第二話 父と時化
平成六年十二月。
「櫻絵ちゃん。信じられる手を離したらいけないかんな」
「うふふ。おじいちゃんを好きなのね」
祖母が幾度も櫻絵ちゃんと呼ぶのがこだました。
◆◆
「また夢を見たのね。私も二十三歳になったのに」
現実の自分が見えて来た。真っ白なマンションのポーラスター六〇三号室だ。出窓には両親から一人暮らしをする私へと贈られたしば桜の白と薄桃が二鉢いる。夜も外は寒くて窓すら震えていた。昔語りを思い出して寝返りを打つと、布団の右手にころんとしたものを感じた。
「ん。寧くんからのプレゼントだわ」
橘寧くんと知り合ったのは二十歳だった。鬱蒼とした美大時代に桜がひらりと舞い降りる。指先が触れると手を引っ込めてしまう彼が、独りでは心配だとポケットベルを買ってくれた。ありがとうに添えてお互いのイニシャルをシールにして貼ると、彼のはにかみが眩しかった。
「別れてしまった寧くんの声が聞きたいけど真夜中よ。ナニシテル? 『724106』か」
窓の音を聞きながら、嫌な想い出が押し寄せて来た。
◆◆
ついこの間のように思える。私は上野美術大学で、一般教養を終えた三年生になってから二年間も陰惨なランチに付き合わされた。毒の巡りが止まらない日々、私はルーズリーフから視線を外へと逸らした。大学の外も窓が揺れる程に冬の風や雲が姿を変えて暴れている。私の背中がガラスに映り込んだ。髪は長く伸ばして高い所で結い上げ、猫のバレッタを付けていた。仕事着は脱いで、白と薄桃のタータンチェックのセーターに黒のミニスカートは定番だ。鶴の如きベルが構内へ鳴り響いた。お昼休みは厭だったのに逃げられなかった。
「かったりいな。櫻絵さ、飯行こうぜ」
「紫堂くん、私はお弁当があるからいいわ」
「生原ってば、田舎臭ーい弁当なんだ。ケケ」
「皆、飯だ飯だ。チャーシューメンのニンニク増しで」
髪の赤い紫堂航丞が財布だけ持ち、北東の学食、グリーン・フォレストで六人掛けを陣取る。屈辱的にミンナの前でお弁当風呂敷を解く。
「櫻絵のバイ菌弁当、オープン! きゃあははは」
飽きずに揶揄したいから連れて来るのか。母のさくらは栃木の実家におり、独り暮らしでお弁当は自身で拵えていた。人の数だけ人差し指を向けている矢尻が痛い。
「櫻絵のカニさんウインナーいただき」
「あら。紫堂くん、私のバイ菌入りだけど」
いつもバイ菌が入っているとお弁当が文句をつけられて来た。特に紫堂くんに。騒がしい中食べる私も私だ。
「メトロ付近で彼氏といるの見たぜ。橘と夜はお盛んかよ。ちょっとの暇でも抱き合うのが男女ってもんだ。櫻絵はギリシャ彫刻のように肌が澄んでいるから羨ましくてよ」
愚かしい者どもに穢れた二人を描かれたのが辛かった。窓の張る音が激しくなると、純愛を踏み荒らされた痛みとで心が凍てつく。すると、私の前に眩しい虹が階を踏むように架かった。
『――櫻絵の父、志朗だが。諸君』
白い和服を着たお父さんが現れる。虹の紫色に腰掛けると、赤に背を寄せた。
『さくらと自分が手塩に掛けて育てた娘だ。綺麗な花を咲かせるのはもう暫し後になるかの。紫堂殿、悪さをしたらお仕置きするぞ』
箸が指からするりと抜けた。
「お父さん、栃木から来てくれたのね!」
この寒さだ。父にあたたかいお茶でもお出ししよう。
「急でお抹茶入りがないの。ごめんなさいね。お湯はすぐに沸くわ」
おかしなことに上野美大は卒業した筈だ。どうしてお弁当事件を思い出しているのか。
「お父さんに会えたから、楽しい話をしたいわ」
沢山お話しするつもりで、お父さん用の益子焼に熱めのお茶を支度した。
「あのね、私にも二十歳になって好きな人ができたの。でも、周囲が煩くて、哀しい結果となってしまったのよ」
父は微笑んでいる。
「橘寧くんと言うのよ。お父さんに紹介したかったけど、難しいわ」
「櫻絵、人が人を想うのは大切だ。自分からはどんなことができるかだぞ」
お話は尽きない。もっともっと父との時間がほしい。
「お父さん、お父さん。あのね――」
虹に手を伸ばしたときだった。
◆◆
ジャンジャーン、ジャンジャン、ジャンジャーン。
私は微睡の中にいたが、吸い寄せられた。朝の日差しが出窓から白と薄桃のしば桜を逆光に注ぐ。
平成六年十二月十二日か。
「誰からの電話かしらね」
ミミちゃんネグリジェで辺りを探る内に目が覚めた。
ジャンジャーン。
「はい、生原櫻絵です」
『櫻絵や!』
「お母さん、どうしたの」
『志朗さんが、危篤に陥ってしまったんだよ』
「お父さんが……」
遠くの海から大きな波が寄せ、私の胸が時化出す。父の再入院から十日目後、未明の架電だ。病院のつんとした空気も伝わって来る。
『あたしを置いて行く気だよ。同い年なのに志朗さんだけずるいわ』
「お父さんなら大丈夫よ。そうそう命の灯は消えるものでもないと思うわ」
私は黒電話を肩に挟んだ。向こうで声を震わせている生原さくらも齢五十になる。
「すぐ向かうからね。お母さんも気丈夫でいて」
『櫻絵だけが頼りだわ。あたしは腰砕けちゃって』
母もまた荒海に溺れていた。支えも助け舟もない。私は唇を噛んだ。
「お父さん! まだ二十三歳の娘がいるのに、待っていてよ」
頭の中は父の想い出が駆け巡っている。胡坐に娘を抱いて絵本も熱心に読んでくれた。運動会では誰よりも応援してくれた。文化祭では私の絵がどれ程に素晴らしいかを母に語りながら、受付に断って写真を撮っていた。体は無意識に荷造りと戸締りをし、シートベルトを装着した。さっとポケベルで寧くん宛てに打つ。
「ショクジ、ゴメンナサイ。『449250071』」
ポーラスター六〇三号室から、私は掃き出されるように出る。セダンのアクセルを踏み、葛飾から宇都宮の外れまで飛ばした。
「高速のお陰でもうすぐだわ」
宇都宮インターチェンジから間もなくだ。いくら栃木でも雪は珍しい。小さな礫がちくりと視界を悪戯した。真っ先に国立病院へ駆け付ける。
「ポケベルは切るか。寧くんの返信待ちだけれども仕方がないわね」
時刻は面会時間の午前十時になっていた。受付で面会バッチを貰うとエレベーターで三階へ昇った。
「三一二号室の筈よね」
片付き過ぎて、誰もいない。
「間に合わなかったの? お母さん、お父さんはどうしたのかしら」
私の胸は大きく時化出した。
「生原志朗の娘です」
看護師に導かれ奥の部屋へと急ぎ、特別な香りのする空間に入り込む。
「志朗さん! 志朗さん!」
白くなった父に母が抱きついていた。愛する父を看取りたかったと目を瞑る。




