第三十二話 縁の開花
お腹にある痛々しいものに、私は再び困らされていた。
「んぎゃー! ほん、ぎゃあ」
「お母さん、ヘソの緒をどうしよう」
「大体一週間前後で乾燥して取れるよ。優しく消毒して、ガーゼを当ててからおしめを当てるんだ」
母が母親らしく頼りになると心底思う。
「よかったでちゅね」
「あぶあぶ、ぶぎー」
私が頬ずりをしたそうにすると、赤ちゃんが興奮した。
「分かった。追加で消毒液とガーゼに綿棒とサージカルテープを寧くんに買って来て貰うわ」
「櫻絵や、頼もしくなったね。赤ちゃんを預かるよ」
電話する間、母に抱いて貰っていた。玄関の鍵を回す音がする。
「ああ、リアルの神様」
「ただいま。雨も小降りになって来たよ」
寧くんは、沢山の荷物を分かり易く並べてくれた。
「足りない物は、これから買い足そうな」
「広いお店を広げてくれたわ」
「先ず、着るものは必要最低限だけれども」
短肌着を六枚、コンビ肌着二枚、長肌着二枚、ツーウェイオール三枚を確認した。ベビー服は小さくて儚い感じがする。
「次に、おねんね用品だよ」
白いベビーベッド、男女を問わない緑のベビー掛け布団と敷布団、ドーナッツ枕、シーツ、おねしょパッドで赤ちゃんもすやすやだ。
「それから、三時間置きに交換するものだね」
新生児用テープ型紙おむつ、お尻拭き、おむつ替えシートはフル稼働しそうだ。哺乳瓶のセット、缶入り粉ミルク、哺乳瓶消毒アイテムでミニュトン、肩掛けやお口拭きにガーゼ、赤ちゃんを膝に乗せる三日月の枕までは分かる。寧くんは赤ちゃん用に適温のお湯を沸かせるポッドも買って来た。確認すると、寧くんが消毒や湯の支度しに行く。
「櫻絵さんが既にしていた沐浴用セットだ」
ベビーバス、湯温計、長いガーゼ、沐浴剤、やわらかいバスタオルはお休み前も使おう。
「清潔や体調管理には、これで気を配ろう」
ベビー綿棒、保湿剤のベビーオイルとベビーパウダー、湯上りにおやすみベビーローション、ベビー用爪切り、ベビー用体温計、お洗濯に赤ちゃん用洗濯洗剤と十分に揃っている。
「赤ちゃんの安全の為、後でリアシートに固定するよ」
チャイルドシートはしっかりしている。寧くんは必要だと思うと奮発するタイプだ。
「便利だし記録にもいいし想い出にもと思って。最初のお世話は櫻絵さんに書き込んでほしい」
パパとママの為の育児日記帳だ。次々と繰り出す魔法が、私をママ道へと誘った。
「寧くんお疲れ様。お臍のガーゼとかあったかしら」
「お手当セットが売っていたよ」
「きゃーん。やったあ」
母に聞いたように丁寧にお世話をする。プラスチックケースにまとまって入っていて、さっきまでの困ったできごとが大丈夫になった。消毒液をベビー綿棒でやわらかに臍の緒の付け根に塗る。綿のガーゼで臍の緒を覆い、サージカルテープで十字に貼って固定した。
「気持ち悪かったでちゅね。おむつを当てまちゅよ」
おむつ替えシートの周りに必要な物を並べる。お尻拭きを用意してくれて助かった。お湯から上がってから、またおしもが汚れてしまったので綺麗にする。おむつを下に敷いた。
「よいちょでちゅよ」
後ろから前へおむつを整え、左右のテープで股ぐりも漏れないよう、きつくないように留めた。
「櫻絵さん? 赤ちゃんに、櫻絵さんと同じ痣があるよ。しば桜のような……」
「沐浴のときに私も気が付いていたわ。思い出したくもない恐ろしい証だから、封印して置きたい」
「はあ、ネズミイボかい? あたしにもあるよ」
「お母さんにもある位だわ。よくあるのよ」
短肌着を着せる。赤ちゃんのお肌に優しく、縫い目が表に出ていて、紐を前で蝶々結びにするものだ。
「ふぴ、すうーぴ」
「ご機嫌さんでちゅね。ミルクにしまちょう」
