆で乗り込む。誰も口を開かないまま到着し、窓口に来た。
「お名前はどうしようかしら。寧くんはどうしたいの?」
「お義母さんに命名して貰おうか」
赤ちゃんを抱いて後ろの席に座っていた母のもとへ行く。
「お母さん、この赤ちゃんに似合うお名前をお願いいたします」
「ええ? あたしには大役だよ」
私が微笑みでお願いすると、母は躊躇していたが思案し始めた。
「櫻絵みたいに植物の名を入れたら、より可愛い女の子になると思うよ」
「私のことを可愛いと? お母さん、可愛いと思ってくれているの!」
「当たり前だろう。一人娘だよ」
今にも泣きそうな気持になった。心臓が沸き立ってしまう。
「お母さん……。ありがとうございます」
「お礼なんて要らないよ」
夫にも権利がある。
「寧くん、どんな植物が好きかしら」
「梅かな。梅雨どきに運命的に出逢ったし、花が凛としていて」
どきどきしながら聞いたら即答だった。
「梅に子どもの子で、梅子ちゃんは、どうかしら」
「ぷぎ」
「あら、気に入らないの?」
「梅に芳しいの芳で、梅芳ちゃん。これなら、大人になっても恥じないと思うわ」
「ぷぷぷ」
「お気に入りなのね。生原梅芳ちゃんに決めてもいいかしら」
母が破顔一笑した。
「ああ、いいねえ」
私達は梅芳と命名し、届け出た。
「二人とも、パパとママの顔だね」
私は武者震いがした。
「ママ? 私が……」
「櫻絵や、梅芳ちゃんのママだよ」
はっとして養親となった夫を見る。
「だったら寧くんがパパよね。お母さん」
「勿論だとも。あたしは、両親が揃っている子育てもいいと思うよ」
涙が零れ落ちそうになるから、くっと上を向いて秘密にした。
「お母さんは、お祖母ちゃんでちゅね」
「年寄りをからかうものではないよ。まあまあ、ははは」
梅芳を母に抱かせる。母の横顔が赤らんでいるように見えた。昼の高い日差しのせいではない。
「私ね、言葉にするのは初めてだけれども、お父さんのお葬式のこと、もう根に持っていないからね」
「流れ行く川を押し戻すようだね。過ぎたことよ」
あぶあぶとあやしながら、夫を失ったときの荒々しさが母から抜けていた。
「お父さんが教えてくれた子守唄が、私自身の産声を上げた肺胞から込み上げて来たの」
車中にて、父の子守唄を歌う。
「――秋荒ぶ、枯葉の吐息、真昼の迷宮、忘れじの恋、嵐の間に間に、見えぬ明日を、彷徨いて求めし、君の面影」
「志朗さんの子守唄、久し振りで嬉しいよ」
しば桜が玄関で出迎えてくれた。白も薄桃も、にこやかに一緒に歌ってくれている。赤ちゃんを寝かし付けて寧くんにみて貰う間にジョウロで水遣りをすると、小さな虹ができた。
『さくらさん、櫻絵に寧殿。これからの幸せも遠くで祈っている……』
虹を渡って来てくれた父の声だ。テープレコーダーがあったなら、あんなオトコの捨て台詞ではなく、大切な父の愛情を吹き込みたかった。母が幾度でも再生できるから。私はぶきっちょだ。大切なことに気が付いたらもっと大切にすればいい。大事な気持ちに辿り着いたのも梅芳のお陰だ。




