第二十五話 子宝の社
しば桜の咲く季節となった。平成八年四月十五日のことだ。
「寧くん、私のお祖母さんに会ってくれないかしら」
「こちらからも頼むよ」
「きっと喜ぶわ」
夫に先立たれてから、自ら誰にも迷惑を掛けることなく、県内のホームにいた。介護付有料老人ホーム『しばざくら』だ。庭は立派なしば桜が咲き乱れている。
「よく来たね。おれからも櫻絵ちゃんをよろしくお願いいたします」
彼が背中を小さく丸めた祖母と握手をする。すると、千代紙にさらっと書き出した。
『夫と妻、永遠を誓いし、しば桜。 生原フク』
句を認めたものを渡してくれた。九十を過ぎているのに、達者な上、筆も確かだ。
「わあ、素敵な贈り物だわ。絵手紙にしますね」
「即興ですまないけれども、おれからの祝いの句だ。二人とも末永くお幸せに。おれは茅葺の家が懐かしくて仕方がない。五右衛門風呂も全て」
「僕達はいつでもお待ちいたしております」
「旦那様と櫻絵ちゃんのお幸せを祈っているからね。おれにできることは少ないけど」
「美味しいものを食べて、お過ごしください。櫻絵さんのお優しいお祖母様にお会いできてよかった。ご健康をお祈りしております」
とてもお元気そうだと思ったけれども、祖母の手を擦ったとき、氷のようで心配した。
◆◆
「櫻絵や、大変だよ」
フクお祖母さんが、ホームから救急搬送されたとの一報が胸をざわつかせた。私達は手ぶらで駆け付ける。
「これが病室に落ちていたそうだよ」
千代紙に肝を冷やす。書きかけの俳句だった。
『腹が痛いと、泣く子あり。 フク』
誰のことだろう。私のことだとしたら、勘が鋭いと思った。祖母は、花が冷え込むように亡くなってしまった。
「お母さん、九十四歳までがんばって生きていてくれたこと、ありがたいと思うよ」
母は、夫と実の母親と亡くして行き、気も重いことだろう。
「私のお母さんにも長生きしてほしいわ」
フクお祖母さんは、達者だと思っていた。目の前で点滴が外されると、手が青白く細いのが際立つ。大好きな祖母に、結婚の報告が間に合ってよかった。あの句、生きていた証を絵手紙で表そうと思った。
「長生きされたのだもの。悔いるよりも、幼い日々の想い出を大切にしたい」
「櫻絵さん、無理しないで」
「私もつよくありたいの」
身内のみの葬儀はしめやかに行われた。私のしば桜と句を描いた絵手紙を棺に入れさせていただき、心の別れを告げる。
◆◆
お別れをして八日後のことだ。庭先の白も薄桃も笑っている。いつも母と三人で暮らしていたので、偶には二人で出掛けることとなった。母を誘っていたが、頑固にも断ってばかりだから諦めた。居間にて最愛の彼にモカをお出しする。こんな日常があたたかい。寧くんの好きなものをトートバッグに仕舞っていた。
「寧くん、チーズタルトがお好きよね」
「大好きだよ、櫻絵さん」
「ね、チーズもケーキもお好きよね」
「僕が好きなのは、櫻絵さん」
私は頬にすぐ着火した。
「す、凄く恥ずかしいのですが」
「もう早くパパになりたいな」
「お父さんになりたいわよね」
私は、結婚したらすぐに子宝に恵まれると思っていた。
「ごめんなさい、私の体が蝕まれているのかも知れない」
「考え過ぎないで。様子を見て病院に二人で行ってもいいのだから」
「気にしやすいみたい」
母に手を振って車を出す。調べた所、うちの近くに子宝の社があると分かった。小さな駐車場を使わせてもらう。
「わあ、大きな鳥居ね」
「上を見ていると転んでしまうよ」
私は、年甲斐もなく高い声で笑ってしまった。悩みは深刻なのに、彼と一緒だと楽しくて微笑ましくなってしまう。会釈をして鳥居を潜った。
「このお社ね。思っていたよりも新しい感じだわ」
「どうやら、修繕をしたようだよ」