寧くんも流石同じ本で学んでいただけある。哺乳瓶などの消毒担当を申し出てくれて、手際よく人肌のミルクが渡された。
「ありがとでちゅね」
「僕にまで、赤ちゃん言葉かい」
「てへ」
沐浴奮闘が余程のことだったのか、家族がいるありがたみが分かる。
「ありがとでちゅね」
哺乳瓶で口元を擽ってやると、くんと吸い付いてくれた。
「げべばあー」
「きゃあ、戻しちゃったかな」
私は肩越しに赤ちゃんを掛け、げっぽとんとんと歌いながらゲップを出させた。
「寧くん。小さいのないかな丸穴のSSサイズ」
「一緒に消毒したから変えて来るよ」
来た来た。
「はーい。美味しいでちゅよ」
警戒するかと思ったが、甘いミルクの独特な香りのせいだろうか。心配なく吸い付いた。
「んっく、んっく、んく」
「よかったわ」
「僕だけぼんやりしているようで悪いな」
「沢山買い物してくれたわ」
「僕にできること、ベビーベッドを用意して来るよ」
母がずっとあたたかい目を向けている。
「お母さん、どうしたのかしら」
「櫻絵や」
私はげっぽとんとんをさせて、ガーゼで拭いたりしていた。
「櫻絵や……。私は悪の沼に足を取られたよ」
「どうしたのよ、お母さん。幸せそうで泣けてしまったのかしら」
母は暫く緘黙していた。
「櫻絵や。この赤ちゃんは、櫻絵が産んだんだろうよ」
呆けて来た訳ではない。
「櫻絵が産んだんだ」
「お母さん、捨て子なのよ」
「櫻絵が産んだ」
「違うわ。私、産んでいないわ」
赤ちゃんはミルクが終わると、眠たそうに身を任せた。
「あたしは、櫻絵の子だと思っているんだから」
私は縁を感じてやまない。紫香さんが投げ出すように私に託した命を。立ち寄った陶芸店で働いていた彼女は、母親を放棄したのだ。
「お母さん、私……」
「なあ、櫻絵や」
足音で分かる。寧くんが夫婦の部屋から帰って来た。
「おーい、ベビーベッドと布団の支度できたよ」
話の流れが彼には分からなかったのだろう。
「ここは縁の花が咲いたと思って。なあ、櫻絵や」
私は生唾を飲み込んだ。
「縁の花……」
「どうしたんだい」
「縁があったと。勝手に解釈したら犯罪でしょう」
「いや、櫻絵が産んだんだから、間違いない」
寧くんが目を丸くした。
「ちょちょちょ。縁って、駄目でしょう」
「子どもが授かれないことで悩んでいたことは、知っているよ。母親だからね」
母の目が本気でぎらついている。
「でも、櫻絵さんの妊娠を医師が確認して、定期的に通院していないですよ」
「助産師に頼んだことにして、出生届を受理させればいいだろう。混乱の時代には血の繋がらない親子もあったもの」
無茶苦茶なカーブへ単独で走り出した。
「どんな顔かなんて、分からないものだよ」
赤ちゃんは疲れもあってか大人しくしている。
「しー、起きないようにしてね」
「僕達のことで、お義母さんも心に痛みを抱えているんだよ」
可愛い赤ちゃんは、もうおねんねしたいようだ。
「赤ちゃんを寝かし付けて来るわ。寧くんはこちらにいてね」
ゆっくりと立ち上がり、夫婦の部屋へ行った。ベビーベッドがあり、緑の布団に夢見るうさぎさんが描かれている。
「よいちょこ、よいちょ」
布団に寝かせて緑のうさぎさんドーナッツ枕を使ってみたが、赤ちゃんには大きい感じがした。代わりにタオルを折って枕にする。
「あら、可愛いわね」
私は即興で夢見るうさぎの子守唄を口ずさんだ。母は自分が音痴だからと歌わなかったそうだ。代わりに、父の背で私は歌を覚えていた。
「歌一つにも想い出があるわ」
外を窓越しに見る。雨上がりに小さな虹が架かっていた。父が夢に出てくれたかのように。
「ふんふん……」
秋荒ぶ
枯葉の吐息
真昼の迷宮
忘れじの恋
嵐の間に間に
見えぬ明日を
彷徨いて求めし
君の面影
『秋の面影』
作詞、作曲、生原志朗。
「思えば、子守唄かしらね……」




