第三十一話 雨の訪問
平成十八年六月六日、雨の強い日だった。私も三十五歳になり、寧くんは五つ上になる。再び、総合病院での不妊治療から戻って来たばかりだ。残念な結果を抱えていた。お互いに疲れているから、居間に腰を落ち着ける。群青のコーヒーカップでモカをいただこうと支度をした。
「私達、里親になる為に審査と研修を受けて、栃木から認めらているでしょう。もしかしたら、天使が舞い降りてくれないかしら」
赤ちゃんの本などは散々読み漁り、疲れさえ感じていた頃だ。諦めないでいつ子どもを迎えてもいいように学んでいる。
「お義母さんは、買い物にでも行ったのかな」
「留守みたいね」
私は外の様子が心配になって、時折、広縁の方を気に掛けていた。
「こんなに雨の強い日に、歩いて行ったのかしら。無事に帰って来て欲しいわ」
窓を叩く音が激しさを増した。母を探しに行こうかと思った所だ。玄関から、けたたましく入って来る。急ぎ駆け付けた。
「お母さん、おかえりなさ……」
私は息を呑む。母についてではない理由でだ。
「お久し振りです。どうされました」
思いがけない訪問だった。
「紫香さんですよね」
少し年齢を重ねたけれども、よく分かる。陶芸店で働いていた作家さんだ。
「寧くん……。急いで来られるかしら」
人は本当に驚いたときに、声が出ないものだ。私の細い報せを拾い、寧くんはすぐに駆け付けてくれた。
「どうしたの? 櫻絵さん」
客人は佇んだまま、言葉を失っていた。
「ずぶ濡れになってるわ。風邪を引くから、あたたかい部屋へ入ってくださいね」
私は極力冷静さを保っていた。四十歳にはなったであろう彼女の抱える大きな問題について、考えるには時間が要る。
「ん……。ほんぎゃ、んぎゃあ!」
玄関の淀んだ空気に、薄桃色の香りが入って来た。静寂が怖い。玄関の外に滝が落ちた。
「よかった――。生きているのね。赤ちゃんは、生きているのね……」
赤ちゃんはぬくもりのある産着もおくるみもなく、血に染まったタオルの寄せ集めに包まれていた。紫香さんは口をつぐんだまま、俯いている。
「両手が塞がっていては、上がれないわよね。赤ちゃんを抱かせていただくわ」
あんなに憧れていた赤ちゃん。こんなに冷たい塊だなんて。
「い、要らないの……」
初めて紫香さんが声を絞り出したが、私には意味が分からない。
「あげるから!」
紫香さんは、背を向けて開け放していた玄関から駆け出して行った。
「待って!」
「おい、待ってくれ!」
私達が止めるのも構わず、滝のような白雨へ、掻き消えた。
「寧くん。車のエンジン音ではないかしら」
車は茶の垣根の方だった。
「僕が引き留めるよ」
言うなり、彼は濡れるのも構わずに出て行った。
「お、おぎゃ。おぎゃあ! おぎゃぶ」
「よしよし。紫香さんが帰って来てくれるわよ」
ゆっくりと揺すった。
「いい子ね。お部屋に入りましょうね」
「ぎゃあ! ぎゃああ」
困った。
「ん。ミルクかな、おしめかな」
「ぎゃー! ああん、ほんぎゃあ!」
さっきより激しく泣いている。
「もしかして、ぽんぽん痛いかな」
タオルを解いたら、臍の緒がほろっと目についた。産まれたばかりに衝撃と焦燥が走る。
「この子を笑顔にしたい……。お世話をしなければならないわ」
産湯だ。こんなとき、母がいてくれたらよかった。
「程よい大きさで清潔な箱がないかな」
本で読んだだけの知識を映像にしてみる。使っていない小さめの衣装ケースがあった。ベビーバスの代わりに使えそうだ。よく洗い、綺麗なお湯をぬるめに用意する。
「はーい、いい子ね。怖くないわよ」
「んぎゃー! んんぎゃっぎゃ」
祖母がよく使っていた豆絞りの手拭いを横に置いていた。赤ちゃんのお腹にそっと浮かべる。
「寒くないし、安心よね」
「ほん、ぎゃっ」
勿論首など据わっている訳がない。肘から腕を伸ばして、しっかりと支える。絶対に溺れさせてはいけない。
「よし、よし」
「ほぎゃ」
お湯をゆっくりとかける。
「ああ……。んむっ」
「あら、お口を大きく開けたわ。欠伸かしら」
まだ目は開かないけれども、きっとこの子は美しくなるだろう。
「女の子なのね。可愛い顔をしているわ」
自然と涙が溢れて来た。私は、感動している。
「――私ね、初めてお母さんになれた」
自分の顔を拭う手は、お世話で空いていない。双眸からの雫などお構いなしだ。
「お母さん、ありがとう! ありがとう、私を育ててくれて」
感極まるのも早かった。
「櫻絵さん、ただいま。彼女とは話にならなかったよ」
寧くんが帰って来た。
「櫻絵さん、これを一人でしたの?」
「うん、寒いでしょう。それに綺麗になったわ。取り敢えず、やわらかいタオルで包んでいるの」
彼は、話すことも動くこともなかった。いけなかったか。
「僕、僕は! ミルクとおむつ、それから、哺乳瓶とかを買って来るよ」
寧くんの声には張りがあった。びしょ濡れの体を拭い、簡単に着替えて一言残す。
「がんばって、待っていて欲しい」
傘を差して滝を抜けた。
◆◆
間もなくして、母が帰宅した。
「ああ、急にご近所に呼ばれると、慌ただしいよね。黙って出て行ってすまなかったよ」
「ほんぎゃ、ほんぎゃ」
しっかりと抱いてあやしていたが、ずっと泣いている。
「これは……。どこの子なの?」
「捨て子よ」
私は真顔だ。あながち間違ってはいない。
「寧くんが、赤ちゃん用品を買いに行ってくれているわ」
「こんな蕾程の子どもを捨てたって?」
母が赤ちゃんの頭を撫でる。タオルがはだけると、お腹の臍の緒が露わになった。
「産まれたばかりじゃないか。櫻絵や」
「よかった。この臍の緒、傷付けないように洗ったのよ」
臍の緒問題、一難去ってまた一難か。




