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キミへ囁くしば桜  作者: いすみ 静江✿
第五章 授産
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第三十話 母の償い

 償いをしなければならないのだ。


「お義母さん、私……」

「どうしたの。櫻絵さん」


 自ら沈黙を作ってしまった。


「あの……」


 私の口は、不随意運動をしてしまって仕方がない。言わないと。言いに来たんだ。言わなければ。


「私、寧くんの子を十週不完全流産してしまったのです――!」


 吐息が濁流になって、決壊した。ああ、告白した。とうとう告白した。


「最初の産婦人科の受診で、心拍が最初から弱かったと言われました」


 嫌な汗を掻き、ハンカチも忘れて手で拭ってしまう。


「櫻絵さん……。お苦しかったでしょう」


 義母の瞬さんが、それは美しい白地に白い刺繍を施してあるのを差し出してくれた。


「お借りする訳には……。私の償いなので」


 義母は、心配そうにずっと差し出してくれていた。


「医師は千人に一人はなるものだからと、慰めを仰ってくださいましたが、私が近くのしば桜の綺麗な公園に行きたがったりしたのもいけなかったと思っております」


 私はソファーから絨毯へ身を置いた。手は絨毯の桃柄の辺りに、頭は深く下げて謝罪の形になる。


「申し訳ございませんでした」


 右横に体温を感じた。


「僕だよ。いくら櫻絵さんが真面目でも、行き過ぎては疲れてしまうよ。腰も冷えてしまうからソファーに掛けて」

「仕方のないことですよ。櫻絵さん」


 左に義母が膝を折っていた。


「お義母さん」


 私は促されるままに背中を丸めながら、ソファーに掛けた。


「うう、ううう……。こんなにしていただいても私の罪は消えないのです。赤ちゃんを殺してしまったのは、私の不注意からでした」

「公園へは僕と毎年行っていたから。気が付かなかった僕もどれ程悪かったと思っているか」


 本気で謝っているのに、寧くんは関係ないと思った。


「寧くんは女の体ではないから、分からないことがあっても仕方がないと思うわ」

「いや、夫たるものできなければならない配慮だった」

「もう、もう、もう。優しくしても私の涙しか出ないわ」


 ぐずぐずでよく見えなくなって来た。私自身がもっと冷静な方だと思っていたのに、お墓を作ってまで流せなかった。鼻がむず痒くなった。


「はい、櫻絵さん」

「ううう……」


 涙と鼻水をいただいたちり紙で押さえた。


「んがっくしょっ」


 泣くと昇華されると言うけれども、初めて自身で証明できたと思う。十三ミリある睫毛の真珠を拭った。視界がぼんやりとよくなって行く。


「あ、お義母さんのハンカチ。ちり紙みたいにしてしまって」

「いいのよ。櫻絵さん使ってくださいね」


 真っ白だっただけに、ファンデーションが付着したり私の哀しみが憑いたりして、どうにもお返しできない。


「す、すみません。洗ってお返しいたします」

「橘家の家事までしなくていいのですよ」

「気持ちの問題で」


 申し訳なさが倍になった。


「もしかしたら寧さんから聞いたかも知れないけれども、私はもう子どもを望めないの。年齢の問題や婦人科の問題ではなく、心臓の問題ね」


 寧くんから聞いていた哀しいお話だ。


「ごめんなさい。嫌なことを思い出させて」

「栃木の病院から帰って、櫻絵さんは真っ白になっていたんだ。僕は、よく休むように気を配っていたつもりだった。でも、思い立ったように鶴見に来てしまって」


 お義母さんは、優しく背中を擦ってくれた。


「いいんです。いつでもおいでなさい」

「櫻絵さん、落ち着いたらでいいから、僕とフランス旅行に行こうか。モンマルトルへも行こう」


 二人の情が、私の薄っぺらい償いなどを覆う程に厚かった。厚い優しさを支えているのは、毅然とした生き方ではないかと思う。義母は命懸けで息子の寧くんを産み、義父と共に立派過ぎる程に育てられた。寧くんも双肩に担った訳だ。