境内の立札を寧くんが読む。
「絵馬を見ていると、双子ちゃんに恵まれたとか、羨ましいご報告まであるわ」
手水舎で手水を取った。神社の注連縄の方へ行く。会釈をして、お賽銭を入れた。鈴を鳴らして、二拝二拍手一拝で拝礼する。
「拝みましょう」
「お願いして行こうな」
お互いに目を合わせた後、思わず心の声が出てしまった。
「子宝に恵まれますように」
「子宝に恵まれますように」
軽く頭を下げて退き、元の参道を戻った。
「願いが叶うといいわね」
車に乗り込む。シートベルトをし、走り出してすぐだ。一人妄想していた情景が浮かぶ。あれは、本当のことだろうか。
「行くときにいいこと思い付いたの。あのね、この近くにしば桜が一面にある公園はないかしら」
「栃木県にもあるようだよ。もしかして、寄り道するかも知れないと思って探してあるから」
この抜かりなさは、妻の為かと思うと照れ臭くなる。
「母がね、結婚を決めたのがしば桜の綺麗なスナップとして残っていると教えてくれたの」
「お義母さんは、庭を大切に育てていらっしゃるから、訳があるだろうと思っていたよ」
園芸には詳しくないだろうに、しば桜にだけは熱心だ。
「どこか訊けばよかったけれども、お母さんからはっきりと話では美しさも感動も伝えられないと断られたわ」
「人の心は、煌めきを胸に秘めたいと働くことがあるのかも知れないね」
土の匂いもする漬物好きの五十を過ぎた母だが、父との日々に長く美しい風鈴の音が聞こえて来る。
「母の青春だったのかしらね」
彼が、車を出すと声を掛けてくれた。
「沢山写真を撮ろうか。しば桜と櫻絵さんとを」
「写真をどうするのかしら」
籍を入れたときも写真を失念していた。
「さくらお義母さん、若い頃は櫻絵さんと似ていたのではないかな」
母とのふわっとした想い出が過る。
「私は小さい頃から、フクお祖母さんがお針をしている傍にいたそうなの。お弟子さん方がね、可愛がってくれて、お師匠さんそっくりだと仰っていたと聞いたわ」
「初めて知ったよ」
「お世辞かも知れないわね」
寧くんがやわらかく微笑む。
「お墓参りに行かないとね」
「また、時間を作りましょう」
話を弾ませながらのドライブだ。遠いと思っていたが、すぐに車が公園の駐車場に入れられた。
「階段の向こうかしら。しば桜の公園なのね」
「元々は農地だったらしいよ。土地の持ち主の方が趣味で始めてここまで大きくしたらしい」
「うーん、楽しみ」
車から荷物を出す。トートバッグには、例の物も無事入っていた。
「チーズタルト、チーズタルト」
「おーい。僕をからかわないでほしいな」
「あは! 行きましょう」
彼の背中を押しながら、ゆるやかな坂を上る。階段を五つ踏むと、入場口があった。
「大人二人でお願いします」
「六百円になります」
受付のおじさんが顔をほころばせている。
「おや、さくらさんのお嬢さんじゃないかい」
「にょ?」
私は、一瞬にしてひょっとこになってしまった。
「生原さくらでしょうか」
寧くんがフォローしてくれた。
「じゃあね、おつりは六百円だよ」
「いえ、これはいただけません」
「おつりだから」
「いえいえ。訳も分からずには、受け取れませんよ。申し訳ないのですが」
おじさんと寧くんの間で、行ったり来たりしていた。
「おじさんはね、持田と言うんだ。持田大だよ。櫻絵ちゃん」
「和伯母さんの旦那様ですか!」
私は記憶の糸を辿る。この間の葬儀にも来られなかった伯父だ。
「確か、梨を作っておられたと聞きましたが」
「よく知っているね。どうしてここにいるのか知りたいかい」
私は唾を飲み込んだ。首を縦に振る。母と伯母と伯母の旦那様にどんな関係があるのか、興味がない訳がない。




