表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キミへ囁くしば桜  作者: いすみ 静江✿
第六章 白雨
31/48

第三十一話 雨の訪問

 平成十八年六月六日、雨の強い日だった。私も三十五歳になり、寧くんは五つ上になる。再び、総合病院での不妊治療から戻って来たばかりだ。残念な結果を抱えていた。お互いに疲れているから、居間に腰を落ち着ける。群青のコーヒーカップでモカをいただこうと支度をした。


「私達、里親になる為に審査と研修を受けて、栃木から認めらているでしょう。もしかしたら、天使が舞い降りてくれないかしら」


 赤ちゃんの本などは散々読み漁り、疲れさえ感じていた頃だ。諦めないでいつ子どもを迎えてもいいように学んでいる。


「お義母さんは、買い物にでも行ったのかな」

「留守みたいね」


 私は外の様子が心配になって、時折、広縁の方を気に掛けていた。


「こんなに雨の強い日に、歩いて行ったのかしら。無事に帰って来て欲しいわ」


 窓を叩く音が激しさを増した。母を探しに行こうかと思った所だ。玄関から、けたたましく入って来る。急ぎ駆け付けた。


「お母さん、おかえりなさ……」


 私は息を呑む。母についてではない理由でだ。


「お久し振りです。どうされました」


 思いがけない訪問だった。


「紫香さんですよね」


 少し年齢を重ねたけれども、よく分かる。陶芸店で働いていた作家さんだ。


「寧くん……。急いで来られるかしら」


 人は本当に驚いたときに、声が出ないものだ。私の細い報せを拾い、寧くんはすぐに駆け付けてくれた。


「どうしたの? 櫻絵さん」


 客人は佇んだまま、言葉を失っていた。


「ずぶ濡れになってるわ。風邪を引くから、あたたかい部屋へ入ってくださいね」


 私は極力冷静さを保っていた。四十歳にはなったであろう彼女の抱える大きな問題について、考えるには時間が要る。


「ん……。ほんぎゃ、んぎゃあ!」


 玄関の淀んだ空気に、薄桃色の香りが入って来た。静寂が怖い。玄関の外に滝が落ちた。


「よかった――。生きているのね。赤ちゃんは、生きているのね……」


 赤ちゃんはぬくもりのある産着もおくるみもなく、血に染まったタオルの寄せ集めに包まれていた。紫香さんは口をつぐんだまま、俯いている。


「両手が塞がっていては、上がれないわよね。赤ちゃんを抱かせていただくわ」


 あんなに憧れていた赤ちゃん。こんなに冷たい塊だなんて。


「い、要らないの……」


 初めて紫香さんが声を絞り出したが、私には意味が分からない。


「あげるから!」


 紫香さんは、背を向けて開け放していた玄関から駆け出して行った。


「待って!」

「おい、待ってくれ!」


 私達が止めるのも構わず、滝のような白雨へ、掻き消えた。


「寧くん。車のエンジン音ではないかしら」


 車は茶の垣根の方だった。


「僕が引き留めるよ」


 言うなり、彼は濡れるのも構わずに出て行った。


「お、おぎゃ。おぎゃあ! おぎゃぶ」

「よしよし。紫香さんが帰って来てくれるわよ」


 ゆっくりと揺すった。


「いい子ね。お部屋に入りましょうね」

「ぎゃあ! ぎゃああ」


 困った。


「ん。ミルクかな、おしめかな」

「ぎゃー! ああん、ほんぎゃあ!」


 さっきより激しく泣いている。


「もしかして、ぽんぽん痛いかな」


 タオルを解いたら、臍の緒がほろっと目についた。産まれたばかりに衝撃と焦燥が走る。


「この子を笑顔にしたい……。お世話をしなければならないわ」


 産湯だ。こんなとき、母がいてくれたらよかった。


「程よい大きさで清潔な箱がないかな」


 本で読んだだけの知識を映像にしてみる。使っていない小さめの衣装ケースがあった。ベビーバスの代わりに使えそうだ。よく洗い、綺麗なお湯をぬるめに用意する。


「はーい、いい子ね。怖くないわよ」

「んぎゃー! んんぎゃっぎゃ」


 祖母がよく使っていた豆絞りの手拭いを横に置いていた。赤ちゃんのお腹にそっと浮かべる。


「寒くないし、安心よね」

「ほん、ぎゃっ」


 勿論首など据わっている訳がない。肘から腕を伸ばして、しっかりと支える。絶対に溺れさせてはいけない。


「よし、よし」

「ほぎゃ」


 お湯をゆっくりとかける。


「ああ……。んむっ」

「あら、お口を大きく開けたわ。欠伸かしら」


 まだ目は開かないけれども、きっとこの子は美しくなるだろう。


「女の子なのね。可愛い顔をしているわ」


 自然と涙が溢れて来た。私は、感動している。


「――私ね、初めてお母さんになれた」


 自分の顔を拭う手は、お世話で空いていない。双眸からの雫などお構いなしだ。


「お母さん、ありがとう! ありがとう、私を育ててくれて」


 感極まるのも早かった。


「櫻絵さん、ただいま。彼女とは話にならなかったよ」


 寧くんが帰って来た。


「櫻絵さん、これを一人でしたの?」

「うん、寒いでしょう。それに綺麗になったわ。取り敢えず、やわらかいタオルで包んでいるの」


 彼は、話すことも動くこともなかった。いけなかったか。


「僕、僕は! ミルクとおむつ、それから、哺乳瓶とかを買って来るよ」


 寧くんの声には張りがあった。びしょ濡れの体を拭い、簡単に着替えて一言残す。


「がんばって、待っていて欲しい」


 傘を差して滝を抜けた。


 ◆◆


 間もなくして、母が帰宅した。


「ああ、急にご近所に呼ばれると、慌ただしいよね。黙って出て行ってすまなかったよ」

「ほんぎゃ、ほんぎゃ」


 しっかりと抱いてあやしていたが、ずっと泣いている。


「これは……。どこの子なの?」

「捨て子よ」


 私は真顔だ。あながち間違ってはいない。


「寧くんが、赤ちゃん用品を買いに行ってくれているわ」

「こんな蕾程の子どもを捨てたって?」


 母が赤ちゃんの頭を撫でる。タオルがはだけると、お腹の臍の緒が露わになった。


「産まれたばかりじゃないか。櫻絵や」

「よかった。この臍の緒、傷付けないように洗ったのよ」


 臍の緒問題、一難去ってまた一難か。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