「よろしければ、泊まって行ってください」


 二つ息をして、頭を下げる。私は義母に甘えてしまった。


 ◆◆


 平成十七年九月二十二日。


「櫻絵さん、パリはいよいよ明日から初の海外旅行だね」

「旅行会社への手続きなど全てやっていただいて、ありがとうございます」


 お姫様のお辞儀をしてみる。


「普通なことに遠慮してどうするの。僕からは櫻絵さん、櫻絵さんからは僕しかいないのが夫婦だろう。鏡みたいなものだよ」

「やーだー! 私には、甘いのだから」


 ◆◆


 飛行機は大地を蹴って大きく舞い上がる。私の心も舞っていた。


「パリに五泊だなんて、贅沢な旅行よね」

「欧州まで来たのだから、隣国を巡ってもいいのだけれども、櫻絵さんのフランス熱には負けたよ」

「てへ、沢山呼ばれている所があるのよ」


 霊感が鋭い所は、寧くんは無理して理解しようとはしない。ウルトラリアリストと心の中で呼んでいた。


「全て揃えました。お姫様」

「いやーん」

「櫻絵さんのいやーんが出たら、もう、ムンクもびっくりだね」


 私は自分で描いたしば桜の絵手紙を日記帳の表紙にして持って来ていた。和尚様が描いたのはしば桜の心だと仰った絵だ。旅の様子を語ると長くなるので、小さな日記に感動したものをリストアップして行く。


「先ずは、ルーヴルよね」


 ルーヴル美術館で、島で見つかった『ミロのヴィーナス』、船首にあった『サモトラケのニケ』、不思議な微笑みの『モナリザ』だけは見なければならない。


 オルセー美術館では、モネ、ルノワール、マネの印象派いんしょうは三昧をした。

 オランジュリー美術館で、下のフロアにあったモネの大きな『睡蓮すいれん』に圧倒される。

 ロダン美術館で、『かんがえるひと』、『地獄じごくもん』を上野のものと見比べた。

 マルモッタン・モネ美術館で、『印象いんしょう』を鑑賞し、私は印象派も好きなようだと実感する。

 国立近代こくりつきんだい美術館、つまりは、ポンピドゥー芸術文化げいじゅつぶんかセンターで、マティスやドローネー、ピカソ、ミロ、カンジンスキー、クレー、マグリット、ダリがまるで卒業制作展のように見えた。

 ジャックマール・アンドレ美術館で、ボッティチェリの『聖母子せいぼし』、レンブラントの『エマオの巡礼者じゅんれいしゃたち』の宗教画も見逃せない。


「パリ市立プティ・パレ美術館で、お茶にしたいわ」


 いただいた物をメモし忘れる程楽しかった。


「妻とお茶って、家と同じなのに櫻絵さんが名画に見えてくる」

「もう、やーだー」


 ピカソ美術館で、ばっちりピカソ。お土産に画集をフランス語版でお買い求めした。


「櫻絵はピカソだと小学生のときに揶揄されたわ」

「大丈夫、浅薄ないじめっ子は長いフルネームも言えないだろうよ。逆に光栄だと、褒められていると思っていい」

「寧くんといると、見方が変わってトラウマから立ち直れるわ」


 一つずつ夫婦の時間が自分を育ててくれる。


「最後は、モンマルトルの散策と行きますか」

「いやーん、妻の心を分かっているわね」


 印象派の香りを胸一杯に吸い込んで、夫と腕を組んだ。


「恋人みたいね」

「僕達、いつから夫婦をしていると思っているの」

「てへ」


 すっかり機嫌がよくなって、ミュージアムのお土産もたんとお買い上げ。夫との絆が深まったと思う。ご機嫌だった。楽しさを伝えたくて、成田でも既に笑顔満開だ。


「ただいま! お母さん」


 ◆◆


 平成十七年九月二十八日に、帰宅した。家の垣根の前に車が停められていた。中を見ると、小さな花束が入っている。


「家に用事なのかしら? それともお客様かな」

「白いロイヤルサルーンだね。知り合いにはいないけど」


 そろそろと玄関の方へ向かう。


「なあ! 櫻絵を出せって、婆さん」


 壁を叩く音がした。


「だから旅行中だよ」

「嘘つけ、貧乏暇なしだと聞いたぜ」


 聞き覚えのある声だ。


「櫻絵さんは下がって。僕が応対するから」

「この下品さで見当が付いたわ。私も」

「傷付くのは、お義母さんも同じなんだよ」


 寧くんが行って話を付けて来た。あのオトコの車を蹴っ飛ばしてやりたいが、誠実ではない。


「暴力暴力では、私の負けよ」


 オトコは私を一瞥すると車に乗り込む。花束は窓から投げられ、無残にも自分の車で轢いて行った。


「ケッ。田舎が分かったから、会いたいだろうと思って来てやったのに」


 全くもって分からない思考の持ち主だと理解した。


「櫻絵さん、台風一過だと思えばいいよ」

「……うん」


 折角のパリの想い出が、轢かれた花束のようだ。紫堂は、あらゆる軸を狂わせていた。

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